無し

三鹿ショート

無し

 私には、自分というものがまるで無かった。

 何事に対しても興味も関心も無く、他者が何かに夢中になっていることの意味が分からなかった。

 喜怒哀楽を示す状況も不明だったために、両親は私の笑顔や泣き顔を見たことは一度も無いだろう。

 だが、学校という場所に通っているうちに、私は学習した。

 感情を示すことが無い私のような人間は気味悪がられ、孤独と化すのである。

 私はそのような状況を何とも思っていなかったが、孤独というものは、生きていく上では何かと不便だということを知った。

 ゆえに、私は他者がどのような状況でどのような感情を示すのかを学び、それを実行に移していった。

 幸いにも、私は口数が少ない人間として認識されているらしく、周囲と同じような感情を示すことで、孤独を回避することができるようになった。

 生命活動が終了するまで私の学習は続くのだろうと考えていたが、

「あなたほどの空虚な笑顔は、見たことがありません」

 突如として告げられた言葉に、思わず浮かべていた笑顔を消してしまった。

 しかし、即座に笑みを浮かべると、

「何を言っている。笑いたいから笑っているのだ」

「正しくは、笑うべき状況であるから笑っているのでしょう」

 私に中身が無いことを指摘した人間は、彼女が初めてだった。

 これが驚きというものなのだろうかと思いながら、私は彼女に問うた。

「何故、そのように考えたのか」

 彼女は真っ直ぐに私を見つめながら、

「興味や関心を持って、あなたのことを見ていたからです。表面上の付き合いならば見逃すでしょうが、注視すれば分かることです」

 何故、彼女が私に対して関心を持ったのかなど、どうでも良いことである。

 誰に好かれ、誰に嫌われようとも、私の人生に大きな影響は無いのだ。

 同時に、彼女に私の真の姿を知られたところで、彼女がそのことを吹聴するような人間ではないために、わざわざ口を封ずる必要も無かった。

 だが、離れていく彼女の背中を目で追っていたことを考えると、私もまた、彼女に関心を抱いたということなのだろう。

 それは、好意などというものではない。

 たまたま目に入った動植物に意識が向いたという程度のことだった。


***


 彼女を前にすると、私は演ずることを止めるようになった。

 何をしたところで無駄だということを理解しているためである。

 彼女もまた、そのことをわざわざ指摘することもなく、我々はたわいない会話を繰り返すのみだった。

 彼女との時間には、一体どのような意味が存在しているのだろうか。

 常に他者の様子を窺いながら己の反応を決めていくという生活を続けていた私にとって、貴重ともいえる無為なる時間なのだが、もしかすると、彼女は私に気を遣ってくれているのだろうか。

 そのことを問うたところ、彼女は首を横に振った。

「生きるということは、常に様々なものに反応していくということです。ゆえに、知らない間に疲労が蓄積されてしまうのです。ですが、あなたとの時間には、余計なことを考える必要が無い。これは、息抜きのようなものです」

 彼女は私とは異なり、自分というものを持っているらしいが、他者と関わることによって疲労するということにおいては、私と何の違いも無いようだ。

 私や彼女は、互いに対して感謝の言葉を吐くわけでもなく、無駄ともいえる時間を過ごし続けた。

 その関係は、学生という身分を失うと同時に消失したが、私が彼女の存在を忘れることはなかった。


***


 学生時代と比較すると、仕事というものは良い。

 他者に気を遣うこともなく、黙々と働くだけで金銭を得ることができるのだ。

 そう考えると、私はどれだけ自身を苦しめていたのだろうか。

 過去の自分は、愚か以外の何物でもなかった。

 しかし、彼女との時間だけは、否定することができなかった。

 自分でも、それは不思議だった。


***


 彼女がこの世から去ったということを知り、葬儀に参列することにした。

 耳に入ってきた他者の会話から、どうやら過労死が原因らしかった。

 私が彼女との関係を続けていれば、彼女は愚痴を吐き、多少は精神的な回復をすることが出来、この世を去ることを避けられたのだろうか。

 そのような疑問を抱くが、既に終わってしまった生命については、どうすることもできない。

 周囲に目を向けると、私がその存在を知ることが無かった友人などが、涙を流している。

 私もまた、彼女のためにそうするべきなのだろうが、悲しいわけではないにも関わらず泣くべきなのだろうか。

 そのようなことをすれば、彼女から再び指摘されてしまうことになるだろう。

 だが、彼女が私にそのようなことをすることはない。

 存在していたものが消えたことを改めて認識し、そこで私が抱くべきものは寂寥感なのだろうが、私の肉体や精神に特段の変化は無かった。

 人間として持つべき機能が何も無い私が生きている理由は、存在していないのではないか。

 涙を流す他者を眺めながら、私はそのようなことを考えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無し 三鹿ショート @mijikashort

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