08-05 イアーゴー/あきらかな紅に飽き満つる




 ――おまえは、楽になりたかったんだよな。


 ちどりの困ったような笑顔のあと、不意に耳鳴りのように夜のささやきが俺の耳に蘇った。森のなかで、静かに声が響く。


「許さないって、わたしは言いました」


「……どうするんだよ」


 声は思わず漏れていた。

 空には星がまたたいていた。黒い木々はあざ笑うようにざわめいている。見上げた枝葉の隙間から見える空は青紫に滲む。中天に金色に浮かぶ月。だ。


「なんで来たんだよ」


 苛立ちでさえない。


「わたしと夜くんの利害が一致しました。夜くんは消えないし、二見くんも死なせません。だから、別のやりかたを考えないといけないんです」


「俺が消えれば済んだんだ」


「どうしてですか」


「全部上手くいったのに」


「そうでしょうか」


「俺が……」


「『俺が』」とちどりは繰り返した。


「なんですか?」


「俺は……」



 暁と取引をして、

 俺と夜が消えれば、

 それで、未来はつくれるはずだった。

 

 単純な話だ。

 誰かひとりと世界を秤にかけて、誰かひとりを選ぶなんて馬鹿げた話だ。

 

 だから、素直にそうするべきだった。


 


 それがいちばんシンプルで、簡単な解法だ。

 この鳥籠を壊すための、いちばん簡単な。


 世界の死ぬべきだった。

 そうすれば、このなにもかもを回収する鳥籠の外へ、外部へ、行けた。秋へ、秋へと、世界はむかうはずだった。


 そこならば、そこでならば。


 誰かは生き延びるだろう。言葉は紡がれるだろう。誰かと誰かは手をつなぐだろう。誰かは誰かの死を受け入れるだろう。少女は家に帰るだろう。手紙は届くだろう。猫は帰り着くだろう。木々は赤く染まり、街を飾るだろう。木漏れ日の下で、人々は穏やかに笑うだろう。踊るだろう。歌うだろう。話すだろう。


 そこに、俺の姿がなかったとしても。

 

 そのために。そのために生きれた。そのために死ねた。

 そのはずだった。


 それが正しい、はずだった。

 


「もう、手遅れだ。おまえの考えはもう潰れたんだよ、二見」


 夜は、俺を見下ろしている。


「おまえは俺を敵に回したんだ。その結果がおまえをどこに連れていくか、わかるか?」


 何を言えばいいのかわからなかった。


「おまえは誰かのなんて生きれないし、誰かのなんて死ねない。暁の元にいけたなら、おまえはなにかのために死ねたと満足できたかもしれない。なにかのために生きれたと、そうできた自分には価値があるのだと、思えたのかもしれない。使命、意味、目的が、おまえの生に価値を与えると、おまえは自分で思えたのかもしれない。なにかのために死ぬ。なにかのために生きる。その生によって何かが確保される、証明される、満たされる。その生がなにかに必要とされる。結構なことだ。大層なことだ。それでこそ生きている甲斐がある。幸福なことだ。なにかのために生きる、などと、なにかのために死ぬ、などと。けれどおまえはそうはならない。おまえの死によって世界は守られる、清らかな秋風と木々の紅葉と豊穣、その輝きのすべてが、おまえの死によって……。幸運なことだ。おまえは世界にとって、なにか意味あることを成し遂げたのだから。そのために死ねるのだから。……だが、俺はそんな白昼夢を認めない。自閉した夢想のなかで自失することを認めない。死んで逃げることを許さない。

 。おまえはなにも守れないし、おまえの生によって証明されることなどなにもないのだから。おまえの生は、ただ無味乾燥な光のなかで押しつぶされて見えなくなるだけなのだから」


 夜は、心底から湧き出たような嘲りを浮かべた。


「なにかのために生きる、などと。なにかのために、死ぬ、などと。馬鹿げた話だ。おまえの生に意味を与える物語など、この世界にはひとつもない。そんななかで満足し、陶酔に飽き満ちることなど、おまえには決してできない。おまえの飢えは満たされない。すべては、嘘なのだから。なにもかもが、自分が醒めていることに気づきながら遊戯する子供が、不意に兆す退屈から目をそらすために、まどろんで見た夢でしかないのだから。おまえが立っている場所は、はじめからそこだった。おまえが生きている場所は、何の意味もない曖昧な混沌のなかだ。清浄で鮮明な光など、そこにはない。風景は霞立ち、月は夜霧におぼろに隠れ、星の光はおぼつかない。遠くから獣の息づく声の気配だけが届き、おまえは軋む物音に怯えながらあたりを見回す。そこには寄る辺もなく、灯りもない。おまえがいる場所に、理由はない、意味はない、目的はない。おまえはそのなかで、怯えながら、震えながら、何の意味もなく生き延びるしかない。おまえがいる場所は、はじめから、夜の森なのだから。おまえはこれから、無意味な生を生き、無意味な死を死ぬ。


 二見くん、とちどりが俺を呼んだ。


 俺は、彼女を見る。

 俺の目は……怯えているだろうか?


「なんにも怖いことはないです。ただ、考えてみてください」


 俺は、


「二見くんは世界のために死にたいんですか? それとも、死ぬ言い訳に世界を守りたいんですか?」


 俺は……。


 逃げたかったのだろうか?


 

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