酔って記憶喪失百合

「あの、はじめまして、ですよね」

「はい、多分そうだと思います」

「ごめんなさい! 私、昨日のことほとんど何も覚えてないんです!!」

 勢いつけて放った私の言葉を、彼女は困ったような曖昧な笑みを浮かべて受け止めた。


 自分の名前は覚えている。年齢も――20代前半、女、職業は一般的な会社員。そこまではいい。

 目覚めたら知らない場所だった。ベッドの上、生活感のない部屋。おそらくはホテルの一室だろう。なぜそんなところで寝ていたのかわからない。

 やけに涼しいなと体を見下ろせば私は何も身につけてはなくて、さらには同じベッドにシーツ1枚だけ身にまとった女が眠っていた。長い黒髪のどちらかと言えば清楚な印象の女性。


 いったいどういう状況なのか? まったく見当がつかない。混乱のうちに彼女は目覚めて、ひとまず初対面の挨拶を交わしてから、私は正直に自分が何も覚えてないことを告げたところ、

「奇遇ですね、私もです。仕事終わりに1人で飲み屋に入ったところまでは覚えています」

 と彼女の方も同じく現在の状況をまったく把握してないことだけわかった。


 たったひとつ、彼女の言葉がわずかに私の記憶を刺激した。飲み屋。

「カウンター席に案内されました。もしかして隣に座ってた人ですか」

「多分そうです。私が飲み始めてすぐあなたらしき人が来た気がします」

「でも別々に飲んでたはずですよね、知り合いでもなんでもなかったですし」

 そうだ。私の方もぼんやりと思い出す。昨夜ふらりと飲み屋に立ち寄ってカウンターについた時、隣の席に彼女のような人が座っていたような気がしないでもない。


「私かあなたかどちらかが酔って話しかけたんじゃないでしょうか」

「そういうことした経験ありますか、私はないです」

「そうですね、考えてみましたが私もないです」

 彼女の提示した推測を双方が否定する。どこで出会ったかはなんとなく見えてきた、けれどもそこから現在の状況につながる道が全然見えてこない。


 とりあえず私は強引にでも話を進めることにした。

「けど記憶なくなるぐらい飲んだわけですよね、私もあなたも」

「ええ、今まさに記憶なくなって困ってる状況に陥ってます」

「それなら普段やらないことをやっててもおかしくないわけですよ」

 何の根拠もない。けれどもどちらが最初に誘ったかあんまり重要じゃない。

「なるほど。おそらく私たちは飲み屋でカウンターに隣あったきっかけで話しはじめた、と」

「状況から見てそんなところだと思います」


 しばし彼女は目を閉じて何かを考え込んでいる。それから再び私に視線をやると口を開く。

「えーと、言いにくいことかもしれませんが」

「なんでしょうか」

「あなたは女性を性的対象とする方でしょうか」

 それは確かに彼女の言葉通りにデリケートで話題にしづらい事柄だった。


 私は素直に、なんでもないことだというように、さらりと答えた。

「すくなくともこれまでそうした感覚をもったことはないですね」

「私もです。そういうことなら誘ったのはあなたでも私でもない?」

「でもいきなりここにいない第三者が現れてホテルに2人つれこんだ方が考えづらいでしょう」

「それもそうですね。だとしたらこれもどっちが主体になってやったのかわからない」

「まあ帰るのが面倒になって2人してホテルに行った可能性はなくもないかもしれません」

 実のところ私は異性ともこうした場所に来たことはないが別にそれは言及する必要のないことだ。


 彼女は言葉を慎重に選びながら若干無理のある推論を受け入れてくれた。

「最初から、えーと、えっちなことをする目的ではなかったということですね」

「そうですそうです。女性2人でホテルに入ったからといって必ずその目的だったとは言い切れません」

「この部屋ベッドが1つしかないですからね、そのままいっしょに入るのは必然的な流れ、かも」

 なんだか2人で協力してなんでもない方向に結論を持ってこうとしているようにも感じるが断じてそういうことではない。


 その証拠に私は疑問があればそれを黙殺せずに明るみに出す。

「あのう、つかぬことをお伺いしますが」

「なんでしょうか」

「就寝時はどのような格好をするのが普通でしょうか」

 現状を鑑みればこれは当然の疑問だ。

「パジャマを着ることがほとんどですね。ホテルなら備え付けの浴衣に着替えます」

「私も同じです。全裸で寝る習慣はありません」

 例えその疑問が解決されることがなかったとしても提起することに意味はあるものだ、多分おそらく。


 謎は増えていく一方なのに肝心なところに足を踏み入れなくてはいけない状況に私たちは追い込まれていく。気まずい沈黙を破ってそこに切り込んでくれたのは彼女の方だった。

「えっちなことしたら感覚的にわかるって話あるじゃないですか」

「うっすら聞いたことがありますね」

「昨日やっちゃったなって感覚ありますか」

 やっちゃったのか、やっちゃってないのか。

 つまるところ大事なのはその1点に限られる。状況だけ見ればあきらかにやっちゃってるが、やっちゃってない可能性だって残っている。

 私はもう一度、目覚めた時の自分の身体の感覚を思い出して、それから嘘偽りない答えを吐き出した。

「わかんないです。やったことないので」


 あなたはどうなのですか? その逆質問は口に出さずとも彼女に十分に伝わっていた。

 このとき私は彼女のことをそこまで信用していなかったが、その彼女の思うままに真実を決めてくれるならそれでいいやという気分だった。それぐらいどっちなんだかわからない状態というのは居心地の悪いものだったから。まあ今となっては彼女は嘘をついていなかったと十分に信用できるわけだけれど。

 変に緊張した空気の中、彼女は深く息を吸い込んでから、質問に答えてくれた。

「同じくやったのかやってないのか、やったことないからわかんないです」


 結局しちゃったのかしちゃってないのか曖昧なままその日は別れた。連絡先だけ交換して。しっかり約束した上で先の飲み屋で再会して、それからなんだかんだあって、あの日は特に何もなかったんだということに2人して同時に気づくことになったのは、そこそこに長い時間が流れてからの話である。

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