第10話 オフィーリアに近付くことは許しません

  

「シュヴァリエ、様……っ」


 恐怖で震える中に、どこか希望を孕んだ声で、ヴァイオレットはシュヴァリエの名を呼ぶ。


 すると、シュヴァリエは鋭い目つきから一転して、心配そうにヴァイオレットを見つめ返した。


「ヴァイオレット、来るのが遅くなってすまなかった。怪我はないか?」

「は、はい……シュヴァリエ様が来てくださいましたので……」

「……そうか。間に合って良かった。もしヴァイオレットに何かあったら、俺はこのままこいつの首をへし折らないといけなくなるところだった」

「えっ」


(シュヴァリエ様、とてつもなく恐ろしいことをさらっと言ったような……?)


 空気はまだ重たいのに、まるでお腹が空いた、くらいの感じでそんなことを言うものだから、そのちぐはぐさが余計に恐ろしい。


 そう感じたのはどうやらヴァイオレットだけではないようで。


「うっ……! いぎがぁ……!! はなぜぇ……! はなして、くだざぁ……ぃ!!」


 恐怖で顔を真っ青にして、前襟を掴むダッサ厶。かなり高身長のシュヴァリエに首根っこを掴まれているため、体勢はやや反り腰となり、床には爪先しかついていない。


 おそらく今のダッサムは息が少ししづらくて喉の締付けが痛いだけなのだろうが、今までこんな目に遭ったこともないから死を身近に感じているのだろう。


 ダッサ厶の、シュヴァリエに対して懇願するような顔を目にし、声を耳にしたヴァイオレットは、一度大きく息を吐きだしてから、シュヴァリエに対して大きく口を開いた。


「シュヴァリエ様……! このままではダッサ厶殿下が死んでしまうやもしれません! 私は大丈夫ですから、彼から手を離してください……!」

「……。だが、こいつはさっきヴァイオレットに掴みかかろうとした。俺の──未来の妻にだ。その結果苦しんでも、自業自得じゃないのか」

「それでも……! 私は薬師でもあります! わざわざ人が苦しむところは見たくありません……! ですからシュヴァリエ様……っ」


 ヴァイオレットは眉尻を下げて、縋るような声を吐き出した。


「お願い致します……シュヴァリエ様……っ」

「…………。分かった」


 シュヴァリエは渋々とヴァイオレットの頼みを聞くと、ダッサムの首根っこを掴んでいた手をパッと離す。


 すると、突然のことに驚いたのか、「うびょぇあ!?」という聞くに堪えないような奇声を発したダッサムは、その場にドシンと尻餅をついたのだった。


「ヴァイオレット……!!」


 その瞬間、シュヴァリエはダッサ厶の存在を忘れたかのようにヴァイオレットに駆け寄る。

 空気を読んでヴァイオレットから離れた彼女の母に会釈したシュヴァリエは、力いっぱいヴァイオレットを抱き締めた。


「シュ、シュヴァリエ様……っ!?」

「ああ……心配した。本当に指一本触れられていないか?」

「え、ええ。大丈夫ですわ」


 彼の大きな手に優しく撫でられて、無意識に強張っていた体の緊張が解けていく気がする。

 ヴァイオレットはシュヴァリエの背中に腕を回すことは無かったけれど、その代わりに彼に身を預け、何度もありがとうございますと囁いた。


 それから一切離す気がなさそうなシュヴァリエに、ヴァイオレットは流石に恥ずかしくなって、「あの……」と声をかけると、それでようやく彼の腕が解かれた。


 二人の間には隙間ができ、ヴァイオレットは紅潮した頬のままで彼の顔をじっと見つめれば、シュヴァリエはふっと頬を綻ばせた。


「……顔が赤くなっているな。もしかして、俺が力一杯抱き締めたから、苦しかったのだろうか?」

「い、いえ、決してそういうわけではありませんから、ご心配には及びませんわ」

「……そうか。それなら良いんだが……」


 安堵しつつシュヴァリエが、今度はヴァイオレットの両親やエリックに大丈夫かと問いかける。家族が皆頷けば、遅くなってすまないと謝罪をした。


 ヴァイオレットの家族の無事も確認できれば、次はダッサムのことだと、シュヴァリエはヴァイオレットたちに向けるのとは全く違う刺すような目つきで、ダッサムを見下ろした、そのとき。


「あっ、倒れましたわ……」


 そう、呟いたヴァイオレットの視線の先にいるのは、尻もちをついていた姿勢から、背後にバタンと倒れたダッサムだった。


「……チッ、気絶しているのか。都合のいい奴め」


 余程怖かったのだろう、口から泡を吹いて倒れているダッサムを見下ろすシュヴァリエは、吐き捨てるようにそう呟く。


(殿下……なんというか……本当に情けないわ……)


 シュヴァリエがいるからなのか、先程までダッサムに抱いた恐怖は一切ない。


 ヴァイオレットは、倒れているダッサムに駆け寄って、彼の様子をじっと見つめた。


「ヴァイオレット、こんな奴は放っておけば……」

「ただの気絶ならば放置で構いませんが、一応……薬師ですので。薬が必要かどうかくらいは見ておかないと、と」

「……真面目で、本当に優しい女性だな、貴女は」


 それからヴァイオレットは軽くダッサムの様子を観察し、彼に薬が必要ないことを確認すると、シュヴァリエから「こんな奴から直ぐに離れろ」と腕を引かれたのだが。


(シュヴァリエ様……どうしてそんなお顔を……)


 そのときのシュヴァリエが何故不安そうな顔をしているのかは、ヴァイオレットには分からなかった。

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