第3話 一晩明けて

 唐突に浮上する意識に引っ張られ、俺は目を開けた。

 世界が横倒しになっていた。

 違う。

 俺が横になっているのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。それくらい、突然の覚醒だった。

 頭を擡げて周囲の状況を確認する。

 薄暗い部屋だった。見慣れない場所だと一瞬思ったが、すぐに、決してそんなことはないと気付く。

 ここは、俺と仲間のアレックスとで確保している隠れ家のうちの一つだ。そこの寝室のベッドに、俺は寝転がっているのだった。

 ……何故?

 横たわったまま首を傾げたものの、間をおかず、覚醒した俺の意識の底から、悪夢のような記憶が次から次へと湧き出してきた。

 ――いや、悪夢だろう。

 俺は脳裏によぎった出来事の全てを、即座に否定した。

 冷静に考えなくとも、あんなものが現実であるはずがない。

 きっと、深酒でもしたのだ。そんな記憶はないのだが。

 頭痛もすることだし、そうに決まっている。そうに違いない。それ以外があってたまるかよ。

 しかしその頼みの綱の現実は、俺の思惑以上に無慈悲で容赦がなかった。

 鈍い頭痛を堪えて半身を起こしたとき、それは否応なく俺の視界に飛び込んできた。

 小さな白い頭――リュシエルだ。

 彼女はその小さな細い身体を赤子のように丸めた姿勢で、俺のすぐ隣で眠っていた。

「おいおいおいおい……」

 俺は天井を仰ぎ、小声で呻いた。

 アレックスの奴、何を考えてやがる。それとも何も考えていないのか。いくら俺の意識が無かったからといっても、年端も行かない少女と二人、同衾ととられるような状況は不味すぎるだろう。

 こんな場面、他者に目撃でもされてみろ。社会的に死ぬぞ。勘弁してくれ。

 俺はリュシエルに気づかれないように、そして頭痛が悪化しないようにそっと体勢を変え、ベッドの上に座り直した。

 耳を澄まし、室外の様子を探る。

 音どころか、誰かが居るような気配も無かった。

 そういえば、アレックスには緊急事態が発生したことと、落ち合う地点のことしか伝えていなかった。もしかしたら、スクラップと化した俺の車や、消し炭となった家屋を探りに出ているのかもしれない。

 ならば、いつ戻るかは不明だ。待っていても仕方がない。

 とりあえず、俺は自身の身体の状態を確認することにした。

 着用していたボディーアーマーは見当たらなかった。他の装備品や、それらを装着するためのベルトやハーネスも外されている。反面、大きく裂けたり穴の開いたシャツやパンツはそのままだ。

 出血跡や煤やその他の酷い汚れや損傷の激しい衣服に反し、中身の方は治療の必要なしと判断できる状態だったのだろう。服まで丸ごと剥がさないでおいてくれたアレックスには、ひとまず感謝しておくことにする。

 それはさておき。

 腕、肩、脚、そして腹。痺れや痛みはおろか、違和感も不具合も全く無い。

 どこにも欠けはなく、穴も開いておらず、そしてこの分では、中身の方も無事に違いない。俺の正気まで保証されているのならば、だが。

 再び、首を傾げる。

 激痛、衝撃、その他諸々の一方的な蹂躙。俺は、ありとあらゆる暴行を通り越した破壊行為を加えられたはずだ。それも、人ならざるバケモノによって。

 全身ズタズタ、挽肉になって高温の炎に包まれて、いい具合に焦げ目のついた肉の塊ベリー・ベリー・ウェルダンへのフルコース――いくら俺が頑健で、普段から“殺しても死なない”と言われていた身だったとしても、普通の人間なら最低でも三回以上はしっかり殺されていたような具合だ。オーバーキルにも程がある。

