01-03 数少ない友人
結局、その夜、フィガロを見つけることはできなかった。
猫にも帰巣本能はあるというし、そう遠くにいっていないのなら、匂いなんかを頼りに、腹が減った頃に帰ってくるだろう、と慰めても、ちせの表情は晴れなかった。
間の悪いことに、夜更け頃から雨が降った。もしかしたら夜中に帰ってくるかもしれないと、ちせはフィガロが帰ってきたときに気付けるようにと、玄関に近いリビングで毛布をかぶって眠ったようだった。あまり無理をしないようにと言ったが、次の日俺がリビングに降りたとき、彼女はもう起きていて、パジャマ姿のまま落ち着かなさそうに窓の外を見ていた。
春の雨がしとしとと屋根を打つ音を聞きながら、俺はコーヒーをいれてトーストを焼いた。話しかけると返事をするものの、ちせの表情は重たい。
ハムとチーズを載せて焼いたトーストを皿にのせテーブルに置く。食べるか、と訊ねると、ちせは、食欲がない、と苦笑して首を横に振った。
「無理することないけど、食べときな」
「……うん」
自分でも、食べないわけにはいかないと思ったのだろう。ちせは逡巡したそぶりを見せたあと、結局トーストに手を伸ばした。
気だるそうなちせをそのままに、台所に立って、俺は弁当の支度をはじめた。四人分の支度が終わるのとほとんど同時に、両親がリビングに降りてきた。
母に「寝てないの?」と尋ねられると、ちせは「寝たよ」と答えた。彼女は嘘があまり上手くない。
「きっとすぐに帰ってくるよ」と父が言った。
「フィガロは賢いから。どこかで雨宿りでもしてるんだろう」
うん、そうだね、とちせは頷いた。
両親は身支度をととのえ、簡単に朝食をとり、弁当を手に仕事へと向かった。
「ココアいれようか」
「あ、はい。……ありがとう」
ちせの、困り顔の苦笑。横目にキッチンに立って、彼女のマグカップを用意した。別に大げさに心配しているつもりもないのだが、たぶん、本人は心配されているのだと思ったのだろう、ようやく顔つきが少しマシになってきた。
「落ち込んだままじゃいられませんね」
「そのうち帰ってくるよ」
「……はい」
確証なんてないのに、俺は断言した。責任なんてとれやしないのに。帰ってくるかどうかなんて、わかりっこないのに。とりあえず俺はそう言った。
ココアを飲み終えたあと、ちせはようやく自分の部屋に戻って出かける支度をする気になったようだった。俺はリビングでテレビを見ながらちせの準備を待つことにした。どうせ向かうのは同じ学校だ。
天気予報いわく、今日の天気は一日雨。今週はずっと曇り模様、ということだった。これが猫にとっていいことなのか悪いことなのかはよくわからない。あまりよくないのかもしれない。
そうしているうちに、階段から足音が聞こえて、姉がパジャマ姿のままリビングにあらわれた。肩まで伸びた髪が寝癖でうねっていたけれど、取り繕う気は特にないらしい。
「おあよ」
「おはよ。……寝癖すごいよ」
「ひがろは?」
「帰ってきてない」
「んー」
返事なのかなんなのか、よくわからないうめきをあげて、姉はリビングのソファにからだを投げ出して、また目を閉じた。
「……今日はゆっくりなの?」
「ん」
今度はたぶん頷きだろう。そう、と返事をすると、姉はかすかに瞼を開けて、視線だけをこちらに向けた
「ふーたみ。パンやいてー」
「俺、もうすぐ出るから自分で焼きなよ。時間あるんでしょ?」
「でもさあ、焼くのってめんどくさくてさ。あとそれから、コーヒーがあるとうれしいな」
「自分でいれなよ」
「でも、二見がいれたほうが美味しいんだよう」
溜息をついてから、俺は立ち上がった。おだてられたのを真に受けたわけでもないけれど、なんだかんだで逆らわないでしまうのは、よくない習慣かもしれない。立ち上がってまたキッチンに立ったところで、ちせが制服姿でリビングに現れた。
いつもながら、姉妹だというのに性格が真逆だ。だらしないましろ姉、几帳面なちせ。もっとも、容姿という意味でも、姉に栄養を吸い取られたのか、ちせの方は高校に入った今年になっても、中学生くらいの見た目にしか見えないけれど。
「もうふたりとも出るの? いつもより早いね」
「ちょっとあたりを見回りしていこうかと思って」
焼き上がったトーストとコーヒーをテーブルにのせてあげると、ましろ姉はのそのそと体を起こして齧歯類みたいにトーストをかじりはじめた。
「今日は雨かあ。どうかなあ」
