睡蓮

@ueda-akihito

睡蓮

「困ってる人を見ても、助けたりしちゃ、いけないんだぜ。自分にとって、命取りになるからね」

 夏っぽい夜風を感じると、いつも思い出される言葉だ。

 その言葉を耳にした時、俺はまだ八歳で、社宅に住んでいた。マンションの三階。その夜、俺は珍しく度の過ぎた悪戯をして、お仕置としてベランダに閉め出されていた。後にも先にも、そこまでの仕置を受けた事はない。

 多分、当時の俺は夏休みを目前にして高揚していたのだ。何を思ったのか、父の部屋から車の鍵を拝借して、運転席に座った。そして、見様見真似で車を走らせたのだ。駐車場の中だけの話だったし、自転車よりもノロノロとした速度だったから、そこまで叱られるとは思わなかった。

 叱られる事に慣れていなかった俺は、大きなショックを受けた。十七年経った今でも、よく覚えているくらいに。

 あの夜、ベランダで俺がひとり、打ちひしがれていた時、隣の家の網戸がガラガラと鳴った。続いて、蒸し暑い空気を割くような、シュパッという音。目をむけると、向こうもこちらを見ていた。

スッと背の高い、薄い体。少し外国人風の顔立ち。湿った夜に、赤い点のような輝きがくっきりと見えた。独特の香りが鼻をつく。先程の空気を割くような音は、ライターだったのだと知った。淡い煙が夏に溶けていくのがキレイだった。

「なんか、悪さでもしたのかね」

 ふ、ふ、と息を短く吐くように笑われた。

「別に……お父さんの車……ちょっと乗っただけ」

 俺が答えると、また笑われた。静かに、無気力な風に、笑われた。隣の家に住んでいたその人は、ちょっと変わっていた。当時、十五歳。タバコを吸って良い年齢でもなかった。

「ちょっと乗っただけって思ってんのならばね、もっと堂々としてな。そんな泣きそうな面してたら反省してるって勘違いされんぜ」

「だって、早く家、入りたいし……」

 俺はその時、自分より七歳年上のこのお兄さんが、自分を助けてはくれないだろうかと期待した。よく母から「隣の森村さんのお家とは仲良くね、お父さんの仕事仲間の人だからね」と言われていた。このお兄さんが、父か母に掛け合ってくれたら、俺は許されるのではないかと思った。思っただけだ。口には出していない。それなのに、彼は俺の内心を全て見透かしたように言ったのだ。

「助けたりしちゃ、いけないんだぜ」

 不思議な言い回しだった。戒めのようでもあり、諦観のようでもあった。結局、俺は一時間程をベランダで過ごし、許された。

 森村のお兄さんは、タバコを吸い終えた後も、家には入らず、ずっと外に居てくれた。

 特に何も、話さなかった。ただ居ただけ。彼は、暗い人ではなかったけれど、無口だった気がする。今、思い返してみても、会話らしい会話は、あまりした事がなかった。

 幼い頃から俺は、「人に優しく」「思いやりを持って」「相手の立場で考えて」と教えられてきた。母は俺を「豊(ゆたか)」と名付けた。人に何かを与えられるような、豊かな人間に育つようにと願って。

 俺は、母の願いが悪いものだとは思わない。二十五歳になった今も、困っている人を見かけたら、なるべく声を掛けるようにしている。

 そういう自分は嫌いではない。助け合いは、人として大切な事だと思う。けれど、心の奥の方でいつも思う。俺が助けなきゃいけないっていうわけでもないんだよなぁ、と。

 仕事の移動で急いでいる時、残業が続いて疲れている時。そういう時に限って、蹲っている人に遭遇したり、立ち往生しているお年寄りを見つけたりしてしまう。別に俺でなくても、と思う。のに。

 見て見ぬフリは、悪い事だと教えられた。けれど、それを言ったらこの世の中は悪人ばかりではないか。きっと誰かが手を貸すだろうと信じて何もしないのは、俺には耐えられない。だから、見てしまったら、助けられる範囲で、できる事をするしかない。

 でも、何故だろう。なんだか乾いていく一方だと最近思う。自分が豊かになっている実感がない。夏を迎える度に思い出す、隣の家のお兄さんの言葉ばかり、毎年、鮮やかになっていく。あれは真実にはどういう意味だったのだろうと考える。

