第3話

『お前が聖女でよかった』


 かつて、赤毛の快活な王子はそう言ってくれた。明るく率直な言葉はあっけなくティアレの心をかき乱し、頬を熱くさせる。


『王子である以上、聖女と結婚する定めだ。そのことに異論はないが、話のわかる相手だというのは幸いだな』


 明るく裏表のないベルン王子はともすれば配慮が足りないのではと疑る者もいたが、そんなことはありえないとティアレは知っていた。

 自分も、この快活な王子の婚約者と定められるまでは気づかなかったかもしれない。


 こんな幸運があっていいのかと、かすかにおそろしくさえ思ったほどに。


『俺は、お前を愛せると思う。共に我が国を支えてくれ、ティア――』


 そう言って頬に触れた彼の手の熱さを、ティアレは鮮烈に覚えている。

 ――ずっとずっと、覚えている。




 刺すような寒気を感じて、ティアレは身震いした。同時に意識が浮上し、瞼を持ち上げる。

 視界がぼんやりとしていた。手足の先まで凍えるようで、体がひどく重い。


(起き、なくては……)


 それでも自分を奮い立たせ、なんとか体を起こす。睡眠を貪る怠惰など、聖女には許されない。

 鈍く痛む頭を振ると、肩にかかっていた紺色の髪がこぼれおちる。いつの間にか髪も解き、自室の寝台に横たわっていたようだった。


 控えめに扉が叩かれる音がして、扉が開く。

 寝台から起き上がろうとしているティアレを見ると、大きく目を見張った。


「ティアレ様……! お目覚めに!? まだ、無理をなさっては……!」

「大丈夫。それより、予定は? いま、どうなって……」


 駆け寄ってくる侍女に支えられながらもティアレは言い、そこでようやくはっきりと頭が覚めた。


「負傷した、方が……! 運び込まれてきた方は、安静にしてもらっている? どこにいるの?」


 ざあっと全身から血の気がひいた。負傷者の治療を頼まれたのに、そこで意識を失ったのだ。

 信じられない失態、怠慢だった。


 侍女の体がこわばり、はっきりと口ごもる。その様子が、ティアレのこめかみを殴りつけるようだった。

 どうしたの、と不安に急かされるように問おうとしたとき、今度は許可を問うこともなく部屋の扉が開かれた。


「目が覚めたか」


 侍女と同じ言葉を、ずっと冷ややかな声で神官長が言った。

 ティアレはぎゅっと胃が引き絞られるような痛みを覚えた。

 もともと、この厳格な神官長は、武の一族出身のティアレをよく思っていない。野蛮な家の娘と見ているらしかった。


 だがいまの神官長の目や声の冷たさは、それから来るものだけではないようだった。

 どこか――底知れぬ怒りさえ感じる。


「度し難い怠惰だ。このありさまで聖女を名乗ってきたとは……。来い」


 神官長は静かに吐き捨て、ティアレは唇を引き結んだ。実際に意識を失い、癒すべき人々を蔑ろにした。

 だから、反論など許されるはずもなかった。

 侍女の不安に惑うような目を受けながら、ティアレは重い体を引きずるように部屋を後にした。




 神官長は振り返りもせず、廊下を進み、神殿内の広間へと向かう。

《星の聖女》に助けを求める人々はいつもそこで待っている。

 ティアレは自分を叱咤し、気を引き締めなおした。


 左右に並ぶ列柱に、大きく開いた空間。昼間でもなお少し薄暗く澄んだ空気が漂っている。

 そこに、運び込まれた兵士たちの姿が見えた。


「おお……!」

「ああ奇跡だ……女神様!」


 どよめきが起こり、ティアレの体に緊張がはしった。

 それはいつも、自分が姿を現し、力を使った時に起こるものだった。

 しっかりしなければならない。彼らの期待する、《星の聖女》として毅然とした姿を見せなければならない。


 ――だが、彼らは《星の聖女》を見てはいなかった。


 ティアレの意識はそこではじめて、兵士の中にまじるほっそりとした一人の少女の姿を見た。

 少女のほっそりした背だけが、ティアレに見えた。

 飾り気もなく縛り上げられただけの薄桃の髪は、柔らかくうねり、ところどころが金色に輝いている。

 

 兵士たちの目は、その少女に向き、感嘆の声はその少女に向けられていた。

 男たちの感嘆の声の中、負傷した男たちが不安げな、あるいはすがるような眼差しを向けながら少女を囲む。


 やがて可憐な声が響いた。


「フルーエン様、どうかその御力をお示しください――」


 少女の後ろ姿が、輝く光に包まれる。周りにひざまずいていた男たちすらも。

 ――その光は、ティアレの視界を暗く、大きく揺るがした。


 やがて光がおさまったとき、いっそうの感嘆のどよめきが場を揺るがした。


「ありがとうございます、聖女様……!!」


 少女を囲んだ男たちの怪我は、すべて跡形もなく消えていた。布で腕をつっていた者は信じられないとばかりに腕を振り回し、横たわっていたものは身を起こして体を見回し、顔に包帯を巻いていたものは傷一つない顔を表す。


「うそ……」


 侍女の愕然とした声が、耳元で響く。


 ティアレは立ち尽くす。

 全身からざあっと血の気がひき、髪の一つ一つまで凍り付くようだった。


 ――癒しの力。自分とは比べ物にならないほど強大な。

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