夕飯

 ひとり、暗い家の中に帰ってきた。鞄を椅子に投げ、手を洗う。制服を脱ぎ、破けた浴衣に着替える。次に弁当箱を水につけ、風呂水を抜き、米を研ぐ。米を研いだらつけおく時間を使って弁当箱を洗い、風呂を洗う。冬の水温は痛いほど冷たかった。

 冷蔵庫の中はとても明るく、作れるものがカレーくらいで、母の帰宅時間目がけて作っていた。

「明日買い出しに行くのか…」

 とても憂鬱な気分だ。常にそうだけれど、買い物は特に憂鬱だ。食材を買いに行けば「なんでこんな金使ってるんだ!」と言われ、買いに行かなければ「なんで買って来なかったんだ!」と怒鳴られる。結局どっちなんだよ…?まぁ、先のことを考えてもどうにもならないな。


 鍵を開ける音がした。無言で入ってきたのは父だった。

「父上、お帰りなさいませ。もうすぐ母上のお帰りと存じます」

 やはり無言だった。台所に来て酒缶を開けて呑み始めた。気まずい空気が流れる。

 勢いよくドアが開き、母がドカドカと歩いてきた。

「おや、今日はカレーかい?」

「はい。母上が上着をかけて来た頃には召し上がれます」

「あ〜そう?マズくなければ良いんだけどねぇ」

 いつもこうだ。『美味しそう』なんて一度も言ったことがないから夕飯は地獄だ。少しでも気に入らないことがあれば皿ごと投げて来るし、壁や床は物が刺さった痕だらけ。借家じゃなくて良かった。建ててくれたご先祖さまにはとても申し訳なことではあるが…。

 母が戻ってきてカレーを三食食卓に運ぶ。

「父上、母上、夕飯のご用意ができました。どうぞ、お掛けになってください」

 高貴なる家庭でも、由緒正しいと言えるわけでもないのに、こんな口調を強いられているのは何故だろう。そういう家は今もなお、こういう口調で話すのだろうか。というか、両親の先々代までは双方農家だっただろうに…。

「あぁ」

 やっと父が言葉を口にした。

「両親は無言で食べ始めた。また、会話がない。別に求めてるわけじゃないけれど、静寂は苦手だ。

 カレーをすくう父のスプーンの音が止まった。

「なんだ、この味は」

(来たか…)

 最初に飛んだのはスプーン。落ちたそれを拾おうとして席を立った。

「甘すぎる。ふざけているのか!おい…話の途中で立つとは何事だっ⁈」

 怒鳴られた。拾わなかったらそれはそれで怒鳴るのに。

「そうね、甘すぎる。砂糖をどれだけ入れたの?」

 母は父に同調した。

「い、いえ…今日の食材は白米、人参、玉ねぎ、じゃがいも、カレールーです。砂糖なんて使う場所が…」

「砂糖、なんて…?」

「俺が甘いと言えば甘いんだ!」

「母さんが『砂糖が入ってる』と言えば砂糖が入ってるの!わかった?返事は⁈」

「は、い…」

 いつもこうだ。『我が家では』当たり前の、至って普通のこと。でも未だ、慣れていない。慣れてはいけないと思う。そもそも、記憶の中で家では砂糖を買ったことがないから入れられるわけがない。父と母に逆らえる者などいない。二人の両親ですら、近づこうとしない。そうだ、異常なんだ。そんなことは葵と出会った時から知っていること、今更すぎる。

「『はい』と言ったね?あんたの扱いは家族じゃなくて召使い。母さんたちの世話さえしておけばいいの!」

「俺たちは楽をするためにテメェを育ててきたんだ。それを努々忘れるな」

 母も父も怖い。嫌い。憎い。殺したい——

 この人たちの血が流れているのが嫌だった。

「——はい…」

「返事が遅いっ‼︎」

 父がカレーを皿ごと投げた。床の一部はカレーで染まり、私の浴衣にもかかった。

「声が小さいっ‼︎」

 なんとか割らず、ヒビが入っても原型を留めている皿を拾い、次は私めがけて投げてきた。抗う手段を持っていない。母は父に同調しながらテレビの向こう側の光景であるかのように食事を続けている。怒鳴りながら食事する母に感心する暇などなく、父が投げた皿が床に直撃し、破片が散乱した。当然、床は傷つく。そして飛び散った破片が浴衣を裂いて私に刺さった。それでも誰も何も言わない。今まで父が怒鳴るときには酒瓶が割れたり、掃除機が壊れたり、食器が割れるなんてことは多々あった。割らた酒瓶の後始末、割れ物の片付けはよくやっていた。が、破片が跳んで刺さるなんてことは初めてだ。いつもは破壊衝動で物を壊しているのに、今回は明らかに私をどうかしようとしてる。母は一人でカレーを食べ終わり、食器を流しに置きに行った。洗うことなどせず、父に加勢する。

「あんたね、世界にはうちよりももっと酷い環境の人がたくさんいるの。わかるよね?これくらい可愛いものだ。我慢しろ…一日一食も食べられない人からすれば天国だよ。衣食住あって、学校に行けて、この環境を作ったのは誰?あんた自身じゃないよね、お金を出してる母さんと父さん、親だよね⁈もっと辛い人いるのはわかってるよね?今のこの環境に感謝しなさい!」

 そうだ、金を出しているのは両親だ。間違いない。でも本当に『金を出している』だけなんだ。幼少の頃から家事を覚えさせ、覚え次第私に投げてきた。私に家事を押し付けて、できた時間を使ってパチンコに行ったりバニーガールを愛でたり、執事喫茶などに行っているのは把握済みだ。外面だけ、は気にして授業参観には来てたから顔は覚えられている。親を見かけた同級生(の親)から「睦月は親、どこそこにいたよ」と伝わるんだ。もちろん、二人はこんな情報を私が持ってるなんて思ってない。言ったら、それを私に伝えた家庭にも被害が出る可能性がある。それだけは回避しなければ——。

「わかってる…」

「あん?なんだぁ、その口調は⁈親に対する口調なのか?」

 …しまった——!

 口に出してしまった。確かに、うちよりも劣悪な環境の人は大勢いるだろう。だが…そこに目を向けられるほど、心に余裕がない。自分のことで一杯一杯だ。

「申し訳ございません…」

「あん?ホントに思ってんのか、テメェ!」

「叱られたから謝った、ように見えたのは気のせいかしらねぇ?」

 あぁ、その通りだ。言われたから謝った。怒鳴られたから、凄まれたから、謝った。言わないともっと強く怒鳴られると知っているから。

「気のせいかと…」

「そこは『気のせいじゃない、叱られたから謝った』と言うべきだ!わからずやっ‼︎」

「気のせいじゃ…気のせいではございません。お叱りを受け、己の行いを反省し——」

「何がいけないと思ったのか、言ってみろ」

 またか、また…こんなわけわからない要求をされらのか…私にはわからないよ。お前たち親が求めているものが……。

「まず、返事が遅く、且つ、小さかったこと…次にあなたがた両親に同等以下の言葉遣いをしてしまったこと…。計二点です」

「改善点はわかったな?じゃあどうする?」

 壁があるような、圧が凄い…。

「返事は早く、聞こえる大きさで致します。次に、二度とあのような馴れ馴れしい口調を使いません。此処にお誓い申し上げます」

「違うと言ったね?忘れるんじゃないよ」

「はい」

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