世界

 レイルはドルスの娘を、ソラを一瞥した。殺さないでと訴えるように潤んだ蒼い瞳で睨み続ける少女。白銀の清潔な髪。純白のワンピースに黒いタイツ。どちらも高価な金属繊維の衣類だった。ドルスと違って身体は健康。


 見ていると存在しない心臓が跳ねた。不意に頭が軋む錯覚がして、頭部を押さえる。よろけそうになるもすぐに態勢を取り戻す。だが頭痛は消えることなく、命令を下すようにレイルの思考に囁く。


(彼女は必要になる。殺すな)


『ギャハ! どうするんだぁ? まさか情に流されて両方取り逃がすなんて言うんじゃねえだろうなぁーッ!』


 【肉の剣】が声を荒らげるとソラは歯を噛み締めながらさらに一歩前に踏み出た。武器も何もない少女が感情を押し殺しながら対峙し続ける。


「パパを殺さないで。お願い。わ、私……なんだってする。言うこと聞くから!」


 仕事に関係のない殺しは元よりするつもりはなかった。レイルは黙り込んだまま少女を見据える。放置してもよかったが頭に響いた命令が気がかりだった。


「……元より殺す必要のない生物を殺す趣味はない。金が必要でも人身売買もするつもりはない。人狩りにも企業にも渡さないようにしよう。けどドルス、お前はダメだ。最初から決められた仕事だ。それを覆すつもりはない」


 全てを察したようにソラは瞠目し、反してドルスは目を閉じた。父を庇おうと前に立ちはだかる少女に邪魔されないように、苦痛なく殺すためにレイルは【肉の剣】に命じる。


「叫べ――」


 突風が貫いた。遅れて、空間を吹き飛ばした不協和音が響く。ぴちゃりと僅かに残った血飛沫が少女の頬を撫でた。生じた風によって白銀の髪が靡く。衝撃が消え静寂が包み込んだとき、【肉の剣】の先には僅かな血痕以外なにも残らなかった。


「パ、パ……。……え?」


 頬についた血に涙が混ざる。ソラは何度も辺りを見渡した。瞳に宿る強い動揺。困惑。震える呼気で深く息を吸った。雫が足元に落ちて弾ける。嗚咽したままレイルを睥睨し、表情が凍り付く。


「なんで!!」


 たった一言だけを叫んでレイルの胸倉を掴み寄せた。激しく慟哭しながら殺した本人に縋るように問い詰める。何一つ理解できないまま激情を波立たせる怒り。


 何もできない無力感。どうして自分だけがこんな想いを受けるのかと理不尽を訴えて、表情も感情もない機械の存在が許せずに力任せに顔部の装甲を殴り飛ばす。


「ううううあああぅぅう……!! ああああアアアアアア! 殺す。殺してやる……!」


 レイルは微動だにもしなかった。頑強な身体に阻まれてソラは痛みに手を押さえる。痛みが腹立たしかった。痛みで殴る手が止まりそうになるのが許せなかった。だから何度も何度も、無意味だとわかっていても殴り続けた。泣き喚いた。


「クソッ! 糞……! なんで! なんで……ッ!」


 けど息が切れて殴る手も止まった。一方的に傷ついたのはソラだけで、彼女の華奢な指が打撲によって内出血によって変色していた。拳は腫れ、血が滲んでいく。レイルは少女の手が止まったのを見て淡々と服の乱れを戻した。


「理由は教える。俺を殺したいなら殺そうとすればいい。無理だが」


 感情のない合成音がソラの耳に響く。目頭に熱が籠る。吐きそうなくらい胃のなかが搔き乱されて、指先がビリビリと痺れているのに声は酷く頭に入った。


 レイルは部屋の奥へと進んでいった。ドルスの書斎へと足を踏み入れる。ソラは呆然と彼の背中を見詰めていたが、嗚咽を宥めるように何度も深呼吸をしながら後を追った。


「キミの父親はド・マリニー時空管理会社から空間に関する技術を盗んだ。それが原因で俺に依頼が回ってきたが、彼がやった行為は理由がどんなものだろうと善人とは言えない。俺が善だの悪だのと……口にする権利もないが」


 テーブルに置かれた淡く輝く立方体のオブジェを手に取る。直後、周囲の空間に亀裂が走った。レイルを中心に白雷が飛び交う。地面が崩れてしまいそうなほどの振動。空気の震え。


「な、……な、にこれ」


 ソラは譫言のように動揺を口にする。立っていられずにへたり込んだが、その光景に目を閉じることもできなかった。壁が、天井が、窓の外の景色が。全てに黒い亀裂が走りひび割れたガラスのように変わっていく。照明の光。窓から入り込む眩い朝日。光という光が点滅し、緑に、赤に、蒼に、不安定な色彩に変化していく。


「ドルスの奴が盗んだ【隔絶空間キューブ】だ。大量の電力を消費して廃墟の一部屋程度の空間に都市が作れるほどの時空を形成する異常な科学が生み出した道具――――。本当の世界に晴天も、平和な日常も、皆が当然に幸せでいられる世界もない」


