9-1

 ティアレもまたうなずき、口をつぐんだ。

 ――明らかに偽名だ。自分と同じ。


 おそらく高貴な身で、忍んで行動しているのだろう。


(……武の名門の方かもしれない)


 なんとなく、そう考えた。武芸の心得があり、しかもしぐさの一つ一つに気品が感じられる。


「フィー様。重ねて、お礼申し上げます。こうして無事なのは……フィー様が通りがかってくださり、介入してくださったおかげです。……そのせいで、フィー様の御用をお邪魔したのではありませんか」

「……いや。ただ道に迷っ……さ、散策していただけだ。懸念には及ばない」


 銀髪の男は露骨に咳ばらいをすると、目を背けた。

 

 ティアレは虚を衝かれる。そしてつい先ほど見た背中――路地を出ようとしたときの、『どちらから来たのだったか』というつぶやいた姿が脳裏をよぎった。

 考えるより先に、言葉がこぼれ落ちてしまった。


「迷子だったのでしょうか?」

「!!」


 男の横顔が揺らいだ。

 とっさに振り向こうとしたのをこらえたように、頑なに横顔を見せ続ける。


「ま、迷子とはなんだ! そのような……!」

「も、申し訳ありません。で、でも、フィー様がそのように通りがかってくださったおかげで、本当に助かりまして」


 ティアレは慌てて言い募る。


「だから、迷子では……」


 フィーは消え入るようにそうつぶやき、うめいた。


 ティアレもまた少し肩をすくめたあと、愛想のよい微笑を浮かべて話を替えた。


「フィーさま。ぜひお礼をさせてください。なにか、私にお手伝いできることはありませんか?」


 高貴な身の男性なら、金銭的な謝礼で報いることはできない。

 忍んでいるのなら、身の回りの雑務等を手伝うことで少しでも報いることができるかもしれない――とっさにそう考えての申し出だった。


 フィーと名乗った男は律義に、いや、と否定しかけ、だが少し考え込むような態度をとった。


「……《ヘイル》神殿に向かうつもりだが、ここから遠いか?」


 その言葉が出たとたん、ティアレは息を飲んだ。

 不意の一撃に、胸の中が震える。

《ヘイル》神殿――かつて《星の聖女》として仕えた地。


 だがティアレが怯んだのを救うように、女将が盆を手にテーブルにやってきた。


「なんだ兄さん、巡礼者かい?」

「そのようなものだ。行き方をご存じか?」

「ご存じも何も! 神殿に行きたいってんなら、そこのイアに……」


 女将が何気なく言おうとしたのを、ティアレは必死に視線を送った。

 ――元聖女であったということは、できるかぎり知られたくない。

 女将は寸前で気づき、あたふたと口を噤んだ。盆を置いて、逃げるように厨房に戻って行ってしまう。


 そのあからさまな様子を見逃すほど、男は悠長ではなかった。


「なんだ? イア、君は何を知っている? 神殿の関係者なのか?」


 青と緑の目がかすかに細められる。

 鋭い眼差しに、ティアレは息苦しささえ感じた。


 恩人とはいえ、素性のわからぬ人間に元聖女だと知られるわけにはいかない。


「……以前、聖女付きの侍女としてお仕えしたことがありました。それだけです」


 なんでもないことのように、言う。

 フィーの目は鋭い光を宿したままティアレを射抜く。

 数拍して、どこか頑なさを強くした声が、「それならば」と切り出した。


「――《救国の聖女》に会いたい。できるだけ内密に。方法はあるか?」


 そう聞いたとたん、ティアレは今度こそ息を飲んだ。

《救国の聖女》。

 ――自分が追放されたあと、遠くまで聞こえるほどになった、《真の聖女》ジェニアの異名。

 胸の奥で、乾いたはずの傷がずきりとうずく。


 天才。女神の寵愛。

 神官長の、赤毛の王子の言葉が耳の奥に何度も蘇ってくる。


「……内密に、とは。聖女様は、癒しを求めてこられる方を……平等に、見てくださるはずです」


 波打つ胸の内でかろうじてそれだけを答えると、フィーの眉間がはっきりと険しくなった。


だ」


 そう切り捨てた声は厳しく、冷ややかな怒りを帯びていた。

 ティアレははっとする。思わずさぐるように目の前の男を見た。


「……フィーさまは、どこかお怪我を? それとも、他に助けたい方が……?」

「私は負傷していない」


 フィーは眉間に険しさを漂わせたままだった。

 多くは語られない言葉の切れ端が、ティアレの中で細くつながる。


 ――この素性の知れない高貴な男性には、助けたい人がいる。

 おそらく既に正式に打診した。だが断られた。

 そういう推測になる。


(でも……)


 聖女の奇跡は、むろんすべての人間に施されるわけではない。


 ためらいながら、ティアレはそっと口を開いた。


「僭越なことを申しますが……。聖女様の力は必要なく、自然治癒できるものと判断されたのではありませんか。事前の審査で、医師を紹介される方も多かったと……そう、うかがっています」


 とたん、銀色の眉が更に険しさを増した。


「あれが、自然治癒できるだと?」


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