第2話 何が何だかわからない

 つい先ほどまで展開されていた状況がすべて消し飛んでいた。

「レナード! レナード!!」

 繰り返し聞こえる悲痛な叫びに、意識を引き戻される。

「ねぇ! 起きて!! しっかりして、レナードってば!!」

 真っ暗な空間の中、誰かの泣き叫ぶ声だけが響き渡っている。

「嫌よ! ねぇ、ちょっと! ほんとに嫌なんだから!」

 反論しようにも口は動かないし声も出ない。泥のような重たい気配が俺の頭上に圧しかかるばかりで、俺の名を呼ぶ声すら時折遠退くほどだ。

 ひどく眠くて仕方がない。このまま溶けてしまいたい。しきりに呼び掛けてくる声が煩わしい。すべてを振り払って眠りの底へと沈もうとした俺だが、

「レナード、目を開けて……お願いよ、レナード……」

 嗚咽交じりの懇願――暗闇の中、銀色の髪と琥珀の瞳を持つ少女の姿が浮かび上がる。

(リュシエル?)

 刹那、俺は全てを思い出した。

 地獄の底から這い出てきたかのような悪魔の犬に追い詰められ、ありったけの弾丸を撃ち込んだのに全く通用しなかったことを。

 それどころか反撃を食らって散々嬲られた末、無様な姿で地面とキスをしたことを。

 そして最後の最後に、握りしめていたグレネードを奴の口へと突っ込んでやったことを。

 痺れた指先の微かな感触が一瞬だけ蘇ったが、それもすぐに消え去った。

 ――成程、そうか。死ぬんだな、俺は。

 つまり、今まで見えていたのは、いわゆる走馬灯というやつだったわけだ。

 納得すると同時に、しかし今度は別の不安が湧き上がる。

 ――リュシエル、どうしてお前がここに居る?

 お前まさか、俺が体を張って時間を稼いてやったのに、アレックスの所へ行かなかったのか?

 そんな俺の思いを完全に無視して、少女はまた声をあげる。

「レナード、駄目よ! 嫌って言ってるでしょ!? ねぇ、起きてよ!」

 無茶言うな。

 冷静になって考えれば考えるほど、自分の状況が絶望的なのを理解する。即死せずにこうして意識を保っているだけでも奇跡だろうに。どうやったって形勢は不利、あとは死を待つだけの状態だろうに。

 それにしても、死ぬ時ってのは聴覚だけは最後まで残るんだっけか。成程、それで声だけは聞こえているわけだ。いや、いつかどこかで見聞きした情報なんぞで残り僅かな余命リソースを消費している場合じゃなかった。

 以前から漠然と思ってはいた。いつかそのうち、ろくでもない死に方をするだろうな、と。

 覚悟というよりは諦めに似たものだが、だから今がその時なのだと突き付けられたところで、特に驚きはしなかった。

 ただ、心残りがあるとすれば。

(ミリアン)

 悪いな、折角俺を頼ってくれたのに。またお前の期待に応えられなかった。俺はいつだってお前を失望させてばかりだ。

 そして、

(リュシエル)

 お前を一人で放り出すのは良心が痛むが、俺が居なくなってもアレックスが拾ってくれさえすれば何とかなるだろう。あいつは変わり者だが心配は要らない。俺なんかよりもずっとお前と気が合うはず。ピザでもナチョスでもタコスでも、何でも好きなものを好きなだけ食わせてもらうといい。ああ、もちろん費用はあいつ持ちだ。俺の全財産は地獄犬のせいで消し炭になってしまったからな。

