第2話

《女神》フルーエンの声を聞くことができ、その恩寵を行使することこそが聖女の証だ。癒しの力が使えているということは、女神の声が聞こえているということと同意義とされてきた。


 だがどれだけ祈っても、女神はティアレに語りかけてくることはなかった。


 かわりに聞こえてくるようになったのは、冷たく厳しく、性別も年齢もわからぬ何者かの声だ。

 という、あの声。

 ――だんだん、その声は強くなってきている。

 あれが、この国を守る癒しと繁栄の女神の声とは決して思えなかった。


 そして、異変・・はそれと入れ替わりになるように起き始めた。


 ティアレはかすかに震える手をゆっくりと開いた。

 昼間の、不安げな男性の顔が脳裏をよぎった。それから、包帯の巻かれた腕。


(力が、弱まってきてる……)


 はじめは、気のせいだと思った。

 いつものように癒しの力を使ったのに、傷を消しきれなかった。傷口を塞ぎきれなかった。

 もう一度と余分に力を使うようになった。

 やがてそれが頻繁に起こるようになり、力を、体力を余計に消耗するようになった。

 

 癒しを求めて神殿にやってくる者たちを、一日に十何人と引き受けることができた。だがいまは十人も難しい。

 不幸中の幸いか、いまは神殿にやってくる者が少なく、異変を悟られずに済んでいる。


 だがこの先、もっと消耗するようになって、癒しを求める人が増えれば――。


 ティアレは無意識に体を震わせ、腕で自分をかき抱いた。


 ――ベルンに失望されたくない。

 ――《星の聖女》と呼んで敬ってくれるこの国の人々を裏切りたくない。


 役に立ちたい。必要としてくれる人々に答えたい。他には何も望まない。


 女神に恥じるようなことは何もしていないはずだった。

 幼いころ、何人もの聖女候補の中から選ばれたときから、ひたすら女神の声を、その恩寵を願って日々を過ごしてきた。


 女神の声が聞こえずとも癒しの力を使えることは、女神は沈黙しても見守ってくれているのだと思った。

 それならそれでよかった。


(フルーエン様。答えてくれなくとも構いません。けれど、どうか……)


 どうか、この力を奪わないでください。

 ティアレはかすかに震えながら、胸の中でそう叫んでいた。




 その日、《星の聖女》の祈りはいつも以上に長かった。

 神殿の奥にある沐浴の泉、白い衣のままでずっと立ったまま両手を組み、目を閉じて女神フルーエンへ祈り続ける。

 この国の安寧。人々の平穏。


(自分の至らないところは改めます。ですから、どうか……)


 強く祈り、願いながら、自分を戒める。

 ――癒しの力が弱まっているのは、自分が至らないからかもしれない。自分の信仰心が、女神への敬愛が足りないからかもしれない。

 自分は驕り、怠慢になっているのかもしれない。女神はそれに怒りを覚えているのかもしれない。


『お前のすべてをもって王家の方々にお仕えしろ。我が一族の王家への忠誠を示せ』


 かつて、厳格な父はそう言ってティアレを家から送り出した。

 貞淑な妻の見本たる、美しく静かな母は泣いてはくれたが、ティアレを引き留めることはなかった。


 代々優秀な騎士を輩出する武の名門に生まれた凡人・・。

 それがティアレという娘だった。

 武人として優秀な兄、母譲りの美しさを持った妹たちに比べ、ティアレは突出した素質を持たなかった。

 ただ――聖女が使える癒しの力を、少しだけ使うことができた。女神の声が聞こえないまま。


 だからたった一つのその特技にしがみついて、役に立とうと努めてきた。


 聖女として人々に敬われながら、それに値する力を持たないのは罪だ。


「ティアレ様、一度休まれたほうが……」


 泉の側に控えていた侍女が、気遣う声をかける。

 ティアレは短く、あともう少し、とだけ答えた。


《星の聖女》の長い祈りを中断させたのは、間もなくしてやってきた神官たちの声だった。 

「ティアレ様、負傷者が運び込まれてきました」


 ティアレははっと顔を上げる。白い神官衣に身を包んだ老齢の男性は、厳格な顔で言う。

 青ざめた唇でティアレが答えようとするより先に、侍女が非難めいた声をあげた。


「神官長、ティアレ様には少し休憩が必要かと存じます。せめてもう少し……」

「口を慎みなさい。聖女は暇ではない」


 ですが、と言い募ろうとした侍女を、ティアレはやんわりと遮った。


「わかりました、いま参ります」


 そう言って、もはやほとんど感覚をなくした体を動かし、泉から上がろうとする。

 体がひどく重い。衣が水を吸った分だけではないような気がした。

 この沐浴の泉に入れば、穢れを払うことができ、聖女の力を回復させることができる――そのはずであるのに。


 ぐら、と大きく視界が揺れた。


(あ、れ……?)


 体が動かない。時の流れが急に遅くなってしまったようで、天井が、投げ出された自分の手がまるで他人のもののように見える。


「ティアレ様……!!」


 その悲鳴が急激に遠のく。


 ティアレはもがいた。何かをつかもうと、すがろうとするかのように。


(だ、め……!!)


 思考よりも先に、強烈にその考えが脳裏をよぎる。強烈な焦燥感だった。

 ――いまここで倒れたら。

 だが何もつかめない。すべてが遠のいていく。


 《星の聖女》の意識は泉の底よりももっと深く暗いところに引きずり込まれていった。

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