第8話 耳を塞いで何を言ったのでしょう
というのも、ゆっくり立ち上がったシュヴァリエがヴァイオレットの背後に回り、突然後ろから彼女の両耳を塞いだからだ。
驚きのあまりヴァイオレットは身体を大きくビクつかせて、目を見開いた。
「あのっ、シュヴァリエ皇帝陛下、何を……っ」
耳を塞がれているせいだろう。自身の声が少し反響しているように聞こえて、違和感を覚える。
その違和感を取り払いたい。そしてシュヴァリエの行為に理解が出来ず、ヴァイオレットはやめてほしいと伝えるために振り向こうとするのだが。
(なっ、なんて強い力……! 動けないわ……!)
シュヴァリエは現在皇帝だが、皇太子だった頃は軍に所属していたときもあり、剣術は鋭く、腕っぷしはかなり強いという話をヴァイオレットは聞いたことがあった。
確かに、服の上からでも分かるくらいには鍛えられた肉体をしているし、首筋や手を見るだけでも、余計な脂肪が殆どついていないことが分かる。
そんなシュヴァリエに側頭部を押さえるようにして耳を塞がれたのだ。体力には自信があったが、一般的な令嬢と大差ない力しか持たないヴァイオレットに、彼の力に抗う術はなかった。
そんなヴァイオレットは、周りの声が遮断された状態で前を見ることしか出来ず、対面に座る両親と弟を観察することで、少しでも事態を把握しようとしたのだけれど。
「えっ……?」
みるみるうちに目をキラキラとさせる両親とエリック。
いつも頼りになる父は見たことがないくらいにニヤニヤした表情をしており、母は体が弱いことを忘れたのかというくらいに興奮し、熱る頬をバッサバサと扇子で扇いでいる。
エリックといえば、ヴァイオレットを見ながらウインクして何かを言っているようだ。ヴァイオレットは、エリックの口の動きから、何を言っているのかを読み取ることができた。
(ん……? “良かったね”? 何が? ……何で?)
おそらく今シュヴァリエは、ヴァイオレットが彼の妻になるその理由を話しているはず。
だというのに、家族の反応といえば悲しむどころか、明らかに喜んでいるように見え、ヴァイオレットは意味が分からないと言いたげに、僅かに眉を歪めた。
(シュヴァリエ皇帝陛下は、どのように説明していますの……? まさか都合のいい嘘を……? ……いえ、それはないわね)
一瞬、シュヴァリエに対して疑いを持ったヴァイオレットだったけれど、そんなはずはないと結論を出した。
(だってシュヴァリエ皇帝陛下は私の立場を
シュヴァリエは人のことを思いやれて、優しい人間だ。
加えてヴァイオレットは、今まで社交界で会った際に、彼の真面目さや誠実さも目にしている。
そんなシュヴァリエが、ヴァイオレットの家族に嘘を言うはずなんてない。
(とはいえ、家族の反応は未だに疑問だけれど……)
けれど、今はシュヴァリエを信じよう。ヴァイオレットはそう胸に決めて、シュヴァリエが両耳から手を離してくれるのを大人しく待った。
それからヴァイオレットの体感で三分経った頃だろうか。
両耳から手を離したシュヴァリエが「突然すまなかった」と言って、再び隣の席に腰を下ろしたので、ヴァイオレットは「大丈夫ですわ」と答えて彼と家族の様子を交互に見た。
すると、先程よりも砕けた様子で会話するシュヴァリエと家族たち。身内になるのだから仲が良くなるのはとても良いことなのだが、ヴァイオレットの中で、疑念ではなく好奇心が沸々と湧いてくる。
(シュヴァリエ皇帝陛下のことは信じてはいますけれど……やはり気になるものは気になりますわね。私の耳を塞いでいる最中、皇帝陛下はどのように仰ったのでしょう。……しれっと聞いてみましょうか)
おそらく、尋ねるだけならば不敬にならないだろう。
そのように考えたヴァイオレットは、妃教育で鍛えられた相手の警戒心を崩す穏やかな笑みを浮かべて、シュヴァリエに問いかけた。
「シュヴァリエ皇帝陛下、先程は両親やエリックと、どのような話をされていたのですか?」
ヴァイオレットの問いに、シュヴァリエは一瞬顎に手をやって考える素振りを見せると、ふっと笑みを浮かべた。
そんなシュヴァリエに、ついヴァイオレットは見惚れてしまう。
(前から思っていたけれど、シュヴァリエ皇帝陛下って整った顔をしていらっしゃるわよね……格好良い……)
レッドブラウンのやや長い前髪から覗く、きりりとした碧の瞳。鼻筋は通り、口はやや大きめだろうか。
男性的な顎のラインに、太い首、肩幅もしっかりとあって、身長なんてヴァイオレットと比べたら頭一つ分どころの差ではない。
手には血管が浮き出ていて、爪は男らしい形をしている。
ヴァイオレットはややうっとりとした表情でシュヴァリエの全身を見つめれば、彼の手が自身の耳にそっと伸びてきたことに驚いた。
どうやら、横髪を耳にかけてくれているらしい。
「俺が触れたせいで髪の毛が乱れてしまっていたようだ。すまないな、ヴァイオレット嬢──いや、言っている間に夫婦になるのだから、ヴァイオレット、と呼んでも?」
「は、はい。それはもちろん構いませんが……」
「良かった。俺のことはシュヴァリエと呼んでくれ」
「えっ、その……シュ、シュヴァリエ様……?」
動揺しながらも、彼から促されるようにそう呼ぶと。
「……ああ。ヴァイオレットにそう呼ばれると、嬉しくて顔がニヤけてしまうな」
「……っ」
あんまりにも幸せそうに頬を綻ばせ、シュヴァリエがそう言うものだから。
質問に答えてもらっていないことを指摘することも忘れて、ヴァイオレットは彼につられて赤くなった頬を隠すように、そっと俯いた。
それからは、ヴァイオレットとシュヴァリエが結婚するにあたっての書類関係の話や、いつ帝国へと嫁ぐか、その他の細かいことについて話し合った。
余程機嫌が良いのか、話の最中に何度も「ヴァイオレット」と名を呼んで、愛おしそうにこちらを向くシュヴァリエに、ヴァイオレットは戸惑いを隠せなかった。
(……けれど、眉間にシワを寄せて、高圧的に呼ばれるよりもよっぽど良いわ)
元婚約者ダッサムのことをほんの少しだけ思い出したヴァイオレットは、今はもうただの他人なのだからと彼のことは頭から消し去る。
きっとリーガル帝国に嫁げば、ダッサムのことなんて思い出すこともなくなるだろうと、そう思っていたというのに。
◇◇◇
「おいヴァイオレット! 貴様……良いご身分だな!」
──リーガル帝国に発つ日。
まさかダッサムが公爵邸に押しかけてくるだなんて。
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