煙に巻かれて
只野夢窮
本文
あれっ。
タバコが……ないな。ない。空箱をくしゃりと握りつぶす。
参ったな。深夜にトイレに起きたぐらいでヤニが欲しくなるとは、俺も愈々中毒者だ。今時の若者は買うわけもない壁時計が、こんな田舎の大きく古い家に住む老人たちが起きているわけもないというのに、サボらずにカツ、カツと音を立てて2時5分を穿っている。自分の家ならピース缶が転がっているのに。ああ、こんなだから帰省したくなかったんだ。田舎から逃げるように東京の大学に進学して、夏休みは都会で遊び放題だというのに、「一年に一度ぐらい帰省しなさい」とはねえ……。たった一日二日という問題じゃない。連休が途切れるというだけで、予定繰りが面倒で仕方がないんだ。わかるだろう、俺より大人なんだから。
愚痴っていても仕方がない。最寄りのコンビニまでは……歩くと三十分ぐらいか。
古臭い布団で並んで寝ている親戚たちを起こさないように、手探りでバイクの鍵を探す。家の鍵は……こんな田舎で閉める必要もないだろう。
虫のたかる電灯をいくつか潜り抜けてコンビニについた。何匹かがバイクのライトに寄ってきて鬱陶しい。店員は「こんな時間に客が来るのかよ」という顔をした。「しゃーす」アリバイ程度の挨拶、手にはスマホ。まあいい。ド田舎のこんな時間のバイトに、ちゃんとした接客を求めるほど非常識じゃない。面倒だしな。俺はタバコが買えればそれでいいんだ。
ライトでもなんでもない純正のピースが売ってるとは、わかってるじゃねえか。田舎だけに喫煙者が多いのかもな。20本入りのロングピースが胸ポケットに安心感のある重みを与えている。これだけあれば帰宅するまでは十分に足りるだろう。というか、我慢できんな。ちょうど駐車場に吸い殻棄てもあるし、ここで吸っちまおう。
カチン。
うん? ライターが点かんな。
カチンカチン。
調子が悪いんかな。
カチンカチンカチン。
ダメだ、俺のジッポは無反応だ。仕方ない、家に帰れば線香用のチャッカマンがあったはずだ。バイクを飛ばして――
刺さらない。鍵が。
おかしい、そんなはずがない。バイクを間違えたか。客は俺一人だが、あの店員がバイクで来てる可能性も――
ない。駐車場には何もない。自転車もバイクも車もない。あるのは間違いなく俺のバイクだけだ。じゃあ、あの店員はこのド田舎で歩いて出勤してんのか?
あり得ない話じゃないだろ。落ち着け。久しぶりの土地で暗いからビビってるだけだ。
暗い?
おかしいだろ。さっきまでコンビニの明かりが点いてたんだから、暗いわけがない。なんで明かりが消えてるんだ? 電灯まで消えて、月明かりしかない。電灯にたかっていた虫たちの音もしない。全部おかしい。
店員に声をかけようとしたその時。
後ろからドン、ドンと足音がした。
するわけないんだ。駐車場はコンクリだぞ? コンクリをドン、ドンと踏みしめられる人間がどこにいるんだ? いや、違う。そんな理屈じゃない。
古今東西の神話のように、俺は直感した。
「逃げ切らなければならない」
バイクを置いて脱兎のように逃げ出す。家からどんどん遠ざかってくる。なんでタバコが吸いたいだけでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。声が出ない。息が上がる。タバコの吸い過ぎだろうか、それとも高校まで続けてた野球をやめたからか? 一年で体力が落ちたのを実感させられる。田舎の道。土。遮るものも隠れる場所もない。振り返るか? いや、「それ」に直面することはできない。「それ」の歩く速度は早くない。けれども完全に変わることのないペースで追いかけてくる、おそらく永久に。足がもつれる。脳の命令に体がついてこない。生物的にゼーゼーと息を吐く。もう、
「こっち!」
甲高い子供の声が聞こえて――ええい、イチかバチかだ――俺は最後の力を振り絞ってあぜ道の脇にある川に転がり込んだ。溺れるならそれまでだ――だが川は見た目よりずっと浅く、仰向けであればギリギリ息ができた。
「ハア、ハア、ハア……」
ぬるったい川の流れを背中で感じながら肩で息をする。息をひそめて隠れないといけない、という理性を肺が受け付けないのは日頃痛めつけていることへの意趣返しか。
俺の呼吸音だけが響く数分間の後、驚くべきことに「それ」は俺のことを見失ったようで、重々しい気配が来た側へ去っていった。
