08-03 見つけた出口


「いいですか」とさくらは言った。


「『トンネル』を作っておきます。森のなかに。……森が既にあるのだから、そのトンネルも、既に完成しているはずです。そこを通れば、過去へと遡れる。そういう話にしておきます」


 そしてその場所も、俺たちが指定することができる。


「あなたの言うことが本当なのであれば、それはそこに、既にちゃんとあるはずです。……もう、向かいますか?」


「きみたちは?」


「『薄明』を完成させます。それから、あなたが言っていたものも、とりあえず、書いてみますね……いずれまた、ゆっくりお話してみたいものです」


「そんなときが来るかな」


「どうでしょう」


 と、さくらは首をかしげた。


「わたしが思うのは……」


 何かを言いかけて、彼女は口をつぐんだ。そして微笑む。


「やめておきましょう。今のあなたには必要のない言葉かもしれないですから。でも、ひとつだけ言っておきますね」


「……なにを」


「ありがとう。きっと、まだあなたには、わからないと思うけど」


「きみは、何を知ってるんだ?」


「何も。でも……そのうちあなたにもわかります。わたしにも、今は想像でしかないけど。わたしを、ありがとう」


 本当に、なんの話なのか、わからなかった。


 赤井さくら。

 瀬尾青葉。

 鴻ノ巣ちどり。

 真中柚子。


 ……考えれば考えるほど、わからなくなる。


「たぶん」

 

 と俺は返事をした。


「きみがお礼を言う相手は、俺じゃないと思う」


「いいえ」と彼女は言った。


「"この"わたしが言うべき相手は、たぶんあなたです。……わたしからは、それだけです」


 なんの話かなんてわからない。


 きっと彼女は何かを勘違いしているのだろう。


 彼女たちと別れて、俺とちどりは、『森』へと向かった。




 ちどりは、なにも言わなかった。

 

「……おかしな話ばかりだよ」


 と、俺は"夜"に言った。彼は俺の斜め前を歩いていた。


「何をやっても、織り込み済みなんだ」


「……そうだな」


 元いた世界に、未来をつくった。

 その結果、未来から三枝スミカが来ていた。


 三枝隼のいない世界を作った。

 その結果、俺とちどりは会っていた。


 三枝隼のいない世界で、『薄明』に力をもたせようとした。

 その結果、『森』が生まれた。


「……それでも、?」


 俺は答えなかった。


 俺たちは夜の森を歩いている。この森があるのは、すべて、この世界のさくらたちが作り出した『薄明』の影響だということになる。その結果、俺の世界は発生し、そこから俺はいくつかの世界を旅し、そうしてこの世界にやってきて、さくらたちに『薄明』を作らせた。


 噛み合う蛇のようにすべてが循環する。


 俺たちは湖の前で立ち止まった。


 夜が水面に一歩足を踏み出す。彼の靴は水の上に浮き上がった。おそるおそる真似をすると、俺もまた沈まずに湖の上に立つことができた。


「これからおまえがしようとすることを、言い当てておこうか?」


「いや」


 と俺は言った。


「二見くん」


 うしろからちどりが俺を呼ぶ。


 彼女は暗い夜の森を背負い、月の光に照らされながら俺のほうを見ている。


「どうした?」


「わたしと二見くんは……もうすぐ、お別れするんですよね」


 夜は黙った。俺は少し考えてから、静かに頷いて、足をまた一歩ふみだした。


 冷え冷えとした湖面の上を、俺たちは歩いていく。


「そうだな」


 ようやくの答えに、彼女はすぐには反応しなかった。


「そうしなければならないんでしょうか?」


「というよりも」


 俺は振り返らずに言った。


「そう決まってるんだよ」


 なにもかもが、そう決まっている。

 どうなったとしても、結果は既に見えている。


「わかりません」


 その静かな声は、妙な切迫を感じさせた。


 どうしてだろう。


 ちどりが誰なのかもわかった。

 彼女がどこに帰るべきなのかもわかった。

 それなら……。


「結局わたしが帰れるなら、どうして暁さんは、最初に会ったとき、あんなにわたしを連れていこうとしたんでしょう」


 俺は少しだけ考えた。


「わたしは今、元の世界に帰ろうとしているし、そして、おそらく、帰ったんだと思います。だったら、どうして暁さんは、わざわざわたしに介入しようとしたんでしょう。ぜんぶが織り込み済みなら、彼女はわたしが元の世界に帰ることも知っていたはずです」


「……そう、だな」


 あるいはあれは演技だったのだろうか?


