さみしくない人々

@ueda-akihito

さみしくない人々

最近、なんだかツイていない。

最近、なんだか気持ちが晴れない。

そんな人がもしいるとしたら、今のオレと比較してみて欲しい。

比較してみた時「ああ、私の方がまだマシだな」なんて思って貰えたなら幸いだ。

「さっっっむっ!」

一月も終わりに差し掛かろうとしている本日。

天候は、雨。というか、これはもしかして、雨というよりも霙(みぞれ)なのかもしれない。

場所は、眠らぬ街と名高い新宿……の、ここはどの辺りだろうか。

行くあてもなく彷徨っていたので、ここがどの辺りかはよくわからない。

スマートフォンは持っているけれど、先ほど充電が切れたようで、今は黒い画面のまま、完全に沈黙している。

時刻は深夜。腕時計はちゃんと働いていて、二時を示している。

吐く息が白いし、鼻が冷えすぎていて痛いくらいだ。

傘は持っていない。体中がびしょ濡れで、時折すれ違う人がギョッとした目でオレを見ていく。

ああ、鼻水が凍りそうだし、なんなら虚しさに滲む涙さえも凍りそうである。

傘くらいコンビニで買えば良いだろうと思われるだろうが、残念なことにオレは財布を持っていない。

一文無しだ。

「これ……ぜったい、朝までに、死ぬっ……」

自分の体を両手で抱きしめるようにして擦る。

ちょっぴり高かったスーツは素材が良いせいだろうか。

表面がツルツルしていて、手のひらが触れると余計に冷たくて。

暖を取ろうとしたはずが、逆効果だ。背中全体がゾクッとなった。

ここまで最悪な状況というのも、なかなかないだろうと思うのだが、どうだろうか。

オレのこの状況が、ほんの少しはどこかの誰かの慰めになっていたら良いのだが。

(いやいや……もう、どこかの誰かのことは、どうでもいいから……)

まずは自分の生命の確保を考えなくてはならない。

しかし、手足は悴(かじか)み、おまけに空腹、全身が震えているし、雨にあたって歩くのもツラい状態で、頭がちっとも働かない。

地元でもないこの街で、知り合いなどいるわけもなく。

「こんな、時代に、凍死、なんて……」

まだハタチになったばっかりなのに。

ブツブツと独り言が漏れていく。

「切ないにも程があ……」

程がある、と思ったところで、目の前の道がぼんやりと明るく見えた。

深夜、薄暗い道を、雨が目に入るのが痛くて、ずっと下を向いて歩いていた。

眠らぬ街と言っても、深夜二時に明かりをつけている店は少ない。

だから足下に柔らかいオレンジ色の光が見えた時、ほとんど反射的に顔を上げたのだ。

東京の、真っ暗にはならない夜。灰色の道に淡くこぼれたような光。

目を向けると、そこは何かの店のようで。

そして、光の中で、ヒョロリと細長い人影が揺れた。

「……君は、雨に打たれる修行でもしてるの?」

影が声を発した。ゆったりとした口調。高くも低くもない、まろやかな声。

「でも……修行僧にしては、派手なスーツですね」

おかしさを堪えるように言われて、思わずオレは「あのっ、」と声を出した。

「オレ、修行してるわけじゃないっす……傘、なくて」

「……コンビニなら、次の角を曲がったところにありますよ」

影の人は親切にも指で示しながら教えてくれた。

室内の明かりが逆光になっていて、オレの目には影絵が動いているようにしか見えない。

「いやあの、金も、その、ないんです、よね……」

相手の顔色も表情も見えないので、話しにくい。

けれど、いよいよ本当に凍死寸前というところまで来ている気がするのだ。

藁にも縋る気持ちというのは、こういうことを言うのだと実感した。

「……もしかして、困っていますか?」

影が首を傾げた。オレは急いで「困ってます!」と言った。

勢い込みすぎて大声になってしまって、ああ、まだ元気あるな、と苦笑いが浮かんだ。

「困っているなら、雨宿りをしますか? 別に人助けは趣味じゃないけれど、この状況で放っておけるほど冷血なつもりもないですから」

手招きをされているようだった。

オレは心の中で「助かった!」と叫びながら、明かりが灯る方へと駆け寄った。

そこは、細長い感じの雑居ビルだった。アンティーク調と言えば聞こえは良いが、要するに古い感じのするビルである。

遠目にも何かの店のようだとは思ったけれど、近寄ってすぐに「花屋」だと理解した。

なによりも先に青臭いような、植物の香りが鼻先に届いたからだ。

入り口は木製の押し戸で、ドアノブは鈍い金色をしていた。

建物の庇(ひさし)部分に入ると、ようやく打ち据えてくる雨から逃れられてホッと息をついた。

「びしょ濡れだね。タオルが必要?」

すぐ近くで響く声に、オレは顔を向けた。

やっと、影の主の顔が見えた、見え、見えな、見えないな?

「……前髪、切らないんですか……?」

オレの目の前には、前髪をまるで簾(すだれ)のように伸ばして、顔の半分以上を覆ってしまっている男がいた。

身長はオレよりも低いし、全体的に細身だけれど、紛れもなく男だ。そう、紛れもなく。

真っ直ぐで癖のない黒髪。つやつやとしていて清潔そうだが、それより何より、邪魔ではないのだろうか。こちらからは相手の目が全く見えない。

「ああ、良いんですよ別に。見えてるから」

言いながらも彼は自分の前髪の、真ん中あたりを一部分摘んで、左耳にかけた。

ようやく片方だけ見えた目は、切れ長で、長い睫に縁取られている。

目の覚めるようなイケメンというわけではないが、スッキリサラリとして整っている顔だ。

「こうして見ると、修行僧というより捨てられた子犬だったね」

彼はクククと喉の奥の方で笑った。

「やっぱり見えてないんじゃないですか、ソレ」

オレは文句を言ったけれど、せっかく雨宿りをさせてもらえる場所を見つけたのだ。文句よりも感謝を述べるべきだと思い直した。

「あ、あの……すみません、本当に、死ぬかと思っていて……助かりました」

頭を下げると、髪からパタパタと水滴が落ちていった。

「もうしばらくしたら、雪になるかもって予報で言っていた気がします。死ななくて良かったね」

彼は口元だけに笑みを浮かべて言った。

その笑い方は、なんとも機械的な雰囲気だった。

一見、具合が悪そうにも見える白い肌がツルリとしていて、そこもまた、ロボットっぽい感じがした。

「どうぞ」と促されて、オレは木製の扉の内側へと入れてもらった。

オレとしては、そこで「はぁー、あったかい……」となることを期待したのだが。

「さっ、む……!」

室内に入った途端、濡れた体にブルリと震えが走った。

扉の内側は、外ほどとは言わないまでも、かなり冷やされている状態だったのだ。

「え、ちょっ、これ、冷房入ってます?」

「入ってるね」

彼までも涼しげな顔をして言うものだから、オレは白目を剥きそうになった。雪の予報が出ている日に、どうして冷房なんて入れているのか、頭がおかしい人なのか。

「見ての通り、ウチは花屋なものでね。人間風情よりも花優位の環境に整えているから」

「……人間、風情……」

「でもまぁ、ここで凍死してもらっても困るし。それに、今、一応営業中だから……ずぶ濡れの人がいると、他のお客さんも入りにくいよね」

彼は淡々と言うと「おいで」とオレに言った。

店の奥には階段があった。

「一階と二階は花があるから冷やしてあるんだけれど、三階は暖房を入れてあるから」

オレは「暖房」の言葉に涙が出そうになる。大人しく彼の後をついて行った。

階段の前で靴を脱ぐ。黒い革靴はすっかり水を吸って重く歪んでしまっていた。

「あとで新聞紙でも詰めたら?」

「そうしたいところです……」

オレは階段をのぼりながら、彼を観察した。

清潔感のある白いシャツに、クリーム色のコットンパンツを履いている。その上から、藍色のエプロン。背中側から見ると、腰には黒くて細いベルトも巻かれているようだ。

「営業時間、何時までなんですか……?」

「朝の八時までです」

「……営業、開始は……?」

「二十二時から」

オレは何度か瞬きをした。深夜営業の花屋なんて存在すると思わなかったのだ。

「この界隈では結構重宝されるんだよ、深夜営業」

彼はオレに背中を向けたまま言った。オレの困惑がきれいに伝わってしまったようだ。

階段をのぼりきって三階にたどり着くと、彼はパチッと電気をつけてくれた。

そこは居住スペースのようだった。小さなキッチンと冷蔵庫、電子レンジなど。

それに木製のテーブルと椅子。本当に最低限のモノだけが置いてあるといった風だ。

「今、暖房をつけますね。あと狭いけれど風呂、よかったら使って。ああ、タオルがいるって話だったっけ……ちょっと待っててください」

「すみません、何から何まで……」

クォオオという変な音を静かに立てて、暖房が稼働した。

温風が顔にかかる。それから体と足先にも、温かい風が。

「……うぅ……生きてる……良かった……」

涙が出そうだ。温かさに鼻水が容赦なく垂れてきたので、ズズッと啜る。

「はい、タオル。濡れた服はなんか、自分でどうにかして。着替えだけれど、スウェットしかないや。良かったらどうぞ。私は一階にいるので、何かあったら声をかけてください……あと、なにかある?」

彼はツッと視線を上向けて、考える顔をした。オレは「いえいえ、十分です、すみません!」と声を張った。

「悪いね、こういう捨て犬を拾うみたいな行為をしたのは初めてなもんで」

彼は言った。そして、耳にかけていた前髪をハラリと前に落とす。再び、彼の視界は前髪の簾に遮られた。そうされると、コミュニケーションはここで終了、と言われているように思えて、妙に焦った。

「あの、オレのこと、怪しい人間だとは、思わないんですか……?」

オレは恐る恐る尋ねた。ここまで親切にしてもらえるとは思っていなかった。

せいぜい、雨宿りだけだと思っていたのだ。

「怪しいと思っているよ、十分に」

彼は首を傾げる。彼が首を動かすと、前髪もザザザと同じ方向に流れる。風になびく柳の枝葉のようだ。

「でも、素性を知らないのはお互い様でしょう。君は、私のことも知らない。君は私を怪しい人間だとは思わないの?」

「……少し、思ってます」

正直に言うと、彼はアハハと笑った。今までのように含んだ笑い方ではなく、声を出して笑ったので驚いた。

そして、笑い声とオレを残したまま、「じゃぁ、適当にして」と言って彼はさっさと階下へ戻ってしまった。

「……変な、人だ……」

オレは思わず呟く。変な人だし、もしかしたら変態の人かもしれないと思った。

(……ずっと、勃起、してた……間違いなく……)

手招きをされて、彼に近寄った時、たまたま目に入ったのだ。

どちらかと言えば体の線が細い彼を、すぐさま「紛れもなく男」であると悟った理由。

「薄い色のパンツだと、こう……わかりやすい……」

ガッツリと膨らみを見せていた股間を思い出して、なんとも言えない気持ちになる。

オレはゴクリと唾を飲んだ。額あたりが熱い。心臓が、変に鼓動を速めている。

「……とりあえず、風呂……あ、携帯の充電させてもらっても良いかな……いや、勝手にはマズいか、電力泥棒とかになるやつ……? やっぱりアレだ……とりあえず風呂……」

芯から冷えている体と空腹と疲労で、頭がちっとも回らない。

とにかく、雨でびっしょりと濡れて、重く体に張り付いてきているスーツを脱ぐことからはじめることにした。


風呂場と着替え、ついでに洗濯機を借りて、すっかりホカホカになったオレは、そっと一階へとおりた。

階段からそっと店内の様子を伺うと、お客さんが来ているようだ。ピンク色のドレスを着ている逞しい男性が花を選んでいる。

(……うーん、どう考えても女装の人だなぁ……)

別に偏見があるわけではないけれど、身近にそういうタイプの人間がいない。ついつい、興味津々と視線を向けてしまったのがいけなかった。

「あら、店長。誰、あの子」

オレの身長は一八〇センチを越えている。見つからないようにコソコソする方が難しいというものだ。

相手はお客さんなのだから、失礼があってはいけない。オレはペコリと頭を下げた。

「ああ、さっきね、雨に濡れてるところを保護したんです。人助けです」

家主である彼が言った。彼は先ほど「店長」と呼ばれていた。つまり、この花屋は彼の店ということだ。

(まぁ、店の上が居住スペースだし、当然か……)

彼の他に店員の姿は見えない。小さな店だし、彼ひとりで切り盛りをしているのかもしれない。

「なによ、ずいぶん可愛らしい子じゃない。ちょっと坊や、今晩のオカズにペロッと食べられちゃわないように注意しなさいよ」

ピンクドレスのお客さんは、ニッと男前に笑った。よく見れば整った顔立ちをしているイケメンだ。話し声も、低い中に滲む甘さがあって、色っぽい。

(もしかして、もしかしなくても……ココって、二丁目、界隈なのでは……?)

オレは確信に近い気持ちで思った。

ただでさえ新宿という街に慣れていないのに、スマホの充電は切れたままで。

未だにココが新宿のどの辺りなのか、さっぱりだ。

「私は人食いじゃありませんよ」

店長が抑揚のない声で言った。お客さんは、店長を流し目で見つめて。

「アンタ、こーんな股間をボッキッキさせておきながら、説得力のカケラもないわよ」

そう宣った。オレがずっと言いたかった一言だ。心の中で「それそれー!」と全力同意してしまう。

店長は少し申し訳なさそうな声で「すみません、お見苦しくて」と言った。

が、それだけだった。「もっとなんか、あるでしょう!」と、オレは心中ツッコミを入れる。

お客さんも「まぁ、いいけどね」なんて言って、その後、大量にピンクのバラを買って帰って行った。ピンクのドレスにピンクのバラ。ピンク色が好きなのだろうか。

それに、時刻は深夜三時を回っている。こんな時間にバラの花を買ってどうするのだろう。

「朝六時からの午前の部でお店に飾る花を買いに来てるんですよ」

ずっと階段のところに突っ立っていたオレに、店長―いや、絶対にオレより彼の方が年上なのだから、店長「さん」だろう―が言った。

「はい、これどうぞ。新聞紙です。革靴に詰めると良いですよ」

店長さんはオレに古新聞の束を差し出してくれた。オレが「すみません」と言って受け取ると、店長さんは言った。

「花屋なので、古新聞はたくさんあります。切り花を売る時には、水に濡らした古新聞をつけますから。なので、遠慮せずに使ってください」

オレが新聞を詰めている間にも、またお客さんがやって来た。今度は、少々ヤンチャな雰囲気のある若い男性だった。

店長さんにメモを渡していたので、おつかいなのかもしれない。ジッと見ていたら目があって、思い切り睨まれてしまった。

「すみませんね、私ひとりでやっているので、結構忙しくて」

最後までオレを睨みながら、ヤンチャ風なお客さんが帰った後、店長さんが言った。

「いえ、こちらこそ、お忙しいのに助けていただいて……」

オレが頭を下げると、また、店長さんの股間が目に入った。

先ほどよりは落ち着いている様子だが、やはり勃起しているように見える。

オレは再びゴクリと唾を飲んだ。腹の奥の方がグルグルするが、必死に気付かない振りをする。

脳内では、つい数時間前に浴びせられた罵声が蘇る。

『見てんじゃねぇよ、気持ち悪ぃ』

『ってか、サイテーなんですけど、人として』

心の底から軽蔑する視線も、克明に思い出される。心臓の中心が何処かはわからないけれど、心臓の真ん中の奥の辺りがツンツンと痛む気持ちがした。

悪いのはオレだとわかっている。ただオレが悪い、それだけなのだと。

軽く頭を振って、思考を現在に戻す。

店長さんが動き回るほどに、やはり股間の膨らみが目立った。

(それ、抜いてきた方が、良いんじゃないですか、とか、言えるわけねぇ……)