「誠意のない、義務っぽい人助けなんて、自分のためにならないってことじゃない?」

 幼馴染で同じ社宅に住んでいた佐野円(まどか)は、そう答えた。円も森村のお兄さんを知っていた。そして円は、森村さんに負けず劣らずの変わり者だった。

「そんな普通の話じゃない気がするけど……」

 俺は、円なら森村さんの気持ちもピタリと言い当てるかもしれないと期待していて、けれどその期待は裏切られた。思えば俺はいつも期待している。何かを。そして裏切られて、失望して、乾いていく。

 日々を真面目に生き、仕事をし、人に優しくして、相手を思いやって。それでもちっとも豊かだと思えないのは、周りの人たちが俺に同じだけを返してくれないからではないかと思い、お兄さんの声が蘇り、じゃぁ、もう誰も助けなければ良いと思い、お兄さんの笑い声が蘇る。あの人は、決して楽しそうではなかった。いつも、常に。どこか退屈そうだった。今はどうしているのだろう。あの社宅は七年前に取り壊された。

 ただ、成人式の時、久しぶりに会った円が「私、釈花(しゃか)くんと結婚した」と言っていた。森村のお兄さんは、釈花という名前だった。

 俺はびっくりしたけれど、すぐに納得した。二人は、なんだか溶け合っている気がした。どこかいつも冷たさがあって、落ち着いていて、そして変な魅力がある。

 俺は多分、幼かったあの頃、少しだけ円のことが好きで、同じように釈花くんが好きだった。でも二人は俺に、あまり興味を持っていなかったと思う。

「俺って、なんかずっと、いつも、片想いみたいだな……」

 夏の風に、前髪が揺れた。タバコに火を点けて、深く息を吸う。あの時、釈花くんの吸っていたタバコの匂いは、妙に甘かった。あの夜以来、同じ香りに行き当たった事は、一度もない。


 十ヵ月と十日で、母の腹から飛び出したと思ったら、今度は地球というデカい箱の内側だった。

 その事に気付いてガッカリしたのは、まだ私が五歳くらいの頃だったと思う。私はどうしてだか「自由」という言葉に、妙に固執していて、ずっとその正体を探っていた。

「やっぱり宇宙に行くしかないかなぁ」

「円の理論で言ったら、宇宙に行っても、それって宇宙の内側ってことにならない?」

 幼馴染の豊は、いつも私のグルグルしたぼやきに付き合ってくれた。他人に優しくあれ、と躾けられていた彼は、いつも不服そうに人助けをしている風に見えた。

 小学校、低学年の頃だったと思う。彼は同級生から「先生に褒めてもらいたがりの弱虫」とからかわれて、車を運転するという、その年齢にしては大胆な悪戯をした。今でもよく覚えているのは、あの時の豊の瞳が、キラキラと印象的に輝いていたことだ。そこには、力強く、自由の風が吹いていた。

