第2話 別離

 ある日、いつものように気ままに泳いでいると、遠くに小舟が見えました。

「まぁ!見て、クラゲさん。あれが人間よ」

 小舟の上には船頭の他に、何やら奇妙な出で立ちの男が乗っていました。真っ白な狩衣に烏帽子を被り、顔には不気味な一つ目模様の仮面をつけています。

「変な格好ね。神事か何かかしら。」

 しばらくすると、男は扇を取り出して、舟の上で舞を踊り始めました。キレのある、演武のような動きでした。

 クラゲが見とれていると、人魚がクラゲの腕をぎゅっとつかんできました。人魚の方を見ると、何やら様子がおかしくなっています。ガタガタと振るえ、歯の根が合っていません。


 ………?どうしたの?


「怖いの……怖いわ……。何か来る……来ちゃいけないものが来る………」


 来ちゃいけないもの?


「呼んでるの……あいつが……どうしよう、逃げなきゃ、逃げなきゃ…」


 はっと下を見下ろしました。海の底から巨大な、巨大な何かが血走った目でふたりを覗いています。…いいえ、それだけではありません。だんだんと近づいてきます。

 その場を離れようと泳ぎ始めた時にはもう遅く、墨のように真っ黒な、柱のように巨大な腕が、水面から天高く突き上げられました。


 嵐が起きました。どす黒い潮の流れが、ぐるぐると渦を巻いてふたりを襲いました。人魚はある程度水の流れに逆らえますが、クラゲはそうはいきません。あっという間に流されて、彼方へと遠ざかる悲鳴と共に、人魚の姿が見えなくなりました。


 いつしか、嵐が止みました。クラゲは深い傷を負ったので、一度生まれ直して体を癒しました。そしてすぐに人魚を探しに行きました。

 途中で大きな蛸に出会いました。不思議な術を使う、人喰いの蛸です。

「人魚!人魚とな!くはははは!助けるのは諦めよ諦めよ」


 ………どうして?


「人魚の肉はな、それはそれは貴重な触媒になるのだ。我とお前のような魔性の者が食えば強大なる力を、人が食えば不老不死と力を得られるという。髪も、目玉も、鱗一つさえも呪術に使える。

 欠片でも喰らえば、知恵無き者に知恵を与える程の力を持つそうじゃてなぁ。

 人か魔性の者かは知らぬが、捕えられていればきっと今ごろ骨の一片も残っておらぬだろうよ。」


 ……………でも、今までそんなものに襲われたことはなかった。


「くっはっはっは!そりゃあお前さんがいたからじゃろうて。我含め、策もなしにクラゲなぞ襲うのはまっぴら。食うつもりが食われるなぞ実に割に合わぬ!」


 …………。


「だがどうしても探したいというならば、一つ目の仮面とやらには心当たりがないでもない………。助けた暁には、見返りに鱗の一つかお前さんの腕の一本でも戴こうか。」


 クラゲは、ゆっくりと頷きました。


 気がつくと、浜辺に寝そべっていました。体を見下ろすと、肉でできた固い2本の脚がありました。蛸に術をかけてもらい人間に化けたのです。

 ただし、誤魔化したのは見た目だけ。言葉はわかりますが話すことは今まで通りできません。

 ふらふらと立ち上がって、何度も転ぶうちに歩けるようになりました。

 何日も休まず歩き続けました。人魚の顔が、声が、心の奥でちりちりと焼き付いています。

 陸で生きる人間を見ました。家も、村も、山も、初めて見ました。けれどその全てに目もくれませんでした。何も美しいと思いませんでした。一人で見る世界は、何も、何一つ、クラゲにとっては意味がありませんでした。何度か追い剥ぎや魔性の者に襲われましたが、全て片手間に蹴散らして喰らいました。そうして、殺した者の荷物を奪って旅人に扮しました。

 山をいくつか越えてたどり着いたのは、とある海辺の村でした。入り口には幾重にも結界が張られていましたが、通り抜けるのは造作もないことでした。海の方にはさらに厳重な結界があるようだったのを見るに、クラゲがここに来ようとすることくらいは予想していたようですが、まさか山道から来るとは思っていなかったようです。

 雲一つない夜空には、丸い月が浮かんでいました。

 村のあちこちに篝火が焚かれ、太鼓の音が聞こえてきます。ちょうど祭りがあったようで、みな、みな一様に、大人も、老人も、走り回る子供さえも、一様に、一つ目模様の面を被っていました。反吐が出そうになるのを我慢しながら、見つからないように向こうの山の屋敷へ向かいました。

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