 それなのに。

 俺は視線をリュシエルに戻した。

 平穏に過ごす予定だった休日の夜を木っ端微塵に吹き飛ばしてくれた少女は、あの時、何と言ったか。

「“蘇生リサシテイション”……?」

 確か、そんなことを言っていた気がする。

 しかし、それは俺が知っている意味ではなさそうだ。少なくとも、あの状態まで負傷し破損した肉体を、元の状態にまで瞬時に戻せるような技術などあり得ない。

 俺の預かり知らぬ所で医療技術が進歩して、生物を死という現象から遠ざける方法が存在し、そして既にその技術が確立されていたと仮定したとしても、千切れ飛んだ四肢や黒焦げに炭化した細胞を、瞬時に元通りにするなどいうことが現実的に可能であるはずがない。

 だが、俺はこうして生きている。

 リュシエルは一体どうやって俺を“蘇生”させた。そして、何故その技術を知っている。

 他にも、確か“跳躍ジャンプ”だとか、何かよくわからない用語も捲し立てていた気がする。それらは一体何を指しているのだ。

 俺が抱く疑問と違和感はそれだけではない。

 蘇生後の俺の行動――リュシエルを抱えたスラム街の夜空へと跳躍したこともそうだし、ビルの壁に穴を開けながら駆け降りたこともだってそうだ。

 ヤクをキメて尋常ではない膂力を発揮させる方法もあるにはあるようだが、ああいった類いのものとも違う。

 そもそも、その方法では脳で制御している肉体のリミッターが外れるだけだ。

 生身の人間がコンクリート壁を殴ったところで、痛い目を見るのはわかりきっている。

 もしリミッターを外してコンクリートを破壊するほどの怪力を得たとしても、殴った側の拳は無事では済まないだろう。肉体そのものが強化されたわけではないからだ。

 ならば、あれは一体何だったのか。

 俺は自分の足をまじまじと見る。

 骨折もしていないし、足首も足の指も普通に動かせる。

「何だそりゃ」

 拭いきれない疑念と共に、得体の知れない感触が背筋をゆるりと降りてくる。 

 口内のざらつく感触とは裏腹に、目の前で眠り続ける少女の寝顔は神々しいほどの美に包まれてた。

 琥珀の瞳を覆い隠す薄い目蓋。色素の無い髪と同じ色をした長い睫は、頬に僅かな影を落とし、その頬にかかる長く柔らかな巻き毛は少女の肩から背を覆い、薄暗い室内でも仄かに輝きを放っている。 

 少女のこの姿形を目の当たりにすれば、誰もが神の御業がなせる美の結晶、その最高傑作だと称賛することだろう。 

 だが、俺の脳裏に思い浮かぶのは、そういった手放しの賞賛とは程遠いものだ。


『あなたの血、おいしかったわ』


 そう言い放って俺へと向けた視線には、外見から想起できるような年代の少女がするものでは決してなかった。

 腹の底、体の芯から凍りつくような何かしらの異質さを宿した存在が、今、俺のすぐ隣で静かに寝息を立てている。

 ――けれども。

「お前、一体何なんだよ」

 体を丸めるのは、防御意識の顕れだ。

 少女のわずかに寄せられた眉根を見下ろしながら、俺は呟いた。

 リュシエルは相変わらず眠り続けている。余程疲れているのだろうか、全く起きる気配がない。

 俺は彼女の頭の下にそっと片手を差し入れて持ち上げ、もう片方の手で手繰り寄せた枕を隙間に納めてやった。

 寝苦しそうな表情が幾分か和らぐのを眺めながら、その状態を観察する。 

 とりあえず、怪我はしていないようだった。

 最初に俺の所へと押しかけて来たときに羽織っていた白衣はどこにも見当たらない。

 アレックスが促したのか、それとも自発的にそうしたのかはわからないが、リュシエルはオーバーサイズなトレーナーとぶかぶかのカーゴパンツというラフな服装に着替えていた。アレックスが私服を引っ張り出して、リュシエルに貸し与えたのだろう。