どんなお節介だと自分でも思うので、グッと口を噤む。

店長さんは再び前髪を真ん中で分けるようにして耳にかけた。そして、切れ長の目を探るように細めてオレを見た。少しの緊張が走る。

「君は、あの格好から察するに……路頭に迷ったホストくんで合ってるのかな?」

「えっと、当たらずとも遠からず、です……」

オレは苦笑した。助けてもらっておいて、なんの説明もしないのは人としてどうかと思って、歯切れ悪く言葉を繋げる。

「その、ちょっと事情があって、今日、ホストをクビになっちゃって……ついでに、財布も丸ごと店に、わ、忘れてきちゃって……マジで一円も持ってないし、雨は降ってくるし、もちろん傘もないしで……スマホの充電も切れちゃって、自分が今、どこを歩いてるのかもわかんなくて……あ、オレ、実家暮らしなんですけど、実家は埼玉で。ホストはじめたのもつい最近で……新宿、詳しくなくて……」

店長さんはオレの話を聞いて「へぇ」と言った。あまりにも興味がなさそうだったので、オレは笑ってしまった。都会の人は他人に関心がないと聞いていたけれど、新宿でホストをするようになって身にしみてそれを実感している。

「じゃぁ、アレなんだね、ホストくんは始発が動いても電車代も持ってないっていうことだね? あ、スマホ充電出来れば電子マネーとか使えるの?」

店長さんは、オレが一円も持っていないという部分について、気にしてくれているようだった。

「すいません……オレ、電子マネーとか、あんま、よくわかってなくて、使ったことない、です……」

情けない気持ちで答えると、店長さんは少し目を見開いて「若いのに珍しい」と言った。

大学の友達にも「お前アナログすぎるだろ」と呆れられることが多々ある。

ずっと土いじりを遊びとして育ったし、高校、大学と肥料や植物の品種についてばかり考えていたのだから、電子の世界と仲良くなれないのは仕方がないと思うのだ。

「じゃあ、早速の話で悪いんだけど、今からバイトをしませんか? 始発が動くまでの時間だけ。時給を支払うので、そうしたら埼玉まで帰る電車賃くらいは稼げるんじゃないかな? あ、あとスマホも充電して良いから。テキトーにその辺のコンセント使って」

店長さんは言った。

オレはすぐさま「いいんですか!」と食いついた。雨宿りをさせてもらって、風呂や着替えまで借りて、その上「お金を貸してください」とは言い辛いと思っていたところなのだ。

仕事を手伝って、その分のお駄賃として貰える金であれば、気兼ねすることなく使える。

「時給、千二百円くらいしか出せないけど、それでも大丈夫?」

「めちゃくちゃありがたいです! マジ、交通費さえなんとかなれば、どうにか出来るんで……」

オレは両手を合わせて、店長さんを拝むようにして言った。

店長さんはサッパリとして「そう、良かった。じゃぁよろしくね」と言った。

「ところで、あの、今更なんすけど……店長さん、お名前は……?」

オレは、ずっと聞こう聞こうと思っていたことを尋ねた。店長さんは、耳にかけていた前髪を再び簾状に戻して首を傾げる。

「みんな、店長とか、店長さんって呼んでるよ。……ああ、一部でお花ちゃんって呼ぶ人もいるけど。ホストくんの好きなように呼んで」

オレは目をパチクリさせた。名乗りたくないのだろうか。

(まぁ、突然やってきた雨宿りするだけのオレに、名乗ることもない、か……)

「あ、あの、オレの名前っ、」

「ああ、いいです。私、人の名前を覚えられないから。ホストくんって呼びます」

せめて自分だけでも名乗ろうとしたところ、食い気味に止められた。

「元、ホストです」

「元ホストくんだと呼びにくいので。ホストくんで我慢してください」

店長さんは少し面倒臭そうに言った。

オレはなんとなく据わりが悪い気持ちになりながらも、ボスがそう言うのなら従うしかないのがバイトの勤めだ。

「あの、店長。オレは、何をすれば良いですか……?」

オレは改めて、彼の呼び方を「店長」に定める。

気を取り直して、スウェットの袖を腕まくりしながら尋ねた。

ついでに店の隅にあったコンセントでスマホも充電させてもらった。

店長は時計をチラリと見てから、

「四時になったら市場に切り花の仕入れに行きます。もう一人手伝ってくれてる人がいてね、その人が車で迎えにくるから、ホストくん、一緒に仕入れに行ってきてくれますか? 私は店番をするけど、買うものはメモして渡すし、もう一人の彼、リモコンくんって言うんだけど、彼は仕入れ作業に慣れてるから。安心して」

「リモコンくん……」

これからやってくるという、もう一人の名前が気になって、思考が一瞬フリーズした。

「私の大学時代からの友人……というか腐れ縁で。電子工学を専門にしている人です。普段は塾の講師をしていますが、仕入れのある日だけ、車を出して手伝ってくれます。私、運転出来ないので」

店長は言った。オレは「確かにその前髪じゃ運転は出来ないだろうな」と思う。

「ちょっと変わってる人間だけど、人当たりは良いし、明るくて優しいから」

「はぁ、そうですか……」

ちょっと変わってるというのは、店長から見ての「変わっている」だろうか?

(だとしたら、相当変な人ということになるんだけど……)

オレは若干の不安を覚えながら、改めて花屋の店内を見回す。

切り花が主な商品のようだけれど、店の奥のフラワーキーパーには鉢植えの見事な花々も並んでいるようだ。

開店祝いの時に置かれるような大振りのものもいくつかある。

「仕入れをした後は、水あげ処理とかでしょうか……?」

オレが尋ねると、店頭の花々の体裁を整えていた店長は「おや」という顔をした。

「なんだ、ホストくんは花についての知識があるの?」

「いえ、特別花に詳しいわけではないんですが、植物には興味があって。実家がきゅうり農家を営んでいまして……ついでに、オレ、大学も農学部です。今はまだ両親も若いのでアレですけど……まぁ、いつかは実家を継ぐのもありかなって考えたりもしていて……」

オレが言うと、店長は再び首を傾げる。

「きゅうり農家で、農学部で、どうしてホスト……」

「学費分のお金が必要でして……」

オレは自分でもホストなんて似合わないとわかっている。

しかし、短時間でガッツリ稼げるバイトを探すと、どうしてもホストクラブに行き着いてしまったのだ。

幸いにして酒には強いし、大学が都内なので、出勤しやすく、働きやすかった。

ついでに、目鼻立ちについても平均的には整っているし、小さい頃から、目が大きいとよく言われていたので、顔立ちとしてもホストとして働くのに「まぁまぁ」だったのだ。

(でも、あっという間にクビ……スーツ、奮発して買ったの、バカみたいだったな……)

まだ勤めて一ヶ月ほどしか経っていないのだ。

働いた分の給料は入ると信じたいが、それだってスーツ代でチャラになってしまいそうである。

ホストの前には地元埼玉でコンビニの店員をしていたのだが、あまりにも思うように金が貯まらず、もっと手っ取り早く稼ごうと考えたのがいけなかった。

「楽して稼ごうなんて、そんなの無理だって、よく理解してるつもりだったんですけどねぇ」

オレは独り言のように言った。きゅうり農家を営む両親の堅実な働きぶりを小さい頃から見てきたはずなのに、情けないと思う。

苦いぼやきを口にしながら、手では店長の真似をして、店に並ぶ切り花を整えた。

花の種類や色でまとめるのはもちろん、茎の長さによって並べる順番を微妙に調節する。店に入ってきた時、お客さんからきれいに見えるように心がけた。

「別に、楽をして稼げる方法も、この世の中にはあると思いますよ。ただ、それを大っぴらにしてしまうと、苦労をして稼いでいる人からブーイングがくるので、みんなヒッソリやるのが流儀だとでも思っているのでしょう。あとは、楽をして稼ぐのは罪だと、そういう意識を刷り込もうとしている。世の中全体が、です。みんな自分より楽に良い思いをする人を嫌いますから」

店長は淡々と言った。ものすごく他人事のように、自分には全く関係ありませんとでも言うように。

「……店長は、深夜の花屋は、大変ではないんですか?」

オレは尋ねた。オレの中では、この質問には別に深い意味などひとつもなかった。

しかし、店長は先ほどとは打って変わって、ウットリしたような熱のこもった声で言った。

「私は、花を愛していますから。愛しているものに囲まれて夜を過ごす、こんなに幸せなことはありません」

オレは、店長が細い指先で、優しく優しく花に触れているのを見て、ああ、この人は本当に花が好きなんだな、天職なんだろうな、と微笑ましく思った。

「ただ、私の愛が過ぎてしまい、すぐに性器が勃起してしまうのが難点です。本当は昼に店をやっても良かったのですが。昼間に股間を勃起させたまま仕事をしていると、通報される確率が高いので、仕方なく夜の営業にしています。まぁ、この界隈では夜の方が需要があるので儲かっていますけれど」

店長は、口元に抑えきれないような笑みを浮かべて言った。

そう、抑えきれないような、どうしても浮かんでしまう笑み、という感じの笑い方だった。

恍惚、そういう類の笑み。

オレは、何か言おうと口を開いたけれど、頭の中がツーっとなって、言葉が浮かんでこない。首の後ろが熱くなった。

(……勃起してる自覚、あったんだ……というか、まさか、いつも勃起、してるのか……?)

同じ男として疑問なのだが、あんなに勃起させておいて、服が擦れて痛いだとか、皮が引っ張られて痛いだとか、股間の違和感が耐えられないとか、ないのだろうか。そして射精感というのは、そこまで我慢できるものなのか。

(忍耐強い、のだろうか……?)

思わず眉間に皺を寄せて考えてしまう。

(あの状態で、めちゃくちゃにシコったら、マジ、ぶっ飛ぶくらい気持ちいいと思うんだけどなぁ……今すぐ、下を脱いで、がむしゃらに、手で擦って……)

あまりリアルに想像すると、自分まで勃起してしまいそうである。

オレは平静を保とうと、虚空を睨みつけて無意味に「うぅ」と唸った。やはり、心臓がドクドク高鳴っている気がする。そういう自分に呆れるし、がっかりした気持ちにもなった。懲りないなぁ、と我が事ながら思う。

その時、店の外から軽く「プップッ」とクラクションの音がした。

「ああ、きたきた。ホストくん、リモコンくんが来たよ」

店長がスタスタと歩いて店の扉を開けに行く。オレはまた、横を通り過ぎる店長の股間をついつい見てしまった。現在は半勃起という感じがする。


店長は店の扉のところから、どうやらリモコンくんを店内に呼びつけているようだ。

普段は車から降りずに、そのままお使いメモを受け渡しているのかもしれない。

「なんだい、今日は雨だから早めに来たというのに……」

ブツブツ文句を言いながら、店長に招き入れられたのは、黒縁メガネをかけた男性だった。肩ほどまでの長さの黒髪を、後ろでひとつに結わえている。身長は店長と同じくらい。オレよりも低い。痩せ形なのか着痩せなのか不明だが、全身黒い服を着ているせいでシャープな印象だ。

「おや、見ない顔だ」

リモコンくん、と呼ばれている彼は、オレに目を留めた。

店長と違い、その瞳は垂れ目気味である。深い二重瞼のようで、少々眠そうに見える顔立ちだった。

「はじめまして、あの、今日だけ事情があって、バイトさせてもらってます」

「ホストくんだよ」

店長が言った。どうしても名乗らせないつもりらしい。

「ほぉ、この店でバイトとはねぇ……これはまた奇特な青年だ。ホストくんということは、アレか、歌舞伎町と二丁目の掛け持ちバイトか? そいつはオールマイティーというか、いや、オールラウンダーと呼んだ方が良いのかね? それにしても君はまるでトイプードルのようだな。癖のある茶色の毛並みに大きな目ときた。さぞかしモテるだろう、ホスト業界では!」

リモコンくん……いや、店長の大学時代の同級生と言っていたから、年上だ。リモコンさん、とでも呼べば良いのか。

リモコンさんは、オレをしげしげと眺めると、悪戯っぽく目を細めた。

言い方は悪いが、そうやって三日月型に目を細めると、詐欺師のような雰囲気のある顔だった。

加えて口調が妙に古風なのが、ますます怪しい雰囲気を醸し出している。

「私はリモコン。花の仕入れをする日だけ現れる救世主だ」

よろしく、と右手を出されたので、オレはその手を握って握手をした。軽くキュッと握られると、こそばゆい感じがする。握手なんて、日常生活ではなかなかしない。

「すみません、オレ、今日だけなんですが……」

オレが再確認の意味を込めて控えめに言うと、リモコンさんは「すごい短期だな」と言って笑った。そして、それ以上は何も聞かれなかった。

「これ、今日買ってきて欲しいものリスト。ないものは仕方ない。予算が余ったら、なんか良い感じのものを仕入れてきて」

店長は、リモコンさんにざっくりとした指定をした。かなり適当だ。そもそも花が好きならば、自分が仕入れに行った方が良いのではないか。

「彼は外出が嫌いなんだよ」

この店に関わっている人は、人の心が読めるのだろうか。

オレの言いたいことを先読みしたように、リモコンさんが言った。

「さぁ、市場が開いてしまう! さっさと仕入れに行こうじゃないか!」

リモコンさんに促されて、店長にも「いってらっしゃい」と言われて、オレは借り物のスウェットのまま外に出た。

店の外では、細い銀色の糸のように、まだ雨が降り続いている。

「さっむ……」

「雪にならないのが不思議なくらいだな、暖冬と言えども冬は冬だ」

リモコンさんが肩をすくめるような仕草をして言った。

店の庇から早足で目の前の車に乗り込む。オレはリモコンさんの隣、助手席に座ってシートベルトを閉めた。

「三十分くらいで着く。いやぁ、いつもひとりで大変だったから、助かる。どうだね、今日だけと言わずにココで働いては?」

リモコンさんはエンジンをかけながら笑った。声が明るく、店長とは正反対で、陽気なタイプの人のようだ。

「オレは働きたいですけど、店長が今日だけって言ってたので……」

「へぇ、働きたい気持ちはあるんだ。お花ちゃんの下で」

リモコンさんの運転は丁寧だった。運転に慣れているようで、あまり車体が揺れないし、ハンドル捌きも鮮やかだ。

「リモコンさん、お花ちゃんって呼んでるんですね。っていうか、リモコンさんは、どうしてリモコンさんなんですか……?」

素朴な疑問だ。店長がお花ちゃんなのはわかる。花屋を営んでいるからだろう。

では、リモコンさんは何だ。

店長の話では、電子工学を専門にしていて、職業は塾の講師だったはずだ。リモコンをつくる工場に勤務しているという話は聞いていない。

「あー、それは私がリモコンにしか発情しないからだよ。お花ちゃんがお花ちゃんなのも、彼が花にしか欲情しないから」

なんの気負いもなく、リモコンさんは言った。

オレはなんだか、今日一日で人生の色々―その色々というのは常識とか一般的という概念とかそういうもの、それに人間の情とか、隠しきれない本能とか―の軸がグググとズレていくような気分を味わっている。

「あの人、ずっと勃起してるだろ? 花に囲まれていると我慢できないんだよ」

リモコンさんは言った。決して店長をバカにするような口調ではなかった。

相手をよく理解している人が発する、柔らかい気遣いのようなものが、そこにはあるような気がした。

「それって花屋、向いてないんじゃ……」

オレが言うと、リモコンさんは「たしかにね」と笑った。こうして話していると、リモコンさんはごく普通の人だと思う。

(性癖と人格は……)

関係ないのかもしれない。もちろん、外側に向けて自分の性癖を押しつけるようなことがあっては、犯罪に繋がりかねないけれど。

「……リモコンに発情するって、どういう感じなんですか……?」

オレは、無礼を承知で聞いてみた。どうせ今日だけの付き合いなのだ。好奇心のままに尋ねてみても良いかな、と思ってしまった。リモコンさんは穏やかに運転を続けながら、

「リモコンを見て、君はムラムラせんのかね?」

と言った。

「したことないですね」

「私に言わせてみれば、それは君がとても変わっている、という認識だ。リモコンを見てムラムラしないなんて、変な人だな、と思う」

リモコンさんの声には、特に情熱があるわけでもなく、淡々としている。落ち着いている声は、心地よくさえあった。

「リモコンで、どういう、風に、」

オレは、聞きたいことが上手く言葉にならずに、ぶつ切りになった単語を放つ。リモコンさんは前を向いたまま、ニッと笑った。

「私は、リモコンを二本使うのが好きだ。そもそも、アレらは持ちやすい形状をしているだろう。ボタンの部分の美しく繊細な凹凸、あれを自分の分身にあてがって、激しく擦るんだ。裏筋も良いが、先端なんかたまらんぞ」

