08-04 夜の出来事


「どういう、意味ですか?」


「暁の作った鳥籠の壊し方を、こいつは見つけられなかった。三枝隼の存在する世界の全部が消える。このままじゃ、生き残る世界は二つだけだ。どう足掻いたって暁を出し抜けそうにはない。だから、こいつは考えたんだよ」


 夜の声が静かに響いた。


 ひときわ強い風が吹いて、木々の梢を揺すった。葉擦れの音が響き始める。中天に浮かぶ太陽が不意に翳る。


「こいつはこれから暁と取引をするつもりだ。取引材料はある。こいつは赤井さくらに、このトンネルを作る以外に、もうひとつ頼み事をしたんだ。なんだかわかるか?」


「なにを……したんですか」


 ちどりは、俺を見ている。

 俺は答えない。かわりに夜が、言葉を続けた。


「誰もいない世界を作るように頼んだんだよ。俺がこの世界で逃げ切ってしまえば、暁からすれば大損だ。逆に言えば、暁にとって、消えるのは三枝隼のいる世界じゃなくて、俺がいる世界のほうがいい。だから二見は、暁にこう取引を持ちかけるつもりだ。『消失する世界の条件を、三枝隼のいる世界ではなく、宮崎二見のいる世界にしろ。もしもそうするなら、俺が夜を閉じ込める』とな」


 俺は何も言わなかった。

 


 当たり前といえば、当たり前の話だ。


「でも、そんなの、無理じゃないですか」


 ちどりは言った。


「夜くんは、三枝隼のいる世界になら移動できるんだから。だから、閉じ込めるなんて、無理です」


「どうだろうな。もしも暁とこいつが取引をして、俺がおびき寄せられたら、あいつは俺をそこに閉じ込めることができるだろう。現にあいつは、これまでだって俺を閉じ込めていたんだから」


「……どういうことですか」


「言っただろ。俺はこの世界束から出ることができない。春から秋までの間にしか、いけない」


「……そう、ですね」


 ちどりはそこで、首をかしげた。


「あれ?」

 

 ちどりも気づいた。


 暁は嘘をついていた。


 ――夜は勝手に三枝隼から離れなくなったのよ。彼は三枝隼の存在する世界束を移動するために、彼に自分自身を紐つけた。彼自身はそのときのことを忘れているみたいだけど、それが原因で、彼はこの世界束を今のところ逃げ出すことができない。わたしがしたのは、彼からその記憶を奪ったことだけ。


 夜が秋からむこうに行けないのは、三枝隼のいる世界には、秋から先がないからだ。俺たちはそう思っていた。


 では、に行けないのは、どうしてか?


「何度も言った。俺はんだ。条件を変えるなんて、あの女にはわけない。二見はそれに気付いたんだ。だから、取引をすることにしたんだ」


「……じゃあ、二見くんは」


「死ぬ気だよ」


 夜は嘲笑った。


 ちどりは、体を翻して、こちらに足を踏み出そうとする。まっすぐに俺を見ている。けれど、そこには見えない壁がある。彼女はもう、先に進んでしまった。こちらに帰ってくることができない。……どうやら、そういうものらしい。


 決まり事。ルール。規則。見えないけれどそこにある。

 俺たちの知らないところに、それがたしかにそこにある。


「なんで、いま言ったんですか!」


「言ったらおまえは帰らないだろ」


「当たり前です!」


「二見が死のうが生きようが、どっちにしても、おまえを過去に返すのには俺も賛成だし、おまえは過去に帰るべきだし、おまえは過去に帰る」


「……なんで。二見くん、嘘ですよね?」


 俺は答えない。

 嘘だとも、本当だとも言わない。


 そのかわりに、


「これがいちばんいいんだよ」


 と、そう言った。


 とても自然に、笑みがこぼれた。


「なにもよくないです、なにも……」


 市川鈴音との約束を守れる。

 三枝隼のいる世界が生き延びる。

 フィガロは家に帰った。

 俺ははじめから余計物だった。


 だったら、いいじゃないか。

 

 ちどりは不意に顔をあげ、少し潤んだ瞳で俺を睨んだ。それから、


「そんなの、許しません」


 と言った。


「わたしは、許しません……」


 俺は頷いた。

 許してもらえないだろうと、そう思っていた。


 だから、これでいい。


 しばらくの沈黙のあと、ちどりは俺と夜に背をむけた。ほんの少しだけ、何かを言いかけた気配だけを残して、彼女は、藤の花の香りのむこうへと、静かに歩いていく。


「どうして、言ったんだよ」


「それもわかってただろ」


「……」


 わかっていた。未来のちどりが俺を許さないと言った以上、気付かれるのだと、わかっていた。どこまでも……どこまでも織り込み済みだ。


「宮崎二見、おまえは俺の敵だな」

 

「……そう、だな」


「今となっては、俺もそうわかっている。だから、おまえの思惑どおりにはしてやらない。とはいえ……良い手段の取り方だ。おかげで、俺も筋道がつくれた」


 その声が、奇妙にやさしかった。それが不自然だと思った。


「おまえは、楽になりたかったんだよな」


 わかったようなことを、彼は言う。


「逃げたかったんだ。自分に価値があると思えない。自分が存在していいと思えない。だから誰かの役に立とうとする。誰かの助けになろうとする。宮崎二見として、おまえが普通に暮らすために、そうする必要があったのと同じように、おまえは今、自分が存在していいと思いたいがために、誰かを助けようとしている。そうすることで、自分に価値があるんだと思おうとしている。おまえの死によって世界が救えるなら、おまえの存在には価値があった、と思える、というわけだ。だが……」


 夜は静かに笑った。


 空が急に暗くなる。


 帳が下りる。


「生きることも死ぬことも、おまえの思いどおりにはいかない」


 彼は笑う。

 そして、


「聞こえるか?」


 そう、彼は訊ねる。


「おまえにはまだ、しなければならないことがある」


 背後から、足音が聞こえる。

 誰かがそこにいる。……いつから、そこにいたんだろう?


「はじめからだよ」


 と、彼は言う。


「俺が隠してたんだ。ずっといた。ここから先はすべて、暁に知られることのないことだ。ここから先はすべて、だ」


 俺は、振り返る。


「許さないって、言いましたよね、二見くん」


 そこに、が立っている。

 さっきまで一緒にいた、幼いちどりではない。

 

 高校生のちどりが。


「だから、ここに来ました」


 彼女はまっすぐに俺を見ている。

 歩みをとめずに、彼女は俺の目の前に立ち、俺を見た。

 

 彼女はにっこりと笑い、それから俺の手をとって、

 手の甲に噛み付いた。


「っ痛!」


 彼女は口を離して、また笑った。


「二見くんの思い通りになんて、させません。だから、来ちゃいました」


 俺は言葉を失った。


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