第一章 物語/主人公 ~3~
3
良い子はもう寝ているだろう時間帯、
『明日の早朝、HRが始まる前の自由時間、屋上に来て』
とのこと。
あの日からどのくらい経っただろうか。自分が主人公になったと、藍乃が打ち明けたあの日以降、僕は藍乃と会っていない。・・・・・・大体一か月、僕は藍乃と会っていないらしい。そう考えると中々寂しいものだ。せっかくまた昔のように仲良く駄弁ることができたのに。
藍乃と会わなくなった空白の一か月を思い返してみる。
まずは校内中に〈藍乃が次の物語の主人公に選ばれた〉という、根も葉もある噂が飛び交った。どこから情報が漏れたのかわからないが、藍乃は噂の対応に四苦八苦していた。その次は、次期主人公の公式発表。TV、ラジオ、新聞、ネット、SNS・・・・・・ありとあらゆるメディアが、この特ダネ情報を取り上げた。TVもネットも、どこもかしこもお祭り状態が続き、一時期は藍乃の姿を見ない日はないくらい取り上げられ、学校にはパパラッチの如くジャーナリストやリポーターが屯していた。ネット民による
僕は『わかった。朝一で向かう』と返答し、物語のジャンルとか話してくれるのだろう。と、淡い期待を抱きながら目覚ましを一時間早く設定し、就寝。
眠った。
普段から遅寝、遅起きを心掛けている僕にとって早起きは少々――どころか、重々酷なことだった。いつも通りではない行動に身体が驚いているのだ。筋肉がピクピク痙攣しているように反応する。だが、僕はそんな身体の反応を無視してでも学校へ向かい、昨日約束した屋上へと行かなくてはいけない。
藍乃は既に屋上で待っていた。美しく汚れひとつない、美しく着こなした制服をべったりと地面に密着させ、大の字で空を見上げている。パッと見、寝ているのだろうかと思ったが、大きく潤んだ瞳はしっかりと開かれていた。
「・・・・・・雲ってさ、大きさとか高さとか、角度とか日の当たり方で凄く美しい景色になるよね。あたし、この景色を見て感動しちゃった」
藍乃は身体を起こし、振り向くことなく続ける。
「昔は二人っきりで、よく雲を見てたよね。あたしはあの時間が大好きだったな。何もかもを忘れられるし、将来、こうして時間を潰しながら幸せになりたいって。そう、思ってたな」
空は、景色は最高だった。散らばったパズルのピースのように配置された雲に、絶妙な角度で朝日の光が雲の下を照らしている。いつもは白いはずなのに、このときの雲はピンクがかった紅色に輝いている。その間から顔を出す青色の空が、よりこの景色を惹き立てる。
「そうだな。僕も空を眺めている時間は嫌いじゃない。――なあ藍乃。もし物語を今でも修正できるのであれば、雲を題材にした物語でもいいんじゃないか? まだ始まってもないし、お前が提案すれば呑んでくれるだろう」
僕の言葉に藍乃は首を振る。
「かもね、でもあの人は――あの人たちは許してくれないし・・・・・・」
藍乃は振り向くことなく、フェンスの向こう側を眺めながら答える。
どことなく哀愁が漂う。
顔が見えない以上、どんな顔をして話しているのかわからない。声色はいつも通りだが、少し寂しそうな――何かを諦めているような、そんな感じがした。
藍乃は音もたてずゆっくりと立ち上がった。自分のスカートに付着したゴミを払い、僕の正面まで移動する。第一印象はやつれている、そう感じた。特段変わった様子はない。
だが潤っていた唇はかさつき、メイクの下からこっそりクマが見える。それに一か月前に会ったときより痩せている。きっと多忙を極めていたのだろう。疲労が身体的にも、そして精神的にもきている様子だ。
「視すぎだよ」
まじまじと眺めていたのに気づいたのか、藍乃は笑う。しかし、瞳の奥は笑っていない。そこには感情はなく、ただ虚ろに――プログラム通りに演じ、笑っているかのようだ。
「いやまあ、その、なんだ・・・・・・」
藍乃から感じる異様さに戸惑いつつも、僕は普段通りの僕を演じる。数秒ほど思考し、話題を変える。
「そういえば、今日はどうしたんだ? いつもは昼休みに来るか、呼ぶかのどっちかなのに。早朝ってのは珍しいな」
毎回、藍乃に会うたびに、『今日はどうした?』というニュアンスの言葉が定型文となりつつあるが、気になるのは気になるので訊いた。
この問いに藍乃は、「顔が見たかっただけ」そう言った。
たしかに昨日の文面には〈話をしよう〉だとか〈話したいことがあるの〉といった内容はない。『屋上に来て』たったそれだけだ。この場合、都合よく考え勝手に期待をしていたのは僕の方だ。
「顔が見たかっただけ? それって僕の顔か?」
「あんた以外に誰がいんのよ。あたしは、ぼんやりしてて、ぱっとしなくて、表情筋が退化してて、可もなく不可もない。そんな
「褒めてないだろ。・・・・・・でもどうして急に僕の顔なんて見たくなったんだ」
どうしてだろうね?