「何かの内側にいる限り、私に自由なんてないのかな」

 高校生になった時、私はそういう結論を出した。属する事が嫌いで、不登校気味、友達も少なかったけれど、不満はなかった。不安もなかった。ただ自由が欲しかった。

「バカだなぁ。人間にはハナから自由なんて与えられてないんだぜ。産まれてくるモンを間違えたな」

 同じ社宅に住んでいて、いつも暇そうにしていた七歳年上の釈花くん。学校をサボってマンションの屋上でぼんやりしている時、よく会った。

「じゃぁ、何に産まれたら良かったかな」

 自由は、ナニが握っているのだろう。

「そりゃ、アレだろう、神だろう」

 釈花くんは言った。常識だろう、と言わんばかりの口調だった。

「だったら私は神になりたかった」

 夏のはじめの青い空に、私の声は力なく消えていくばかりだった。

「簡単な方法がひとつあるぜ。円でも神になれる方法」

 釈花くんは言った。抑揚のない、気力のない声。けれど独特に響く。少しザラついている、耳に心地良い声。

「どんな? 私、なんでもする」

 私は笑って言った。そんな方法はないとわかっていたけれど、釈花くんが何と答えるのか聞きたかった。

「じゃぁ、オレと恋愛でもしてみるかい」

 釈花くんは言った。私は目をパチパチさせて首を傾げた。想像していたのとは違った衝撃があった。

「……釈花くん、私のこと好きなの?」

 言葉にすると急に照れた。誰かに好意を寄せられたことなんて初めてだった。

「別に好きじゃないさ。でも、愛を知って育んで、子を成す、とか、そういうのが神なんじゃないのかね。人間を、創る側になるんだぜ」

 私は、自分の胸に小さなトキメキがあるのを感じた。神は、人を創った。私も、人を、創れる。私だって、別に釈花くんを特別に好きなわけではなかった。それでも構わなかった。そもそも「好き」ってなんだよ、と思っていたし、それよりもずっと、私は神になりたかった。

 その後、十九の時に私は釈花くんと結婚した。愛は多分、あまりなかったけれど、互いに対する情はあったと思う。私は、妻という枠に入れ込まれ、ますます自由を失った気がしていた。結婚直後は特に。強く息苦しさを覚えて、何度も離婚したいと思った。

「円は、自由ってどんなもんだと思ってる?」

 何度目かの離婚の申し出の時、釈花くんは私に尋ねた。私は、なぜ釈花くんが離婚に応じてくれないのか不思議でならなかった。

「何ものにも干渉されない状態が自由なんじゃない?」

 私は不貞腐れた顔をして答えた。

「それって死ぬ事と同じに聞こえるぜ。円は自由の何たるかを、もっと考えた方が良い」

 釈花くんは、この世の全てを知っているみたいな口調で言った。それこそ神様みたいな、遠く、高い所から人間を見ているような態度だった。

 私は再び自由を見つめた。考えた。ずっと。ずっと考えている。答えは、いつも見つからなかった。

 今年、結婚して六年目。私はついに神となっていた。お腹の中に、自分ではない命を宿している。

「……不思議……」

 夏になると、いつも思い出す。青い空に、夫の、釈花くんの声が淡く溶ける。彼と恋愛ごっこをはじめた日のこと。

 結婚をして、妻になって、子を成して、私はどんどん不自由になっていく。どんどん自由から離れていく。

 なのに、どうしてだろう。人生で一番、今、満ちている。自分のお腹の内側がモゾモゾと動くたび、満ちていると感じる。その心の充足は、私の求める自由に繋がっている。私がずっと、欲しかったもの。

「不自由の中に、自由はあったのか……」

 クーラーの効いた狭いリビングで、私は詩人のように呟いた。小さなアパート。駅からも遠くて不便だけれど、陽当たりが良くて、周囲に緑が沢山ある。

 私の求めていたものは、宇宙にいかなくても、本物の神様にならなくても、いつでも側にあったのだと、ようやく気付く。不自由の中でチカチカしている一粒の自由が美しいと気付く。

 そもそも、私は自由になって、何がしたかったのだろう。何を欲していたのか。

「……私、ずっと幸せになりたかった……」

 また呟いた。幸せ、幸せか。幸せなら、今、ここに。

 子供ができたと知った時から、手のひらが温かくて、血が巡っている気がするのだ。私の中で、命が瞬いている。別に子供が欲しかったわけではなかった。別に釈花くんを愛しているわけでもなかった。私は、私ひとりが自由でいられたら、それで良かった。それが望みだった。私ひとりが幸せでいられたら、それで良かった。それが望みだった。ひとりで良いから、つまり誰もいらないと思っていた。

「はやく……出ておいで……」

 私は自分の内側に話しかける。この不自由な世界で、一緒に生きていくことになる、新しい命へ。産まれてきたら、アナタは何を望むだろうか。

 なんでも良い。何かを求めて欲しいと願う。渇きや飢えや渇望は、生きるためのエネルギーになる。

 私は釈花くんに、夫に、生かして貰ったのだと思う。不自由な環境の中で、自由を求めてジタバタしていたから、私は今まで生きてこられた。一生懸命に、目には見えない何かに、手を伸ばして。いつの間にかココにいた。そうやって生きていく中で、何度か自由のカケラを、他者の中に見つけたりもした。皆、それぞれに、不自由そうで、だからこそ一瞬の輝きが美しかった。

