01-02 夜の庭

 

 四月の夜は、まだ肌寒い。玄関を出て、懐中電灯の光で周囲を照らした。隣には、蒼白な顔つきをした妹。何も言わずに、とりあえず歩き始める。彼女は俺のうしろをついてきた。


「そんなに遠くには、いかないと思うんですけど」


「そうだな」


 うなずきながら、どうかな、と思った。慌てた様子の彼女から連絡がきたのが夕方で、今は夜だ。もう三時間は経っている。時間が経てば経つほど、捜索範囲は単純に広がる。


 メッセージの内容は、飼い猫の脱走を知らせるものだった。早めに学校から帰り買い物を済ませて家に帰った妹が玄関の扉を開けた瞬間に、猫がするりと外へと出ていった。慌てて荷物を置いてから外を見回すが、もうそのときには姿が見えなかった。かろうじて進んでいったように思える方向を追いかけたが影も見えない。それで俺に連絡が来たわけだ。


 けれど、俺が来たからといって、何ができるというわけでもない。


 とにかくどこかに隠れていないかと、帰ってきてから一度探してはみたもののやはり見つからず、夕食をとったあと、夜もまた歩いてみることになったのだ。


「フィガロ」


 妹が名前を呼んでも、どこからも返事はない。


 フィガロは昔、妹が拾ってきた捨て猫だった。クリーム色の毛並みで、顔と手足だけが黒っぽいシャム風の、おそらくミックスで、あまり鳴かず大人しい猫だが、どうしてかいつも外に出たがった。赤い首輪をつけているから、誰かが見ればすぐに飼い猫だと気付くだろうが、家のある住宅地を出ればすぐ向こうは車通りの多い国道だ。


 せめてそっちに行っていなければいいが、と思いながら、夜道を歩いていく。こうも暗くては、鳴かない猫なんてそうそう見つけられそうにない。


「夜はあんまり動かないかもな」


「そうかも」


 返事は心ここにあらずといったところだった。俺たちは住宅地を一周するように歩き始める。そのへんをうろついているだけだったらいいのだけれど。


 黙っていると気が滅入りそうだったので、俺は適当に話題を振ることにした。


「部活、決めたのか?」


「……あれ、お姉ちゃんから聞いてませんか?」


「なにを?」


「わたしも文芸部に入るって」


 聞いていない。と思うと同時に納得した。今日部室に来た真中柚子と、それから妹の二人で、既に数は足りている。怜は、はじめからそれがわかっていたのだろう。


 どうりで勧誘のやる気がないはずだ。まあ、何も知らない俺のほうが問題といえば問題なのかもしれない。


 坂道を抜けて、住宅地のなかの児童公園につく。敷地に入ってベンチの下やジャングルジムの中を懐中電灯で照らしてみるが、それらしい姿はない。


「……いませんね」


「どこに隠れてるんだろうな」


「車は怖がるだろうから、国道には近づいてないと思うんですけど」


 そうだといいが、と思ったとき、不意に木立の下生えからがさりと音がした。


「フィガロ?」


 妹の声に応えるように、また草むらがざわついた。俺たちは頷き合って、茂みの方へと足音を殺して近づいていく。


 やけに鬱蒼とした木々の下に春の野草はもう伸びていた。


「いま、聞こえましたよね?」


 ゆっくりと茂みの中を照らすが、やはり猫の姿は見えない。それでも鳴き声が聞こえた。


 ……誰かが俺の名前を呼んだ気がした。振り返るが、そこには誰もいない。側にいる妹の方を見るが、彼女も俺のことを呼んではいないようだった。気のせいかと前を向き、茂みに足を踏み入れる。


 木立はさほど深くはない。この草むらのなかにいるなら、さほど苦労せずに見つけられるかもしれない。


 隠しきれない足音をそれでも一歩一歩できるかぎり殺しながら、木々の下へと進んでいく。


 と、不意に、また、誰かが俺の名前を呼ぶ。……けれど、それは本当に俺の名前だったのだろうか? 