「お兄ちゃん、危なかったね。大丈夫? 怪我してない?」
俺を覗き込んだ、甲高い声の主は。おい、冗談じゃない。
地方のショッピングモールで買った安物の女児服。地元の理髪店で子供料金カットしたテキトーに伸ばしてる黒髪。あの青いスカートをあの日どれだけ探したことか。
俺の妹だ。十年前に死んだあの時の格好で。
「おっと、叫んじゃダメだよ。あれは、恐怖を嗅ぎつけて寄ってくるからね」
「……お前、誰だ」
見た目がそっくりそのままでも、声までいっしょだとしても、もちろん、あの日に六歳だった妹がこんな喋り方をするわけがない。
「酷いなあお兄ちゃん、あれだけ探した妹のことを忘れちゃうなんて……もちろん、お兄ちゃんの妹だよ」
「俺の妹は……」
「そう、死んだ」
「死体は揚がらなかった」
「そりゃそうだよ、六歳だよ? 下流まで流されて、マンホールの下で腐っていったら、見つかる道理がないよね」
「……そうか」
「生きてたら十六歳、花のJKってやつなのにね」
「……あれは、なんなんだ?」
「…………名前は、つけてない。名づけは最も原始的な魔術だからね、引き寄せられちゃう。『あれ』はね、向こうの……お兄ちゃんの世界で恨みとか憎しみとか呼ばれるものが、こちらの世界に来て形を為したもの」
「世界……?」
「この世界は、お兄ちゃんの世界……私たちが生まれた世界とはほんの少しずれた場所。『あれ』だけじゃない。この世界は、悪いものだけが向こうの世界から流れ着くんだ」
「オカルトな話だが……自分で体験したんだし、信じるしかないか」
「信じなくても、現実は変えられないよ。私が死んだ時みたいにね」
「そうかい、クソありがたい話だな」
思い出す。あの日はこんな真っ暗な世界とは真逆の、眩しすぎる夏休みの一日だった。俺と妹は二人で山遊びに行った。虫を取り、駆け回り、そして気づいたら妹がいなかった。妹がいないのに、空は真っ青で、雲は真っ白で、誰かが死ぬなんてありえないだろうって日で、でも当然そんな日にも人が死ぬことはあって、俺は馬鹿だから、先に家に帰ったんだろうって呑気に思って、家に帰ったらいなくて、親にしこたま殴られて、大人が総出で山を探して、警察にも連絡して、それでも見つからなくて。パパとママが怒鳴り合ってて、俺は家に閉じ込められて、行く場所はばあちゃんに言ったもんって泣いてた。
「なんでよく見てなかったんだ」
「子供だけで行かせたお前が悪い」
殴打。くぐもった防災無線。失踪届。葬式――
「あんたが殺した妹なんだから線香ぐらいあげなさい」
二人分の学費で行った都内の私立大学。ひび割れた家族の関係。世間体。表面上は取り繕った親族の薄笑い。なんでお前がいるんだ。法事の寿司。酸っぱい。
「……ちゃん。お兄ちゃん」
「ん、ああ……考え事してた」
「もう、呑気なんだから。早く逃げないと、帰れなくなるよ」
「帰る方法があるのか?」
「黄泉の世界に来たのなら、行きて還りし物語をやるしかないよ。この世界も、道や家は同じだから……どうせ、鍵かけてきてないよね?」
「ああ」
「なら、お兄ちゃんの家まで帰れば、元通りになるはず。だけど気を付けて、この世界は『あれ』以外にも、恐ろしいバケモノばかりだし、私はほら、か弱い六歳だから……守ってあげられない」
冗談めかして妹がケタケタ笑う。あの日と同じ笑顔で。
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「タバコ持ってるでしょ? それに火をつければ、お香の代わりになるはず。こういうのは類似性を見出して……いいや、説明は。とにかく、お香に見立ててタバコの火を絶やさなければ大丈夫だよ」
「でも火がつかないんだ」
「それは私が何とかする。ライターに火をつけるぐらいの魔術なら使えるから」
ブツブツとお経のような言葉を唱えると、ライターがふんわりとした光に包まれた。
カチン。ボウッ。
試しにつけてみると、確かに火が付くようになっている。
「これでタバコを絶やさなければいいんだな」
「そういうこと」
「じゃあ、こんなところ長居することもないし、さっそく帰るわ。ありがとな」
俺は一本目のタバコをつけると、口に咥えて帰路についた。残り十九本か。
歩いて三十分ほどの道を、少し速足で歩いて二十五分ほど。タバコを吸いながら歩くと、なるほど化け物は現れなかった。
「ふう、ひどい目にあった……」
ガチャガチャ。うん?
