懇願
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
真っ白な通路を赤く染めてピチャピチャと水音が響く。あらぬ方向にねじ切れた腕。鑢(やすり)で抉られたような肉塊に突き刺さった【肉の剣】が亡骸の血を啜る音だった。
刀身に鮮血が巡ると脈動、肉の蠢きが活性化していく。大きく開いた眼球がレイルを見上げた。
『おい、死体漁りは終わったのか? 収穫はなんかあったか? オレは満腹だぜー!? これなら咆哮は一回……いや、二回できるな』
剣に呼ばれてレイルは立ち上がる。漆喰の装甲には傷一つなかったが着用していた黒いコートが電撃によって焦げていた。塵を振り払い、永遠に停止した女の便利屋にも引導を渡して彼らが持っていた武器を手に取る。
「【クライスラーHk6-G.雷撃浮遊球】と……【赤い斧】か。最近多いな。あとは記憶に干渉する刀と……もう一個は使い方も検討がつかない」
ぶつぶつと言いながらも持てる限りの武装、金目の物を回収していく。
『おいおいおいおい! オレっていう名刀を持ちながら他の刀に浮気かぁ?』
「使えるものは使う。それに金がいる。大金がな。使わなくても売れるものは貰う。……金はいくらあったって足りない。この依頼を終えてもだ。いくらあっても困らない。金があれば金より重要な何かが手に入る」
『ヒュー! 怖いこった。そんな冷徹機械だから死神だのと罵られるんじゃねえか? 黒機の便利屋だとかも言ってたな』
捕食を終えた【肉の剣】を引き抜いた。端末で依頼情報を確認。殺害対象と二人の顔を見比べて肩を竦める。
「死神は他人の空似だ。俺じゃない。……そして彼らもターゲットではないな。期待はしてなかったが奥に行かないとダメだ。こいつらはドルスじゃない」
『まぁ当然だろうよ。ボディーガード雇っておいて自分で前線行く馬鹿はいねー。けどよぉ、これは思ったより面倒だぜ? 階段は見当たらねえ。移動手段が一つしかねえってならオレは――』
【肉の剣】の言葉を遮るように通路全体が暗闇に落ちる。電源が落とされた。装甲とコートが闇に同化してうっすらと蒼い蛍光だけが目立つ。レイルは八つ当たり気味にエレベーターのボタンを押したが当然のごとく反応はなかった。
「……上るぞ。それ以外に手はない」
『おいおいマジかよ。オレはよー……いままで秘密にしてたが高いとこが大嫌いなんだ。絶対離すんじゃねえぞ。本気で本気で頼むからな!?』
【肉の剣】の言葉を無視しつつ、レイルは昇降機の扉を力技で破壊した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『便利屋ス・アーラとエスペルの生体反応がロストしました』
ドルスの持つ端末に簡潔かつ致命的な通知が伝わる。自身の持つ手駒のなかで最も強力な存在がものの数分で死亡してしまった。
思考が真っ白になって数秒、我を忘れて画面を凝視する。だがすぐにソラが隠れている部屋を見て正気を取り戻した。部屋への唯一の出入り口を前にして警戒態勢を保つ。
「クソ……っ! Bブロックの電源を落とせ! 全通路のシャッターを有効にして機械獣を出すんだ!」
悪態をつきながら端末に指示を送った。――これである程度時間は稼げる? 一考してすぐに顔を歪める。時間を稼げたところで準備が整うまでにあと三日掛かる。――殺すしかない。
「ダメだ……! とてもじゃないが無理だ!」
勝ち目がないことは理解できてしまっていた。嘆くように壁を殴る。響く痛み。乾いた指に嵌められた指輪が煌めく。残された唯一の異界道具。
だが敵(レイル)も武装しているのは明らかだ。便利屋でも戦闘員でもない凡骨で栄養失調気味の肉体でどうにかなるものではない。
ドルスは全て冷静に分析できていた。できていたうえで逃げようとはしなかった。自分が姿を隠せばソラが見つかってしまう。
倫理も善意もない世界でそれだけは避けなければならなかった。自暴自棄ではなく、犠牲を伴う選択を強いられていたから、深く息を吸い込んで身構える。
「わたしが狙いのはずだ……ソラは問題ない」
シャッターも迎撃装置も時間稼ぎにすらならなかったらしい。端末情報に映し出される敵の接近。扉一枚を挟むまでになっていた。ドルスは息を呑んだ。突き刺さるような静かな気配に気圧されて身構える。
ベキリと、扉に亀裂が走った。鍵が力技で破壊されて、隙間から黒い腕が伸びる。ついに強引に扉が剥がされてドルスはレイルと対峙した。
「あぁ……ぁあああ……!」
思わずうめき声を零す。自身の命を狙いに来た死神。感情の見えないのっぺのっぺりとした頭部。薄らと発光していた。人間ではない無感情な存在の威容にドルスは頬を引き攣らせる。
「ああああああああああああああああああ!!」