恥じる様子もなく、リモコンさんの口から次々に舞う言葉たち。

オレは言葉に絡め取られるように想像してしまって、思わずモゾモゾと尻を動かして座り直した。想像しすぎて、ちょっと勃起しそうになった。

「たしかに、良さそうですね……」

オレが照れた声で言うと、リモコンさんはチラリと助手席の方を見た。

「君は今、リモコンを道具として想像したかね? そのあたりがな、たぶん違うのだ。私はアレらを愛している。愛しているから欲情する。道具なら何でも良いというのなら、オトナのオモチャなんぞいくらでも売っているけれどな。そういうのでは、ダメなんだ。私は、愛するモノでなければ興奮しない」

先ほどまでとは変わって、リモコンさんは少し早口で言った。

おそらく、本人の拘りがソコにあるのだろう。性玩具を愛する人とは、一纏めにされたくないようだ。

「私にも、お花ちゃんにも、愛がある。根本が違うのだ。誰でも良い、なんでも良い、そういうわけじゃない。愛がなければ、本当のセックスではない」

「誠実なんですね」

思わず口から出た感想だった。

リモコンさんは「セックス」と言った。

リモコンさんが、愛するリモコンたちと行うのは「セックス」であり、「オナニー」という認識ではないということだ。愛がなければ意味がない、それはとても誠実な人間の言葉だと思った。

「君、話が分かるな。やっぱり今日だけと言わずにお花ちゃんのところで働くと良い。ホストなんか辞めてしまえ」

リモコンさんは言った。オレは苦笑して事情を話す。

ホストをクビになったこと、店長に助けてもらったこと。

リモコンさんは笑いながら「それは楽しい夜だったなぁ」と言った。つい数時間前までは凍死の心配をしていたのだから、オレは苦笑いをしたけれど、確かに結果だけ考えれば、店長に助けて貰って、こうして新しい出会いがあって。

「生きていると、何が起こるか想像もできん。怖いもんだよ。まぁ、今日みたいに楽しいこともあるがね。私は誰かと一緒に仕入れをする日が来るとは思ってもみなかった。あいつは友人も極少だから」

リモコンさんはそう言って、車を停めた。いつの間にか市場に到着していたようだ。

車の外は、賑やかな人の活気が溢れているように感じられた。

「仕入れは力仕事も多い。期待しているよ!」

リモコンさんが車を降りるのを見て、オレも慌てて後に続いた。実家に帰る電車賃分、働かなくてはいけない。


「いやぁ、実際かなり助かった。これは本当に正式採用を考えた方が良いと私は考えるね!」

仕入れから戻ると、リモコンさんは店長にそう言った。

明け方になり、ようやく雨は止んだ。仕入れに出たのが早朝四時ごろ。戻ったのは六時より少し前というところだ。

冬の太陽は遅い。まだ完全に明るいとは言い難く、灰色の空の下で花屋に戻ってきた。

花屋の前には木製の看板で『月下美人』と店名が書いてあった。夜中に店へ入った時には気付かなかったことだ。

「おかえり。ご苦労さまでした。リモコンくん、悪いんだけどホストくんの分も朝食を作ってあげて」

店長は仕入れてきた切り花を確認しながら言った。また前髪を耳にかけている。大事な時は目を出すらしい。だから前髪を切れば良いものを、と思うのだが、あれも店長なりのファッションなのだろうか。

「お花ちゃんは、あんまり花を直視してばっかりいると、仕事中でも射精してしまうから、前髪をのばしているのさ」

リモコンさんが言った。店の奥の階段の前で、スニーカーの紐を解いている。

「やっぱりリモコンさんはエスパーですか?」

オレが尋ねると、「いやいや、口に出てたよ、普通に」と笑われた。

オレは「しまった」と思って口を手で塞ぐ。今更だ。

「さぁ、ホストくん、上で朝食にしよう。パン食だが、問題ないか?」

リモコンさんが言った。オレは店長の方を見る。始発はもう動いているが、あまりにも仕事が中途半端だ。

少しの水あげ作業と仕入れしか手伝っていない。

仕入れも、リモコンさんの後ろを、台車を引いてまわったくらいだ。

「オレはまだ、あの、手伝いあんまり出来てないんで!」

オレはリモコンさんにペコリと頭を下げると、店長の元へ向かった。

「水あげ、手伝います」

「おや、熱心だ。私は人を雇ったことがないから、遠慮や配慮があまり出来ないので、やると言われたらそのままお願いしてしまうけど、良いかな?」

店長は言った。オレは頷いて、仕入れてきた花たちを店内にある大きなバケツに移し替えた。

「やれやれ、フられた。では私だけ朝食をいただくよ!」

リモコンさんは、大きな声で言うと、ひとり階段をのぼっていった。

「仕入れが終わった後、彼はいつも上で朝食をとってから帰るんだ」

店長が言った。店の外にあるホースでたらいに新鮮な水を汲んでいる。

「仲が良いんですね」

「そうなのかもしれない。仲が良いという定義について詳しくはわからないけれど、もう十年ほどの付き合いになるから」

「……店長って、今、何歳なんですか?」

「三十一だけど、見えない?」

店長は口元に笑みを浮かべて言った。オレは目を見開いた。

まさか三十歳を越えているとは思わなかった。二十代中頃に見える。リモコンさんもだ。二人とも、実年齢よりもずっと若い気がした。

「やっぱり、恋愛的に充実していると、若々しくなるもんなんですかね……」

オレが言うと、店長はプッと吹き出して笑った。

「たしかにねぇ、そういうこともあるかもね」

店長は言った。もう股間は勃起していなかった。

「君たちが仕入れに行っている間に一発ヌいたから今は落ち着いてるよ」

店長は言った。あまりにも股間を見過ぎたようだ。恥ずかしい。

オレは、店長と手分けをして仕入れた花の茎を斜めに切り落としたり、不要な葉を丁寧に取り除いたりした。

冬の水仕事だ。一時間もやっていると、手の感覚が麻痺してくる。

「自分で上手いこと休憩をとってね」

店長が言った。

彼は平然と仕事を続けている。よく見れば、店長の指先は荒れていて、所々あかぎれのようになっている。痛そうだ。

父や母の手先を思い出す。

働き者の手は、なんだか愛おしく見えた。

「おーい、そろそろ休憩しろ。私ばっかりくつろいで、居心地が悪いぞ」

リモコンさんが白い皿を持って、階段をおりてきた。

皿の上にはサンドウィッチがのっている。

「あと五分もすれば終わるよ。ホストくん、先に食べて」

店長に言われて、オレは感覚のなくなった手をタオルで拭いた。

「冷たかったっ」

素直に言うと、リモコンさんはアハハと笑って、階段を再びのぼっていく。なんだろうと思っていると、今度はマグカップを持っておりてきた。

「ほら、これで手をあっためろ。ついでに飲んで良いぞ」

中身は紅茶だった。今、お湯をいれてくれたのだろう。紅茶のティーバッグがそのまま入っている。

「お花ちゃんの分もあるから、冷める前にな」

リモコンさんの声に、店長はようやく作業の手をとめて、店の奥へとやってきた。

仕入れてきた花々は、見事に店内を彩っている。店の中にだけ、春が来ているようだ。

草花特有の香りも漂う。実家にあるきゅうり栽培用のビニールハウスとは、また違った匂いで不思議な気持ちになった。

「君たちが食べ終わったら私は帰るよ。それまで店番をしていよう」

リモコンさんが言った。

「この時間、滅多にお客さんは来ないから、帰っても大丈夫だよ」

店長は言ったけれど、リモコンさんは「まぁまぁ」と笑った。スニーカーをつっかけて、店内の花を見てまわっている。

「ホストくんも、これ食べたら終わりで良いから。店は八時までだし。もう始発もとっくに動いてるでしょう。二時あたりから手伝ってもらったから、五時間分くらいの給料で良いのかな……」

店長はレジを操作して、中から五千円札と千円札を一枚ずつ取り出した。

「これでちゃんと帰れる?」

店長に聞かれて、オレはサンドウィッチでいっぱいになっている口をモゴモゴさせた。貰いすぎだ。

あまり役に立っていない気がしたし、交通費だけ貰えれば、それで問題ない。

「あの、オレ、交通費さえあれば、大丈夫なんで」

「でも、学費が必要なんでしょ? ホストもクビになっちゃったし、貰えるお金は貰っておけば?」

店長はちっともお金に執着などないように言った。

「だから今日だけと言わずに、今後もココで働きたまえよ、私は君を気に入ったよ。お花ちゃんの勃起事情にも引いたりしない。私の恋人たちの話も市場に向かう道々で、それはもう興味深そうに聞いてくれた」

リモコンさんがポニーテールにしている髪を揺らして、その場で軽く踊るようにして言った。ターンをして、ウィンクまでキメて見せる。

オレよりもよっぽどホストに向いている。

「あの、借りてしまった服とか下着とか、ちゃんと洗濯して、また返しに来ます。店の場所も、さっき仕入れに行く時に確認したので……また、来ます」

オレは言った。なんだか離れがたいような気持ちになっている。

どうしてだろう、たった一晩を一緒にいただけなのに。

危機的状況を助けて貰ったからだろうか、それとも。

(自分に、なんとなく、似ている人たちと出会えたような気がして……それが嬉しいのかもしれない……)

いつだって、オレは「お前は気楽で良いなぁ」なんて言われたり、「なんにも悩みなんてなさそう」と言われたりする。オレは笑って「そうかなぁ」と答える。

そういう言葉たちが嫌なわけではない。

けれど、オレにだって、いつだって、心の中のどこかに真っ暗な空洞がある。

オレだけしかいない空洞。誰にも入ってきてはくれない、ずっと孤独で、ひとりきり。

ずっと、ずっと、さみしいまま。


また来る、と言ったオレの言葉に、店長は口角を緩くあげて笑った。

「じゃぁ、その服を返しに来る時までにいろいろ考えてもらって。それでもし、ホストくんがウチで働きたいと思うようなら……その時は、ホストくんからバイトくんに進化して貰おうかな」

「いやぁ、もうホストくんという呼び名で覚えてしまった。呼び名を変えるのは面倒だからそのままにして欲しいな」

リモコンさんが口を尖らせる。

どこまでも人の名前を覚えるのを面倒がる人たちだ。

「り、履歴書、持ってきます、今度」

オレが言うと、店長とリモコンさんは揃って「いらない、いらない」と首を振った。

「私たちは人間にあんまり興味がないものでね」

リモコンさんが言った。

オレは妙な心地の良さを感じながら「わかりました」と笑って頷いた。


それから六日ほど経った夕方、オレは再び花屋『月下美人』を訪れた。

変に間が空いてしまったのは、あの日の帰宅後、オレが見事に風邪をひいたからである。

さすがに、あの寒空の下で雨に打たれたのは良くなかったらしい。

けれど、店長が風呂を貸してくれたお蔭か、軽い症状で済んだような気がする。快復は早かった。

借りた服を洗濯して、アイロンをかけて持参した。ついでに心も決めてきた。

(ここで働かせてくださいって、言おう……店長の気が変わってなかったら、この店でバイト出来るかもしれない……)

コンビニでバイトをしていた時と同じような時給だ。学費分を貯めるには地道な努力が必要となるだろう。

けれど、ホストの仕事をしてみて、派手に稼ぐよりも地道な仕事の方が自分には向いているとはっきりわかったのだ。

両親に相談をして、大学を卒業した後で必ず返すという約束の元、多少の金銭的援助はして貰えることにもなりそうだった。

それだけでも、だいぶ心のゆとりが出来た気がする。ついぞ両親には、一ヵ月だけホストクラブで働いていた、ということは言えなかったけれど。

世の中なんでもかんでも言えば良いというものでもない。もうクビになっているのだから、変な心配をかけたくなかった。


店に着いたのは、夕方の六時を少し過ぎたあたりだった。冬の日は落ちていて、辺りはすっかり夜の気配を漂わせていた。

(開店、たしか二十二時だったよな……)

月下美人の開店時間までは、あと四時間ほどある。さすがにまだ店は開いていないかもしれないと思っていた。

案の定、店の前はシンと静まっていて、店内の灯りも落とされている。

オレはアンティーク調の扉を、軽くノックしてみた。

コンコンという小さな音が、虚しく響いて、なにも起こらない。

(……どっかで時間潰してからまた出直すか……)

オレが踵を返そうとしたところで、店内から「ガタッ」という音が聞こえてきた。

オレは足を止めて、振り返る。先ほどのノック音に店長が気付いてくれたのかと期待したけれど、それ以降は再びの沈黙だ。

「あ……でも、店長、ココに住んでるんだから、居ることには居るんだよな、たぶん……」

オレは思い立って、試しに店の扉を引いてみた。すると、あまりにも簡単に扉が開くではないか。施錠されていなかったのだ。

「……いやいや、さすがに不用心すぎるだろ……」

オレは思ったけれど、扉が開いたことが少し嬉しかった。

店内はカーテンなどが全て閉められていて、暗く、涼しく管理されていた。

前に来たときと同じように、美しく整えられた花々。

低く唸るような音を立てて鎮座しているフラワーキーパー。

それらを見渡しながら、ゆっくり店内を奥へと進む。確か、二階と三階が居住スペースだと言っていた気がする。

(三階はキッチンとかダイニング的な役割だったから……)

おそらく二階に寝室などがあるのだろう。

(店長、まだ寝てるのかな……)

靴を脱いで、ゆっくりと階段をあがってみる。

二階にあがった先は、細く短い廊下になっていて、手前と奥に部屋があった。どちらかを寝室として使っているのかもしれない。

(勝手に覗くわけにもいかないし……やっぱ、出直さないとダメかな……)

そんなことを考えて、また階段をおりようとした時だった。

「ァ、んっ……」

静かな空間に、微かに聞こえた、声。

オレはビタッと足を止めた。いや、無意識に足が止まったと言った方が正しい。

立ち止まって、全神経を耳に集中させた。

すると再び「ン、ァッ……」というくぐもった音のような声が耳に届いた。

自分の生唾を飲み込む音がゴクリと漫画のように脳味噌に響く。

オレは息を潜めて、瞬きも忘れる。

目の中の、瞳孔みたいな部分が開いていくような感じがした。体の軸になっている部分がジンと淡く痺れる。

「ァ、んゥ……ハァっ、アっ」

甘く強請(ねだ)るような声と、カタンカタンという小さな物音。

それらの音は、奥の部屋から聞こえてくるようだった。

オレはジリジリと奥の部屋へと歩みを進める。冷静な部分の思考が、どうしてこんなにアレコレが鮮明に聞こえるのかと疑問を呈していたけれど、答えは簡単だった。奥の部屋の扉は、中途半端に開いている。

呼吸が浅く浅くなる。喉がひりつく。鼻の奥がツンとする。肩に力が入る。

やめておけ、やめておけ、お前はまた、同じ失態を、失敗を、繰り返すのか。

脳味噌が警鐘を鳴らしている。

『見てんじゃねぇよ、気持ち悪ぃ』

脳内で声が反響している。

それでも、オレは自分の足を、手を、行動を、止められなかった。

本能とも呼べるような欲望が、色欲が、己を支配している。

(オレは、やっぱり……異常なんだろうなぁ……)

