第33話 泣くほどに好きだったのでしょう

 

「何てことを……」


 こんな時ばかりは、予想が当たらなければ良かったと思ってしまう。


(ここまで最低の人間を、見たことがないわ)


 しかし、今のヴァイオレットにはダッサムに対する怒りよりも、ぼろぼろと涙を流し始めたマナカへの心配が勝った。


「そんな……っ、だってダッサム様は、私がこの世界に来てから誰よりも優しくしてくれて、好きだって……っ、妻にしたいって……っ、うっ……私、嬉しかった、のに……っ」


 嗚咽を漏らしながら言葉を紡ぐマナカは、両手で顔を覆うようにして肩を震わせている。


 おそらく、今の発言や涙する姿からして、マナカのダッサムへの好意は本当なのだろう。だとしたら、こんなに辛いことはない。


(マナカ様……)


 せめて慰めの言葉をかけてあげたいと思うものの、今マナカに言えることはあるだろうか。自分の立場で何を言っても、マナカの心を抉るだけだろうか。


 ああ、なんて自分は無力なのだろう。


 ヴァイオレットがそんなことを思う中で、ダッサムはけろりとした様子で口を開いた。


「おいおいマナカ泣くことはないだろう? 少しでも私に愛される夢を見られたんだ。むしろ幸せ者だぞ?」

「……っ、ダッサム殿下!! 貴方には傷付いているマナカ様が見えていらっしゃらないのですか!? 今の彼女のどこが幸せだと言うのです!」

「あーー煩い煩い!! マナカが今不幸せだというなら、それは全てヴァイオレットのせいだ!! 貴様が私に一切指図することなく、黙って仕事だけをしていれば婚約破棄をしなかったものを!! 」


 怒りで我を忘れたかのように、ダッサムは唾を飛ばしながら、捲し立てて続ける。


「貴様が私に口答えばかりするから、私は他の者を妻にしようと思った! そんなときに、マナカが異世界からやってきた……! この世界や国のことに無知な上、聖女としての力を持っていて、馬鹿で言いなりになりそうなこいつは私が王になった際、隣に置くのに丁度いいと思ったのだ! だから優しくしてやった! ヴァイオレットのような偉そうな女にしないために勉強をするなと言った! だが……! 今は状況が変わったのだ! マナカのような聖女の力しかないような女では、私の隣は相応しくないんだよ!!」


 全てはダッサムが無能なせいだというのに。突然異世界に来たマナカにとって、ダッサムという存在は心の拠り所だったろうに。


 それさえも分からないのか。マナカの涙を見て、申し訳ないと思わないのか。ダッサムには、人を慈しむような感情は備わっていないのだろうか。


(何て、可哀想な人)


 王になるべく育てられたのだ、多少高慢だったり、我儘だったりするのは理解できる。

 だが、ダッサムの思考は、理念は、明らかに逸脱して、許容できるものではなかった。


「……うっ、うぁっ、酷いで、す……わ、たし、本当に……ダッサムさ、まのこと、好きだった、のに……っ」


 ──何にせよ、ダッサムがマナカを深く傷つけたことは、到底許されることではない。


 過去にヴァイオレットを傷つけ続けてきたことも、愚かな行いでシュヴァリエを危険な目に遭わせたことも、何もかも、許せないし、きっと、許してはいけないのだ。だから──。