「円は実のところ、欲張りだからなぁ。かなり長生きをすると思うぜ、オレは」

 釈花くんが、いつか私にそう言った。言われた時はムッとしたけれど、今は納得している。私はただ、欲張りでワガママな子供だっただけなのだろう。自由過ぎて、不自由だった。そのことに気付かず、勝手に深刻ぶって、勝手に悩み、苦しんでいた。

 生きる事は、自由になるまでの過程なのだろうと、ようやく腑に落ちたように思う。いつか、何もかもを手放して、人は死んでいく。その時、きっと永遠の自由と安らぎみたいなものを手に入れる。夫はずっと前から、私にそれを教えてくれていた。

「あの人、ほんとは頭良いのかも」

 私は言いながら、笑った。釈花くんは日課の散歩に出掛けている。仕事はしたり、しなかったり。私も同じようなもの。それでもやっていけるのは、釈花くんのお父さんの遺産があるから。様々な不満はあれども、不安はない。私たちは恵まれている。そして、恵まれているからこそ、変なところで躓くのだろう。頭の中が暇なのかもしれない。

 子育てが始まれば、自由とか、なんとか。言っている場合ではなくなると聞く。なにしろ、はじめて尽くしだ。自分の時間なんて、ちっとも取れないらしい。不自由の極み。でも、これ以上ないくらい、今の私に、未来は光に満ちて見えている。


 退屈は地続きで、どこまで行っても果てなく、果てないという事は、つまりずっと退屈なままということだ。

 楽しい事は、空の上とか、宇宙のその先とか、ほとんど行けないところ、または、空気とか光とか、ほとんど見えない、触れられないところにあって、人間は、生きている限り、辿り着けない。

 そういう仕組みだから、人間は生きている間中、何かを求めたり、無意味に足掻いたり、全てに疲れたりして、退屈の海を泳いでいくより他にない。そう思っている。

 しかし、そんな仕組みの中でも、心が動く瞬間がある。人の、不幸を見ている時だ。他人の不幸は、適度に辛く、それなりに苦しく、でも自分には害がなくて、ドキドキする。困っている人は、困っていない人のエサなのだ。心の、エサ。そういう、クソみたいな世界を生きている。

 全員が幸せな国で生きたかった、幼い頃にそう思った。そんな国がないのなら、全員が幸せなフリを上手くやれるように教育して欲しかった。そうすれば、誰もエサにならずに済む。エサを失って、心からジワジワと人間は絶滅すれば良い。

 オレは釈花という名前を与えられたけれど、母親はハーフで、キリスト教の人だった。父は無宗教の極みのような、ただただ人間臭い人だった。

 幼い頃から全てを諦めていた。諍いの絶えない家で、怒声を浴びながら育った。特に暴力を振るわれる事はなかったけれど、泣くことは許されなかった。

「下らない事で泣くな、馬鹿らしい」

 父親の口癖は「下らない」「馬鹿らしい」だった。何を見ても、何をしても「下らない」と鼻で嗤うし、自分よりも不幸な人を見ると心底楽しそうな顔をして「馬鹿らしい」と言った。そして、気にくわない事があると、とにかく怒鳴った。そんなだから、オレも母親も、呆れ果ててどんどん無口になっていった。

「森村さんの旦那さん、素敵よねぇ。お仕事も出来て、同じ会社なのにウチの主人の倍くらいお給料を貰っていて……」

 外面ばかり良かった父親だ。社宅に住んでいる人らは夜中に聞こえてくるあの怒声を、誰のものだと思っているんだろう。

「困ってる人を見ても、助けたりしちゃ、いけないんだぜ」

 いつか、隣の家に住んでいたチビに教えてやった。それはこの世の理なんかじゃない。オレにとって、困っている人や不幸な人は父親の機嫌を取るための大切なエサだった。困っている人がいる限り、父は機嫌良く、オレには怒鳴らない。

「下らないぜ」

 いつの間にか移っていた父親の口癖は、自分で口にすると切なくなった。胸が圧迫されるようなリアル。父親を、嫌いになり切れない気持ちがせり上がってくる。だってこの世は、下らない事ばかりで出来ている。父の口癖も、仕方ないとさえ思える。