諦めと、言い訳のような言葉が頭の中をグルグル回っている。

オレは、扉の前でヒタッと足を止めた。

「ア……んっ、んっ、」

切羽詰まったような、切ない声。オレは己の下半身がジンジンと腫れてきているのを自覚する。股間が痛い、重い、熱い。

完全に勃起している。

半端に開いていた扉から、部屋の中を、覗く。

部屋からは、ムンムンと暴力的なくらい、花の香りがした。

カーテンは閉められていたけれど、完全に真っ暗ではない。

薄暗いけれど、部屋の様子はよく見える。

その部屋は、異様であり、そしてなんとも、官能的だった。

部屋中に置かれた鉢植えの花々、胡蝶蘭やシクラメン、オレにはそのくらいしか花の名前はわからなかった。

鉢植えだけではない。大量の花瓶と、そこに活けられた切り花たち。

そして、花々のど真ん中に敷いてある布団の上、全裸で仰向けに横たわる店長。

上を向いている状態だから、長い前髪は全て左右に流れていて、切れ長の目元がよく見えている。

店長は、右手を性器に添えて、左手では美しい蘭の鉢植えを抱えている。

「ん、ァ、はっ、も……イくっ、アッ、ひぁっ、」

店長は細く白い体をガクガクと上下に震えさせて、射精した。

抱きしめられている蘭の鉢が、店長の体の震えに合わせて床に当たってコツコツと鳴っている。

オレは、それらの光景を、食い入るように見つめた。

口の中に、変な唾液が溜まる。静かに、息が、荒くなる。

店長は射精をした後も、性器を乱暴に擦り続けている。

左手に抱えていた鉢をそっと丁寧に手放し、今度は左手で性器を握る。

そして、自らの精液で濡れた右手で、花瓶に活けてある花に触れた。

花びらや、花弁や、葉の部分に、精液を塗りつけるようにして。

「ふふ……」

店長は、笑った。

その笑みのかたちに、心臓がドクッと脈打った。

ついでに、下着の中がジワリと濡れたのがわかる。

完全なる、恍惚(こうこつ)の笑みだった。うっとりと、愛おしいものを見つめる瞳。

狂気と変態性、異常な光景、そんな風にも見えるのに、目が離せない。

濃厚な花々の香りに包まれたそれらは、芸術作品のようにさえ思えた。

擦り続けられている店長の性器は、またしても熱を取り戻したように勃起している。

(あの人の性欲、どうなってんだ……)

絶倫なのだろうか。あんなに涼しい顔をしているのに。

店長は、花瓶に活けてあるバラの花を一輪抜き取ると、胸に抱くようにして、一層激しく性器を擦る。

「ぁ、ア、っ、……イ、ぃ、きもちっ、ハッ、んぅ……」

随分と強く擦っているのだろうか、性器は真っ赤に腫れているようにも見える。バラの花びらと、同じような色に見えた。

花の香りと、精液の独特の匂い。それらが混ざって、オレは今、自分が立っている場所がどこなのかも、わからなくなった。

完全に何かが切れた。

オレは自分のズボンのベルトをガチャガチャと乱暴に暴く。

ボタンもチャックも引きちぎるような勢いで外して、下着に手を入れた。

やはり性器は完全に勃起していて、下着の中はあふれ出た体液で濡れていた。

熱くなった性器を握りこんで、グチグチと上下に擦る。

先端を親指でこねて、尿道口を爪の先ではじくように刺激する。

「ァ、ぐっ、ンっ……」

思わず漏れそうになる声を、抑える。

声よりも、フーフーという己の荒い息の方がうるさく感じた。

店長は、己の自慰行為―いや、あれは店長なりの花とのセックスなのだろう―に夢中なようで、ちっとも扉の外側のことには気付いていないようだった。

店長の声が、オレの脳味噌を甘く叩いてくる。

「んぁっ、は、ぁ、んっ、んぅ、んっ」

店長は、眉間に皺を寄せて、目元を赤らめて悶えている。

目の端がキラキラして見えるのは、生理的な涙だろうか。

性器を擦る度に、細くて白い足が、布団の上で跳ねている。

腰が緩いカーブを描いて床から浮いていて、肋骨がうっすらと裸の肌に影をつくっている。

「きれいだ……」

オレは思わず呟いて、己の性器を握る手に力が入る。

ダラダラと垂れてくる体液の力も借りて、前屈みになりながら、思い切り上下に擦り込む。

脳味噌が白むくらい、気持ちが良かった。

唇を噛んで声を抑えて。口の端から溢れそうになった涎(よだれ)を静かに啜って。

店長が「イ、くっ、アッ、でるっ、」と一際大きな声で喘いだ。

薄暗い部屋の中で、店長の精液がビュッと飛び出るのを、オレはスローモーションのように見つめた。

そして、自分も。

「ぅ、ア、っ、くっ、」

堪えきれない声を小さく出して、自分の手の中に射精した。

精液が床にこぼれそうで、慌てて左手も添えて。

どうにか、どこも汚さずに済ませた。

オレは、部屋の扉から、一歩、二歩と下がる。

(いや、マジ、なにやってんの、オレ……)

射精したら、途端に冷静な思考が戻ってきた。

汚れた手を、どうしようかと考える。両手ともべっとりと濡れているせいで、ズボンを直すこともできず。

ズボンと下着は情けなく膝辺りで丸まっているし、性器も丸出しだ。

(えっ、と、まずは手を、どうにか洗って……)

このままそっと三階まであがれば、キッチンがあるのは知っている。

そこで手を洗わせてもらって、それから服を整えて、何事もなかったかのように店を出て、夜にまた出直そう、そうしよう。

「ねぇ、そこにいるの、ホストくん?」

ヒュッと息を飲んだ。

姑息(こそく)なことを考えていたら、部屋の中から急に声をかけられた。

(ば、バレ、て……)

頭上から一気に血の気が下がるのを感じた。

「ねぇ、違う? 違うなら、誰かな」

店長の声は、至って平常に聞こえる。働いている時と同じ声だ。

オレは、目をギュッと瞑って、震える声で「ほ、ホスト、くんで、合ってます……」と言った。

すると店長は、部屋の中でハハと笑った。

「よかった。違う人だったら、さすがに通報かな、と思っていたよ。そんなところにいないで、入っておいで」

オレは、瞑っていた目を、そっと開ける。

今、店長は「入っておいで」と言ったのか。

(え、正気……?)

オレは思わず扉のノブを握ろうとして、自分の手が汚れていることに気が付いた。何にも触れられない状態だ。ついでに下着とズボンが膝下で丸まっていて、足も満足に動かせない。

(あああ、もう、知らん!)

やけくそになって、オレは自分のズボンの裾で両手を乱暴に拭いた。

ネトネトしたものが付着して、ズボンは可哀想な状態になる。

拭いた後、下着と一緒に履き直す。

そっと、部屋の中に足を踏み入れた。

店長は相変わらず全裸のままだったけれど、布団の上にあぐらをかいて座っていた。

堂々と性器を丸出しにしている。

布団の上には、先ほど店長と愛し合っていたバラの花が置いてある。

花弁などに精液を塗られて、それでもなお、花は美しい。

「お久しぶりだね」

店長が言った。目元は前髪に隠れて見えなくなっている。

そのせいでオレには店長が今、どのような気持ちでオレに接しているのか、あまりわからなかった。

薄暗く、花の香りで充満している部屋。

頭がクラクラしてくる。

「あの、店に誰もいなくて、でも、二階か三階になら、いるかなと思って……それで、この部屋の扉が、ちょっと開いていたから……」

オレは、どのように言い訳をしたら良いのかわからなくて、そもそも店長はオレが扉の外でヌいていたことに気付いているのか、それさえもわからなくて、しどろもどろだ。

「あー、この部屋、花をたくさん入れているからねぇ、締め切るのは良くないと思って、いつも扉は少し開けています。花も呼吸をするから、風通しが良くないと可哀想だし、それに私がここでセックスすると、ますます酸素が薄くなる気がしてね。花の負担を考えると、やっぱり開けておいた方が良いなという感じで……」

店長は言った。オレは布団の脇に突っ立ったまま、なんと言って良いのかわからない。無意味に口元がモゴモゴと動いた。

店長は、前髪を半分右耳にかける。悪戯っぽく細められた右目がオレを見定めている。

「ホストくん、私のセックスを見学してヌいた?」

背中側の筋肉がビクッと震えて強ばった。

「すみ、ません……」

謝る言葉以外、思い浮かばない。店長はフフフと笑った。

「別に謝らなくても。私の相手は花ですから。私は花を愛していますが、花を擬人的に……そう、花に感情があって、とか。花に気持ちがあって、とか。そういう風には考えていません。花は花です。花に恥じらいはない。これで相手が人間だったらね。私は良くても、相手の方が見られたくなかった、と言えば、やはり謝らなくてはいけないでしょうけれど……」

店長は、淡々と言った。

「だからホストくん、キミの罪と言えば、そうだね。勝手に店に入ったこと……いや、それも私が施錠をしなかったのがいけないと言えばそれまでか。いつキミが訪ねてくるかもしれないと思って、最近ずっと鍵を開けていたんですよ」

そこで、店長ははじめて、はにかむような顔をして笑った。

オレは、店長が待っていてくれたという事実と、覗きを行ったことを店長が気にしていない様子であるという事実とに、大きく息を吐いた。

やっと、肩の力が抜けた気がした。いろんな罪悪感は消えないけれど、それでも、拒絶されなかったことへの安心感の方が大きかった。

「店長、あのオレ……あの後、風邪ひいて熱だしちゃって。来るのが遅くなってすみませんでした。あと、服、返すのも遅くなっちゃって」

オレは洗濯して持ってきたスウェット類を返却した。先ほどまで自分の性器を握ったり精液で濡れたりしていた手である。冷静に考えて気まずかったが、渡さないわけにもいかない。

衣類を入れてきた紙袋の持ち手部分に、なるべく触らないようにしながら店長に差し出す。

「あー、ちょうど良かった。今、これを着るよ」

店長は全裸だったので、さっそく紙袋からスウェットを出して上から着始めた。

「ホストくん悪いんだけど、そこの襖(ふすま)の奥に衣類ケースがあるから、そこからパンツを取ってくれないかな?」

店長は、蘭などの鉢植えの裏側を指さした。オレは忠犬になったつもりで「ハイ、只今!」と答えた。

襖を開けると、中には衣類ケースが複数。きちんと収められている。

「一番右の、上から二つ目が下着だから」

店長に言われるまま、右の二つ目のケースを開けると、パンツと肌着だけが入っている。

「店長、パンツ、どれがいいとかあります?」

「ないない、どれでも良いです」

オレは無難に黒のボクサーを差し出した。店長は「どうも」と言って、モゾモゾと布団の上でパンツを履いている。

「ところでホストくんはやっぱりゲイの人なんですか?」

店長が言った。

突然の質問に、オレは首を傾げる。

「なんでですか……?」

「さっき、廊下でヌいていたのは、私を見て興奮したのかと……違いましたか、これは恥ずかしい間違いを……」

店長は、立ち上がるとスウェットのズボンもしっかりと履いた。

相変わらず、声に感情が乗らない人だ。恥ずかしがっているようにはとても思えなかった。

「さて、ホストくん。私は今から開店前の腹ごしらえです。キミも、なにか食べますか?」

「店長、あの、オレ、」

言いたいことは、山ほどあった。この店で本当に働いても良いのか、オレのことを、本気で気持ち悪いと思っていないのか、それから……

「店に来たということは、ここで働くつもりがあるということで良いですか? 今日は仕入れの日ですから、明け方にはリモコンくんも来ますよ。彼もキミが来るのを心待ちにしていたから。人手が増えることをきっと喜ぶ」

店長は、長い前髪を揺らしながら頷いて、とっとと寝室を出てしまった。

どうやら即採用、今日からココで働けるということらしい。オレとしては嬉しいことだが、店長はもう少し人の話を聞いた方が良いと思う。

そしてついでに言うのであれば、布団もなにも、全部そのままの状態である。

精液のついたバラの花も、みんなみんなそのまま。良いのか、これで。

「店長! この部屋、このままで良いんですか!?」

「テキトウに片付けてくれますか? コーヒーでも淹れておきます。あとはパンとヨーグルトと……目玉焼きと炒り卵、どっちが良い?」

店長は、三階へ続く階段へと足をかけながら言った。オレはヤケクソになって「目玉焼きがいいです!」と答えた。

店長は「そう」と小さく頷いてさっさと上階へ行ってしまった。

オレは、細かいことを考えるのをやめた。

寝室の電気をつける。薄暗い中で見ていたよりも、布団は散々な有様だった。シーツはグチャグチャだし、ところどころ湿っている。

白いシーツに、ポツポツと黒く短い毛が落ちていたりして、思わず「てんちょぉ……」と呟いた。

拭けるところはティッシュで拭いて。部屋の隅にスティック型の掃除機があったので、布団の上を無理矢理吸引した。

シーツをはぎ取って丸める。確か三階の風呂場の横に洗濯機があったはずだ。

布団は干したかったけれど、夕方である。断念して畳むだけにとどめて、掛け布団と一緒に隅っこの方へまとめた。

最後にバラの花をどうしようか考える。ねっとりと付いている体液をどうするべきか。

拭き取ろうかと思ったが、先ほどまで店長はこのバラとセックスをしていたのだ。

(二人の愛の証かもしれない……)

オレは変に詩的なことを考えて、いや、正確にはもう考えるのが面倒で、バラはそのまま花瓶に戻した。

シーツを抱えて三階へあがる。コーヒーとパンの良い匂いがして、夕方なのに朝の気持ちになった。

「店長、さっきまで愛し合ってた相手を布団の上に置き去りにするのはどうかと思いますよ」

オレは言った。店長はフライパンを片手に振り向いて「ああ、いけない」と言った。

「ホストくんが来てくれたことに舞い上がってしまって、つい置き去りにしてしまった」

どの辺が舞い上がっていたのだろうか。オレは笑った。

「店長って面白いっすよね。あ、洗濯機借ります。シーツぐちゃぐちゃっすよ」

「いやぁ、まだまだ若いもので。結構絶倫タイプなんですよ。昔、AV男優をやらないかという誘いを受けたこともあります。でも、人間に興味ないので、断りました」

オレは、店長が花を愛する人で良かったのかもしれないと思う。人間に欲情する人だったら、相手となる人は大変だ。

「店長、オレ、ゲイじゃないっす。安心してください」

オレは、汚れたシーツを洗濯機に突っ込んで言った。

「洗濯は私が自分でします。食事にしましょう」

店長の声に、オレは「はい」と答えた。

小さなダイニングテーブルには、コーヒーと食パン、目玉焼き。それにジャムの乗っているヨーグルトが並んでいる。

「おしゃれな飯っすねぇ」

「性欲が強い分、食欲はあまり旺盛でないので、必然的に女性的な食事が多くなります」

店長は両手を合わせて軽くお辞儀をすると、静かに食事をはじめた。

オレも「いただきます」と言って、自分の皿に箸をつける。

「……店長、店長は興味ないと思うんですけど、オレが話したいので、聞き流してください」

オレは、ヨーグルトをかき混ぜながら言った。上に乗っているジャムはリンゴだろうか。薄い黄色が美しかった。

「オレがホストをクビになったの、あれ、先輩とお客さんがエッチしてる現場を覗き見しちゃったからなんです。覗いてたのが先輩にも、相手の女性にもバレて。その場でクビでした。その先輩っていうのが、店の幹部をしていた人で。テメェふざけんな、財布ごと全部置いて行け! って怒鳴られて……まぁ、当然なんスけど……」

先輩も、相手の女性も、いろいろと罵声を投げかけてきたけれど、最後の方には『マジで意味わかんねぇ、気持ち悪ぃ』と、オレに不審の目を向けていた。

その目は、怒りよりももっと、嫌悪や理解できないモノに対する薄気味悪さみたいなものを滲ませていたような気がする。

「……ホストの人がお客と寝るという話は聞いたことがありますけれど。そんな、覗き見なんて、できるものですか」

店長はオレの方を全然見ずに、俯いて皿だけを見て言った。俯いていることで、長い前髪の隙間から、店長の目を縁取る睫がちらちら見えている。

「店の裏で青姦してたんですよ」

「あはは。それは、覗かれても仕方ない。というか、その人は見られたい人だったのでは?」

店長は言った。笑い声は小さかったが、本当に可笑しそうな声が聞こえた。

「もしかしたら、そうかもしれないです。でも、それで、覗いてたオレが、さっきみたいに、ヌいちゃったのが、マズかったんです……オレ、あの、自分が、変っていうか、変わってるって、わかってるんですけど……」