「今週はずっと雨だってさ」
「そっかあ、雨かあ」
「雨だと、なんかまずいの?」
「ん。んー、どうだろ。まあ、わたしも探してみるよ、暇だし」
「……大学は?」
「大学もいくけど」
思わず呆れの溜息が出たけれど、ましろ姉が探してくれるというのは心強い。早く見つからないと、ちせがやつれかねない。
「とりあえず、俺たち行ってくるから」
「ん。あ、二見」
呼ばれてましろ姉のほうを見ると、彼女はもう、さっきまでよりもすっきりとした顔つきだった。呼びかけたというのに、こちらに視線を向けていない。コーヒーに口をつけてから、ましろ姉は慎重そうに言葉を続けた。
「昨日、なにかあった?」
「……なにかって?」
フィガロがいなくなったけど、と、思わず言いそうになったけれど、おそらくそうではないのだろう。
「いや。なにもないけど」
「そ。それならいいです。いってらっしゃい」
ましろ姉は納得したみたいにひらひらとこちらに手を振った。俺とちせは顔を見合わせたあと、結局そのまま家を出た。
◇
早めに教室についてスマホをいじっていると、いつのまにかやってきたらしい嶋野が俺の隣の席に腰掛けて、「よう」と声をかけてきた。
手をあげて返事をしたあと、また画面に向き直ると、「なにやってんだ?」と訊ねられる。
返事に困って画面を見せると、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「迷い猫か?」
「昨日、うちの猫が脱走したんだ」
「猫? 飼ってたんだな。……それ?」
嶋野はSNSの投稿のひとつを指さした。俺は黙って首を振る。
「やろうかなと」
「迷子猫投稿? おおごとだな。SNSの類さわんないじゃん、おまえ」
「妹が随分心配してるみたいだから」
「妹? ……あ、スミカちゃん?」
「……誰と間違えてるんだ?」
嶋野は一瞬俺の顔をじっと見たあと、おかしそうに笑った。
「いや、悪い。別のやつの妹と間違った」
「だろうな」
嶋野孝宏とは、高校に入学してから知り合った。俺にとっては数少ない友人といえる。泉澤怜とは昔なじみらしいが、詳しい話は知らない。とりあえず小学校から一緒だったと言っていたのを聞いたことがあるだけで、話しているところは見たことがない。
一年のときも、二年に上がってからも、こいつと同じクラスだったのは、話しやすい相手がいるという意味では幸運だが、適当なノリに付き合わされるという意味では不運だったかもしれない。
「子猫か?」
「いや……けっこうな年寄り猫だな」
「じゃあアレなんじゃないの」
「アレ?」
「ほら、猫って自分の死期をさとると身を隠すって言うじゃん」
は、と俺は笑う。うるせえよと思った。
「そうかもな」
「投稿するなら手伝うか?」
意外な申し出に面食らっていると、嶋野は自分のスマホを取り出した。
「アカウントあんの?」
「いや、作り方わかんなくて」
「古代人か? ……アドレスは?」
「なんか必要なの?」
「迷い猫投稿なら住所ある程度出すんだろうし、捨てアカの方いいんじゃねえの」
「よくわかんねえ」
「おまえネットやらないほうがいいよ」
嶋野はポケットの中にスマホをしまって真面目な顔でそう言った。
「家族と相談しな」
「……だな」
俺も画面を落としてスマホをしまった。
「早く帰ってくるといいな」
「とりあえず、無事ならいいんだけど」
「まああんまり心配しすぎるなよ。動物なんて案外したたかだから。前、俺の知り合いの犬がさ、帰ってこないと思ったらよその家で名前つけられて飼われてたことがあるんだって。気楽にかまえてりゃいい」
嶋野に励まされるというのが新鮮で、俺はしばらく黙ってしまった。
「その犬、どうなったの」
「飼い主が会いに行ったら、『こいつ誰?』みたいな顔して、しばらく匂い嗅いでから思い出して、ようやく尻尾を振り始めたらしいよ」
こいつはもしかしたら励ましたいのではなく、悪趣味なだけかもしれない、と俺は思った。
「まあ、人間だってそういうことがあるくらいだし、猫だって案外丈夫に暮らすさ」
俺は少しだけ考えて、
「いや、人間はそんなことにはならないだろ」
と返事をした。嶋野は真面目な顔をわざとらしくつくって、
「そうか?」
と首をかしげたあと、またいたずらっぽく笑った。
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