08-03 見つけた出口
「いいですか」とさくらは言った。
「『トンネル』を作っておきます。森のなかに。……森が既にあるのだから、そのトンネルも、既に完成しているはずです。そこを通れば、過去へと遡れる。そういう話にしておきます」
そしてその場所も、俺たちが指定することができる。
「あなたの言うことが本当なのであれば、それはそこに、既にちゃんとあるはずです。……もう、向かいますか?」
「きみたちは?」
「『薄明』を完成させます。それから、あなたが言っていたものも、とりあえず、書いてみますね……いずれまた、ゆっくりお話してみたいものです」
「そんなときが来るかな」
「どうでしょう」
と、さくらは首をかしげた。
「わたしが思うのは……」
何かを言いかけて、彼女は口をつぐんだ。そして微笑む。
「やめておきましょう。今のあなたには必要のない言葉かもしれないですから。でも、ひとつだけ言っておきますね」
「……なにを」
「ありがとう。きっと、まだあなたには、わからないと思うけど」
「きみは、何を知ってるんだ?」
「何も。でも……そのうちあなたにもわかります。わたしにも、今は想像でしかないけど。わたしを見つけてくれて、ありがとう」
本当に、なんの話なのか、わからなかった。
赤井さくら。
瀬尾青葉。
鴻ノ巣ちどり。
真中柚子。
……考えれば考えるほど、わからなくなる。
「たぶん」
と俺は返事をした。
「きみがお礼を言う相手は、俺じゃないと思う」
「いいえ」と彼女は言った。
「"この"わたしが言うべき相手は、たぶんあなたです。……わたしからは、それだけです」
なんの話かなんてわからない。
きっと彼女は何かを勘違いしているのだろう。
彼女たちと別れて、俺とちどりは、『森』へと向かった。
◇
ちどりは、なにも言わなかった。
「……おかしな話ばかりだよ」
と、俺は"夜"に言った。彼は俺の斜め前を歩いていた。
「何をやっても、織り込み済みなんだ」
「……そうだな」
元いた世界に、未来をつくった。
その結果、未来から三枝スミカが来ていた。
三枝隼のいない世界を作った。
その結果、俺とちどりは会っていた。
三枝隼のいない世界で、『薄明』に力をもたせようとした。
その結果、『森』が生まれた。
「……それでも、出口を見つけたんだろ?」
俺は答えなかった。
俺たちは夜の森を歩いている。この森があるのは、すべて、この世界のさくらたちが作り出した『薄明』の影響だということになる。その結果、俺の世界は発生し、そこから俺はいくつかの世界を旅し、そうしてこの世界にやってきて、さくらたちに『薄明』を作らせた。
噛み合う蛇のようにすべてが循環する。
俺たちは湖の前で立ち止まった。
夜が水面に一歩足を踏み出す。彼の靴は水の上に浮き上がった。おそるおそる真似をすると、俺もまた沈まずに湖の上に立つことができた。
「これからおまえがしようとすることを、言い当てておこうか?」
「いや」
と俺は言った。
「二見くん」
うしろからちどりが俺を呼ぶ。
彼女は暗い夜の森を背負い、月の光に照らされながら俺のほうを見ている。
「どうした?」
「わたしと二見くんは……もうすぐ、お別れするんですよね」
夜は黙った。俺は少し考えてから、静かに頷いて、足をまた一歩ふみだした。
冷え冷えとした湖面の上を、俺たちは歩いていく。
「そうだな」
ようやくの答えに、彼女はすぐには反応しなかった。
「そうしなければならないんでしょうか?」
「というよりも」
俺は振り返らずに言った。
「そう決まってるんだよ」
なにもかもが、そう決まっている。
どうなったとしても、結果は既に見えている。
「わかりません」
その静かな声は、妙な切迫を感じさせた。
どうしてだろう。
ちどりが誰なのかもわかった。
彼女がどこに帰るべきなのかもわかった。
それなら……。
「結局わたしが帰れるなら、どうして暁さんは、最初に会ったとき、あんなにわたしを連れていこうとしたんでしょう」
俺は少しだけ考えた。
「わたしは今、元の世界に帰ろうとしているし、そして、おそらく、帰ったんだと思います。だったら、どうして暁さんは、わざわざわたしに介入しようとしたんでしょう。ぜんぶが織り込み済みなら、彼女はわたしが元の世界に帰ることも知っていたはずです」
「……そう、だな」
あるいはあれは演技だったのだろうか?