店長がチラリとオレの方を見た。長い前髪の下の目と、オレの目が、奇跡のようにパチリと噛み合った。

「……オレ、男の人の、乱れた姿に、興奮するん、です……」

喉が引き攣る痛みを堪えて、オレは言った。誰にも、誰にも、打ち明けたことのなかったこと。

自分でも、まだ、あまり、認められていない事実。

「あのでも、ゲイとは違って……別に男とセックスしたい、とか、男に抱かれたいとか、そういうことは思ったことなくて。でも、エッチな映像とか見ても、いつも、女優さんより、乱れてる男優さんに、目が釘付けになって……」

柔らかく波打つ女性の体より、自分と同じようなつくりの体、その内側で震える筋肉に興奮する。ピンと立つ、小さな乳首や、赤黒く起立する性器に興奮する。高い声の嬌声よりも、低くため息を吐くような熱のこもった声や、押し殺したような太い声に興奮する。

「男と付き合いたいと思ったこともないし、男相手に恋をしたこともない……経験は少ないですけど、女の子と付き合ったこともあります」

自分がオカシいのかもしれない、と考え出したのは中学にあがった頃だった。その頃、周囲の友達の間でも、エッチな話題というのが大流行していて。オレもその波にちゃんと乗れていると思っていた。

しかし、どうにも淫らな姿をした女の子より、その横に立ち並ぶ雄々しい男性の方に目がいく。

セクシーな女優さんの写真集などは、美しいとは思うけれど、興奮を誘うものではなかった。

高校のころ、告白をされてはじめて女の子と付き合った。

お互い思春期で、青春で。親の目を盗んで、こっそりと。彼女の部屋で初体験をする流れになった。

結果としては、上手くいった。少なくとも、彼女の方は「よかったよ、優しかったよ」と言ってくれたし、その後も付き合いは暫く続いた。

しかし、オレは愕然としたのだ。

初めての性行為。オレは、彼女ではなく、彼女の部屋にあった大きな鏡、そこに映る、興奮している自分の姿に、興奮したのだ。

彼女の顔なんて、最初くらいしか見ていなかった。ずっと、自分の顔を見ていた。

こんなのは異常だと思った。けれど、誰にも相談できなかった。あまりにもナルシストみたいで、あまりにも恥ずかしくて、あまりにも彼女に申し訳なかった。

その後、彼女とは数回体の関係を持ったけれど、やっぱりオレは、自分の姿に興奮して射精した。

一年ほど付き合って、オレの方から、別れを切り出した。彼女は良い子だったし、可愛かったし、オレも好きだったし、切なかった。

彼女が泣きながら「せめて理由を教えてほしい」と訴えてきた時も、オレは答えられなかった。ごめんなさいしか言えず、彼女はオレのことを恨んでいるかもしれない。

「……つまりホストくんは、自分ひとりでも十分に楽しめる人ということですか?」

オレの上手くもない、面白くもない話を黙って聞いていた店長が、ポツリと言った。

「興奮している自分の姿を鏡で見れば、それだけでも楽しめる、そういうことでは? ああ、それにゲイビデオなんかも良いんじゃないですか? 双方男性ですから、いろんな刺激を味わえるかもしれません」

オレは、店長の言葉を聞いて、口元が震えた。なにか、返事があるとは思っていなかった。

「おや、泣きそうな顔ですね。すみません、なにか不躾でしたか……?」

店長が言った。オレは首を振る。

「いやあの、オレ……聞いてもらえたの、が、嬉しい、だけです」

オレは言った。泣くつもりなんてなかったのに、涙が右目からだけ、ポロッと落ちた。

自分で思っていた以上に、胸が震えていた。ずっと言えなかったこと。本当は、誰かに聞いた欲しかったこと。笑わないで、聞いて欲しかったこと。

「変な話なんですけど……ウチの両親、至って普通の善良な人たちで、あんまり裕福じゃないけど、オレ、全然不自由なく育ったし……多分、オレが自分のそういう、変な部分について悩んでいることを打ち明けても、きっと、一生懸命頑張って、なんとか受け入れようとしてくれると思うんです。でも、だからこそ、言えなくて。心配とか、かけたくないし、言えないって思って……友達とかにも、当然、言えなくて」

涙が溢れたことによって、少し掠れた声になりながら。

オレはくぐもった声で言った。

「それも、特に理由がないのが、辛かったんです、オレが変になった理由が、思い当たらなくて……何か理由があって、こういう風な人間になったのだったら、諦めみたいなものも、つく気がしたんです。でも、理由が見当たらない、なんでオレは、こうなんだろうって、わからなくて、それが怖くて……」

オレの話を聞いていた店長は、暫く黙った後、ボゥっとした声で言った。

霞(かすみ)がかったような、柔らかい声で。

「キミは、私やリモコンくんのことを、普通に受け入れたから、きっと豊かで、さみしくない人なんだろうと思っていました。だからこそ、リモコンくんも、キミを気に入ったんでしょう。彼はああ見えて気難しい人ですから」

店長は言った。

「豊か、ですか……?」

オレは尋ねた。そういうことを言われるとは思っていなかった。零れた涙を乱暴に手の甲で拭う。

「そうです。感性が豊かだからこそ、一般的ではないところにも様々な感情や感覚を抱く。私は女性どころか、人間とお付き合いをしたことがない。そういう意味では、私よりもホストくんの方が、より豊かだと言えます」

店長は言った。オレは半分わかったような、わからないような気持ちになった。

「店長は、人と付き合いたいとは思わないんでしょう?」

オレが尋ねると、店長は頷きながらも、

「でも、生きているうちに、キスくらいはしてみたいかもしれない。どのような感触なのか、興味があります」

オレは、温くなったコーヒーを一口飲んでから、

「キス、してみますか?」

と、尋ねた。店長はしばらくの間、動きを止めた。

オレもなんだか、頭が変になっていたのだ。

話を聞いてもらえたことの嬉しさ、肩の荷が下りた感じ、それに店長に対して何か恩返しをしたい気持ちが混ぜこぜになっていた。

店長が「してみたい」と言ったから、「してみますか?」と尋ねた。

ほとんど反射だった。

「キミは、やっぱりホストに向いているのかもしれない……キミ、ゲイじゃないのに、私とキスが出来るんですか?」

オレは、もう一口、コーヒーを飲む。喉が熱くて、なんだか乾いて仕方ないのだ。

「オレ、ゲイじゃないですけど、男の人の恥ずかしがってる顔とかは、結構、好きです。グッときます」

「私、恥ずかしがっているように見えます?」

店長は、変わらぬ声色で言った。オレは笑った。

「耳、赤いですよ」

店長は「おや」と言って、両耳を両手でパッと押さえた。

オレは、だんだんと店長という人間の中身が見えてきたような気がした。冷静で平静でいながらも、ポロッと時折こぼれ落ちる、感情の滴。

「してみます? キス」

オレはガッツいているように見えないよう、細心の注意を払って、ゆっくり立ち上がった。

向かい側に座る店長の前に歩み寄る。

店長は、座ったまま、オレを見上げた。

「食事の途中でキスをするのは、どうなんでしょうか?」

「まぁ、同じものを食べてますし」

「そういうものですか」

店長はオレを見上げたまま動きを止めている。これはキスをしても良いということだろうか。指先を伸ばしてみる。店長の長い前髪を左右に分けて、両サイドの耳にかける。

パッチリと開いた切れ長の瞳、好奇心によるものだろうか、とても集中してオレのことを見ている気がした。

「緊張しますか?」

「ホストくんは、手慣れた風ですね。視界が良好で、恥ずかしい気持ちになる」

店長はそう言うと、瞬きをパチパチと二回した。オレは自分の手を、ゆっくり店長の肩に置いて、それから、そっと胸元へと移動させる。左側の胸元。心臓の上に、手のひらを置いてみた。

スウェットの上から、人間の体温と、トットットッという心臓の鼓動が微かに伝わってくる。

「今、店長が生きてるということを、はじめて実感している気がします」

オレが言うと、店長は少し顔を緩めて笑った。

「キミには、私が生きている人間のように見えていなかったんですか?」

店長の顔が綻んだところで、オレは予告もなくキスをした。

体を屈めて、そっと唇に唇で触れる。最初は触れるだけで、離した。

水分の少ない、けれどカサカサしているわけでもない、温(ぬる)い唇だった。

もう一度、今度は体温を分け合うみたいに唇を重ねる。しばらく重ねたまま。時折、ハムッと口を動かして、店長の下唇を、己の唇で挟んでみたりした。

「てんちょ、息しても良いんですよ。鼻呼吸して、それから目は閉じてください」

オレは笑った。店長は目を開けたまま、カチッと固まってしまっていたのだ。

(セックスしてるところ見られても平気な顔してるくせになぁ……)

人の羞恥のポイントというのは、わからないものだとオレは思った。

店長が、静かに目を閉じた。うすらと開いている唇。至近距離で、鼻呼吸の音が聞こえる。

オレは再び、唇を重ねた。今度は、舌先で店長の唇を舐めた。一瞬だけピクッと、相手の体が震えるのがわかった。けれど、それだけだった。

驚かさないように、舌を、店長の口内に、差し入れる。

コーヒーの味がほんのりと舌を刺激した。

「・・・んっ、」

オレが舌を動かすと、店長が鼻先で声を出した。それから、おずおずと、オレの舌に、店長の舌が、触れてきた。

(あ……ノってきた……かな……?)

店長の舌の裏側や、表面を、じっとりと舐めるようにすると、再び「ン、っ、ァ」と声が漏れた。

だんだんと息が苦しくなってきて、オレは唇を離す。

口を離した瞬間に、店長は自分の口を右手で覆った。

顔を見れば、目元が赤い。

(わぁ……)

オレは、その恥じらいの仕草というか、蒸気して潤んだ瞳というか、そういう全体の空気感にムラッときた。

店長は、口を押さえたまま、耳にかけられていた前髪を戻す。

目元を隠して、俯いて、それからポツンと言った。

「開いてはいけない扉を……開いたような気分がします」

それは、オレも同じ気持ちだった。

(ゲイではない、はずなんだけどな……)

素質はあるだろうと思っていた。男の痴態に興奮するのだから、ゲイである人と近い感覚を持ち合わせているのだろうと。

(でも、男を好きになったこと、なかったからな……)

しかしながら、今。キスをした店長のことを、オレは可愛いと思った。思ってしまった。

それ以上の気持ちは、まだわからないけれど。

ただ、可愛かったし、またキスしたいな、と思ってしまった。


「へぇ、なるほどね。キミはそういうタイプの人間か。うんうん、面白い、最高に興味深いよ。今度大きな姿見をプレゼントしよう。ぜひ大画面で自身の痴態をオカズに楽しんでくれたまえ!」

早朝になると、仕入れのためにリモコンさんがやってきた。

彼は、オレの姿を見つけると、大きく「わー!」と声をあげて喜んでくれた。

今日からココで働きますと報告すると、満面の笑みで「大歓迎だとも!」とも言ってくれた。

「すごいこと言いますね……オレとしては、リモコンさんのセックスも見学したいところですが」

オレは、店長だけでなく、リモコンさんにも自分の性癖について話をした。

店長が「リモコンくんにも話せば良い。あの人になら話しても大丈夫でしょう。君の性格を考えると、話せる相手は多い方が良いのかもしれないよ」と、助言してくれたからだ。

仕入れに向かう車の中。

前回と同じように、リモコンさんが運転席、オレは助手席におさまっていた。

「はは、キミもなかなか言うじゃないか。うん、まぁ、そのうち、機会でもあったら、お花ちゃんも交えて三人で各々の性行為に励もうかね」

ゆるくカーブを曲がりながら、リモコンさんは言った。想像するにつけ、ものすごく異様な光景だ。

しかし、誰にも迷惑をかけてはいない。誰にも、何にも。

道路は空いていて、空は明け方に向かって緩く光りを湛えている。

柔らかく、優しい明るさが、車の外に満ちてきていた。

「私はこう見えてね、生まれは関西なんだ」

不意にリモコンさんが言った。

「へぇ……そうなんですか。ちっとも訛ってないから東京の人かと思ってました」

オレから見ると、リモコンさんは変わっているけれど、あか抜けていてオシャレに見える。今日も全身黒い服のコーディネートだが、リモコンさんに良く似合っている。てっきり、ずっと東京で暮らしている人だと思っていた。

「いやぁ、こっちでの暮らしの方が長いからね。訛りはないんだけれど……ホストくんはまだ大学生と言ったね。君たちの年代にはあまりピンとこないかもしれないが、私は幼いころに、自分の環境が自然の力によって一瞬でガラリと変えられてしまう様子を目撃している」

オレは、リモコンさんが何の話をしているのか、よくわからなかった。

「キミたちの世代からすれば、阪神淡路よりも、東北の、三月の出来事のほうが、記憶に刻まれているかもしれんなぁ。あの出来事も、衝撃だった、深い衝撃だった」

リモコンさんの発した単語を脳内でカチカチと組み合わせることで、オレはようやく、彼が小さいころに経験した出来事に思い当たった。

「……阪神の、ことも……あの、追悼式のニュースとかで」

オレが言い淀むと、リモコンさんは笑った。

「そう他人事のような顔をするな。日本という島国で生きていくつもりである以上、あの手の災害は他人事じゃぁない……それでも、びっくりするものだよ、実際に体験をすると。誰も悪くないのに、あっという間に全部をひっくり返される。家とか道路とか、そういうモノだけじゃなく、人の絆とか、愛情とか、何もかもを、だ」

リモコンさんは、口元に緩く笑みを浮かべたまま話した。けれど、その笑みは、無理に作っている形のように見えた。

「私の家族は、たまたまね、たまたま。みんな無事だったけれど……でも、ああいう災害とか、天災とか。そういうのを目の当たりにすると、大袈裟じゃなく、本当に、今生きてるのは、たまたまなんだなぁって思うのさ。いや、ほんとに」

生きていることは、誰しも、当たり前ではないよ、たまたま、運が良くて生き延びているんだ、私たちは

リモコンさんの言葉は、オレの耳ではなく、腹の真ん中あたりに響くように聞こえた。

「それにな、命は無事でも、あの出来事によって関係性が変化してしまった人々なんかも、たくさん見たのさ。生き延びた人間の言い合いや罵り合いなんかもね。もちろん、愛する人を亡くしたというパターンも、その嘆きとか悲しみとかも、散々見てしまった。私はその時、思った。あー、他人に興味を持ったところで、繋がり合ったところで、こうなってしまっては、なんの意味もない。人と関わるということは、引き裂かれる痛みも苦しみも、全部背負う覚悟が必要なことなんだ、とね」

まだ幼かった私には、そういう度胸も覚悟も、持てそうになかったよ

リモコンさんは、最後、ポソッと落とすような声で言った。

しばらく、車内に沈黙が流れた。オレは言葉を探すけれど、なにも浮かんでこない。オレは経験したことのないことだ、そんなオレが口に出来る言葉なんて、なにもないと思った。

「ああ、そうそう。私はね、避難する時に、なんだか夢中になって、何かを掴んで、そして母に手を引かれて逃げたんだがね、その時にギュウギュウと掴んでいたのが、家のテレビのリモコンだったんだ。もう、あれは運命だったとしか思えんよ、今となっては!」