恐怖を紛らわすように叫んだ。握り拳に力を込めて、わなわなと震える脚で無理矢理地面を蹴り込む。冷静さも死への恐怖も薄れていた。これがソラの元に行ってはならない。ただその想いが身体を突き動かして殴りかかる。
次の刹那、ドルスの身体は宙を舞った。銃声よりも重々しい拳の一撃が響く。レイルは淡々と攻撃を退けて【肉の剣】を構えた。うじゅうじゅと蠢く肉の隙間から唾液が零れ落ちていく。
「……お前がドルスだな。ド・マリニー時空管理会社からお前を処分するように依頼を請けた。この空間を作ってる装置の破壊もだ」
気が飛びそうな衝撃になんとか堪えながらドルスは立ち上がる。真っ青に腫れた頬。口から滲む血を拭い、対峙し続ける。絶対にソラのいる部屋だけは勘づかれまいと見ないようにした。
「……いくら欲しい。ド・マリニーのとこが……出した依頼金の、……倍は出す。見逃してほしい……」
「ダメだ。俺はお前と違ってあの会社を裏切ろうとは思わない。殺されるからな」
金にも釣られない。そんな気はしていた。冷静さが諦めるように言い聞かせて、氾濫する感情が理不尽への怒りと憎悪を募らせる。ドルスの脚は震えたままだった。
「裏切ったのは……会社のほうだ。会社が全てを奪った! 実験に失敗したとだけ説明して! 駆けつけたらわたしの妻とソラは……! 片腕しか残っていなかった!! これ以上また奪うのか!? ……ああ、邪魔させるか。あと三日で完成するんだ。邪魔させるものか! 貪れ――【ティンダロスの眼】!」
ドルスの叫びに応じて彼の指輪が黒く濁った輝きを放つ。通路の四隅の空間が歪み、青い粘液状の膿がべちゃべちゃと溢れ出て異臭が漂う。
「その異界道具をあの便利屋二人が持ってたらどうだったか分からなかったかもしれないな」
『叫ぶぜええ!? 叫んじまうぜえ? 耳塞げよレイル!』
膨れ上がる膿が四肢と牙を持つ歪な猟犬へと姿を変えるなか、【肉の剣】は刀身から生えた牙をガチガチと摩擦させ――叫んだ。
『――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
空気を震撼させる咆哮。聴覚が意味をなくし尋常ではない叫喚が壁に、足元に、何条もの亀裂を走らせる。怪物が呼応するように疾駆した。宙を跳び、青い軌跡を描きながら大顎を剥き出しにしてレイルに飛び掛かる。
一閃。真紅の剣撃がまず一匹を斬り伏せた。叫び、振動する刃が空間ごと射程内の存在を全て裂く。一歩踏み出して薙ぎ払う。
剣閃の円弧が正面から飛び掛かった怪物二匹を同時に両断し、さらに一歩。最後の一匹に向けて【肉の剣】を振り下ろす。それだけだった。膿んだ肉を潰すように、プチリと軽快な音を発して猟犬を斬り潰す。鮮血の代わりに弾けた腐乱臭と青い膿。
『ギャハ! オレのほうがよーッ! 格が上だったなぁ!!』
指輪によって造られた怪物が全て無力化され、ドルスに遺された抵抗手段は全て潰えた。今度こそレイルは彼の首元に刃を置いた。
「証拠を取れと言われた。お前の遺言でいいらしい。いい趣味だとは思うが悪いな。仕事なんだ。今レコーダーをつけた。何か言うことはあるか? 無いなら無いと言え。一分経っても黙ったままならその時点で殺す。武器はもうないだろうが少しでも動いたら殺す」
――沈黙。十秒……二十秒と時間が過ぎていく。ドルスは達観したように表情を固めたまま、瞬きもせずに自身の死が訪れるのを待つことにした。絶対に視線を動かそうとはせずに、ソラの存在が悟られないように。
『五十五! 五十……九! ギャハハハ! 時間だぜぇドルスさんよぉ』
【肉の剣】が口汚くカウントダウンを終えて嘲る。ドルスは表情を崩さなかった。確かな死の恐怖に心臓が脈動し、気道が締め付けられていたがもはや気に留めるに値しない事象だった。ソラが無事でいられれば――。
「……ッ! パパを殺さないで!」
最悪のタイミングで少女は声をあげた。飛び出して、今に殺されそうな父の元に駆けつける。細腕を伸ばして、庇うように割って入り、がくがくと歯を鳴らしながらレイルを見上げて、なんら変哲のない包丁を華奢な手で握り締める。
「ああ……! あああああ……!」
無表情でいることは不可能だった。全ての希望が砕け散り、蒼褪めた表情で吐息の混じった絶望の声を発する。ソラが生きていればよかったのに。何度も頭のなかでそんな言葉が過って、滂沱の涙が頬を伝った。
それでもソラの声が、気配が、匂いがすぐ目の前に立ち塞がったとき確かな安堵を感じて、ドルスは深く、深く息を吐いた。縋るような想いで冷徹無慈悲な便利屋に希(こいねが)う。
「…………娘は――ソラだけは殺さないでくれ。彼女を売らないでくれ。お願いだ……企業の手にも渡さないでくれ。人狩りにも、どこにも……!」
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