「暁さんにも、見通せていないことがあるはずなんです。現に、市川鈴音さんとのやりとりは、彼女には見抜けていなかった。だったら、まだなにか可能なはずです。二見くんは、それについて考えていますか?」


「どうだろうな」


 夜にも、暁にも、見えていないものがある。

 彼らは、彼らなりの時間の流れを生きている。その意味では、彼らさえも全知ではない。


 暁は俺に、してほしくないことがあった。

 それを根拠に、俺は、彼女の網の目を逃れる方法があると思っていた。


 けれど、実際には違う。


「暁は、俺をこの世界に連れてきたくなかったんだ」


「……どうして?」


「夜がこの世界に来てしまえば、夜は暁の網の目を逃れることができる。暁がしてほしくなかったのはそれだけだ。俺を移動させたくなかったんだ。そして、それは、暁のつくった鳥籠とは関係ない。夜が逃げ切ったとしても、暁の計画が失敗したとしても、


 だから、暁は今のままなら、鳥籠のなかの世界束を、どちらにしても破壊する。


 吐き出す息は白かった。月夜は奇妙に輝いて見えた。


 ちどりは、怒るだろう。

 それを俺は既に知っている。


 このままでは、どちらにしても世界は滅ぶ。市川鈴音がそれを見た以上、それは織り込み済みだ。


 だから。


「二見」


 と、不意に夜が俺を呼んだ。


「見えてきた」


 どれほど歩いたのだろう。

 見える景色は夜の水面と月夜だけ。


 水平線まで見渡せそうな、そんな奇妙な錯覚の中、あらゆるものが淡い燐光をまとってみえる。


 凍てついたような水面の上に、誰かを待つようなグランドピアノがあった。

 誰かを待つようでも、誰かを見送るようでもある。

 

 月明かりにピアノの姿が煌々と光る。孤独な動物みたいな姿だった。


 ここにきて、俺は思わず言葉を失った。光景はどこまでも現実離れしているのに、それはどうしてか、ひどく陳腐だった。ありきたりで、美しくなかった。


 なんてばかげた話なんだろう。

 それとも、三枝隼なら、違ったのだろうか。彼ならもっとべつの景色を見ることができたんだろうか。


 俺が、ほんとうに、三枝隼だったなら……。


「……」


「さて、どうだろう」


 と、夜は言った。


「本当にいいのか?」


「……なにが」


「二見には聞いてない。俺はちどりに訊ねたんだ」


 ちどりは顔をあげて夜を見た。

 ピアノの前に立ち止まったまま、俺たちは話を続ける。


「でも、わたしは……帰らないと、いけないですから」


 そうか、と夜は頷いた。俺には今の質問の意味がわからなかった。


「二見くんは……無事に帰れるんですか?」


「……」


 返事をしなかった。


「自分だけがよければいいなんて、やっぱり思えないです」


「帰るよ」


 と俺は言った。


「俺も帰る。出口はもう見つけたんだ」


 ちどりは何も言わなかった。


 ちどりは、静かに頷いて、グランドピアノに触れた。


 白鍵に触れた瞬間に、静かな角笛のように水面に音が響く。


「お別れですね」


 と彼女は言った。


「二見くんは、幸せになってくださいね」

 

 どうしてそんなことを彼女が言ったのか、俺にはよくわからなかった。


 音の響きのなかで、景色が変わる。さっきまでの夜の湖が立ち消えて、俺たちは森の開けた場所にいる。周囲には枯れた噴水と、ところどころが砕けた石畳。


 木々に囲まれた広場のむこう、藤の匂いが満ちている。


 ぽっかりと口を開けた藤の花のトンネル。


 このむこうだ。


 ちどりは俺のまえに立って、かがむようにうながした。俺は黙って従った。


 彼女は俺の首に抱きついて、それからそっと肩口に唇を寄せた。

 かすかな痛みが走る。


 噛みつかれたのだとわかった。


「な、なに」


「おまじない」


 不安そうな瞳。

 吸い込まれそうだと思った。それなのにその瞳が、遠い。


 そのまなざしが、その声が、その痛みが、壁越しの物音みたいに遠い。 


「ちどり」


 そう声をかけた夜に、ちどりは笑いかけた。


「二見くんのこと、ちゃんと帰してあげてくださいね」


「……それは、二見次第だな」


「夜くんにしか頼めません」


「そうだな」


 それからちどりは、藤の花のトンネルへと、ひとりで向かっていく。


「この先に、ひとりで行くことになるんですね」


「ああ」


 さくらは、そうすると言っていた。だからきっと、そうなっているのだろう。


「二見くんは、わたしのことを覚えていてくれますか?」


「うん」


「わたしは、わたしのこと、ちゃんと思い出せるでしょうか」


「どうかな。……でも」


 でも、と、そう言ったのは、本当に自分でも、予想外のことだった。そのまま言葉を続ける。


「ちどりならどこにいっても大丈夫だよ」


「そう、かもしれません」


 ちどりの足が、花の匂いの立ち込めるトンネルに踏み入った。彼女のからだが、それをくぐる。


 俺が何かを言うより先に、夜がちどりの名をもう一度呼んだ。


「そこまで進んだから、もうこっちには戻れない。だから今教えてやる。二見はもう、帰るつもりがない」


 彼女のちいさなからだが、こちらを振り向いた。凍りついたような表情が、俺を見ている。


「こいつはこれから、俺と心中する気だ」



 

 

 

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