すぐに帰れる遭難中。【前編】


「お嬢様、ご夕食の準備が整いました」

「あらそう。でも先にシャワーを浴びるわ」

「はっ、かしこまりました」


 泥だらけで、海水に浸かり、ベタつく体をシャワーで洗い流す。

 ふわふわのバスタオルで体を拭ってから、料理の良い匂いがするキッチンへ戻った。


 食卓に広がる豪華な料理があった。肉、魚、野菜と、バランスの良いメニューである。いつもは屋敷のコックが作ってくれているけど、今日は不在なので私についてくれていた執事が作った料理だが、普段屋敷で食べる料理と遜色なかった。


 席に腰を下ろす。執事は対面ではなく、私の斜め後ろに……こういう時くらい、対面で座って一緒に食事を摂ればいいのにと思うが、仕事上、できないことなのだろう。

 何度も誘っては断られているので、今更、文句は言わない。


 雑な調理ではない、ちゃんとした料理を前に、いつもよりも早く手が進む。ついさっきまで本当に食べられるのか不安な、料理と言えるのか怪しい料理を見ていたのだ……、出来栄えに差があり過ぎて、たとえ味が変でも完食するだろう。

 安心が保証された料理は、それだけで美味しそうに見える。


「……ご学友の様子はどうでしょうか。必要なものがあれば、島に隠すか、良きタイミングで漂流物として流すことも考えてはおりますが」

「そうね……今のところは必要ないわ。まだ遭難して三日目よ。食糧だって、備蓄していたものがあるし、ストレスも限界がきたわけでもなさそうね――声を大にして文句を言っている内は元気な証拠よ」


 不平不満は四六時中、垂れ流しにされている。

 その声がなくなった時、本当にまずい時だろう……分かりやすい目安だ。

 そう考えれば、まだまだ余裕がある。


「左様ですか」

「一応、今の私は探索のつもりで単独行動をしているから……、戻る時に体が綺麗になっていては怪しまれるわ……、また、適度に汚してもらえる?」

「仰せのままに」


 シャワーで洗い流した泥や海水のベタつきを再現させる。シャワーで落とすことが無駄なのでは? と思うかもしれないけれど、今しているメイクは本物に寄せた偽物だ。そっくりでも材料は違うので、シャワーで有害物を洗い流したのは正解だ。

 汚れていることが重要なのであって、有害であることは必須ではないわけよ。


「お嬢様、メイクに不備などはございませんか?」

「……そうね……いいんじゃないかしら。メイクだとばれないクオリティであるとは思うわ。本物の汚れと比べたら違いが分かるとは思うけど……、遭難中の極限状態で判別できるとは思えないしねえ……問題ないわ」


 姿見で確認する。……うん、汚い格好ね。

 これなら、誰がどう見ても遭難中だということが分かる。


「準備がよろしければ――では、潜水艦を浮上させます」


 私たちが遭難した、無人島のすぐ近くの海底で、潜水艦が停泊している。

 私を乗せたその潜水艦がゆっくりと浮上していき――、


 夜の海。

 静かな海面に、身を乗り出す。そして私は近くの無人島まで泳いで渡った。

 


「――あ、糸魚川いといがわさん……、食糧は見つけられた?」


 焚火の前で暖を取っていたのは、クラスメイトの少女だった。浅倉あさくらさん――遭難中なので体の汚れは私と同じくらい。いつもは綺麗な、肩までの黒髪も、今は手入れもできずに固くなってしまっていた。……彼女に限らず、島にいる女子はみんなそうだろうけど――男子だって、似たようなものだった。


「ええ。獲れたのは……海藻と魚くらいですわね。全員分はありませんけど、他の方々も当然、食糧を見つけてはいるのでしょう?」

「……えっとね、それが……」


 彼女は苦い顔をした。……芳しくはなさそうね。


「あら、あまり良くはなさそうですわね」

「ごめん……」


「いえ、構いませんわ。私も、今日は満足に獲れましたけれど、明日と明後日も同じように食糧を持ち帰れるとは限りませんからね……責めはしません」


 実際、そんなことはないけれど、ここでネタバラシをしては意味がない。


 私が獲った(というか渡された)海藻と魚は、潜水艦の中にあったものだ。このあたりの海域で獲れるだろう食糧は、事前に潜水艦に準備されており、私は狩りに出たフリをして、潜水艦から持ってきているのだ。