仕切り直すように、リモコンさんはいつもの明るい声で言った。

「店長が……オレも、店長も、リモコンさんも、豊かで、さみしくない人だって言ってました」

オレは、朝食のような夕食を食べた時のことを思い出して言った。ついでに店長とキスをした時の感触を思い出して、少し頬が熱くなった。

リモコンさんは、今度こそ笑って、何度も頷いた。

「あいつは、たまに良いことを言う! そうとも、私たちは豊かで、そしてさみしくない人々だ!」

「どういう意味です……? 豊かについては、その、感受性が豊かだからこそ、様々なモノに情感を抱く、みたいなことを店長は言ってましたけど……」

リモコンさんは、チラリとだけオレの方を見た。

「愛する相手が人ではないというのは、さみしくないことだと私は思う」

リモコンさんは穏やかな優しい声で言った。

「相手が人だと、失う悲しみとか、相手と離れている間のさみしさがあるだろう? 私たちには、それがない。私はリモコンであれば、どんな形状のものにでも欲情できるし、お花ちゃんは、花であればなんでもイケる。凹凸のあるリモコンは、今後生産されなくなってくるかもしれんが、それについては、私が買いだめをしておけば済む話だ。花についても、お花ちゃんが死ぬより先に、世界中の花が絶滅するとは考えにくい」

「……た、確かに……?」

オレは、曖昧に頷いた。

「キミの場合は、男の痴態に欲情する。それも自分の姿でもイケるという口だ。最高じゃないか。一生相手に困らん。自分が死ぬまで、自分でイケる。ずっとキミは、さみしくはならない」

リモコンさんは断定して言ったけれど、オレは「なるほど……」とだけ言って黙った。

オレはまだ、大切な人を失ったことがない。失ったことがないから、真実に「さみしい」という感覚がわからないのかもしれない。

(店長も……何か理由があるのかな……花にしか欲情しなくなった、理由が……人間に、深入りしたくない、理由……)

オレはぼんやりと考えた。

本当のさみしさを知っている人は、知ってしまった人は、もうさみしい気持ちになるのは懲り懲りで、だからどうにかして、さみしくない人生を歩もうと工夫するのかもしれない。リモコンさんも、店長も。

市場に着いてからは、活き活きと仕入れをするリモコンさんの後を、オレは一生懸命にくっついて回った。

花々の香りと朝の光に満たされて、市場は今日も活気づいて、生命の輝きで溢れていた。

それだけでオレは、単純に元気が出てくるような気持ちになった。

店長への気持ちや、リモコンさんがどういう人なのかという本質については、まだまだわからないことが多いけれど。

(この仕事のことは、好きになれそうだ……)

植物が好きな自分にとっては、とても向いている仕事のように思えた。


「そういえば、ホストくん、今日、大学はあるの? というか、ホストくんのシフトは、どういう感じで組めば良いのかな……?」

その日も、朝の八時になって店を閉めた。

オレがはじめて店に来た時よりも、沢山のお客さんがやってきて、仕入れから帰ってきた後も大忙しだった。

ようやく店を閉めて、片付けをして。

リモコンさんが帰るのを見送って。

色々なことが落ち着いてから、思い出したように店長は言った。

店長とは、ごく普通に、自然なコミュニケーションが取れている。

キスをした後、少しくらいギクシャクするかな、とか、緊張するかな、とか考えたりしたけれど、そんなことはなかった。

(そもそも、もう色々見ちゃっているから、今更キスくらいで意識しまくるってこともないよなぁ……)

店長のことについては、本名も知らないくせに、精液の匂いやセックス中の表情、口の中の味や感触までも知っている。

変な方向で情報過多だ。

「えっと、週に三日、土日と水曜はフルで出られると思います。今日も、授業は午後からなんでまだ時間大丈夫です。大学がある日も、夕方から夜までなら働けます。終電までに帰れればどうにか……」

オレが言うと、店長は珍しく少し怪訝な顔をした。

「ホストくん、大学二年生でしたっけ」

「もうすぐ三年です。授業も少なくなるので、バイトもやりやすくなると思います!」

オレが「ちゃんと働けます」というアピールをすると、店長は前髪を片方だけ耳にかけて、眉をひそめた。

「学生は勉強が本分でしょう。なんのために学費を稼いでいるんですか。本末転倒だ」

店長が、当たり前にオトナが言うようなことを言ったのに、オレは驚いた。

「ホストくん、家は埼玉の方だって言ったっけ」

「は、はい。埼玉のきゅうり農家です」

「ここから埼玉まで終電で帰って、また朝に都内の大学へ通うというのは非効率ではないですか?」

店長は前髪を直しながら言った。オレは苦笑いをするしかない。

出来ることなら一人暮らしがしたいという気持ちは、大学に入った頃から持っていた。

しかし、学費でさえもギリギリの状態で、一人暮らしは夢のまた夢だった。

「ホストくん、キミさえ良ければ……あと、ご両親の許しがあれば、かな。まだ未成年、いや、成人したばっかりなんだから、ご両親の許可が必要な気がするな……」

店長は後半の方、ブツブツと独り言のように呟いた。

「あの、オレさえ良ければ、なんでしょうか……?」

オレが続きを促すと、店長は「ああ」と我に返った顔をして、

「私の寝室の隣、一部屋空いているんです。そこで寝泊まりしたらどうでしょうか、という提案です。そうしたら、終電を気にしなくても良いし、長い時間をかけて埼玉まで帰らずに済む。電車代も浮きますし、ここから大学へ通う方が楽でしょう。バイトについても、シフトを決めずとも、ホストくんが手伝える時間に入って貰えれば良いですし、働いた分の時間だけきちんと管理をしてくれれば……」

店長の言葉に、オレはポカッと口を開いて、ついでに目も見開く。

「え、本気で言ってます……?」

「ええ。私は本気ですが……もちろん、キミが嫌でしたら無理にとは言いません。ただの提案です」

オレは店長の両手をガシッと掴んだ。店長が「わっ」と小さく驚いた声をあげる。

「ぜ、ぜひっ、ぜひ、お願いします! 両親には、きちんと話します! あの、そんなに支払えませんけど、部屋代もっ……あと、結構家事とか得意なんで! 家事も、やりますから!」

物凄い剣幕で迫るオレに、店長は背中を仰け反らせた。

前髪の奥にある目が迷惑そうに細められていることに気付いて、オレは慌てて手と体を離した。

店長はオレに掴まれていた両手をブンブンと宙に振って、

「部屋代はいりませんし、家事なども、自分のことを自分でして貰えれば、それで結構です」

と、きっぱり言った。

「私には私のペースがあります。ホストくんにもホストくんのペースがあるでしょう。それぞれ、あまり干渉することなく、マイペースに、ただ部屋が隣であるというだけで居られると有り難いです」

店長はゆっくりと、オレに言い聞かせるみたいにして言った。

オレは深く頷く。ここで変なことを言って、店長の気が変わってしまったら大変だと思った。

「あと、ご存知と思いますが、私は結構ガッツリと性行為をしますので、それらの物音なども気にしないでください。ホストくんも、まぁ、ご自由にどうぞ」

オレは、店長の言う「ご自由に」の意味を勘ぐってしまう。店長は、オレの変な性癖を知っている。まるで、ご自由にご見学くださいと言われている気分だった。

「あの、店長」

オレは、唐突に思い出して言った。

昨日の夕方、店長の性行為を目撃してしまった時に、感じたことだ。

「なんでしょう」

「店長の、あの行為は……アレを……強く、握りすぎているんじゃないかと思うんですが……痛くないんですか?」

「アレ、とは……?」

「……その、店長の、息子と言いますか……」

「……性器のことですか?」

店長は言った。具体的に言わないとなかなか伝わらないようだ。

「そうです」

オレは、普通に恥ずかしくなって、顔が熱かった。

「強く握りすぎ、というのは……?」

店長は、オレが思っていた以上の食いつきをみせた。どうやら、そっち方面の知識については、どん欲であるようだ。

「あんなに強く握ってヌいたら、性器が傷つくでしょうし、店長、痛くないんですか?」

「正直痛いことが多いです。けれど、そのくらいの強い刺激がないと、イけない」

オレは大学でも、そんなに積極的なタイプではない。根暗でもないけれど、どんどん発言をしていくような性格ではないと自覚している。

それなのに、どうだろう。

「あの、もし、よかったら、オレが、ヌいて、あげましょうか……?」

店長の前で、オレは口が滑りすぎているような気がする。

オレの発言に、店長は「ほぉ」と深いため息のような声を出した。

そして、暫く黙った後、

「もしかしたら、それは妙案かもしれないですね」

と言って、笑ったのだ。オレには、その笑った口元しか見えなかったけれど、前髪の奥の瞳がスッと細められる様を想像してしまった。

悪戯(いたずら)を仕掛ける時の、猫のような。なんとも挑発的な顔だ。それは、オレにとっては、結構色っぽい顔のように思えた。


「それで、私はどのようにすれば良いんでしょうかね?」

店の片付けをしっかりと終えて、店長とオレは、二階へとあがった。

今日は大学の授業が四限からで、まだ十分に時間があった。

「とりあえずは、いつものように、こう、やりやすい体勢をとってもらって良いですか……?」

店長は、オレの言葉を聞きながら、さっそく布団を敷き始めている。

「あぁ、シーツがないですね」

「そうだった……洗濯機に入れっぱなしで……」

すっかり忘れていた。店長は襖の奥から新しいシーツを取り出した。

薄いクリーム色のシーツだ。

「シーツの上に、バスタオルがあると良いかもしれないです」

オレが言うと、店長は「なぜです?」と言った。

「毎回シーツを洗うのは大変じゃないですか……? タオルを敷いておけば、少しは汚れが防げます」

店長は「ホストくんは頭が良いですねぇ」と感心したように言った。こんなところで頭の良さを言われても、微妙なものだなとオレは苦笑いを浮かべる。

「ホストくんは、私の痴態を見ても興奮するんですよね? でしたら、私の性器の相手をしつつ、ホストくんも適宜(てきぎ)、ヌいてくれて構いません。その気になったら、ですが」

店長は、シーツをきれいに敷いて、それから上にバスタオルを二枚重ねるように敷いた。

どうやら、布類については全て襖の奥に収納されているらしい。

「では、さっそくですが、脱ぎます」

店長は、バスタオルの上で全裸になって寝ころんだ。

オレは、勝手に下だけ脱ぐものだと思っていたので、ちょっと驚いた。

こんな短期間に、他人の全裸を複数回見つめることになるとは思いもしなかった。

「キミも脱ぎますか?」

店長に問われて、オレは少し考えた。

「今日は、とりあえず、このままで……ヤバそうになったら、下だけ、脱ぎます」

オレはなんだか照れくさくなって笑いながら言った。

そして、店長の側に寄る。店長の性器は、もうしっかりと勃起していた。部屋中が花だらけだからだろうか。

(花の匂い、すっかり慣れちゃったな……)

オレは思いながら、店長の起立している性器を見つめた。ところどころ、痛々しく傷がついていて、かさぶたのようになっているところまであった。

「爪を立てたりしてるでしょう? めちゃくちゃ痛そうじゃないですか……」

オレが言うと、店長は寝ころんだまま、前髪をかきあげた。

両方の目元がしっかりと露わになる。

「痛くても、だんだんこう、痛気持ちいいみたいになりますよ。あ、ちなみに、私はマゾヒストではないです。サディストの傾向もないです」

店長は、つらつらと性癖を暴露する。オレは笑って「そうですか」とだけ答えた。

「他人の手って、やっぱり自分の手とは、ちょっと違うと思いますよ」

オレは言って、店長の性器にそっと触れた。当然だけれど、そこは熱くて、薄い皮膚の下からはドクドクと脈の音がして、生きているなと思った。

ゆっくり、ゆっくり、最初はあまり力を入れずに、性器を擦る。

店長は一度だけ体をピクッと動かして、「ん」と小さく言った。

「ゆっくりします。気持ちよかったら、気持ちいいと言ってください」

オレは、他人の性器を擦っているという感覚と、店長の鼻にかかった「ん」という声に、さっそく興奮してきていた。

意識して、呼吸を深くする。深く、ゆっくり。

ゆるゆると雄の象徴であるモノの、竿を擦って、カリの部分を甘く刺激して、先端部分は指先でこねるようにする。

店長は、深く呼吸をしているようだった。それはオレも同じなので、部屋の中に、二人の呼吸音だけが、密やかに揺蕩(たゆた)う。

店長の性器は、なかなか濡れてこなかった。先走りの体液も、ほんの少ししか出てこない。

(あんまり気持ちよくないのか……?)

そう思って、チラリと店長の方を見ると、眉間にゆるく皺を寄せて、頬も蒸気している。

(気持ちよくない、わけでは、なさそうだな……)

オレは考えた。なるほど、先走りが少ないから、店長は乱暴に擦るしかなかったのかもしれない。

「てんちょ」

そっと呼びかけると、店長が目線だけで答えてくれた。

「ちょっと失礼しますね」

オレは言ってから、身を屈めて、目の前の性器をそっと口に含んだ。

まずは舌先で先端を舐めて、それから徐々に口内へ。

「っ、ハッ、っ、ちょっ、ホス、トくっ、」

店長の慌てた声がやけに遠くに聞こえた。口内には、ほんの少しの塩味。それに鼻先には生々しい人間の匂い。花の匂いが負けている。

グググと、更に奥まで性器をくわえると、鼻の先に下の毛が触れそうになる。蒸れた匂いが一気に体中を巡る。店長の性器の先端が、オレの喉の奥を、押し上げている。

その瞬間、体がカッと熱くなって、何かに火がついた。

歯を立てないように気をつけて、喉を締めながら口を上下に動かす。

舌先に触れている性器がビクビクと震えるのが面白い。

「ァ、あっ、これ、はっ、スゴ、いっ、アっ、!」

店長の声が上擦っている。オレは、根本から裏筋を舐めあげるようにして、先端までを舐めた。

そして、ハクハクと痙攣している先っぽの穴を、舌を尖らせてグルグルと回すようにして舐めた。

苦い液体が、トロトロと口の中を満たしていく。

「だ、ダメですっ、も、イ、くっ、口をっ……!」

店長が「離して」と言う前に、ジュッと先端を吸った。

「ひッ、ァッ!!」

ひときわ大きな嬌声(きょうせい)があがり、店長の体がビクンと震えた。口内が熱くなる。オレの視界の隅で店長の白いつま先がシーツを蹴っている。

粘ついた液体が、口をいっぱいに満たした。なんとも言えない、曖昧な匂い。それに、味。とても美味いとは言えない、不思議な味。

「はぁ、ハッ、は……」

店長が肩で息をしながら、むくりと上体を起こした。

「ホストく、これ、使って……出しなさい、」

店長は布団の横にあったティッシュの箱をオレに差し出した。

オレは口の中を店長の出したモノでいっぱいにしながら、コクコクと頷く。

二枚ほどティッシュを引き抜くと、ペッと口内のものを出した。舌にこびりついたものも、歯でそぎ落とすようにしてティッシュに出す。

「……どう、でしたか……?」

オレが尋ねると、店長は「最高でした」とすぐに答えた。

「それは良かったです」

とりあえず、一仕事を終えた気持ちでオレは笑った。

もぞもぞと居住まいを正す。

「キミの股間も、随分と苦しそうだが……それは私がどうにかした方が良いのかな……? 悪いけれど、こういう場面での礼儀がわからなくて」

店長がオレの息子を指さして言った。完全勃起している。

仕方ないではないか。正直、店長の声はオレの好みなのだ。あの上擦った声は、脳味噌をビリビリと痺れさせるような効果がある。

「じ、自分で、抜くので、ダイジョウブです……」

オレは、片手をピシッと店長の前に出して辞退した。これ以上進んでしまうと、もう戻れなくなるような危機感があった。

「そうですか……では、提案なのですが、キミのソレと私のコレを、こう、合わせて擦るというのはどうでしょうか? なにかの本で見たことがあります。合わせて擦るのは最高に気持ちいいと……」