藍乃は考えるようなふりをして、視線を下に落とす。このとき、藍乃は無理に繕っているように見えた。
「決意とか――或いは覚悟とか。心残りも後悔も、少しでも減らしたいじゃん。そうじゃないと心置きなくやれないからさ」
ちぐはぐな感じ。言葉と言葉を寄せ集めて、そこから違和感のないように縫い合わせるような、そんな文章。このときの藍乃の表情は少し寂しそうだった。一方で一瞬だったが、機械的な表情が少し綻んだような、そんな風に錯覚した。
「決意と、覚悟・・・・・・」
反復する。物語の主人公を演じるため心残りも後悔もなくして臨むのだろうと、そう思っていた。だけど何か引っ掛かる。しかし何が引っ掛かっているのかはわからない。
独り、あーでもないこーでもない、と考えている僕を見て。藍乃は話した。
「以前話したこと覚えてる? あたしが兎音に訊いた〈物語の存在そのものに違和感がある〉ってはなし。あたしが主人公になって――気に入られたのか、教えてくれたの。そうしたらね、知りたくなかったなーって、思った。それに、物語も。あたしは結局、いいように使われているだけなんだって、思った」
淡々と話す。
藍乃は子どものように、あった出来事を自身で咀嚼せずに話す。まるで深く理解することや思考することを置き去りにしたかのような、考えること自体を躊躇っているかのように話す。
僕はある意味機械的だった藍乃が少しの間、人間に戻ったかのように思えた。戸惑い、躊躇い、不安や苦悩と言うものを藍乃から肌で感じた。
「じゃあ、主人公になったことを後悔している。ってことか?」
「そうじゃないわ」
藍乃は頭を横に振り、下を見る。
「主人公に選ばれたことは光栄に思う。〈知りたくないから教えないで〉とは思ったけど、知って後悔はしてない。落胆はしたけどね。でも、それよりも、あたしが後悔しているのはね・・・・・・ごめんなさい」
「急に謝んなよ、どうかしたのか?」
「いやその・・・・・・こんなこと、兎音に話すべきじゃなかった。あんたに会えば、少しは踏ん切りがつくもんだって思っていたけど――ダメだね。やっぱり、余計なこと想い出しちゃうわ。会うべきじゃなかった、ごめんなさい」
顔を背け、一度たりとも視線を合わせない。
何かを悟られないように、必死に隠している様子。
僕は何も言えず、藍乃は俯いたまま。この沈黙がしばらく続き「本当にごめんなさい」と藍乃はその場から去ろうとした。
「あっ、ちょっと待って」
困惑しながらも、僕は少しでも藍乃のことを理解しようと、その場に引き留めた。
「これさ、昨日買ったんだ。主人公に選ばれた記念っての? おめでとうの意味合いも込めてさ、とりあえず受け取ってくれよ」
僕の差し出したペンダントを藍乃は受け取る。
銀色のチェーンに琥珀がついたペンダント。不純物のない高透明度の琥珀をあえて少し砕き、中心まで亀裂を入れる。どうにもそれが、見方にもよるが雲のように映し出されている。僕はそれに心奪われ、惹かれた。
藍乃も雲は好きだと言っていたし、きっと喜ぶに違いない、と。
・・・・・・だが、それはただの虚しさに変わる。
とてもじゃないが、お互い喜びを分かち合う雰囲気じゃなかった。
「ありがとう」
藍乃は受け取ったペンダントを握り締めると、その場で着ける。そして哀愁の満ちた表情で笑みを浮かべた。どうしてか、表情の演技も秀逸なため、僕は何を察してしまう。
察してしまうことが、できてしまう。
藍乃はそのままドアの向こうへ消えて行った。
何もできなかったのだ。引き留めることも、それを行動に移すことも――本当に、どうしようもなかった。藍乃がペンダントを受け取ったとき、僕と目と目が合った。あいつの瞳には光はなく、希望などないのだと、一瞬で悟らせた。
藍乃の瞳は、霞、曇り、墜ちて、浸り――絶望していた。
藍乃の瞳に、僕も誰も、映っちゃいなかった。
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