 だから、いつまでも俺なんかに縋っていないで、今のうちに、今度こそ、ここから離れて――

「ダメーーーっ!! 絶対駄目!! そんなの、絶対に許さないんだから!!」

 鼓膜を突きぬけて脳にまで突き刺さるような金切り声に、死に瀕していた筈の俺は無理矢理意識を引き戻される。

「でも、どうしよう、血が、こんなに沢山……」

 動揺した様子の声に、絶望が滲む。いよいよもって俺の最期が近付いてきたらしい。

 まだ微かに続いていた苦しい息の中、肺に残っていた最後の息を吐こうとした、まさにその時。

「ああ……なんて〝もったいない〟……」

 死に瀕して思考がほぼ状態であっても尚ぞっとする異質さが、そこにはあった。

 戸惑う俺を知ってか知らずか、少女はそろりと俺に近づき、囁くように呟く。

「”   ”――」

 何を言ったのかは聞こえなかったが、ぬろりとしたものが口腔に割り込み、中をまさぐったのを感じた。

 次の瞬間。

 雷にも似た衝撃が、俺の脳天と心臓を貫いた。

「――ッ、がっ!?」

 気管に詰まっていた血を吐きながら目を見開く。

 暗闇で塗りつぶされていた世界が瞬時に反転する。

 星の無い夜空が見えた。

 炎とネオンに照らされた影が建物の壁で躍っていた。

 すさまじい熱と衝撃とが全身の細胞という細胞を沸騰させる。

 それまで全て遮断されていた痛覚が突如として蘇り、体中を貫いた。

 あり得ない方向にねじ曲がっていた四肢が暴れ出す。折れた骨が元の位置に戻り、繋がり、引き裂かれた筋肉や血管が鞭のようにしなり、零れた内臓も元の位置に収まって、再生した皮膚がそれらを瞬く間に包んだ。

 バケモノに嬲られてズタズタにされた俺の肉体は、瞬く間に元通りの姿へと戻った――殺された時に感じたものと同じ苦しみを味わいながら。

「――っ!?」

 一旦空になった肺が、新たな空気を吸い込む。

 急激に回復した血圧に脳が圧迫され、気が遠くなる。眩んでブラックアウトしかけた視界の端から小さな体が躍り出て、勢い良く飛び付いてきた。

「レナード! 良かった! 良かった――!!」

 猫のようにぐりぐりと押し付けられる頬を、再生したばかりの左手で防ぐ。

「リュシエル!? お前今、一体――」

 何をしたと問うよりも先に、リュシエルがその琥珀の瞳を大きく見開いて俺の顔を覗き込み、言った。

「だって困るもの。レナードが死んじゃったら、私どうしたらいいの? 〝外〟のこと、何にも知らないのよ? だから、〝蘇生リサシテイション〟を使ったの」

「……は?」

「〝跳躍ジャンプ〟で力を使い切っちゃっててどうしようって思ってたんだけど、でもちょうどレナードの血があったから何とかなったわ。ありがとう、あなたの血、美味しかったわよ」

 リュシエルはそう言って目を細めると、唇についていた赤黒いものをぺろりと舐めた。まだ乾ききっていない俺の血だ。

 開いた口が塞がらない俺を、リュシエルが急かす。

「ほら、しっかりしてちょうだい。ミリアンをがっかりさせるつもり? あなたなら大丈夫だって推薦されたのよ? 期待に応えなきゃ、男じゃないわ」

 いちいち痛いところを突いてくるな。っていうかお前、まさか俺の心を読んだのか?

「そうよ、私たち今、血を介して〝繋がっリンクし〟てるの。〝増大インクレイス〟を止めるには、それしか方法が無かったから」

 リュシエルが何を言っているのか全く分からない。

 俺は周囲を見回した。

 地獄犬の爪や牙が破壊した地面や壁はそのままだった。大量に浴びせた銃弾の跡も周辺のそこかしこにあるし、俺のものと思われる血溜まりも残っている。どうやら夢を見ていたわけではないらしい。

 自身の体に目を落としてみれば、ボディアーマーや服は裂けて血に塗れてはいたものの、そこから覗く肌には傷ひとつ見当たらなかった。昔負った古傷さえ綺麗さっぱり消えている。やっぱりこれは夢なんじゃないのか?