 何重にも折り曲げた袖先が隠す細い両腕は、その胸の前で祈るような形に織り込まれていた。

 両の手でしっかりと握られているのは、小さな四角いもの――白衣に着けていたミリアンのネームプレートだ。

「……! そうだ、ミリアン!」

 俺の元恋人、そもそもの元凶と思われるミリアンから託されたメッセージカード――唐突にその存在を思い出した俺は、ほとんどボロ布と化しているシャツの胸ポケットを慌ててまさぐった。

 リュシエルから手渡された後、地獄犬に追いかけ回されながらシャツの胸ポケットに仕舞ったような記憶がうっすらと甦る。まさか落としたり破損したりしてないだろうな――と冷や汗をかきかけたが、幸いなことに、指先からは硬い感触が帰ってきた。

 俺は安堵の溜め息を漏らす。

 地獄犬の攻撃には耐えられなかったボディーアーマーだが、胸ポケットの中だけは辛うじて護ってくれたらしい。

 あれももう何年も使用してきてそろそろ新しいものに買い換えようと考えていたところだった。次は中身の俺の方も護れるようにもっとグレードの高い品を選ぶことにしよう。いや、あんなバケモノとは二度と会いたくないし、会うつもりもないのだが。

 というか、バケモノと対峙するシチュエーションなんて、そうそうあってたまるかよ。次は絶対に逃げ切ってやる。

 そんなことを考えながらポケットから取り出したのは、市販品のメッセージカードだった。親しい家族や友人等に向け、誕生日やクリスマス等の祝い事のメッセージを記録させて、贈りあう用途で使われるものだ。

 例に漏れず、このカードの表面にも、オレンジ色のインクで“Happy Birthday”とプリントされていた。

「いや、誰のバースデーだよ」

 思わずツッコミの声をあげてしまう。

 俺は七月まれだ。ミリアンあいつもそれは知っているはず。

 ――まさか、忘れられたのか?

 それとも、誰か別の相手と間違えたのか?

「冗談きついぜ」

 胸中に込み上げるほろ苦いものに、顰めっ面になるのを止められない。

 俺とミリアンが別れたのは、もうかれこれ五年以上は昔の話だ。

 何で別れたのかって?

 当時の俺は軍人だった。所属は極秘作戦の多い武装偵察部隊。それで充分わかるだろう?

 ひとたび召集されれば、たとえ肉親だろうが恋人だろうが、作戦に関わることは一切話すことはできなくなる。

 仕方のないことだとはいえ、彼女ミリアンにとっては、迷惑極まりなかったとは思う。ある日いきなり居なくなった末に、音信不通のまま放置されるのだから。

 そして無事帰ってきたとしても、何処で何をしているのか、全く打ち明けてももらえない。怪我をしていても、その理由すら教えてもらえない。

 運が悪ければ、ある日届くのは死亡通知だけ、という話もよく聞く。幸か不幸か、俺は生きて帰還できたけれど。

 そんな生活、まともな神経の人間に耐えられるわけがない。

 だから俺は、ミリアンに別れを切り出されたとき、反論はしなかったし、引き留めることもしなかった。

「あなたには、私は必要ないみたいだから」

 そう言って遠ざかる背中を、無言で見送った。俺にできるのはそれだけだったから。

 以来、これまで互いに連絡を取り合ったことも無かったし、第一俺は、彼女が何処に居て何をしているかも知らないままでいた。そしてそれは、向こうも同じはずだった。

 それだというのに、いきなりこんなものを寄越すとは、どういう風の吹きまわしなのか。

「……ただ単に懐かしくなったから、という訳じゃぁ……なさそうだな……?」

 横目でチラリとリュシエルの寝顔を窺う。

 仮に、本気で俺の誕生日を勘違いされていたとしても、わざわざ俺を指名した上で、リュシエルにカードを託す必要があったのだろうか。

 俺は視線を手元に戻し、カードを裏返してみた。

 裏には何も書かれていなかった。真っ白な素体そのままの、プラスチック製のカードだ。

 まだ少し居残る頭痛と共に、嫌な予感が脳内で蠢く。

 カードの表面にプリントされた再生マークに指を這わせると、指先の小さなディスプレイ上に、懐かしい姿が浮き上がった。

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