携帯

 一時的に両親の気が収まり、割らた皿やひっくり返ったカレーの片付けをした。次に食べかけのカレーを食べて、母の食器と投げられたスプーンを洗った。それから風呂をいれた。両親が風呂に入ってる間、刺さった破片を抜いて包帯を巻いた。首に破片が刺さるのは予想外だったが…というか、今回は予想外が多すぎる。

 洗濯物を取り込み、葵とメッセージで会話しながら気持ちを落ち着かせようとする。落ち着こうとしてはじめて、気づいた。自分の身体が震えていることに。葵との会話はとても気が楽で、幾分か救われた。

 自分が入る番。カレーをかぶった浴衣を脱いで桶に汲んだ湯につける。身体を温めると同時にぬるま湯で浴衣を洗う。カレーの汚れを落とすのに使うものがあるらしいけど、ここにそんなものはないし、あったところで使えばまた怒られる。湯で洗えるだけ洗ってあとは干した。ゆっくり湯船に浸かって今日できた傷を見る。

「意外と長いな…。全部抜いたかな…?」

 多少の心配はあった。もし取り損ねていたのなら——?

 三十分程度で風呂から上がり、浴衣に触れる。

(まだ全然乾いてないな…当たり前だけど)

 たとえ乾いていなくてもこの一着しかないから濡れているのを承知で浴衣を着た。洗濯機回してる間に宿題をすると言って自室に籠り、葵とメッセで会話した。とても和やかな時間。もっと欲しかったから洗濯物を干す時間も葵とメッセージを続けた。

 けれど、この選択は間違いだった——

 鼻唄を歌っていることに気づかれ、父が物干し部屋に入ってきた。

「やけに楽しそうじゃねぇか、あ?」

 やってしまった…葵——!

「携帯、ホラ、出せよ」

 父は機嫌を悪くしたものがたとえ何であっても携帯を出すよう言ってくる。携帯はまだ、葵とのトークルームを開いたままだった。

「このガキ…」

 はじめに携帯を床に叩きつけた。床を少しへこませ、画面が割れた。それから携帯を拾い上げ、台所に持って行ったかと思えば、包丁を取り出したのが見えた。ガンガンと音が聞こえたから恐る恐る近づいて見ると、包丁の柄尻を垂直に振り下ろしていた。葵との会話を見て腹を立てたのだろうな。物干し部屋に戻って残りを干しているとドカドカと父が歩いてきて原型を留めていない携帯を投げた。

「ほらよ、これでテメェの時間を奪うものは何もねぇ」

 趣味に使うお金もなく、お年玉は両親の懐に消え、好きな物を買った記憶もなく、当然街に遊びに行ったこともない。それで携帯を壊されたら、何に縋って生きていけば…?

 葵っ——!

「来い」

 父は私の腕を掴んで食卓まで引き摺り、床に投げた。台所から柄の欠けた包丁を持ってきて顎の下に刃先を密着させた。

「テメェ…ここで今死ぬか、一生家から出ることなく、俺らの世話をするか選べ」

 私は初めて親を嘲った。

「その言葉をずっと待ち望んでおりました」

「なんだとっ⁈」

 父は怒り狂い、母はただただ眺めていた。

「わかりませんでしたか?その言葉を待っていたのです。遂に仰って頂けたのですね」

「あ゛ぁ⁈」

 淡々と喜びの言葉を並べる。

「私を殺してください。簡単なはずです。いま父上が首にあてているものの向きを変えるだけで…永い間、私が待ち望んでいたものが訪れます。あなたがた両親は虐待の末、我が子を殺した最低な親として世に名を残す。…唯一の恐れはその刃が望まない方向に行くことです」

「言ってくれるじゃねぇか、クソガキ…」

(猛毒親が何を言ってる…)

「さぁ、早く…黄泉の国に連れて行ってよ…」

 父は包丁を一度首から離し、振り上げ、腕を切った。細く血が流れる。

「バラバラにしてやろうか?」

「後始末が大変ですよ?」

「テメェを殺して火を放てば問題ない」

 先祖に申し訳ないと思わないのか…?

 おとなしくしていた母が口を開いた。

「このガキ殺したら私たちの生活が終わるよ」

「チッ…クソが…」

「私、家事なんてしたくないよ」

「そらぁ、俺だって同じことだ」

「ならコイツを生かしてこき使おう、ね?」

 それを本人の前で言うな、アホか?いや、アホだったな。

「残念です」

「何がだ?」

「やっと楽になれると思ったのに…本当に、非常に残念です」

「あぁ?」

 可能な限り煽る。私を殺すよう誘導する。

「わかりませんか?死にたいのです。せっかく死ねる機会だと思っていたのに、それを回収されるとはなんと悲しい…私を殺せばあなたがたは殺人犯。親を牢獄に入られるならこの命、惜しくはありません」

「俺らが牢獄だと?入るわけねぇだろうが!」

 父親が包丁を目の前に突き当て、後頭部に回し、バサッと髪を切った。髪が一番短くなったが、すべてが切れるわけではない。当然、元の長さのところもあるが、お構いなしらしい。どこまでバカなんだろうな。あんな短くて細いものを使うなんて。画面の破片が刺さってるし、これで割ったんだろうな。

「さて、次はどこを切ろうかな」

 先に切られた腕と包帯を気にしながら父を睨んだ。

「テメェ、前から気になってたが、その包帯は誰から貰ってんだ?」

「それは命令ですか?」

「答えられねぇ理由でもあるのか?」

「ありませんけど」

「じゃあ答えろ」

「友達から貰いましたが何か」

「————‼︎」

 間違いではない。葵がくれた。見ているだけでいつか自傷しそうで怖いからってくれたんだ。もちろん、箱で包帯を渡されたときは驚いたけど、巻いて見ると良いものだった。守られているような安心感、葵がそばにいるような安らぎ。父は無言で私の右腕を切りつけた。が、包帯だけが切れた。殺す気はあるのか?あるならこんな殺傷能力が低そうなもの使わないでほしい。反射的な行動ばかりするから成功しないんだ。

「お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「あ?」

「父上、あなたは私を殺す意志はありますか?」

 父は持っていた包丁を床に投げ刺した。感じたまま行動することの全てを否定するつもりはない。だが、こうも直結しすぎてるとガキみたいだ。この人は子供のまま、身体だけが大人になってしまったのかもしれない。父は突っ立った。やはり母は何もしないし、何も言わない。動き出した父は台所に行き、煙草を吸い出した。暫くして酒も開けた。特別こちらに何かする様子もないから、洗濯を干しに戻った。

「殺してくれたらいいのに」

 ポロリと零れた本音。

「死にたいな」

 あぁ、でも…夏祭りのチョコバナナ、葵と食べる約束したんだっけ…。

「でも死にたいな…」

 こんな毎日、終わりにしたい。好きな本を見つけたい。ゲームをしてみたい。ううん、それよりも傷つきたくない。否定されたくない。そのままで良いんだよって言われたい。やってみたいと言ったら「して良いよ」って言われたい。いつもいつも、やりたいと言えば「お前にできるはずがない」だの「世間はそんなに甘くない」だの、もううるさい。やる前から決めつけるな、制限するな、可能性を摘み取らないでくれ…。

 ひとつ、涙が流れた。

 洗濯物を干し終わって戻って見ると両親は酒と煙草に溺れ、台所で騒いでいた。今日はもう、色々疲れた。特に眠いわけではなかったけど、布団に入った。

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