08-02 真中柚子


 当然といえば当然の話だが、どれだけ『薄明』に目を通したところで、森や、神隠しや、『薄明』の力にまつわる記述はなかった。そのかわりに、怜が用意してきたバックナンバーのリストを見ると、不思議なほど番号の抜けがあることに気付いた。

 

 平成四年号はすべてが存在しない。平成二年号もまた紛失している。他に関しても部誌が存在していない時期がたくさんある。


 もっとも、考えてみれば不思議なことではない。いくら文芸部の活動とはいえ、毎回毎回きちんと発行できる場合ばかりでないのは当然のことだ。


 部誌『薄明』。その歴史を一冊一冊覗くたびに、俺のなかには少しずつ奇妙な思いが芽生え始めていた。そこにはたしかに人々がいて、これだけの文章を物していた。巧いものもあれば拙いものもある。短いものもあれば長いものもある。彼らの癖、思考、意図、それらを、俺はたしかに読み解いていく。読み解けたと感じていく。

 

 そこには人がいる。個性があり、息遣いがある。癖があり、祈りや苛立ちがある。

 

 けれどそれらは、捏造されたものかもしれない。


 わからない。

 

 そんなはずがない、ということも、わかるはずがない、ということも、簡単なことだ。たしかめようがない、知ることができない、と、悲嘆に暮れることも簡単だ。


 わかるわけがないじゃないか、知ることなんてできないじゃないか。

 たしかめようがないじゃないか。だから、どう解釈してもいいじゃないか、と。


 猿が描いた砂上の模様、

 のたうちまわったみみずの形、

 猫が踊ったキーボードの順番、

 切り貼りされた新聞の文章、

 俺たちはきっと、そこからだって意味を汲み取る。


 すべては偶然、わかったと思えているだけで、ある瞬間に魔法が解けて、全部が理解できなくなるかもしれない。


 誰かの声だと思ったものは、ただの風の音かもしれない。

 誰かの言葉だと思ったものは、ただ偶然にできた模様かもしれない。


 わかろうとすること。

 届こうとすること。


 誰かが何かを語りかけようとしている。

 でもそれは、俺がそう感じるだけのことじゃないのか。

 それは本当にそこにあるのか。


 女の体は消え失せ、伸ばした手すらも透きとおるように消えていき、桜の森の下にはただ虚空のみが残される。覆い隠すように、花が舞い落ちている。


 越えられない断絶。


 けれど……そうだとしたら。

 これはいったいなんなんだ。

 この、読むという営みは。


 俺たちが、いま現にこうしているときに、起きていることはなんなんだ?



「はっきりしましたね」


 四十分ほど経った頃、さくらがそう言った。


「わたしたちがしなければならないこと」


 それは確認のおこないだった。


「うん」と頷いたのは怜だった。


「本当にそんなことになるのか、わからないけど、楽しそうではある」


「よくわかんない」と、真中だけが首をかしげていた。


「わたしたちはまず、今年の春季号を完成させましょう。そこに仕込みをします。内容は単純です。部誌『薄明』には、世界を変える力がある。そういう物語を、『薄明』のなかに折り込みます。そしてそのために、『薄明』の空白を、捏造します」


「ひどく、手間がかかりそうな作業ですね」


 大きいほうのちどりが、苦笑しながら言った。


「おそらくは。でも、さほど難しい作業ではないはずです。いくつかで済みます。平成四年の春季号から冬季号の分は、二見くんが知っているものを模倣すればいい。そして平成二年号は、そこから逆算して作ればいい。あとはそれらしいエピソードを作ればいいだけです。書く内容はほとんど決まっているから、あとは分担するだけ」


 簡単そうに言うが、簡単なことではない。

 

「……ひとつ、気になることがあるんだけど」


「なんでしょう?」


「佐久間茂と、赤井吉野のふたりの協力は仰げないのか」


 さくらとちどりと青葉が顔を見合わせた。


「どうでしょう。しないほうがいいと思います」


「どうして?」


「わたしたちがこれからしようとしていることが世界に影響を与えるんだとしたら」


 と彼女は言った。


「あのふたりの協力は、むしろないほうがいいです」


「そう、なのかな」


「ところで、二見くんは、手伝わなくていいですよ」


「……なんで?」


「何をしなければならないかは、もうわかりましたから。二見くんには、他にやらなきゃいけないことがあるはずです」


「……」


 何を見抜かれているのだろう。


「それに……」


 と、彼女は続けた。


「わたしたちがこれからすることは、もう。そうですよね?」


「……」


「考えてください。あなたが、何をしなきゃいけないのか」


 俺たちがしなければならないこと。


 時を遡り、ちどりを元の時間に戻すこと。

 そして、世界の崩壊をとめること。



 ワークスペースから抜け出して、ラウンジに置かれた椅子にからだを預け、しばらく考える。


 世界の崩壊をとめる。

 