「鍵は閉めてなかったのに……」
強く引っ張る。叩く。押したり引いたりしてみる。開かない。割れない。
「お、おいどうなってんだよ、話が違うじゃねえか!」
「あはは、お兄ちゃん、やっぱりあの日から変わらずバカなんだね」
ついてきていたわけでもないのに、いつの間にか背後に妹がいる。
「お前、俺を騙したのか!」
「むー。私はちゃんとお兄ちゃんに説明したでしょ。悪いものだけが、こちらに流れ着くって」
「私も、悪いもの、のうちの一つってこと」
「悪霊……!」
「それにね、私、お兄ちゃんに嘘はついてないよ? 現に、タバコに火をつけてたら、『あれ』は現れなかったでしょ?」
「けど、帰れなかったら同じことだろ!」
「やっぱりお兄ちゃんって、文学部にいった癖にぜぇんぜん勉強してないんだ」
「はあ? 今何の関係があるんだよ」
「よもつへぐい、って知らないんだね。あの世の食べ物を食べると、帰れなくなるだなんて、常識だと思ってたけど」
「食べ物なんて……」と言いかけたところで気づく。
「そう、口に咥えたタバコを『呑んでる』よね」
「タバコを吸えって言ったのはお前だろ!」
「吸え、だなんて一言も言ってないよ? 火をつけろ、って言っただけじゃん。理由まで説明したよね? それともお兄ちゃんは線香を口に咥えるのかな?」
「クソッ……いや、おかしいだろ。それでもおかしい。悪いものだけがこっちの世界に来るんだろ? 俺は何も悪いことしてねえよ!」
「自分の不注意で死んだ妹の前でそれ言っちゃうんだ……まあ、今日のことで言うと、それは関係ないんだけどね。お兄ちゃんは十八歳なのにタバコを吸おうとしたでしょ? そういうことだよ」
「そのぐらいのことで……」
「そのぐらい、と考えてるのが既にダメなんだよ。その上よもつへぐいをして、ここまでくる間に歩きタバコもしてたよね。仏の顔も三度まで、って言うでしょ? お兄ちゃんを取り殺す、最後の条件がそろったんだ」
「三回じゃねえか……」
「だから、ちゃんと勉強しなよ。まあもう無理なんだけど。仏の顔は三度までって言うのは、三度許されるってことじゃなくて、三回目は流石に怒るって意味なんだよ」
「だいたい、お前、六歳で死んだ時そんなにかしこだったか?」
「あはは、そんなわけないじゃん。もう、私って私じゃないんだよね。地縛霊、忘れられた裏山の名もない神様、そういったものと混ざっちゃってぇ……もう半分ぐらい私じゃないの。だから、いろいろ知ってるし、お兄ちゃんを引っ掛けることもできたんだね」
異常な状況に直面して、俺の脳が高速回転する。何か、手段があるはずだ。うまく狡っこく、何とかする手段が。俺はいつだってなんとかなってきたじゃないか。
「……いや、おかしい。それでもおかしいだろ。それならなんで俺を助けたんだ。『あれ』に、そのまま俺を殺させればよかっただけだろ。それでもとっさに俺を助けてくれたのは、まだ残ってるお前の部分が、俺のことを兄として慕ってくれてるからじゃないのか?」
「ああ、なんだ、そんなことなら」
ドン、ドンと足音がする。
「『あれ』も『私』だよ。最初から一人遊び」
「それ」が妹の後ろから近づいてくる。俺が「それ」の目を直視する。「それ」も俺を見る。
「収穫にはまだ早いだろ……」
「それでもね、お兄ちゃんが一度でも『ごめん』って言ったらね、私、取り殺すのまではやめようって思ったんだけどね。お兄ちゃんは一度も謝らなかったね」
「もう少し実るまで待ってくれたっていいだろ……」
「まあ良かったじゃん、これからは線香の煙を吸い放題だよ。好きでしょ、煙」
ポトリ、とフィルターだけが残ったタバコが地面に落ちて、彼が生きていたことを示すものはそれっきりになってしまった。
煙に巻かれて 只野夢窮 @tadano_mukyu
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★6 エッセイ・ノンフィクション 連載中 73話
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