「暁さんにも、見通せていないことがあるはずなんです。現に、市川鈴音さんとのやりとりは、彼女には見抜けていなかった。だったら、まだなにか可能なはずです。二見くんは、それについて考えていますか?」
「どうだろうな」
夜にも、暁にも、見えていないものがある。
彼らは、彼らなりの時間の流れを生きている。その意味では、彼らさえも全知ではない。
暁は俺に、してほしくないことがあった。
それを根拠に、俺は、彼女の網の目を逃れる方法があると思っていた。
けれど、実際には違う。
「暁は、俺をこの世界に連れてきたくなかったんだ」
「……どうして?」
「夜がこの世界に来てしまえば、夜は暁の網の目を逃れることができる。暁がしてほしくなかったのはそれだけだ。俺を移動させたくなかったんだ。そして、それは、暁のつくった鳥籠とは関係ない。夜が逃げ切ったとしても、暁の計画が失敗したとしても、暁が世界の破壊をやめる理由にはならない」
だから、暁は今のままなら、鳥籠のなかの世界束を、どちらにしても破壊する。
吐き出す息は白かった。月夜は奇妙に輝いて見えた。
ちどりは、怒るだろう。
それを俺は既に知っている。
このままでは、どちらにしても世界は滅ぶ。市川鈴音がそれを見た以上、それは織り込み済みだ。
だから。
「二見」
と、不意に夜が俺を呼んだ。
「見えてきた」
どれほど歩いたのだろう。
見える景色は夜の水面と月夜だけ。
水平線まで見渡せそうな、そんな奇妙な錯覚の中、あらゆるものが淡い燐光をまとってみえる。
凍てついたような水面の上に、誰かを待つようなグランドピアノがあった。
誰かを待つようでも、誰かを見送るようでもある。
月明かりにピアノの姿が煌々と光る。孤独な動物みたいな姿だった。
ここにきて、俺は思わず言葉を失った。光景はどこまでも現実離れしているのに、それはどうしてか、ひどく陳腐だった。ありきたりで、美しくなかった。
なんてばかげた話なんだろう。
それとも、三枝隼なら、違ったのだろうか。彼ならもっとべつの景色を見ることができたんだろうか。
俺が、ほんとうに、三枝隼だったなら……。
「……」
「さて、どうだろう」
と、夜は言った。
「本当にいいのか?」
「……なにが」
「二見には聞いてない。俺はちどりに訊ねたんだ」
ちどりは顔をあげて夜を見た。
ピアノの前に立ち止まったまま、俺たちは話を続ける。
「でも、わたしは……帰らないと、いけないですから」
そうか、と夜は頷いた。俺には今の質問の意味がわからなかった。
「二見くんは……無事に帰れるんですか?」
「……」
返事をしなかった。
「自分だけがよければいいなんて、やっぱり思えないです」
「帰るよ」
と俺は言った。
「俺も帰る。出口はもう見つけたんだ」
ちどりは何も言わなかった。
ちどりは、静かに頷いて、グランドピアノに触れた。
白鍵に触れた瞬間に、静かな角笛のように水面に音が響く。
「お別れですね」
と彼女は言った。
「二見くんは、幸せになってくださいね」
どうしてそんなことを彼女が言ったのか、俺にはよくわからなかった。
音の響きのなかで、景色が変わる。さっきまでの夜の湖が立ち消えて、俺たちは森の開けた場所にいる。周囲には枯れた噴水と、ところどころが砕けた石畳。
木々に囲まれた広場のむこう、藤の匂いが満ちている。
ぽっかりと口を開けた藤の花のトンネル。
このむこうだ。
ちどりは俺のまえに立って、かがむようにうながした。俺は黙って従った。
彼女は俺の首に抱きついて、それからそっと肩口に唇を寄せた。
かすかな痛みが走る。
噛みつかれたのだとわかった。
「な、なに」
「おまじない」
不安そうな瞳。
吸い込まれそうだと思った。それなのにその瞳が、遠い。
そのまなざしが、その声が、その痛みが、壁越しの物音みたいに遠い。
「ちどり」
そう声をかけた夜に、ちどりは笑いかけた。
「二見くんのこと、ちゃんと帰してあげてくださいね」
「……それは、二見次第だな」
「夜くんにしか頼めません」
「そうだな」
それからちどりは、藤の花のトンネルへと、ひとりで向かっていく。
「この先に、ひとりで行くことになるんですね」
「ああ」
さくらは、そうすると言っていた。だからきっと、そうなっているのだろう。
「二見くんは、わたしのことを覚えていてくれますか?」
「うん」
「わたしは、わたしのこと、ちゃんと思い出せるでしょうか」
「どうかな。……でも」
でも、と、そう言ったのは、本当に自分でも、予想外のことだった。そのまま言葉を続ける。
「ちどりならどこにいっても大丈夫だよ」
「そう、かもしれません」
ちどりの足が、花の匂いの立ち込めるトンネルに踏み入った。彼女のからだが、それをくぐる。
俺が何かを言うより先に、夜がちどりの名をもう一度呼んだ。
「そこまで進んだから、もうこっちには戻れない。だから今教えてやる。二見はもう、帰るつもりがない」
彼女のちいさなからだが、こちらを振り向いた。凍りついたような表情が、俺を見ている。
「こいつはこれから、俺と心中する気だ」
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