 十歳あたりで身に染みてしまったタバコの味と退屈の味、諦めの味。父親の機嫌が悪くなる度、オレは母親を犠牲に、ひとり、ベランダに出ていた。母を助ける気は、ちっともなかった。自分で選んで結婚したんだ。自業自得だとしか思わなかった。オレが十五の時、母親は出ていった。細かい成り行きは知らないけれど、父は「離婚したからアイツはもう他人」と薄く笑ってオレに言った。オレも「へぇ」としか答えなかった。

 その頃、オレはひとつの疑問を抱いていた。人間というイキモノは、なぜ生きるのか。生き甲斐とかはどうでも良い。そうではなく、オレは自分の本能の部分を見つめたかった。

 こんなオレの中にも、何かしらの光みたいなものがあるから、今、生きているのではないか。そうでなければ、とっくに自殺でもしてこの世から退場していてオカシくない。

 死ぬ事を怖いとも、面倒とも思わない。生きる事が同じくらい怖くて面倒だから。だったら、どうして生きているのか。ただなんとなく、産まれてしまったから、ココにいるというだけなのか。

 そんな事を、日々、退屈しのぎに考えていると、ぼやけた答えが浮いてきた。

「オレと恋愛でもしてみるかい」

 あんな父親でさえ、結婚できた。家族を持っていた。会社に勤めて、人と関わっていた。オレはどうなんだろう、と疑問に思った。オレに恋愛は出来るのか。オレは家族というものを持てるのか。

 産まれて初めて「挑戦」という言葉が体を巡った。トットッと軽く心臓が鳴った。もし、恋愛をし、結婚をし、子を成せたら。繁殖という意味では生きている理由を見つけられる。相手は誰でも良かった。

 円が高校を卒業した一年後に、結婚をした。その年の暮れに父親が死んだ。車の単独事故だと言われたけれど、アレは自殺だったとオレは思う。父は、浪費家ではなかった。遺されたモノは多く、その金額に不覚にも泣いた。

 幼い頃から泣かない訓練ばかりをしてきたせいで、涙を流すと酷く疲れた。愛、のような形をしたものが、父にも、あったのだろうか。子を、オレを、想って、これだけのモノを、遺したのだろうか。本当のところは、もうわからない。オレは最後まで父のことも、母のことも、わからなかった。

「私、ついに神になったみたい」

 結婚して数年の後、円が言った。この妻は、普段からどこか遠くを見ていて、現実をあまり知らずに無垢だった。そこが気に入っていた。クソみたいな世界を見つめて「下らない」と呟くより、夢見がちな方がずっと健全に思えた。

 そんな妻が、妙に目を据えて言うものだから、オレは数秒、黙った。そして、ああ、と理解した。身に、覚えがある。

「……無事、産まれると良い」

 頭を捻って出たのがそれだった。

「そうだねぇ。はじめて過ぎて、何をどうして良いか、全然わかんないの。嬉しくも悲しくもない。釈花くんは?」

 円は言った。オレは笑った。

「オレなんか、もっとわかんないぜ。何しろ他人事だ。オレの腹にはなんもいない。産まれてくる事が良い事かどうかだって、オレにはわからんぜ」

 円は、深く呼吸をして、ただ数回頷いていた。その顔は、ほんの小さく、笑っていたように見えた。

 そこに誰かの面影があった。それが自分の母親の顔だと気付いたのは、その日から随分経った後だった。円が母になっていく姿を、オレは外側からジッと見ていた。

 夏が近づき、円の腹が本格的に大きくなると、オレはよく散歩に出掛けるようになった。あの腹の中に、人間が居ると思うと、妙にソワソワした。直視すると、自分の中から知らない感情が湧いてきて、その感情を整理するため、当てなく歩いた。

 その日も、いつものように散歩をしていた。川沿いを、空を見ながらふらふらしていると、なんでもない日常を送る町を背景に、高い叫び声が響いた。あまりに高い音で、最初は猫が喧嘩をしているのかと思った。

 なんとなしに目を向けると、川でひとりの子供が溺れていた。岸にはもうひとり子供がいて、何やら木の枝のようなものを相手に差し出している。同時にギャーギャーと叫び声もあげている。よくよく耳を傾けると、ようやく「誰か」「助けて」と言っているのがわかった。

