奇談あるいは夢見がちな少女が白昼に見た夢の話

 いつその場所に迷い込んだのか正確なことは私にはよくわからなかった。

 今日学校に来た時点では普通だったし昼休みの始まる前もまだ普通だったような気がする。いやよくよく思い出してみれば4時間目の授業中に先生が何を言っているのかところどころ意味がわからなくて、あれは単に私が真面目に授業を聞いてなかったからなのか、それともすでにこの場所に迷い込んでいたからなのか、今さら判別のつけようがない。


 チャイムが鳴って昼休みの時間になって顔のない影が揺れながらあたりを動いていた。意味のない記号の交換を彼らは行っていて限定された空間から次第にその数が減少していくのが私にはわかった。

 ようやく私も立ち上がる気になって教室を出ていけば廊下はどこまでもどこまでもつづいていた。そんなに遠くまで行くつもりはないし行く時間もなかったので私はいつのものようにうつむきがちに歩きだした。

 ローファー、ローファー、サンダル、長靴、鱗の生えた足。


 顔を上げて振り返れば二足歩行のワニの背中が遠ざかっていった。さすがに何かがおかしいと気づいたのはこの時で、あるいは寝ぼけた頭がはっきりしてきたのがこの時だった。いや話は実はまったく違っていていくらかはっきりしていた頭がまたうすぼんやりしてきたのがこの時だったのかもしれない。どっちだっていいことか。

 ロッカーの上であざやかな緑色をした蛇が螺旋を描いて踊っている。どうしてそんなに上手にくるくる回転できるのか、よく見ると彼には白い翼が生えていた。なるほどそうであれば自身の体を絡ませることなく踊りつづけることができるだろう。

 人のような豚のようなものがごろごろとこちらに転がってくる。すれ違うのに難儀しそうだったが近づくにつれ小さくなっていったので何の問題もなかった。こちらをキッとにらんできたような気がしたが目をそらしたのではっきりしたことはわからない。


 視界の端にふと廊下の角を曲がっていく後ろ姿見えてそれは人間の形をしていた。長い金色の髪がさらさらと風に揺れて私はそれを場違いにも美しいものだと思った。

「待って」考えるより先に駆け寄って呼び止めていた。

 彼女は階段の途中で立ち止まると不機嫌そうに私を見下ろした。「なんか用か」


 同じクラスの神崎さんだった。雰囲気が派手でちょっと不良っぽい神崎さん。

 いたって普通よりもさらに地味な私とは、同じクラスとはいえほとんど接点がなかった。お互いに顔は見知っているけれども話したこともない程度の関係。いやもしかすると私は彼女のことを知っていたけれども彼女の方は私のことを知らなかったかもしれない。そんな程度の関係だった。

 そもそも考えなしの行動だったので「用か」と聞かれて私は言葉に詰まる。どう答えたものやらまるでわからなくなったので私はとりあえず「こんにちは」とだけ返しておいた。


 少しの間、神崎さんは私を見つめてから何か合点がいったというように一人でうなずくと「ついてきな」と言って私の手をとった。彼女は強引に私を引っ張り上げるともう振り返ることはなくてずんずんと階段を上っていった。

 もとより消極的な性分の私は引っ張られるままに彼女についていく。なるべくまわりを見ないようにしながら。今になって自分の置かれた状況が怖くなってきたのである。まったく親しいとは言えないクラスメイトぐらいしか頼るものがなかった。


 階段はそのうちに捻じれ円を描き、上っているのだか下りているのだか進んでいるのだか戻っているのだか判断がつかず、ついには枝分かれするようになりそれでも迷わずにすんだのは神崎さんのおかげだった。もしくは一歩一歩刻むというその階段自体のリズムが私を現実に固定してくれていたおかげかもしれなかった。

 扉を開けばそこは屋上であり屋上でしかなくそうして私はそこが屋上であることに困惑したのだけれど、それはなぜかと言えば不思議なことの連続の中で不思議でないことが起こったからで、しかし不思議でないことが不思議だなんて言い出したらキリがなくなると思って、屋上が屋上でよかったと考えることにした。


 神崎さんはそのまま私をつれて屋上を横切っていくと備え付けのベンチに腰を下ろす。急に手を離されて不安を覚えている私に向かって「どっちがいい?」と問いかけてきた。何のことかよくわからなかったのだけれど彼女の右手にはメロンパンが左手にはチョココロネが握られていることに気づいて、おそらく私にどちらが食べたいのか尋ねているのだろうと理解した。

 あんまり親しくはないクラスメイトと2人並んで屋上でパンを食べる。太陽には歯が生えていてニコニコと笑っている。雲の間には逆さに塔が立ちのぞんで、その塔めがけて緑色をした空の真ん中を群れなす馬たちが疾走していった。


 それでもやっぱりチョココロネの味はチョココロネで欲を言えば私も何か飲み物が欲しかったのだけれど、さすがの神崎さんも牛乳1パックしか用意してなくて自分で飲んでいた。ああこの人は本当はメロンパンにチョココロネまで一人で全部食べるつもりだったんだなと、こんな状況で現実的なのかそうでないのかわからないけれど私はそんな感想を抱いた。

「寝ぼけてるとこっちに入りやすいから。日の光を浴びてすっきりするのがいいよ」神崎さんはいきなり私の前髪をかきあげるとそんなことを言った。真正面から見つめられてなんだか照れくさく感じた。


 太陽の歯は一つずつ溶け落ちて馬たちはどこか遠くへと飛び去っていく。空の色は緑と青の中間でそれはそれできれいに見える。頭がゆっくりとしか回転しないのはいったい何のせいなのだろうか?

 神崎さんの言葉の意味を考えているうちに、あるいは彼女のその言葉の周辺を私の思考が大きく円を描いて回っているうちに、彼女自身は言いたいことはもう全部言ってしまったとばかりに、屋上から去っていってしまっていた。そのことに気づいたのは乱暴に閉じられた鉄の扉が大きく音をたててからだった。


 結局のところ私は何がどうしてどうなのかということに上手に理屈をつけられないと悟って、自分の感情を整理することをあきらめる。体がぽかぽかしてこのまままた眠ってしまいそうだったけれども、次の授業をさぼるわけにはいかないことだし、短い眠りが頭をすっきりさせてくれたせいで私はまた立ち上がることができた。

 力をこめて扉を押せばその場所は普段の逆で上から屋上につづく階段を見下ろしている形で、知っているような知らないような光景だった。一段一段と降りる。


 遠くでざわめきが聞こえてそれにはところどころ私の知っている単語が混じっていた。廊下に立てばどこまでも無限につづいているなんてことはなくて、そこかしこに人の形をしたものが立っていて、そして教室ごとにつけられた番号を私は読み取ることができた。

 自分の席について全部が全部夢だったとしたら非常にわかりやすくていいなと思った。夢だとすれば登場人物のチョイスが不明でいや夢だとすればなおさらにそんなものかもしれなかった。


 ちらちらと揺れている薄い緑色をしたカーテンは不思議でも何でもないのだと、ひどく長い時間をかけて私は納得する。窓際の席に座っている神崎さんと目が合う。彼女は歯を見せて笑うと小さく私に手を振ってくる。その手の感触を額に思い出したせいで一瞬にして体が熱を帯びる。

 チャイムが鳴っている。昼休みが終わったのだ。チョココロネの代金をどうやって返せばいいのか面倒な問題を押しつけられたものだと私は思った。

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