「そんなわけないでしょ! 寝ぼけていないでしっかりして!」

 呆然としている俺の耳に、リュシエルの叫びが刺さった。

「ほら! 前!!」

 リュシエルが小さな両手で俺の頬を挟み、正面を向かせる。

 通路の先で、黒い煙が蠢いていた。

 口内にグレネードを突っ込んで爆散させてやった地獄犬の残滓だ。

 完全に吹き飛ばすには威力が足りなかったらしい。わずかに残っていた霞が寄り集まり、再び形を成そうとしている。

 ジャック・オ・ランタンよろしく、顔とおぼしき部分に赤い光が灯ったのと、黒い塊が唸りをあげて猛突進してきたのはほぼ同時だった。

「んな――っ!?」

 咄嗟にリュシエルを抱えて横っ飛びに跳んだ――だけだったはずなのに、何故か隣接する建物の壁へ突っ込みそうになっていた。

 衝突を回避しようと軽く地を蹴ったつもりが、ドスン! という妙な音と振動が靴裏から伝わった。

 顔面の皮スレスレのところを粗いコンクリート壁が通り過ぎ、次の瞬間、俺達は宙に浮いていた。

「……はぁぁあぁぁ~~~っ!?」

 ビルの谷間を遥か下に臨む中空に、間抜けな叫びが夜のスラム街に響き渡る。

 リュシエルの白い髪がふわりと宙に浮き、屋上を照らす幾つものネオンが金の瞳の縁を彩って小さな光を放った。その幼い頬は、土埃と煤と、俺の血とで汚れている。

 重力から解放されたのはほんの一瞬。引力に従って落下を始めるその下へと目を向けてみれば、つい先ほどまで俺たちがいた地面は大きく抉れていた。そしてその中間点では、首だけの姿となった地獄犬が巨大な顎を開き、俺達を待ち構えている。

「突っ込んで!」

「はァ!?」

 漏れ出る炎が舌なめずりのようにちろちろと蠢いている、そのど真ん中に向かって、リュシエルが真っすぐに指を示す。

「いいから突っ込んで!」

 んな無茶苦茶な、と俺は抗議の声をあげようとしたが、しかし何故か体は体勢を変えていた。

「完全に消滅させるのは無理。でも、同じかそれ以上のエネルギー質量をぶつけてやれば、状態を維持できなくなって〝あっち〟へ逃げ帰るわ」

 そうか、なるほど。全然わからん。

「さっきやったじゃない。ドカーンって吹っ飛ばしたでしょ」

「またやれって言うのかよ!?」

 まだ完全に蘇生しきれてないのか、自分の大声が脳に辛い。目の前にチカチカと星が瞬き、酷い二日酔いをしたときのような頭痛がする。

「あら、そんな強くなくてもいいのよ。ほんのちょっと、鼻先をビシッて弾いてやるだけでいけるはずよ」

 と、リュシエルは事も無げに言うのだが、その鼻先では燃え滾る溶岩から立ちのぼる有毒ガスめいた紫煙がゆらゆらと揺れているんだが?

「〝あの子〟には〝こっち〟の次元で形状を維持する力はもう残っていないわ。大丈夫、あなたならできる」

 畜生、簡単に言ってくれるぜ。

 耳元でごうごうと風が唸っている。落下速度が上がる。ごちゃごちゃ言っている暇はない。

 オーケー、わかった。いや、相変わらず何を言っているのかさっぱり理解できていないのだが、このままあの炎の顎にバリバリと噛み砕かれてまた死にたくなければ、犬っコロの鼻ッ面を引っ叩いて〝お家へ帰れゴー・ホーム〟をしてやるしかないのは紛れもない事実だった。

 リュシエルとミリアン、お前達には聞きたいことが山ほどある。後でがっつり問い詰めてやろう。だから、今はとにかく、腹ァ括れ、俺!

 抱きかかえていたリュシエルを持ち直し、力いっぱい真上に放り投げる。

「ひゃっ――あぁぁぁ――――っっ!?」

 リュシエルがドップラー効果を伴った悲鳴をあげながら、更に上へと上昇する。すまんな、後で必ず拾ってやるから、今は上空からの夜景を一人で楽しんでてくれ。

 一方、俺の体は反動で落下速度を上げたわけだが、いくら弱っていると言われても、自由落下程度の威力で敵う相手だとは思えなかった。

 残っている武器はただ一つ。俺はベルト内側に仕込んであるプッシュダガーを抜き、両脇に迫るコンクリート壁を蹴るように駆け下り、加速した。

 後から冷静に考えてみれば、何故そうしようと思ったのか不思議でならない。だが、この時の俺はリュシエルがそうしろと言った言葉に従い、地獄犬の口めがけて突っ込むことしか頭になかった。

