第5話 初めての接吻は強制的に結婚なのです
「ふっ……ヴァイオレット嬢、大丈夫か? 突然のことで驚くのは分かるが、少し落ち着くと良い」
シュヴァリエから求婚されて、壊れたおもちゃのように「妻」という言葉を連呼したヴァイオレットだったが、彼に話しかけられたことでハッと意識が現実に戻る。
いつの間にか立ち上がり、こちらを優しげな瞳で見下ろすシュヴァリエは、ヴァイオレットに対してゆっくりと頭を下げた。
「本当に済まないな、突然。しかも、こんなに人前で……婚約解消の話をしていた矢先に、求婚だなんて」
「……っ、あの、その……失礼なのですが、冗談、などでは……」
「悪いが一切冗談ではないよ。俺は本気でヴァイオレット嬢──貴女を妻にしたいと思っている」
「……っ、ほ、ほんき……で……妻、に……」
シュヴァリエは再びヴァイオレットの手を取ると、その手の甲に優しく口付けを落とす。
そして上目遣いをして、聞き心地の良い低い声で囁いた。
「……そう。俺は本気だ。どうか、俺の求婚を受け入れてくれないだろうか」
「で、ですが、私は……ダッサム殿下から婚約破棄されたばかりの身で……」
シュヴァリエの求婚には驚いたものの、決して嫌ではなかった。
むしろ、ダッサムとは違って、常に皇帝としての佇まいを崩すことなく、国や民のために身を粉にして働いているシュヴァリエのことは以前から尊敬していたので、求婚されたことは嬉しかった。
能力を認めてくれたり、褒めてくれたことも嬉しかったし、ダッサムと婚約を解消してもいずれ誰かの元に嫁ぐのならば、こんな素敵な人なら良いのにと感じたほどだ。
(けれど……いくら婚約解消の書類をこちらが準備したって、こんなに大勢の前で婚約破棄と言われてしまった私は、社交界で傷物扱いされてしまうわ。きっとシュヴァリエ皇帝陛下の汚点になってしまう。……それは、いけないわ)
だから、ヴァイオレットは本心を隠して、シュヴァリエからの求婚を断ろうと思ったのだけれど。
「シュヴァリエ皇帝陛下! ご無事で何よりでした! いやー! 良かった! しかし、こんな傷物女に求婚などと、まだ体調は全快ではないのでは?」
マナカの肩を抱き、ヴァイオレットたちの近くへいそいそとやってきたダッサムは、シュヴァリエに謝罪の一つもすることなく、ヴァイオレットを蔑むようなことを平気で言ってのけた。
「……っ、ダッサム殿下! 私のことは何と仰っても構いませんが、まずは正式に謝罪するのが最低限の礼儀ではありませんか!? いくら何でもシュヴァリエ皇帝陛下に失礼ですわ! 命が危なかったんですよ!?」
「煩いぞヴァイオレット! 私は魔力酔い? なんてことは知らなかったのだ! 知らなかったのだから仕方がないだろうが!! それに貴様の変な薬で助かったんだろう? もうそれで良いではないか!」
「……っ、ですから……! それではいけないのです……!」
ダッサムの暴走をマナカは止める気はないのか、ダッサムを愛おしそうに見つめるだけで、諌めることもしない。
ダッサムとマナカでこの国の未来は大丈夫なのだろうかとヴァイオレットは不安に思いつつ、今はシュヴァリエへの非礼をどうにかしなければと、彼に向かって力いっぱい頭を下げた。
「本当に申し訳ございません……! シュヴァリエ皇帝陛下……! 此度の件……全ては我が国側の責任でございます」
「……いや、ヴァイオレット嬢は謝る必要はないよ。むしろ、貴女は俺の命の恩人だからね。……だが、ダッサム殿下、少し良いか」
──その瞬間、地を這うようなシュヴァリエの低い声で名前を呼ばれたダッサムはビビって体を縮こませる。
直後、何も怖がっていませんよ、というようにふんぞり返ったような体勢でシュヴァリエに向かい合ったダッサムに、ヴァイオレットは頭が痛くなった。
「……俺は貴殿と、新たな婚約者のマナカ殿には酷く怒りを感じている。後で貴殿たちのことは正式に抗議させてもらうから、そのつもりでいてくれ」
「……!? シュヴァリエ皇帝陛下! それはやめていただけませんか!? あっ、そうだ! 魔力酔い? については謝罪しますから、どうか今日のことは私の両親にはご内密に……!」