 

 風が吹いて木立がざわめいたとき、俺は一瞬、まばたきをした。

 

 その一瞬のまばたきのあと、視界の隅に、何かがよぎった気がした。視線をむけると、そこにはひとりの少女が立っている。

 思わず息を呑んだ。


 彼女はいつからそこにいたのだろう。気づかなかっただけで、さっきからずっといたんだろうか? ……こんな暗闇のなかに、明かりさえ持たずに?


 目が合ったまま、動けなくなる。それが驚きのせいなのか、別のなにかのせいなのか、自分でもわからない。


 うしろから服の裾を引かれた。振り返ると、妹もまた、彼女の存在に気づいたようだった。二人分の視線を受けて、見覚えのない少女は戸惑ったような顔つきになる。


 見覚えのない少女……。

 彼女は、こちらを見て、何かを決心したように慎重な声音で、


「この先には、何もありませんよ」


 と、そう言った。


 どう返事をしていいのか、わからない。木々は、ただ公園の敷地を囲うだけのものにしては、ひどく薄暗く、深く、先が見通せない。


「この先には」と彼女は言った。馬鹿げた言葉だと俺は思った。本当になにもなかったら、「この先」なんて言わない。でも、言葉のとおりだろう。……ただの、敷地を囲うだけの木々なのだから。


 それ以上考えるのは、やめることにした。


「猫を見なかったか?」


「猫?」


 怪訝そうに、彼女は首をかしげた。


「飼い猫が家から脱走したんだ。さっき、このあたりから鳴き声が聞こえたんだけど」


「……なにも、聞こえませんでしたね」


 そうなんだ、と返事をしようとして、俺は彼女の視線に落ち着かない気分になる。なにかに似ている、と思って、気づいた。怜が俺を見るときの視線に、少し似ていた。


「うちの高校の制服だな」


「同じ学校でしたか」


 ごまかすみたいに笑って、彼女は小さく頷いた。


「こんなところで、なにしてたんだ?」


 そんなこと、訊かなくてよかった。訊くべきじゃなかった。彼女は困り顔で首をかしげて、仕方なさそうに言葉を返す。


「少し、探しものを。……そうですね、猫みたいなものです」


「見つかるといいな」


 俺は適当なことを言った。妹に、服の裾をまた引かれる。俺は頷いた。


「あの」


 向き合う少女が、また声をあげた。


「あなたの……名前を、教えてもらえますか?」


「……俺の?」


「はい」


 それがなにか重要なことでも言うような、静かな声だった。キャッシュカードの暗証番号でも聞こうとしているみたいだった。


 俺は少しだけ迷ってから、けっきょく、答えない理由が見つけられないまま、口を開く。


「宮崎、二見」


「……ミヤザキ、フタミ?」


「ああ。こっちは、妹のちせ」


「ミヤザキ、フタミ……」


 彼女はどうしてか、ひどく戸惑った様子だった。

 べつにおかしなことなんてない。知らない子と出会って、少し話して、名前を名乗っただけだ。


 それなのにどうしてだろう? なにか、奇妙なことが起きているような気がしてならなかった。


「……そっちは?」


「わたしは……」


 もう一度、妹が俺の服の裾を引っ張った。


「……わたしは、鴻ノ巣ちどりといいます」


 彼女は、目を伏せたままそう言った。


 そのとき、また、誰かに名前を呼ばれたような気がした。……でも、その名前は、本当に、俺の名前だったのだろうか? ……わからない。


 また、ちせが俺の服の裾を引っ張る。なにかに怯えているみたいに、彼女は一言も、なにも言わない。いいかげん、この場を離れるべきだった。理由なんてわからない。でも、明らかに、からだのなかで何かが警鐘を鳴らしている。


「……じゃあ、俺たちはいくよ」


 鴻ノ巣ちどりと名乗った少女は、小さく控えめに頷いたあと、取り繕うように微笑んだ。


「はい。……猫、見つかるといいですね」


「……そっちもな」


 それだけ言って、俺とちせは踵を返した。

 なぜなのかは、わからない。その場から、一刻も早く離れたかった。

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