 命綱無しの懸垂降下ラペリング……とは少し違うが、一歩踏み込むごとに、壁にゴスゴスと穴が開いてゆく。どういうことだよ。

 まさか獲物の方から突っ込んでくるとは思っていなかったらしい。首だけの地獄犬は動揺したかのように、開いた顎を戦慄わななかせて後退する素振りを見せた。

「逃がすかよ」

 狙いを定め、指の間から生やしたチタンカーバイド製の刃を渾身の力で叩き込む。

「おおぉぉぉぉぉ――らァッッ!!」

 勢いよく突っ込んだ煙の先、刃先が何か硬いものに触れた。

 瞬間、ガラスが砕けるような音と衝撃が俺達を中心とした周辺一円に走る。

 そして地獄の犬であったそれは、逆巻く突風と共に消え失せた。

 直後、騒がしい音がなだれ込んで来くる。スラム街でも繰り広げられているハロウィンのお祭り騒ぎの音だった。

 どうやら脅威は去ったらしい。ほっとするのも束の間、

「っ、だぁッ!?」

 咄嗟に受け身の体勢をとったものの、勢いが強すぎた。地面との正面衝突は辛うじて避けたが、俺はパラシュート降下で失敗したときのようにゴロゴロと地面を転がり、最初の地点から数メートル先にあるゴミ箱へぶつかる形で停止した。

「痛ってぇ……」

 衝撃を殺しきれず右肩を脱臼したようで、激痛がはしる。が、呻いている暇はない。

 全身のバネを使って飛び起きる。

 右肩どころか左腕も曲がってはいけない方向に曲がっていたが、見なかったことにして上空へと目を向けた。

 暗い夜空を穿つかのような小さな白い点――長い銀髪と羽織っている白衣が強い風に煽られてはためいている。ついでに言うと、特殊迷彩は機能を果たしておらず、周辺の照明やネオンを乱反射してミラーボールのようになっていた。

「――――ぃゃぁぁあああっっ!?」

 ドップラー効果を伴った悲鳴が戻ってくる。

「レナード、受け止めてぇぇーーー!!」

 再び地を蹴って距離を詰める。その頃には肩と腕は治っていた。

 少女が車に牽かれたカエルのような無残な姿になる寸前、伸ばした両腕でキャッチする。だが、衝撃が大きすぎた。受け止めきれない。

 俺は咄嗟に体勢を変えて、スライディングする形で自分の体をリュシエルの下に潜り込ませた。

「ぅぐぇっ!!」

 すさまじい衝撃に、一瞬意識が遠退く。多分、内臓が潰れたような気がする。

 普通なら死んでいるところだが、やはり俺は生きていた。

 何が何だかわからなさすぎる。

 俺はもう考えることを放棄した。

「やった! やったわよレナード! 〝あの子〟、尻尾を巻いて逃げていったわ!」

 そうかそうか、そいつは良かった。俺は荒い息をつきながら、半ば意識を失った状態で適当に相槌を返す。

 いろいろ一度に起こりすぎて疲れていた。できれば静かに眠らせてほしいんだがと思う俺の心情などやっぱり無視をして、リュシエルは俺の首にしっかり抱き着いてはしゃぎ、離れない。それどころか、突然大人しくしたかと思うと、妙な具合にもじもじしだした。

「ねぇレナード。私、まだお腹が空いてるんだけど……」

 俺に覆い被さったリュシエルの顏に、少女とは思えぬ妖艶さが浮かぶ。

「あなたの血、もうちょっと貰ってもいい?」


 通路の近くで車が急ブレーキをかける音が響いた。

 運転していた者が慌ただしく降り、こちらの方へと駆けて来る。

「レナード! おい、レナード、生きてるか!?」

 聞き覚えのある男の声――アレックスだ。俺達が合流地点に来ないのと、通信が途切れたため、探しに来てくれたらしい。

 アレックスが持つマグライトの眩しい光が、俺と、その上に跨ったリュシエルを照らし出す。

「あ、ごめん。そういうプレイ中だった?」

「んなわけあるか!!」

 跳ね起きて大声を出した俺は、脳天を貫くような激痛に脳天を貫かれ、今度こそ本当にブラックアウトした。

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