店長が言った。前髪を再び、鬱陶しそうにかきあげる。

オレは目をパチクリさせる。一体、なんの本を見たんだろうか。そして、そのまま視線を店長の股間に向ければ、既に緩く勃ちあがっている。

「……テンチョーって、やっぱ、マジで絶倫っすね」

オレは思わず砕けた言葉遣いになって言った。

店長は真顔で「私も自分の性欲には、うんざりしているところがあるくらいです」と言った。

持て余しているらしい。

オレ自身も、確かに息子が悲鳴をあげていた。

二人一緒に気持ちよくなれるのなら、それは良策なのかもしれない。

「じゃ、じゃぁ……ちょっと、失礼します……」

オレは一言断ってから、自分の性器を下着から出した。

先走りで、パンツに少し染みが出来ているのが恥ずかしい。

「ほんとに、やっちゃって大丈夫ですか?」

オレが言うと、店長は「どうぞどうぞ」と前のめり気味に言った。

膝を使ってズルズルと移動して、オレは店長の目の前に座る。

「足、開いてください、もうちょっと……」

店長は、オレの言葉に素直に従う。座った体勢で、クッと開脚してくれた。店長は体が柔らかいようだ。

オレは店長の足と足の間に入り、己の息子と店長の性器をヒタリとくっつけた。

両手で性器を包み込む。

「熱い、ですね……性器というのは」

店長がポロリと言った。

「そういう、他人の熱の感覚さえ、私は、今日まで知らなかった」

「そうですか……」

オレは気にしない風に答えたけれど、店長の後ろ側にある、店長が店長みたいな人間になった理由を、知りたいと思ってしまう。

リモコンさんがリモコンさんになった理由は、なんとなく理解した。さみしくない人でいたいと願う気持ちも、わかる気がする。

(店長も、さみしくない人でいたいのかな……なにか、大きくさみしい気持ちを抱いたことが、あるのかな……)

なぜ、花にばかり、欲情するようになったのかな……

疑問は尽きない。けれど、深入りが許されないような気配は、いつでも店長の側に漂っている。

「擦ります」

オレは一声掛けてから、先ほどよりも素早く、二人分の性器をヌいた。

オレの先走りが性器に絡みついているからか、さっきよりもよっぽど擦りやすかった。

クチュ、クチャ、という粘着性のある水音が、静かな部屋に響いている。

「は、ァ……あ、そこ、キモチ、ぃ、ですっ、アっ……」

店長は、我慢するようなこともなく、ただ本能のままに声を出しているようだった。体も、快楽を求めてうねるように動く。店長の腰の揺れに合わせるように、オレも腰を揺らした。

性器を擦る速度があがる。息もあがる。頭が白んでいくような気がした。

(きもちい、きもちっ、めっちゃ気持ちイイっ、)

両目をギュッと瞑って、夢中になって快楽を追った。店長の声が一際大きく響いた。

オレの背中にも、電流が走るような快楽が弾けて、思わず「ァ、ア」と声が出た。

もうイく、イく、と思っていたところで、店長の手がグッとオレの体を引き寄せた。

バランスを崩して、オレは店長の体に覆い被さるようになる。

後頭部を引かれた。気が付いたら、唇が重なっていた。

「ァ、んっ」

店長の甘い声が耳元で響いて、オレはキスに答えながら欲を吐き出した。

オレのすぐ後に、店長も「ン、ぁあっ」と小さく短い悲鳴のような声をあげて、達したようだった。

濃厚な花の香り、人間の、汗の香り、欲望の匂い、そして湿った息づかい。

目がチカチカした。息を整えながらオレは店長の顔色を覗く。

乱れた髪、潤んだ切れ長の目、店長は笑っていた。その表情の、瑞々しさに、溢れ出てしまっている色香に、オレはまた、自分の半身が熱くなるのを感じた。

「あの……」

オレが声を出しかけると、店長は再びオレの後頭部を引き寄せて、今度は軽くチュッと音の鳴るキスをした。

「てんちょ、」

「たまには良いですね、誰かと共に楽しむというのも」

店長は言った。

その声の静かさや、親密さは、暴力のようにオレの頭を殴った。

気が付けば、オレは店長の肩を掴んで、組み敷いていた。

「……どうしました?」

店長が、オレの顔をまっすぐに見ている。

その平然とした表情は、何もかもわかっているようにも見えるけれど、同時に、何もわかっていない子供のような顔にも見えた。

「どうせ楽しむなら、最後まで、楽しみませんか」

オレは言った。

(オレ、やっぱりゲイなのかな……)

冷静な自分が、頭の中で呟いている。

「嫌だったら、殴ってでも止めてください」

オレが言うと、店長はフッと小さく笑った。

「私は青春時代にも、人を殴った経験が、あまりないもので……加減はできないと思いますが、良いですか」

店長の言葉に、オレはすぐさま「いいです」と答えた。

オレの指は、なんだかわからない粘液でじっとりと濡れていた。

店長の腹や太ももも、どちらのものかわからない精液に濡れている。

「てんちょ、もう一回、足、開いてください」

オレが言うと、店長は押し倒されたまま、足を開いた。

店長のソコは、毛が薄くて、後ろの穴が良く見えた。

性器と同じような肉感のある色をしたソコに、指先を這わせる。

「挿入というヤツですか? これはもう、完全にセックスですね」

店長が独り言のように言った。

「世の中の一部の人は、親しい友人ともセックスするので、これは浮気ではないと思います」

オレは最低な言葉を口にしたけれど、店長は「なるほど」と言って、笑っているようだった。

どこまでも、性的欲求に正直な人なのかもしれない。

オレは、指先にクッと力を入れて、まずは指を一本差し入れてみた。

(あ、思ってたより、柔らかい……)

一本目を入れると、恐る恐るナカをかき回してみる。

「違和感がすごいですね」

店長が言った。顔を見れば、眉間に皺が寄っている。

「痛いですか……?」

尋ねると、店長は首を振った。

「痛くはないですが、この違和感が続くのなら、キミを殴る準備をはじめなくてはと思います」

真剣な声で言われたので、オレは情けなく「もうちょっと待ってくださいっ」と懇願した。

(確か、ナカにも良いところ、あったはずなんだ……)

自分は、もしかしたらゲイなのではないかと思っていたころ、少しだけ勉強したことがあった。

男同士のやり方について。

オレは指を二本に増やして、再び丹念に、ナカをかき混ぜる。

すると、奥の方に、少しだけ感触が違うところがあった。

(こ、ココ、かな……?)

試しに、指の腹を使って、その部分をグッグッと押してみた。

「んぁっ……!」

ビクン、と店長の体が跳ねる。

「……ココ、良い、ですか……?」

店長は、目を丸くして、驚いた顔をしていた。

オレが再び、その場所を擦ると、店長の体が素直に跳ねた。

そして、先ほどよりもくぐもった声が「んっ、んぅっ、」と聞こえている。

どうやら、唇を噛んで、声を押し殺しているようだった。

「てんちょ、口、切れちゃいます……」

オレは伸びあがって、店長の顔を見て、頬と口の端にキスをした。

店長は、はじめて不安げな目をして、言った。

「今まで、経験したことの、ない、もので、ちょっと、驚いて……」

店長にしては珍しく、言い訳のような言葉だった。

オレは店長の目元にもキスをして、ナカに入れていた指を、ゆっくり抜き差しした。

奥はグウゥと押すように、浅いところはかき回すように。

「ァ、っ、はぁ、ん、き、きもち、ぃ、気持ちい、ですっ、ァっ、」

店長は素直な感想を、譫言のように落とした。

キュウと手の先、足の先に力が入っていて、腰は浮いている。

オレは、少しずつ、少しずつ、抜き差しのスピードを上げていく。

それに合わせるようにして、店長の嬌声も大きくなった。

「アッ、やっ、ダメで、す、イ、くっ、出るっ!」

店長の顎先が、クッと上を向いた瞬間、性器から、少量の精液が漏れ出た。

思わず漏れたような感じで、トプッと溢れた。

オレが、指を引き抜くと同時に、店長が言った。

「足り、ない……物足りない、感じが、あの、これは……」

キミの、ソレを挿入したら、もっと、もっと……

店長は、肩で息をしながら、何かに取り憑かれたように、オレに手を伸ばしてきた。

オレは、呼吸するたび、喉の奥がヒューヒューと小さく音を立てているのを聞いている。

まるで過呼吸になったような、そんな、飢えが、体中を支配していた。

「入れても、いいですか」

オレは、余裕もなく、平坦な声で言った。

店長がすぐさま、何度も、頷く。

濃密な空気が、互いの間に、粘着質に漂った。

その空気に、二人だけが絡めとられて、繭の中に閉じ込められたようだった。

何かに、急かされるように、オレは店長の後口に己の性器をあてがった。

店長の入口に、オレの先端が触れた時、店長は「熱い」と呟いた。

オレは、その声を遠くで聞きながら、キスしているみたいだと思っていた。

もっと奥へ、奥へ入って、絡み合わせてみたい。

冷静な部分の自分が、己の息が荒いことを、恥ずかしく思っている。

「力、抜いててください」

オレは、なんとかそれだけ言うと、後は店長の呼吸を観察した。

吸って、吐いて、吸って、吐いた瞬間に、グッと腰辺りに力を入れて、挿入した。

「ぃ、アっ、!」

店長の右足が、シーツに円を描くように、滑り動く。

「……きっつ、い」

オレもオレで、ギュウと締め付けられる性器への圧迫感に、ドッと汗が溢れる。

けれど、それよりも、奥へと進みたい欲望が勝っていた。

奥の、あの場所を。

店長の、良いところを、擦ってあげなくては。

謎の使命感に突き動かされて、オレは再び、店長の呼吸を観察する。

少しずつ、ズズズと、奥へ、更に奥へ。

奥へと進むたびに、店長が「んっ、んっ、」と悩ましげな声をあげる。

オレは、その声に興奮する。

奥へと進めなくなると、一度腰を引いて、再びグッと押し進めた。

「ひ、ぁっ……!」

店長の声が、一層高く上がったので、オレはなんども抜き差しを繰り返した。

繰り返すほどに、奥へと進む。

「ハ、ぁ……てんちょ、きもちーです、か……?」

オレが荒い息の間で問えば、店長は無言でコクコクと頷いている。

曖昧に開いたままになっている口の端からは、唾液が溢れ出ているし、目の端も涙で濡れている。

大量の美しい花に囲まれた空間で、店長だけが生々しかった。

オレは必至で腰を振った。オレ自身も、とんでもなく気持ちが良かった。

昔彼女としたセックスとは比べられないくらいに。

意識が飛びそうなほどに、気持ちよかった。

目の前の、美しい痴態。耳に届く嬌声は、紛れもなく男のものだ。

(なんだこれ、なんだこれ……最高だ、最高に、気持ちいい……!)

オレは、馬鹿みたいに「気持ちいい」を口走って、腰を振り続けた。

店長は何度も腰をうねらせたし、逃げるように体を捩ったりしていた。

途中で、悲鳴に近い嬌声も聞こえた気がしたけれど、オレはオレのことだけで精一杯だった。

奥を突けば突くほど、気持ちが良かった。

(そういや、オレ、ゴムも、つけてない……)

それに気が付いたのは、店長の中で、思い切り射精をしてしまった後だった。

店長は、顔も体も、何もかもを、ピンク色に蒸気させながら、何度も絶頂を迎えていた。

オレが腰を激しく打ち付けるたび、同じように一緒に振れる店長の性器が愛おしかった。

達するたびに、体にギュウと力が入る姿も、いじらしくて、素敵だと思った。

どのくらい、そうやって必死になっていたのだろう。

遠くの方で店長が「もう、や、だ、も、やめ、止まっ、て!」と懇願する声が聞こえた気がする。

けれどオレは、その声を遠くで吹いている風のように、他人事のように受け止めて、しばらく腰を動かし続けた。

心のどこかで、店長が、あの絶倫の店長が、気絶してしまうくらい、飛んでしまうくらい。

そのくらいに、どうにかしてやりたい気持ちが、あったのだと思う。

店長は、最後までオレを殴らなかった。

代わりに、縋るようにして、オレの背中に、腕を回してくれた。


「キスも、それに……セックスも……してみると、それはそれで良かったです。ハマりそうだ。キミが野獣だったことを除いては、良い経験でした」

二人とも、完全に酸欠、脱水みたいな状態になって、ようやく行為は終焉を迎えた。

ぐったりと倒れこんで、荒い息を整えて、水分を取って。

やっと落ち着いたタイミングで、店長は言った。

オレは、嬉しいような、切ないような、申し訳ないような、曖昧な顔をして、アハハと笑った。

どう反応して良いものか、正解がわからなかったのだ。

ついでに、自分の中に眠っていた欲望の大きさに震えている。

あんなに夢中になってセックスしたのは、はじめてだった。

「……キミは、私を好きになりますか?」

店長が尋ねた。真顔だ。オレの心臓が、ドクッと鳴る。

実際、オレは自分が店長のことを好きなのかどうか、わからなかった。

人間としては、不思議な人だけれど、好きだ。

セックスの最中の痴態にも、最高に興奮した。

けれど、恋愛的な意味で好きかと言われると、それは確かではなかった。

(恋愛的な経験が少ないから、判別がつかないだけかもしれないけど……)

恋愛経験が乏しいだけでなく、同性との恋愛経験に至っては経験皆無だ。

「恋愛的な意味では、好きになるか、わからない、というところです……」

オレが正直に言うと、店長は安堵の表情を浮かべた。

「良かった。私は恋人的なものを作るつもりは生涯ありません。私には花たちがいますので、浮気をするつもりはないんです」

先ほどの、アレは、店長の中では浮気には含まれないようだ。

花たちのいる場所で行ったことなので、行為としては、三人でのプレイのような位置づけなのかもしれない。

「……店長は、どうしてそんなに、人との関わりを避けるんですか?」

そのくせ、オレのことは雇ってくれる気になっているのだ。部屋まで与えてくれるという。

オレは、無礼を承知で尋ねた。別にはぐらかされても良いくらいの気持ちで。

「……前にも言いましたが、私はさみしい人になりたくない。出会って、密に関係を築けば、必ず別れの時にさみしい気持ちを抱くことになるでしょう?」

店長は、ほんの少しだけ視線を左右に迷わせた。

オレはその様子をじっくりと見つめる。

裸の華奢な肩が不安を背負っているように見えて、それが妙に切ない感じがした。

「オレは、店長もリモコンさんも……本当はさみしくない人なんかじゃ、ないと思います……」

オレは言った。

店長の目が、スッと真っ直ぐオレに向けられる。

「さみしくないんじゃなくて、さみしさを、知っている人なんじゃないでしょうか……? さみしさを知っているから、もうさみしい気持ちになりたくないんじゃ……違いますか……?」

本当は、さみしい気持ちから逃げているんじゃないですか? と口から出そうだった。

けれど、さみしい気持ちから逃げること、さみしさを避けることは、別に悪いことではないと思えたので、言い方を変えた。

店長は、口元にキュッと力を入れたように見えた。

「そういう気持ちから逃げようと思うのは、いけないことですか?」

店長が言った。せっかく言葉を選んでみたけれど、オレの言わんとしていることは、店長には丸わかりだったようだ。

オレはすぐに「いえ」と答える。

「いけないことじゃないと思うし、それで良いと思います」

笑って言うと、店長は一拍間を置いてから苦笑した。

「キミは難しいことを言う」

「店長ほどじゃないですよ」

「つまり、キミは私を、咎(とが)めないということですか?」

店長は言った。

「そもそも、咎めるなんてそんな難しいこと、オレには出来ないです。頭、そんなに良くないし。ただ、オレは店長やリモコンさんが、さみしい気持ちにならないように、気をつけて、努力したいです」

オレは言った。

「……なぜ、そんな気をつかうんです?」

店長は、何かを確かめたいような、何かの答えを欲しているような、そんな顔で、オレに尋ねた。

「店長やリモコンさんが、オレのことをどういう風に見ているのかは知りませんけど、でも、少なくともオレは、店長たちのことが人間として好きになったので、好きな人に、さみしいって気持ちを持って欲しくないっていう、それだけのことです」