 瞬間、体がカッと熱くなって、脳裏に父の声が蘇った。

「困ってるヤツを見ても、絶対助けようとするな。相手にとっても、自分にとっても、命取りになる」

 オレは、この光景を知っていた。溺れていたのは、昔、仲の良かった友達で、枝を差し出していたのはオレだった。

 あの日、オレはまだ八歳で、溺れた友達は力一杯に枝を掴んだ。掴んで引っ張って、結局オレも川に落ちた。助けてくれたのは、父だった。ずぶ濡れで泣きじゃくるオレに、父は、

「子供のくせに困ってるヤツをひとりで助けようとするな」

 と、大声で言った。そして、

「下らない事で泣くな、馬鹿らしい」

 と、いつもの調子で付け加えた。今の今まで忘れていた。理不尽に怒鳴られ続けた記憶ばかりはっきり覚えていて、たった一度の、その記憶は、今の今まで、地中深くに沈み込んでいた。忘れていた。ずぶ濡れになった、父の、あの顔。

「いやぁ……勘弁してくれ……」

 思わず笑ってしまった。笑ってしまったけれど、泣きそうだった。

 気付けば走っていた。ああ、泳ぐのなんて高校以来だ、と思いながら走った。父の顔と、母の顔と、円の顔が交互に夏空に透けて光った。

 もうすぐ、子供が産まれる。オレの子供。産まれたら、どうなるのか。わからないけれど、怒鳴ることだけはしないでおこうと思っている。走りながら、父に、顔を見せたかったかもしれないと、はじめて思った。

 オレは、助けてやりたかったのだ。ずっと。子供の頃の何もかもを諦めているオレ自身を。助けてやりたいと思っていた。そして同時に、そんな事は不可能だとわかっていた。

 でも、今は思う。大丈夫。ぼんやりと、無責任に、人並みから外れていても。諦めることばかりに慣れていても。どんなに退屈な人生だと思っていても、生きてさえいれば、ほんの時折、人生は光る。一瞬のことかもしれないけれど、忘れられない色彩で、思いもよらぬ方向から。閃光のように、鋭く。

 自分が自分という人間で、良かったのだと思える時が、必ず訪れる。きっと。誰にでも。


 昼よりも少し前の時間、母からの電話で起こされた。

「昔、社宅で仲良くしてた円ちゃん、覚えてるでしょ? もうすぐ赤ちゃん産まれるんですって。お祝いに何か送らなきゃと思って。豊も少し出しなさいよ、お金。旦那さんもほら、森村さんのところの息子さん。あの子にもよく遊んで貰ってたわよねぇ。懐かしい。お父さんは事故で、残念だったけど……」

 俺は寝起きでフワフワする頭を抱えながら、母の言葉に、ただ「うん、うん」と答えていた。

 昨夜は会社の先輩に、暑気払いを称して飲みに連行された。帰宅した時には日付けを跨いでいて、心底ゲンナリしたものだった。

「豊、なんか疲れてる? もう夏バテ?」

 母に心配そうな声を出されて、再びゲンナリする。面倒臭いと思いながら、

「そんな事ないし。元気だよ」

 と、半分開き切らない目のままで、声だけ張った。

 眠気覚ましに、なんとなくテレビをつける。面白い番組は特になく、仕方ないのでニュースを選んだ。キャスターが深刻そうな顔で、水の事故が増加している事を伝えている。

 毎年、夏休みに入ると途端に増える、水場が関係している事故。海や川、プール、ほんの十センチの浅瀬でも、人は死んでしまう事があるらしい。

 ニュースでは、子供を助けようとして川に飛び込んだ男性が亡くなったと報道された。

 その時、急に、独特の笑い声が思い出された。耳元からは相変わらず母の声が聞こえているはずなのに、俺の頭の奥の方、深い所から、

「困ってる人を見ても、助けたりしちゃ、いけないんだぜ」

 釈花くんの声が、妙にまろやかに、甘く、優しく響いてきた。澄んだ青空、遠くで鳴っている鐘の音みたいに、暫くの間、ずっと、遠く、近く、響き続けていた。

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