 いつか学校に行けるようになって。友達ができて。そんななんて事のないはずの願望が崩れ去っていく。理解外の事象が全てを破壊していく。ソラは開いた口が塞がらずにいた。瞬きさえできずに、涙すら乾いて殺意も、怒りも、悲しみも、全てが訳の分からない進み続けて巡る思考は追いつかない。


「これが本当の――キミの父親がどんな方法を使ってでも絶対に見せたくなかった世界だ」


 世界が砕け散る。音もなく、ヴェールを剥ぐように全ての空間が塵へと変わり、本来あるべき空間が垣間見えていく。赤い絨毯の敷かれていた地面は鉄柱が剥き出しになった瓦礫へ。薄暗い廃墟の屋内。窓ガラスは全て埃を被り割れて。晴天はなく灰と砂塵に覆われた空。


 乾いた空気。泥と血の臭い。建物の外から聞こえる荒んだ怒号。喧騒。ソラは五感でもってその全てを感じ取って言葉を失った。レイルが手に持っていたその尋常ではない道具が光を失うと、バチバチと紫電を帯びて瓦礫の中央に歪な物体が現れていく。


「エーテル電工が作った人間の精神をエネルギーにする発電機だ。ドルスは【隔絶空間キューブ】を起動するためにスラムの人間を買った。正確な人数は分からないが若い男女を最低でも二百」


 黒く玉虫色を帯びた巨大でハート形の核。それはいくつものパイプを脈動させながら溶けるように人間の手足が数百と繋がれて、表面には点々と苦悶の表情を浮かべたまま蝋みたいに固まった顔があった。


「炉のなかに人間を詰め込むんだ。ジャムみたいにな。下にいるやつから加熱で苦しみ出す。逃げようとしてどうにもならなくて、無力で泣き狂って、全てを絞られて出涸らしになる」


「私……知らない……。パパが――こんなこと、するわけが」


 蒼く凛とした瞳が揺れる。震える身体、声。ソラはおぼつかない足取りで瓦礫を踏み締めて、かつては窓だったであろう破けた壁から本当の外を一望していく。


 くすんだ外気。遥か遠くでへし折れ、崩れ朽ちた摩天楼の跡。傷一つなく天を貫くように聳え立つ企業のビル。瓦礫と鉄くず、布切れで造られた建物群(スラム)。墜落した機械のスクラップ。それに群がり銃を向け合う人間。


 眼下では汚泥の詰まった狭い路地で骨と皮だけになった男が転がっていていた。さらに遠くを一瞥すると名前も知らない女が複数の男に組み伏せられていて。はたまた、何匹もの痩せ干せた犬に腹を貪られていた。


 今日の朝になるまで死体も泥も見たことがなかったような少女は圧倒されるように外に釘付けになっていた。沈黙したまま目を見開いて表情を強張らせる。


 異臭を帯びた風が吹きつけると白銀の髪が煌めく。退廃した周囲のなかで歪なくらい際立っていた。


「……キミは自分を何歳だと思ってる?」


 レイルの問いにソラは振り向く。無機質な声が行方不明になっていた激情を呼び覚まして胸のうちで渦巻いていたがそれ以上に思考が冷え切っていた。何年も待ち望んでついに叶った外の世界はあまりにも想像からかけ離れ壊れていて、何を想えばいいかもわからないままだった。


「十六……だけど。なに……?」


 次に言葉を失ったのはレイルだった。目も口もない顔部に確かな困惑と苛立ちを思わせて長い時間沈黙した。自らの手を見詰めて握り拳を作り、それから小さく首を振るう。


「…………そうか。いや、悪かった」


「わるかった……ってなに? パパがどんな酷いことをしてたって私にとっては違うの。許さない。機械のくせに、いきなり殺したくせに悪かったってなに? …………本当に殺してやりたい」


 ソラは底冷えた口調で罵って手頃な鉄片を握り締める。手が切れるのも構わなかった。それでレイルを殴り殺してやろうと思って、歩み寄って、目の前で腕が動かせなくなる。彼が避けようとする動作もしないから、意味がないと理解できてしまった。


 わなわなと腕が震えた。歯を軋ませて力任せに鉄片を投げ捨てる。


「なんで私は殺さないの」


 理由をいくつか考えて、けど何一つ合理的なものがない感情での行動だったからレイルはしばし言い淀んだ。


「……人間性だ。俺は人間じゃないし、必要な殺しをすることに躊躇するつもりもないが、虐殺だとか、拷問だとか、そういうのは好まない。俺は好きで機械になったわけじゃない」


 黒く艶のある腕を一瞥して自嘲する。血の通わない身体。動くたびに音もなく軋む体内金属。コートを羽織り服を着たところで人間らしさの欠片もない。


「……俺は今から報酬を貰いに行く。俺を殺したいなら見失うべきじゃないし、死にたくないなら武器もないまま一人になるべきじゃない。一人になったらキミはまず攫われるか食肉加工される。上玉は高値だ」


 ガチャリと、物々しい金属音を響かせて踵を返す。ソラは仇の背中と自分の部屋だった廃墟の一室を交互に一瞥し、指に嵌めたサイズの合わない指輪を大切に撫でてから、数歩距離を取ってレイルの後を追った。

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