08-06 イアーゴー/まなじりの火は緑



 

 ――皆さんは嘘つきですか? それとも正直者ですか?



 どうするつもりだよ、と。

 そう尋ねたらよかった。


 だったら他に、どうするつもりなんだ、と。


 他にどんな方法があるんだ?

 夜を消すことを条件に、暁と取引をすること以外に。


「それじゃ、わたしたち、いきますね、二見くん」


 そう言って、ちどりは俺のそばから離れた。身を翻し夜の隣にむかった彼女を、枯れ枝のような腕が覆う。


でやらせてもらう。おまえも好きにしろ」


 どうするつもりだよ、と、そう尋ねようとしたのに、それでもやはり声は出ない。


「それじゃあな、二見」


「わたしたちは行きますね、ぜんぶが終わったら、また会いましょう。二見くん」


 口を開いても、まだ、声が出ない。


 ひときわ強い風が吹いて、一瞬、俺の視界は奪われた。その次の瞬間には、二人の姿は既にない。俺は夜の森にひとり取り残される。はじめから、俺がいる場所はここだった。この夜の森だった。


 視界が平坦に感じられる。

 眼の前の現実が夢のように思えてならない。

 心音が他人のものみたいだ。その鼓動はたしかに早まっている。俺の肉体は焦りと混乱を覚えている。たしかなことだ、きっと。

 それでも分厚いガラス越しに世界を眺めているような、そんな錯覚。


 ずっとそうだ。


 何もかもが平べったい。

 自分の手が、足が、視界が、自分の吐く言葉さえ、他人事のように感じられる。


 何かを忘れるたびに、何かを思い出すたびに、ふとした瞬間に、いつも、視界は平べったく、皮膜越しに見るように遠い。


 何かを話している自分が、何かをしている自分が、何かを掴み、何かを離す自分が、いつも、他人のように感じられる。


 少しの間だ。いつも、待てば収まる。そのうちに、気のせいだったのかと思う。平べったく見えるのは、世界とのあいだに皮膜があるように感じられるのは、何もかもが頭の中で起きているかのように感じてしまうのは、ただの錯覚なのだと思う。


 けれど、最中はいつも不安だ。

 この森のざわめきも、夜の光も、伸ばした手も、すべてが夢のように思えてならない。その瞬間が、終わらないような気がする。なにもかもが薄い皮膜のむこうに遠ざかって、痛みも熱も匂いも音も、すぐ近くにあるはずなのに、それがどうしても自分のものと思えない。映画のように思えてならない。


 いま、俺の瞼は開いていて、視界には俺の腕が映っている。その指先のまがりのかたちも、馴染んだ自分のものなのに、どうしてかそれが他人事だ。目にうつるものはなにもかもが等価値で平坦だ。現実感がまるでない。俺は俺を俺として感じることができない。


 この夜の森のなかで、俺はいまひとりきりだ。


 さまよい歩く?


 この森を、意味も、目的もなく?


 でも、俺は、誰かと約束をしたはずだ。


 誰と。



 ――あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。



 あれは……あの約束は、誰としたんだっけ。

 それとも、あれは、俺ではなく、他の誰かがした約束だろうか。

 あれは、三枝隼がした約束だったのだろうか。


 好きにしろ、と夜は言った。


 木々が軋む夜の森に取り残されて、俺の手元には何もない。誰もいない。夜がいない。ちどりもいない。誰も俺の傍にはいない。


 俺は、どうしてここにいる?


 意味がない、目的がない、理由がない、根拠がない。

 何にもならない。ここで死んでも、犬死にだ。


 理由がほしい。

 目的がほしい。

 根拠が、意味が、ほしい。


 なにかのために、死にたい。なにかのために、生きたい。苦しんだ甲斐があったと思いたい。誰かのためになったのだと、そう思って死にたい。

 そうでなければ、俺は、何の為にここに来たというのだろう。

 

 この意味のわからないさまよいは、なんだったのだろう。


 ――二見くんは世界のために死にたいんですか? それとも、死ぬ言い訳に世界を守りたいんですか?


 俺は、どうしてここに来た?


 ――おまえにはまだ、しなければならないことがある。


 俺に生にも、死にも、意味はない。だとしたら、夜が言った、しなければならないことってなんなんだ?

 

 


 宮崎二見、という名前は出来合いで、それでも俺は、三枝隼でさえない。彼のように、誰かのためには生きられない。

 

 帰る道もない。帰る場所もない。はじめからなかった。

 この森で生まれて、この森で朽ちるだけの存在。


 せめて、なにかの生きたい。なにかの死にたい。 


 でも、誰も、誰も俺を必要としていない。


 何かが、何かがほしい。

 この先に、何かがあると思いたい。

 このさまよいに意味があると思いたい。

 苦しみに、悲しみに、痛みに、この遠さに、皮膜に意味があると思いたい。


 ああこのためだったのかと思いたい。

 ああすべてはこの瞬間のためだったのかと。


 このむなしさに理由がほしい。

 

 両手を地につき、頭を垂れる。

 祈るような声で、誰かを呼ぶ。でも、誰を。

 こういうとき、人が呼ぶ相手は決まっている。

 神様だ。


 神様、お願いします。

 神様、助けてください。

 神様、ですか。


 神様、教えてください。

 俺はどうしてここにいるんですか。

 どうしてこんな目に遭うんですか。


 どうして俺は、こんなふうになったんですか。

 どうして俺には、なにもかもが遠く感じられるんですか。

 どうして答えてくれないんですか。

 

 それとも、あなたはどこにもいないんですか。

 



 不意に、足音が響いた。


「何を、うなだれているんですか?」


 その声は、幻聴だろうか、それとも、本当だろうか。わからない。たしかめられない。現実感がない。


「ずいぶん、疲れ切っているみたいですね」


 静かに、足音が近づいてくる。そして、彼女は俺の髪を掴んで持ち上げた。痛みが遠い。視界が動く。揺れる。ゲームのなかみたいだった。


「あなたにはまだやることがあります」


 俺は彼女を知っている。

 どうして彼女がここにいるんだ。

 彼女がここにいることにも、理由があるのだろうか。それとも、ないのだろうか。


 すべては、悪趣味で滑稽な喜劇なのだろうか?


「起きなさい」


 と、三枝スミカは言った。


「"暁"があなたを待っています」



 

  

 

 




 

 

 

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