『あたし』と『仕事』どっちが大事なの!?と彼に聞いてみたら、『あたし』を選んでくれたものの、次の日に仕事を辞めて帰ってきた件について。


「――あたしと仕事、どっちが大事なの!?」


 夜中の十二時を回っていた。

 風呂上りの男が、既に寝ているであろう(と思う)恋人と共有している寝室に入ると、なぜか彼女はベッドの上で正座をして待っており――ただならぬ気配を感じて身構えた瞬間、飛んできたセリフがこれだった。


 飛びかかってこなかっただけマシだが……、しかしセリフと勢いは飛びかかってきたようなものだった――どちらが大事か。そんなもの、二択にするまでもなく、答えは一つしかない。


「それはもちろん、君に決まっているじゃないか……、君より大切なものなんかないさ」


「なら、あたしのことをちゃんと見てよ。箱の中に入れたまま、使わないで保管していることが、大切にしているってことにはならないからね? あたしは人間だよ……そしてあなたの恋人でもある。仕事が忙しいのは分かるけど! それはもちろんお疲れ様なんだけど! でも、こうもすれ違い続けていると、なんのために一緒に暮らしているのか分からないよ……ッ!」


「う……ごめん」


「謝らないで。わがままを言ってる自覚はあるし、仕事ばかりで平日はろくに顔も合わせられない、休日は疲れて眠るばかり……会話も最小限しかできなくて――必要最低限のことで終わってしまう。こんなの嫌よ……っ、お願いだからもっとっ、ちゃんとっ、あたしを見て! 構って! 仕事よりもあたしを選んでっっ!!」


 彼女の伸びた両手が、彼の腕を掴む。


「……分かったよ。僕も、仕事に熱を入れ過ぎていたみたいだ。君のために仕事をしているのに、君を蔑ろにしていたら意味がないからね……ごめんね。明日からは、君の傍にいるから――」


「……うん、ありがと……。ほら、もう寝よ。疲れてるでしょ?」


 ぐっと腕を引かれ、ベッドに倒れる。彼女が抱きしめてくれたおかげか、彼は仕事のことを忘れて、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。




 翌朝。

 いつもの時間に目が覚め――、でもいつもとは違い、目が冴えている。

 気分も良い。

 モヤモヤが晴れたからかもしれない。


「ごめんね、昨日、約束したのに……いつも通りに仕事でさ」

「それは仕方ないよ。気持ちだけでも嬉しいから……がんばってね」


「うん――いってきます。午後には帰ってくるから!」

「え? ああ、うん……無理はしないようにね!」


 恋人を見送り、遅れて自分の朝食を用意する彼女は、ふと思い出した。


(午後には帰る……? 半休を取ってきてくれるのかな……ってことは、午後は久しぶりに二人でお出かけ――あ、もしかして、デート!?)


 と、期待はしながらも、しかし多忙な会社であることを知っているため、寸前で頓挫するかもしれない覚悟はしておきながら――それでも期待が上回っているらしく、無意識に鼻歌を歌いながら家事をしていた彼女だった。




「――ただいまっ」


「おかえり。……本当に午後に帰ってこれたんだね……多忙な会社なのに、よく半休も取れたね。上司や同僚に、色々と言われたんじゃないの?」


「ああ、かなり詰められたよ。根掘り葉掘り聞かれたし……でも、恋人を優先するから、と言って黙らせておいたから。僕の人生だし、あいつらが決めることじゃないよ……止められて、止まる理由が僕にはないからさ」


「す、すごいね……でも大丈夫? 明日から会社、いきづらくなるんじゃ……」


「ん? それは大丈夫だけど……だって――……勘違いしてるね。半休どころか、明日からずっと休みだよ? ほんと無理やりだけど、今日で会社を辞めてきた。昨日、約束したし、すぐに行動したかったからさ」


 ……辞めた?

