08-06 イアーゴー/まなじりの火は緑
◆
――皆さんは嘘つきですか? それとも正直者ですか?
◇
どうするつもりだよ、と。
そう尋ねたらよかった。
だったら他に、どうするつもりなんだ、と。
他にどんな方法があるんだ?
夜を消すことを条件に、暁と取引をすること以外に。
「それじゃ、わたしたち、いきますね、二見くん」
そう言って、ちどりは俺のそばから離れた。身を翻し夜の隣にむかった彼女を、枯れ枝のような腕が覆う。
「俺たちは俺たちでやらせてもらう。おまえも好きにしろ」
どうするつもりだよ、と、そう尋ねようとしたのに、それでもやはり声は出ない。
「それじゃあな、二見」
「わたしたちは行きますね、ぜんぶが終わったら、また会いましょう。二見くん」
口を開いても、まだ、声が出ない。
ひときわ強い風が吹いて、一瞬、俺の視界は奪われた。その次の瞬間には、二人の姿は既にない。俺は夜の森にひとり取り残される。はじめから、俺がいる場所はここだった。この夜の森だった。
視界が平坦に感じられる。
眼の前の現実が夢のように思えてならない。
心音が他人のものみたいだ。その鼓動はたしかに早まっている。俺の肉体は焦りと混乱を覚えている。たしかなことだ、きっと。
それでも分厚いガラス越しに世界を眺めているような、そんな錯覚。
ずっとそうだ。
何もかもが平べったい。
自分の手が、足が、視界が、自分の吐く言葉さえ、他人事のように感じられる。
何かを忘れるたびに、何かを思い出すたびに、ふとした瞬間に、いつも、視界は平べったく、皮膜越しに見るように遠い。
何かを話している自分が、何かをしている自分が、何かを掴み、何かを離す自分が、いつも、他人のように感じられる。
少しの間だ。いつも、待てば収まる。そのうちに、気のせいだったのかと思う。平べったく見えるのは、世界とのあいだに皮膜があるように感じられるのは、何もかもが頭の中で起きているかのように感じてしまうのは、ただの錯覚なのだと思う。
けれど、最中はいつも不安だ。
この森のざわめきも、夜の光も、伸ばした手も、すべてが夢のように思えてならない。その瞬間が、終わらないような気がする。なにもかもが薄い皮膜のむこうに遠ざかって、痛みも熱も匂いも音も、すぐ近くにあるはずなのに、それがどうしても自分のものと思えない。映画のように思えてならない。
いま、俺の瞼は開いていて、視界には俺の腕が映っている。その指先のまがりのかたちも、馴染んだ自分のものなのに、どうしてかそれが他人事だ。目にうつるものはなにもかもが等価値で平坦だ。現実感がまるでない。俺は俺を俺として感じることができない。
この夜の森のなかで、俺はいまひとりきりだ。
さまよい歩く?
この森を、意味も、目的もなく?
でも、俺は、誰かと約束をしたはずだ。
誰と。
◆
――あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。
◇
あれは……あの約束は、誰としたんだっけ。
それとも、あれは、俺ではなく、他の誰かがした約束だろうか。
あれは、三枝隼がした約束だったのだろうか。
好きにしろ、と夜は言った。
木々が軋む夜の森に取り残されて、俺の手元には何もない。誰もいない。夜がいない。ちどりもいない。誰も俺の傍にはいない。
俺は、どうしてここにいる?
意味がない、目的がない、理由がない、根拠がない。
何にもならない。ここで死んでも、犬死にだ。
理由がほしい。
目的がほしい。
根拠が、意味が、ほしい。
なにかのために、死にたい。なにかのために、生きたい。苦しんだ甲斐があったと思いたい。誰かのためになったのだと、そう思って死にたい。
そうでなければ、俺は、何の為にここに来たというのだろう。
この意味のわからないさまよいは、なんだったのだろう。
――二見くんは世界のために死にたいんですか? それとも、死ぬ言い訳に世界を守りたいんですか?
俺は、どうしてここに来た?
――おまえにはまだ、しなければならないことがある。
俺に生にも、死にも、意味はない。だとしたら、夜が言った、しなければならないことってなんなんだ?
俺はどうしてここにいる?
宮崎二見、という名前は出来合いで、それでも俺は、三枝隼でさえない。彼のように、誰かのためには生きられない。
帰る道もない。帰る場所もない。はじめからなかった。
この森で生まれて、この森で朽ちるだけの存在。
せめて、なにかのために生きたい。なにかのために死にたい。
でも、誰も、誰も俺を必要としていない。
何かが、何かがほしい。
この先に、何かがあると思いたい。
このさまよいに意味があると思いたい。
苦しみに、悲しみに、痛みに、この遠さに、皮膜に意味があると思いたい。
ああこのためだったのかと思いたい。
ああすべてはこの瞬間のためだったのかと。
このむなしさに理由がほしい。
両手を地につき、頭を垂れる。
祈るような声で、誰かを呼ぶ。でも、誰を。
こういうとき、人が呼ぶ相手は決まっている。
神様だ。
神様、お願いします。
神様、助けてください。
神様、どうしてですか。
神様、教えてください。
俺はどうしてここにいるんですか。
どうしてこんな目に遭うんですか。
どうして俺は、こんなふうになったんですか。
どうして俺には、なにもかもが遠く感じられるんですか。
どうして答えてくれないんですか。
それとも、あなたはどこにもいないんですか。
◇
不意に、足音が響いた。
「何を、うなだれているんですか?」
その声は、幻聴だろうか、それとも、本当だろうか。わからない。たしかめられない。現実感がない。
「ずいぶん、疲れ切っているみたいですね」
静かに、足音が近づいてくる。そして、彼女は俺の髪を掴んで持ち上げた。痛みが遠い。視界が動く。揺れる。ゲームのなかみたいだった。
「あなたにはまだやることがあります」
俺は彼女を知っている。
どうして彼女がここにいるんだ。
彼女がここにいることにも、理由があるのだろうか。それとも、ないのだろうか。
すべては、悪趣味で滑稽な喜劇なのだろうか?
「起きなさい」
と、三枝スミカは言った。
「"暁"があなたを待っています」
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