 当然、技術も知恵も必要ない。それでも知識だけは頭に入っているけれど。


「……糸魚川さん、お嬢様なのに、こういうの詳しいんだね……、悪い意味じゃなくてさ、一人で買い物もできないような箱入り娘だと思っていたから……かなり意外かも」


「知ってはいるんですのよ。普段はそれを自分でしないだけです。『できるけどしない』のと、『できないからやらない』のは、違いますからね……私はできる人間です」


 お嬢様だから、そういう印象を持たれてしまうのは分かっていたことだ。

 できるだけ、私は違うのだ、ということを証明したいのだけど、なかなか機会がない。

 ――こういう場でもなければ。


「焚火の起こし方とか、手慣れてるもんね……。はぁ、キャンプが得意だって威張ってた男子は使いものにならないし、かと思えば、アウトドアが嫌いそうなお嬢様にこうやって引っ張ってもらうなんて、想像もしていなかったよ……」


「それ、私のことを、『最初はお荷物だったと思っていた』と解釈してよろしいんですの?」


「あはは……、ごめんね、嫌な気分になった?」


「いえ――、過去の話ですものね。今はどうですか? 私のことをお荷物だと思っていますか?」


「ううん、そんなわけない……糸魚川さんはわたしたちの命の恩人だもん」



 その時。

 ――ぱき、という木の枝を折る音が響いた。


 同時、薄暗い木々の間から近づいてくる人影があった。

 ひ、と悲鳴寸前の息を吐いた隣の浅倉さんは、一瞬高く肩を跳ねさせたけど、相手の顔が分かれば怖くはないわ――クラスメイトの男子である。


「なあ糸魚川……どうやってその魚を獲ったんだ?」

「近くにモリがあったでしょう? それを使ったんですわ。釣りは正直、私には難しかったんですよ――だから……。それとも、モリを勝手に使ったらダメだったかしら?」


「いや……、こうして無事に食糧を獲ってきてくれたんだ、文句なんかねえよ――ただ、」

「ただ……なんですの?」


 言いたいことがあるなら正直に言ってしまえばいいのに……、遠慮しているのか、彼は結局、言いたかったことは言わなかった。


「…………いや、なんでもねえ。モリの使い方を一度教えただけで、よく実際にできたもんだと意外に思っただけだ。お前のことだから知識で知ってはいるだろうと思ったが、実際にやる機会なんてそうないだろ」

「そうかしら。別荘にいくことはしょっちゅうありますし、そこで練習をしていた、という可能性は考えなかったのかしら」


「お前がそんなことするか? 虫も触れねえお嬢様だろ」

「…………虫は別ですわ」

「遭難しておいて虫が嫌いなままって……余裕があるよな、お前」


 釣りが苦手なのもそういう理由だったりする。餌が触れない……、虫を使わなければできないこともないけど……、どうしてか、練り餌も苦手になってしまった……。


 虫の延長線上、と考えてしまっているのかも。


「見てみろ、虫が苦手だった女子はもう、虫を見ても嫌がったりしねえよ。慣れたやつは食糧の一つとして数えてるしな……、焼けばなんとかなる、って思ってるのかもしれねえ」


 虫を、食べる……? いえ、食べられるとは思うけれど……でも。

 生理的に無理だった。


「…………そこまで、余裕がないんですの? だって、食糧は、備蓄されていたものが……」


「ああ、ついさっき判明したんだが……、独占しているやつがいる。こんな状況だ、空腹に堪えられずに、他人の食糧を奪うやつがいたっておかしくはねえ。だが、安心しろ、遭難していながら、仲間のことを考えられない独りよがりなやつは、縛って転がしておいたからな」


 し、しばって……?



「――た、大変だ、四十万しじま!!」



「どうした?」





 …つづく

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