 彼の言葉を、数秒、理解できなかったが……。


「はい? ……どういうこと?」


「だから……君が聞いたじゃないか。『あたし』と『仕事』、どっちが大事なの? ってさ。僕は君の方が大事だ。だから仕事を切り捨てた。君との大切な時間を奪う邪魔な仕事はする必要がないと思ってね――これで、これからずっと一緒にいられるよ。どこへでも、何日でも、デートにいける。もうこれは旅行になるのかな? 必要最低限しかしない会話もこれまでだ。必要のない、でも楽しい会話を一日中していよう。君のために、君が笑っている姿を見たいんだから……そのためなら、これまで積み上げてきたキャリアなんて、ドブに捨ててやるさ――」


「ちょっと待って……え、理解できない――ほんとにちょっと待ってっ」

「うん、待つよ」


 宣言通り、しばらく待ってくれていた彼だ。


 彼女は、しばらく考えて、落ち着きを取り戻したらしい……それでも納得はできなかったらしいけれど。


「……仕事を辞めたのなら……お給料はどうなるの?」


「働いた分は貰えるよ。でも、その後のこととなれば、もちろんないよ。仕事をしていないでお金が手に入るなんて、それは怖いお金だ、使わない方がいい――まあ、これまで多忙だった分の貯金があるし、しばらくは大丈夫だと思うよ……一年、二年? くらい? まあ最悪、生活レベルを下げればいい……死ぬわけじゃないしね。さすがに野宿や路上生活は避けるけど、トイレと風呂共同のボロアパートに住むくらいは許容範囲だろう? 今よりは苦しい生活が続くだろうけど、君との時間は充分に確保できる――二人なら、苦しいことだって楽しくなってくるはずだよ」


「……なんで。――聞いてない! 仕事を辞めるなんて……そこまでは求めてないよ! 確かに、あたしと仕事のどっちが大切なのか聞いたけど……っ、そこで『あたし』と答えてくれるのは嬉しいし、正解だけど……でも! これは極端過ぎる! 仕事を辞めてっ、生活費を途切れさせるなんて……っ、あたしはただ、仕事にかける熱量を、少し抑えめにしてほしかっただけだったのにっっ!!」


「え、そうだったのか……でも、それは無理だよ。知っているじゃないか、僕は不器用で、別のことを並行して、同じ熱量ですることはできないって……――だからあの時、僕は君を選んだんだよ。半分ずつなんて、夢のまた夢さ。5対5は不可能。6対4は難しい。7対3は手こずるし、8対2はもどかしい。だったらもういっそのこと――10対0だ。全てに全力投球。そうじゃないと、僕は僕らしく動けないんだ――」


「それは……分かってる、けどぉ……」


 実体験がある。


 彼の『一つ』にしか真剣に向き合えない性格は、恋人関係において一つの懸念点を排除できるが――、融通が利かないという欠点もある。

 それも含めて愛しているのは、今更、確認するまでもないことだが。


「大丈夫、なんとかなるさ。君のお願いなら、仕事に全力投球することもできる――その時にまた一気に稼いで、しばらく働いた後、また貯金を崩しながら君との密着生活をすればいいんだ。そういうサイクルを基本にしてしまえば、慣れで不安もなくなるだろう?」


「ね、ねえ……もしかしてだけど、あたしがわがままを言ったから怒ってたり……する? 会社を辞めたのはドッキリで、半休を使って午後に帰ってきてくれただけって可能性は、」


「いやいや、ちゃんと辞めてきたよ。本当に明日から無職。……ずっと一緒にいられるって言ったじゃないか。わがままなんて思っていないさ……君を放置し過ぎていた自覚はあるし……怒るのも無理ないって思うよ。少なくとも、これまで放置していた分、その倍以上は、君を愛でようと思う……だから君も甘えていいし、してほしいことがあれば、なんでも言ってほしい――僕は君のお願いごとならなんでも聞くよ」