 夜がこの世界にやってくるまで、検討もつかなかった。それが今、わかってしまっている。ちどりが俺を許さないと言った意味も。

 

 思いついた方法はひとつだけ。


 取引。


 疲れを覚えて、顔をあげると、すぐそばに、真中柚子が立っていた。黙ってこちらを見下ろしている。


「……や」


 と彼女は言った。


「やあ」と俺は答えた。


「なに?」


「ん。少し、話してみたくて」


「俺と?」


「いけない?」


「そういうわけじゃないけど。でも、話したくなるような理由が思いつかなくて」


「……あのさ、二見、さんはさ」


 変な呼び方だ、と思った。でも、そう呼ぶしかないんだろう。他に、俺を示す言葉がないのだから。


「三枝隼、なの?」


「……そう、みたいだな」


「……ふうん。ほんとに?」


「どうして?」


「わたしにはよくわかんなくて。あのね、わたし、思うんだけどさ……」


「きみが自分を自分だと最初に理解したのは」と俺は言った。


「五歳のときの、夏の庭?」


 彼女はちょっとびっくりした顔をした。


「……エスパー?」


「俺の世界の真中柚子が、そう教えてくれた」


「ふうん。そっちのわたしも、おんなじなんだ」


「……」


 そっちのわたし、か。


 そっちの、わたし。こっちの、わたし。


 わたし、わたし、わたし。


「俺は、三枝隼のひとつのバリエーションだ」


 と、俺はそう言った。


「だから、三枝隼だと言えば、三枝隼だろうな」


「……んー」


 と、真中は考えるような顔つきになって、思い出したように、手に持っていたペットボトルをこちらに差し出してくれた。


「なに、それ」


「水。飲む?」


「飲食禁止じゃないの?」


「蓋の付いた容器だったら、ラウンジでは飲んでいいんだって」


 俺はペットボトルを受け取って、蓋を開けた。


「あのさ」と真中柚子は言った。


「三枝隼のバリエーションのひとつだ、ってすごい苦しげに言うけど。だから自分は三枝隼だ、って思うの?」


「……どういう意味?」


「わたしは、三枝隼が書いた手紙で救われて、今ここにいる。でも、それを書いたのは、あなた?」


「……いや」


 俺は、書いていない。

 三枝隼が、書いた。


「でも、手紙を書いた三枝隼はね、わたしを助けられなかったんだって。わたしを助けられなかったから、手紙を書いたんだって。その手紙が届いて、いま、わたしはここにいる」


「……うん」


「わたしを救ってくれたのは、でも、その三枝隼なの」


「……」


「三枝隼は、きっと、たくさんいるんだろうね。真中柚子が、たくさんいるみたいに。でも、他の、どの三枝隼でもない、その三枝隼がわたしを助けたの」


 だったら、あなたは。


「あなたは、他の三枝隼とはちがう、この三枝隼のバリエーションとしての……宮崎二見、でしかないんじゃないの」


 俺はなにかを言おうとして、言えなかった。


「あなたは、三枝隼かもしれない。でも、ほかの三枝隼ではない。あなたは、三枝隼。それで、なにか不十分なの?」


 真中柚子は、それだけいうと、しばらく黙ったまま俺を見ていた。彼女と、目が合う。俺はいま、どんな顔をしているんだろう。自分ではわからない。

 

 この三枝隼としての、宮崎二見。


「……わたしには、よくわかんないけど。それでも、世界が変なふうに影響しあってるなら、もしかしたら、このわたしの意思とか気持ちにも、ほかの世界の影響みたいなのがあるのかな。ふつうだったら、こんな話、しないもん」


「……」


「……でも、いま話したのは、このわたしの気持ちだよ。なんとなく、だけど。がんばってね、って、思ってるよ」


「……覚えておくよ」


「うん。そうしてくれると、嬉しい」


 真中は、満足そうに頷いて、ワークスペースの方へと戻っていった。


 この、宮崎二見としての、決断。


 そうだな。


 ……だったら、やるべきだ。


 この宮崎二見として、するべきだと思うことを。





 

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