ヘコヘコと謝り出したダッサムに、シュヴァリエは大きなため息を漏らした。
「……ハァ。こんなに大勢の前で起きたことを、何をどう内密にするか逆に教えてほしいくらいだが、まあそれは良い。それに、どうせ謝るのならばヴァイオレット嬢に諌められたときに素直に従えば良いものを、今更……呆れたものだ。ああ、それと、俺が怒っているのは私が魔力酔いを起こしたことだけではない」
「と、言いますと……?」
ヴァイオレットも疑問に思いシュヴァリエに視線を寄せれば、彼はヴァイオレットに一瞥をくれてから、口を開いた。
「ヴァイオレット嬢を大勢の前で罵り、恥をかかせたこと。証拠もないような罪を言い立てて、彼女を傷つけたことだ」
怒りを孕んだ声色でヴァイオレットが傷つけられたことに腹を立てていると話すシュヴァリエ。
ヴァイオレットは一瞬鼻の奥がツンとしたけれど、毅然とした態度でいなければと必死に堪えた。
「……そ、それは……! ヴァイオレットが悪くて、それに、マナカは嫌がらせを──」
「ヴァイオレット嬢の婚約者だったはずの貴殿は、一体彼女の何を見てきたんだか。国のため、民のため、身を粉にしてきた彼女が、国の発展や平和に繋がる聖女殿に嫌がらせをするわけないだろう。……ハァ。まあ、貴殿には何を言っても無駄だろうから、ハイアール国王陛下にしっかりと話をつけさせてもらう。……覚悟しておけよ」
「……っ、そ、そんなっ!!」
それからダッサムは、すっかり大人しくなり、マナカに支えられながら、逃げるようにして会場を出ていった。
余程シュヴァリエが怖かったのだろうか。それとも、両親──現国王と妃に此度の件を抗議され、何かしらの処罰を受けることに絶望したのか。
それとも、とある令嬢がダッサムに向けて言った「ダッサ……」という言葉が聞こえ、あまりにも恥ずかしかったからだろうか。
(まあ、最後の最後に私を睨みつけるところだけは、相変わらずですが)
どうせこのパーティーで起こったことは、全てヴァイオレットが悪いのだと思っているに違いない。
ヴァイオレットが婚約破棄された事実を悲しめば、ダッサムに縋れば、マナカに聖女の力を使わせることもなく、こんな大事には至らなかったと考えているのだろう。
長年ダッサムと婚約者だったヴァイオレットには、彼の考えが手に取るように分かった。
(これを機に少しはご自身の軽率な言動を改め、反省し、良き王となるため努力してくださったら良いのだけれど……。どうかしら)
ダッサムが出て行った扉を眺めながら元婚約者について思考を巡らせていたヴァイオレット。
背後から穏やかな低い声で「ヴァイオレット嬢」と、名前を呼ばれたので、くるりと振り向き、その声の主に再び頭を下げた。
「シュヴァリエ皇帝陛下……改めて、この度は危険な目に遭わせてしまい、そして不快なものまでお見せしてしまって、本当に申し訳ありません」
「……何度でも言うが、貴方が謝る必要はないよ。それと、さっき出て行ったクソ男──失礼、あの者たちの話は一旦やめにして、俺との未来について考えてほしいのだが」
「……っ! み、未来……っ」
(って、待って? ダッサム殿下のことクソ男って言った?)
シュヴァリエの突然の汚い言葉にヴァイオレットは驚いたものの、もしかしたら聞き間違い、もしくは彼の言い間違いだろうと、深く詮索することはなかった。
「その、先程の求婚の件なのですが……」
それからヴァイオレットは、素早く頭を切り替えて、先程の彼の問に答えようと口を開く。
自身の感情はどうあれ、婚約破棄された自分が皇帝の妻になるのはシュヴァリエにとって良くないだろうと、断ろうとした、その時だった。
シュヴァリエはヴァイオレットの耳元に顔を寄せて、囁いた。
「どうか断らないでくれ。貴女を妻にしたいのには、もう一つ大きな理由──事情があってな」
「事情……?」
「ああ。実は我がリーガル帝国には、皇帝の地位を継いだ者が妻を娶る際、ある決まりがあるんだ」
「…………! 決まりですか?」
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