「じゃあ仕事をして。あたしを構うついででいいから――お願いだから、生活レベルを極端に下げることはしないで! トイレとお風呂が共同のボロアパートは絶対に嫌っ!!」


「そう? じゃあいっそのこと、トイレと風呂はなしとか」


「どうして失くすの!? 家の中に絶対にないといけない必須の設備でしょう!?」


「まあ、君が言うなら――あっ、そうだ、もう家もいらなくない? ホテル暮らしで色々な場所を転々とすれば――」


「お願いだから普通の生活をさせてよバカぁ!!」



 興奮が冷めないまま、彼女は水道水をコップに注いで一気飲みした……普段なら絶対にしない行動だが、それをしてしまうほどに動揺しているらしい。

 冷蔵庫の中には飲み水があるのに……。


「――明日、仕事を探しにいきましょう」


「えぇ……まあ、出戻りするよりはいいけど……でもさ、せっかく辞めたんだし、しばらく休みたかったんだけど……」


「あたしも働くから」

「それはダメ」


 昔から。

 彼は彼女が働くことに、許可を出してくれなかった。


 理由は過保護だからだが……彼女は別に、社会経験のない箱入り娘ではない。

 元OLである。


「あたしを働かせたくない気持ちは、過保護からくるものだって分かってるけど……あたしも社会経験はあるからさ……短い間だったけどOLだったし、慣れてるわよ。あなた以外の男には近づかないし、近づけさせないから安心して」


「……違う。いや、違うわけでもないけど……男が稼ぐのがルールじゃないか。今の僕は仕事をしていないけれど、でも、貯金が底をついたらまた働くから……君は家にいてくれ。家事をしてくれってわけじゃない……しなくていい。健康的で、ストレスを抱えない、幸せ者でいてほしいだけなんだよ……」


「……ある程度は外の刺激を受けた方がいいと思うけど……大丈夫、数時間のバイトのつもりだし。高校生が部活感覚でバイトをしているようなものだって考えればいいよ……だからあなたも、フルタイムで働くってわけじゃなくて、あたしとの時間を確保しながら、ちょっとだけ稼いできてほしいの。……貯金を崩して生活するなんて、貯金が底をつくかもしれない不安がストレスになるわよ……」


「でも、」

「あたしのお願い、聞いてくれるんでしょう?」


「…………分かったよ、君の希望なら、その通りに従おう……」

「うん、よく言えました――偉い偉い」


 彼女の手が彼の頭に伸びた。

 ぽんぽん、と背伸びした彼女が、彼の頭を優しく撫でた。


「…………」

「全力投球も、もちろんいいけど……たまには力を抜いて二つ三つのことを同時にやってみたらどう? それができるようになれば……あなたの魅力がもっと上がるはずよ」


「全力投球がなくなったら、僕の個性が消えるんじゃ……」


「そんなことないでしょ。あなたの個性は、その中の一つの個性がなくなったところで全てが消えるようなものじゃない。自然体でいいのよ、成長すれば失うものがあるけど、同時に新しく得るものだってあるんだから――どんなあなただろうと、嫌いになったりしない」


「……分かった、ちょっと、挑戦してみるよ」


「ふふ、期待してるね」




 その日の夜――、彼女はある人物に電話をかける。

 相手はなかなか出なかったけれど、しつこくコールしたら出てくれた。


「――あたしと仕事、どっちが大事なの? って彼に聞いてみたら、『あたし』を選んでくれたものの、次の日に仕事を辞めて帰ってきた件についてさ……相談があるんだけど」


『はぁ?』


「これさ……聞いたあたしが悪いのかな……」


『惚気のために電話してくんじゃないわよ。というか、よくもまあアタシに電話できるよね……』


「えー、できるよ、だって親友じゃん!」


『アンタから彼氏を奪われたんですけど! ……まあ、一つに全力投球しかできないアイツだから、二股はできなかったみたいだけど――アタシよりアンタを選んだのは普通にムカつくわ。だからもう一度言うわよ? アタシにっ、惚気の電話をしてくんなッ!!』


「相談、聞いてってば」

『切るからね』


「今度、あの人のこと貸してあげるから」


『…………はぁ。ほら、聞かせてごらんなさいよ、こっちが血反吐を吐くくらいの惚気話を!』


「あなた、あたしの恋人を借りてなにする気なのよ……早い方向転換だったわね。……まあいいけどさ。聞いてよ、だってあの人がさあ――」



 その電話は、朝方まで続いたらしい。




 …了

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