「だが私は優しい! ヴァイオレット! 私には貴様が必要なのだ! 貴様の過去の行いは全て水に流してやるから、私のもとで死ぬまで働け! その権利をお前に──」


 その瞬間、ヴァイオレットはゆっくりと立ち上がる。艷やかな蜂蜜色の髪を耳にかけてから、息を吸い込んだ。


「貴方の妻になるくらいなら死んだほうがマシですわ。寝言は……寝て仰ってくださいまし」


 蜂蜜色の瞳でダッサムの濁りきった瞳を見つめてそう言えば、ダッサムの顔は血管が切れそうな程に真っ赤に染まる。


 そして、ダッサムは「何をぉぉぉぉ!! ヴァイオレットァァァ!!」と叫ぶと、テーブルを乗り越え、ヴァイオレットの胸元に向かって腕を伸ばしたのだった。


「……! きゃあっ」

「ヴァイオレット……!!!!」


 しかし、ダッサムの手がヴァイオレットに届くことはなかった。


 その寸前にシュヴァリエがダッサムの手を思い切り掴むと、持てる力を全て使ってダッサムをテーブルの上に押さえ込んだからである。


 シュヴァリエはダッサムに体重をかけて絶対に逃さないように腕を拘束すれば、獣のような眼差しで彼を睨みつけた。


「もう限界だ……! 戯言を並べるだけならまだしも、ヴァイオレットに手を出そうとするならば殺すぞ……!!」

「ヒィィィ……!! ゴホゴホゴホッ……!!」

「……っ、シュヴァリエ様! あまり体重をかけすぎてはいけません!! 圧死してしまいます! ダッサム殿下を殺せば、シュヴァリエ様が……っ! ですからどうか……!」


 ダッサムのことは正直どうなってもいいが、シュヴァリエが罪を被るのは嫌だ。

 そんな思いからヴァイオレットがそう言うと、シュヴァリエは渋々ダッサムが動けない程度に拘束を緩める。


 ヴァイオレットはホッと胸を撫で下ろし、シュヴァリエに礼を伝えると、そのときだった。


「私にこんなことをして、許されると思っているのか!!!!」

「「…………!?」」


 流石にこの状況なら、ダッサムはもう先程のような暴君な発言はしないだろう。

 そう思っていたヴァイオレットとシュヴァリエは彼の発言に驚いて、目を合わせる。


 ──そして。


「ヴァイオレット!! 貴様が私のもとに戻ってこないというならば私にも考えがある!! マナカの力を使って……リーガル帝国に集団魔力酔いを起こしてやる!!」

「「……っ!?」」


 ダッサムの発言、それは、民を統べる者とは思えないものだ。


 自身の意思を通すためだけに、リーガル帝国の一部の民を危険な目に──死に追いやろうなどと、まともな頭では到底口には出来ないことを、サラリと言ってのけるだなんて──。


「分かるか!? ヴァイオレットが私のもとに来ないせいで大勢の民が死ぬんだ!! お前はそれで良いのか!?」


 ダッサムはそう言うと、シュヴァリエにテーブルに押さえつけられている中で、マナカに視線を寄せた。


「おいマナカ!! この世界に来てから一番お前に優しくしてくれたのは誰だ!? 私だろう!? 私の言うことに従うよな!?」

「………………っ」


 マナカは号泣しながらも、頷くことも、魔法を使う素振りを見せることもしない。

 そんなマナカに苛立ったのか、ダッサムは再びマナカに怒号を浴びせた。


「マナカ!! 言うことを聞かないとまた殴るぞ!! 良いのか!!」 


 ダッサムの発言と、そして大きく肩をビクつかせるマナカを見て、ヴァイオレットは奥歯を噛み締めた。


(まさか、マナカ様に暴力まで……っ)


 ダッサムが人の上に立つような器でないことは、幼い頃から分かっていた。だからこそ、自分が支えるのだと、少しくらいは彼を改心させられないかと幾度となく頑張ってきたけれど。


 目を血走らせ、集団の魔力酔いを起こしてやると脅すダッサムは、マナカにそれを強要する彼は、もう──。


(それならば、せめて彼女だけは……)


 ヴァイオレットはダッサムが押さえ込まれているテーブルを避けて、マナカのもとまで向かうと、床に膝を突いて彼女を見上げた。


「マナカ様、貴女をこんなに辛い目に遭わせて、本当にごめんなさい。元ハイアール王国の国民だった者として、ダンズライト公爵家の者として、ダッサム殿下の暴走を止められなかった者として、心から謝罪します」

「……そんな、ヴァイオレット、さま……」


 ヴァイオレットはマナカの手を両手でギュッと包み込む。


 そうして、清々しいほどの凛とした表情で、こう言った。


「あんな人間の皮を被った悪魔のために、貴女が悪事に手を染める必要はありませんわ」

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