ただただ正直な気持ちを、言葉にする。

これが、店長の求めている答えなのかどうかは、わからない。

けれど、店長は「そうですか」と言って笑った。

「キミを雇って良かった。これからもよろしくお願いします」

オレと店長は握手を交わした。

店長は全裸だったし、オレはズボンを半端に下ろして性器を丸出しにしている。

二人の手は、なにやら体液でべたついていたし、もう笑うしかない握手だった。


「私の両親は、私が幼いころに離婚をしていて。私は、母に引き取られました」

大学に行く前に、店長はシャワーと着替えを貸してくれた。オレがこの家で風呂場を借りるのは二度目だ。

髪の毛をバスタオルでワシワシと拭きながらダイニングに戻ると、店長は日本茶を淹れてくれていた。そして、唐突に、なんの前振りも、素振りも、なにもなく、話し始めた。

「その後、中学にあがったころに、母は再婚しました。相手の男性には、連れ子がいて。一人っ子だった私は、突然、高校三年の姉を持つことになりました」

オレは、黙って耳を傾ける。店長は、お茶を飲みながら、視線はずっと床の方を見ているようだった。

「ある日、私は両親の留守中に、姉にイタズラをされました。姉は思春期でしたし、そういった行為に興味があったのでしょう。私の下半身を触って楽しそうにしていました」

オレも、店長と同じように床の方を見つめてしまう。

中学生だった店長。どんな気持ちだったのか、想像が難しかった。

「しかし、私の下半身は、姉がどんなにイタズラをしても、ちっとも反応出来ませんでした。気持ちよくもなんともなくて、性器はピクリともしません。姉は、すぐにつまらなくなったようで、私に構うのをやめました。今思えば、キミがしてくれたみたいに、口にでも含んでくれたら、少しは違ったのかもしれません。あるいは、挿入を伴うセックスに及んでいたら、違っていたのかも……」

店長は、そこでフフフと笑った。決して自嘲(じちょう)するような笑い方ではなかった。店長の笑いの沸点は意外と低いようだ。

「私は、中途半端に性器をいじられて、放置されました。その時、私たちが住んでいた家は、義理の父の持ち家で、広いけれど古い、木造の一軒家でした。庭が広くて、母の趣味もあって、いつでも花がいっぱいに植わっていた。季節は冬だったのでしょうね。椿が咲いていました。私は、何を思ってそうしたのか、思い出せないのですが……下半身を丸出しにしたまま、庭に出たのです。そして、椿の花を見ました。その時の香りを、覚えています、今でも」

店長が顔を上向けた。前髪が、少しだけ隙間を作る。左目の中心部分だけが、チラリと見えている。

「花びらを触りました。そして、葉にも触れて。そうしているうちに、なぜか私は、完全に性器を勃たせました。熱を持ったソレを、手で掴んで、がむしゃらに擦りました。椿の花を握りしめた。そのまま、果てました。それが、私の精通でした」

店長の目が、オレを見ている気がした。

「私は、その時から、花にしか欲情しなくなった。ちなみに、庭でしていた行為は、いつの間にか帰ってきていた義理の父と、いたずらをした張本人の姉に、見られていました。血の繋がっていない者同士、まだ家族になったばかりで、義理の父も姉も戸惑ったのでしょうか。家庭内で罵(ののし)られたり、非難されるようなことはありませんでした。が、明らかに異質な、嫌なものを見るような目を向けられるようになりましたし、今でも姉とは仲良くはありません。連絡も取りませんしね」

店長は、まるで世界にたった一人でいるような、虚空に話しかけるような声で。

サラサラと、ただ落ちていく砂のような声で、言った。

「思えば、私はあの時……もしかしたら、とてもさみしかったのかもしれませんね。慣れない環境、私は本当の父が好きでしたから、離れていった父に見捨てられたような気持ちも、どこかにあったのかも……母も、私よりも新しい夫に愛想を振りまくのに夢中だった……でも、私には、さみしいという気持ちが、よく理解できていなかったのでしょうね。今だって、よくわからない。人間の感情は、いつでも曖昧で、名前をつけて断言して呼ぶのには、難しすぎます……私は、あの時、さみしかったのか、心に傷を、受けたのか……それすら、自分でもわからない、わからないものです、人間は難しい……」

「そう、ですね……」

オレはそこで初めて口を挟んだ。こんなに長く喋る店長を初めて見た。

店長は再びお茶を飲むと、頬杖をついた。

「ホストくん、私の経験は、さみしい経験なんでしょうか……私は、本当は、さみしい人で、これ以上のさみしさから、逃げている人なんでしょうか……」

店長は言った。疑問を投げかけているような、自分に言い聞かせているような、不思議な抑揚の声だった。

「私は、リモコンくんのように、決定的になにか……心のどこかを崩されたような記憶はないんです。リモコンくんは、彼は……」

「リモコンさんの小さい頃の話は、ちょっとだけ聞きました」

オレが言うと、店長は「そうでしたか」と笑った。

「その話をしたということは、やはりキミは彼に気に入られているね。よかった。彼は、実のところ気難しい。大丈夫、大丈夫と言うけれど、未だに心療内科に通っている」

店長の言葉に、オレは「そうなんですか……」と呟いた。

店長は、静かな声で言った。

「彼がいつも仕入れの時間に来てくれるのは、あの時間になると、毎日必ず目が覚めて、起きてしまうからです。早朝の時間。震災があった時間帯です。彼自身は、あの災害について、あまり覚えていないと言うし、そんなにキツイ経験をしたわけではないと思うと言っているけれど、自覚していない部分の傷というのも、あるものです……」

オレは店長の話す言葉の音を、その空気を、しっかりと吸い込むように、深く呼吸した。

店長は頬杖をついていた手を、オレの方に伸ばした。

そっと、オレの腕に、指先だけで触れる。

「私も、自分の中には、そんなに傷という傷は、ないつもりでいるんです。だから、さみしいという気持ちについても、私は理解していないつもりでいる。キミから見て、私はどうですか……?」

店長は、オレが言った「店長もリモコンさんも本当はさみしくない人なんかじゃ、ないと思う」という発言が、引っかかっているのかもしれない。

(店長は……さみしい人に、なりたくないんだろうな……)

店長の指が触れている腕。だんだんと、互いの体温が混ざって、シンと静まりかえった湖のように、周囲の空気が同調していく。

「店長が、さみしい人か、そうじゃないかは、店長が決めて良いことだと、オレは思います」

オレは言った。他でもない、店長自身が、決めて良いことだ。

「店長が、さみしいと言えば、オレは色々考えて、店長がさみしくなくなるように頑張ってみます。きっと、リモコンさんも、一緒に頑張ってくれます。でも、店長が別にさみしくないよと言ったら、オレもリモコンさんも、きっと普通に、いつも通りに接します。それだけですよ」

店長からの質問について、オレは答えの正解がわからない。わからないから、言えることしか、言えない。情けないけれど、まだ大学生であるオレの発言では、理解した風な言葉は、かえって失礼になる気がした。

店長は、オレの腕に触れていた指先を離すと、前髪をかきあげて、笑った。

「キミは本当に正直で真っ直ぐですね。ありがとう。なんだか気が済みました」

店長はそう言って、今度は腕を伸ばして、オレの頭をポンと撫でた。

それから、思い出したような声で言った。

「今更なんですがね、私はずっと自分でも謎だったんです。人と関わりを持つのは嫌だと今まで避けてきたのに、なんでキミのことを雇う気になったんだろうなぁ、と」

オレは、店長の顔をジッと見た。

それはオレも気になっていたことだ。なぜ、雇われたのか。

「気付いたんですが、私、単純にホストくんの顔が好みなんです。犬っぽい感じとか、明るくて良いと思います」

ああ、私もゲイではないので、安心してくださいね

店長は、付け加えるようにして言った。

オレは雇われた理由が思っていたよりもずっと簡単なことで、笑ってしまう。

「店長の好みの顔で良かったです、職を失わずに済みました」

店長は「そうですか」と言って、口元を笑みの形にした。

オレと店長の間に、緩く、柔らかく、まだ少し頼りない絆が、そこに生まれたような気配があった。

「大学、遅刻しないように出かけてください。私は仮眠します。ああ、合い鍵を渡しておくので、なくさないように」

店長は立ち上がると、湯飲みをキッチンのシンクに置いて、それから冷蔵庫にマグネットでくっつけてあるキーフックから、鍵を一本手に取った。

それを、テーブルの、オレの前にポンと置いてくれた。

「……鍵、良いんですか……?」

「キミは今後、ウチに居候することになるんでしょう? だったら、鍵は必須だと思うんですが……」

「ありがとうございます……絶対なくしません!」

オレは鍵を握りしめて言った。自分の居場所を、本当の意味で確保したような、そんな喜びが胸の中をいっぱいにする。

「本当は、キミの使う部屋もリモコンくんが使う予定だったんですよ。その合い鍵も。彼のために作っておいたものです」

店長は言った。懐かしむように。

「……それを、オレが使っちゃって、良いんでしょうか……?」

オレは、店長とリモコンさんの関係の不思議を思う。仲が良いのは、わかる。けれど、それだけでもないような、強い絆のようなものを、感じる気がしていた。

「良いんですよ。リモコンくんがあそこに住もうかと検討していたのは、もう十年ほど前の話です。大学を卒業するタイミングで。彼が一人暮らしをする自信がないと言っていたので、だったら、と」

「……リモコンさんは、今、一人暮らしを?」

オレが尋ねると、店長は笑みを深くした。

「結局、彼は自信がないとか言いながら、一度もこの家で私と暮らすことなく、一人暮らし出来ています。芯が強い人ですからね」

リモコンさんのことを語る店長は、我が事のように、誇らしそうだった。

オレは、店長とリモコンさん、二人の関係を良いなと思う。

「オレがココに住んで、色々慣れてきたら、リモコンさんも誘って飯でも食いませんか? オレ、頑張って作るんで」

なんだか楽しい気分になってオレが言うと、店長はスンとした顔に戻って、

「そういう面倒なことは、結構です。私もリモコンくんも、もう三十路過ぎなので。大学生パリピと一緒にしないでください」

と言った。

そうだ、そういえば、そういうタイプの人だった。オレは苦く笑って「ですよね~」と言った。

時刻は昼を過ぎ、オレもそろそろ大学へ行く時間だった。

店長は歯を磨いたりして、就寝準備をしている。

「じゃぁ、オレは大学に行きます。帰ってきたら、また働きますね」

「はい。まぁ、適当にしてください。私は私で、いつも通りに生活します」

口を濯(ゆす)いで、店長は言った。オレの方を振り返らずに。

「……店長。今更ですけど、オレの名前、青木(あおき)良(よし)春(はる)って言います。良い春って書いて、良春です。覚えられなかったら、ハルでもいいです。春が来た~って感じで、覚えて貰えたら嬉しいです」

オレは、店長がこちらを見ないのを良いことに、言った。

店長は、口元を濡らしたまま、チラリとオレを見た。

ニッと笑ったオレに、店長は不満一杯の声で、

「名前なんて知りたくないと言ったのに。最近の若い子は大人の言うことを聞かないんでしょうか……」

と言った。

けれど、それだけだった。

「いってきます」

そう声をかけたら、ちゃんと「いってらっしゃい、気をつけて」と返ってきた。

それだけでも、十分に嬉しい。

オレは一段飛ばしで階段を駆け下りて、花屋の裏口から外に出た。

平日の昼過ぎ。

まだ冬空は健在だけれど、風が大人しくて、どことなく、暖かい日だった。

オレは、貰ったばかりの合い鍵で、裏口に鍵をかけた。

そして、大事に大事に、鍵を財布にしまう。

新宿二丁目の街を、駅に向かって、軽やかに走り出した。

走り出したくなる、そういう気持ちだったのだ。


「最近この店、夜中だけじゃなくって、夕方からやってるって噂だけど、ホントなのぉ?」

新宿の街、いつも通りの夜。

夜の闇にひっそりと灯りを落としている店。

アンティークな看板には『月下美人』の文字。

店内には色鮮やかな花々が並んでいる。

そんな店内で、花々に負けないくらい鮮やかなピンク色のドレスを着こなした男が、からかうような声を出した。

「ええ、ハルが来ましたからね。この店も、ちょっとだけ変化の兆しです」

長い前髪を揺らして、この店の主である男が答えた。前髪のせいで目元は見えないが、口元は笑みを象っている。

「そうねぇ、暖かい日も増えたし、梅も咲いてきてるし……いつの間にか春が来てるのかもねぇ……」

ドレスの男は少し切ない声で言った。

店長は彼の表情を読みとって、穏やかな声で言った。

「私たちは夜の仕事ですからね。季節の変化に、うっかり取り残されることもありますね……ああ、そうだ。梅の花と、桜の花が入荷していますよ。枝振りも良いので、店の飾り花にも良いかと思いますが、ご覧になりますか?」

「せっかくの春ですから」と店長が言うと、ドレスの男は「それは良いわね」と笑った。

「見た瞬間に完全勃起するくらいの、最高の品です」

店長は胸を張る。

「アンタのその独特すぎる営業、キライじゃないわよ、アタシは」

ドレスの裾を靡(なび)かせて、男は目を細めた。

「それはありがとうございます」

店長がペコリと頭を下げたところで、店の奥から元気な声が響く。

「店長ー! 注文の花束出来たんで見てくれませんかー!」

「ああ、ハル。ちょっと待っていてください、接客中ですので」

店長は、まるで飼い犬を宥(なだ)めるような声で言った。

「あ、アリスさんだ! すみません、気付かなくて! いらっしゃいませ!」

奥にいたハルと呼ばれた青年。

彼は、それこそ犬が尻尾を振って寄ってくるように、満面の笑みでドレスの男の側に行った。

「今日も夜中なのに元気ねぇ~カワイイカワイイ」

アリスと呼ばれたドレスの男は、ハルの髪をクシャクシャと撫でた。

「なに、アンタもう花束作れるようになったの? すごいじゃない~」

「いやぁ、まだ全然です。リモコンさんが注文してくれて。今がんばってチャレンジ中です」

ハルは、はにかんで笑う。アリスは、ハルの話を聞きながら、横目で店長の顔をニヤニヤと見た。

「ちょっと店長、あんた、さっき春が来たって言ったの、そういうこと? 季節の話じゃなくて、ハルくんの話だった?」

ハルはきょとんとして、首を傾げる。

「オレ、なんかしたっすか?」

「いえいえ、こっちの話です。それよりアリスさん、どうするんですか、今日の花は」

無理矢理に話題を変えるように、店長が言った。

その耳元は、ほんのり赤く染まっている。

「店長、耳赤いっすよ」

ハルが言った。

「うるさいです」

抑揚のない声で店長が答える。

「ついでに勃起もしてるわよ、いつもだけど」

アリスが言った。

「アリスさんも、うるさいです」

今度は口元をモゴモゴさせながら、店長が言った。

店の中に、小さく優しい笑い声が広がった。

そして、その笑い声の中、店の外で短くクラクションが鳴る。

「やぁやぁー! 仕入れに行く時間だよ! ハルくんよ、さっさと車に乗りたまえ!」

車の窓を開けて、大きく声を出すのは仕入れ担当の男だ。

「リモコンくん、こんばんわ。もうそんな時間ですか。では、ハル。今日はコレをお願いしますね」

店長はハルに小さなメモ用紙を渡す。

ハルはメモを大切に受け取ると、急いで車の方へと走っていった。

「じゃぁ、アリスさん、店長、行ってきます!」

「はい、いってらっしゃい」

店長が言った。店の入り口で、アリスと店長に見送られて、仕入れの車は走り出す。

もうすぐ明ける、薄ら灰色の世界。

ヘッドライトを煌めかせて進む車。

夜の風も、ぬるく優しくなってきている。

「この店、前から好きだったけど、にぎやかになって、ますます好きになった」

アリスが独り言のように呟いた。

店長はそれを聞いて、前髪の奥の目を細める。

「確かに、にぎやかなのは、さみしくなくて良いですね」

もうすぐ、暖かく、明るい春がやってくる。

さみしい人々の元にも、さみしくない人々の元にも。

分け隔てなく、平等に。

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さみしくない人々 @ueda-akihito

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