後ろを歩く僕たちは

@ueda-akihito

後ろを歩く僕たちは

 *

 問いかけ、その一。

 芸術とは、何だろうか……?

「ねぇ、聞いた? 大講堂の話」

「聞いた聞いた。取り壊すんでしょ? この間の大雨で……雨漏りが酷くて講堂全部水浸しになったって」

 春風に乗って、明るく軽やかな声が耳に届く。

「全部壊しちゃうんだっけ? 講堂は古かったから仕方ないと思うけど……」

「あの講堂のさぁ、入り口のところに掛かってるおっきい絵、ウチの大学の卒業生が描いたらしいよ! 知ってた?」

「え、そうなの? 知らなかった~」

 問いかけ、その二。

 芸術の意味、とは……?

「せっかく卒業生が描いてくれたならさぁ、絵だけでも残せばいいのにね」

 高いトーンの声は、空高く、天まで舞ってしまいそうだと思う。

「いや、なんかね、絵の裏側? そっちまで水が入っちゃってて、もうダメなんだって。放っておくと腐っちゃうんだってさ」

 問いかけ、その三。

 芸術の価値、とは……?

「そうなのー? もったいないねぇ~、あの絵、結構好きだったのになぁ~」

「えー、そうかなー。私、あんまりよくわかんないや。何が描いてあるのか意味不明だし……なんていうの? ああいうの、抽象的?」

「たしかに。何が描いてあるのかは、ちょっとわかんないよね」

 問いかけ、その四。

 芸術の評価とは。一体、何であろうか……?

 風は止むことを忘れたかのように。優しく、けれど絶え間なく吹き続ける。

 西侑人(にしゆうと)は、春風に煽られて顔に張り付いてくる前髪を両手で抑えた。切るのを面倒がって放っておいたら、ついに口のあたりまで伸びてしまった前髪だ。

 左右に分けて、耳元にかける。くせっ毛であるせいで、ちっとも大人しく耳元に止まってはくれないけれど。

 それでも、途端に広くなる視界。耳を出したせいで、風の音がさっきよりも大きく聞こえるようになった気がした。

 聞かないように、努力する。

 ザワザワザワ、声は其処此処に溢れて、皆、陽気だ。侑人が意識を閉ざすと、明るい声たちは風と共に笑いあって、ゆっくりと遠ざかる。

 侑人の眼前には、取り壊される予定となっている大講堂。シンと静まりかえって、入り口の前には「立ち入り禁止」の札が掛けられている。

 侑人は講堂のガラス扉の向こう側にある、壁を見つめた。内壁に掛けられているのは、四メートル四方の大きな油絵。

 オレンジ色と朱色を基調として描かれた抽象画。大胆なタッチで置かれている暖色が、グンと迫ってくるようで。迫力と熱気と、活気、それに希望や未来への輝きが灯っているように見える。

(あくまでも、俺には、そう見えるっていうだけだけど……)

 侑人は思った。

 厚く塗られた絵の具の凹凸、一線のストロークの長さ、色の選び方。

(すごい、クセが、出てる……)

 どんなに大きな絵も、人間によって描かれている。身長によって、腕の長さは違ってくるし、腕の長さが違えば、一息に描ける線の長さも変わってくる。

 そこから考えれば、その絵を描いたのが、どの程度の身丈の人間か推測できる場合もある。

 色選びや、テーマ選びからは、描いた人間の心模様も伺える。

 絵には、描いた人間の様々な情報が滲んでいるのだ。

(個人情報流失、みたいで、気持ち悪い……)

 どうして、こんなに堂々と、絵を飾ることが出来るのだろうか?

 どうして、たくさんの人の目に留まる場所に、飾ることが出来るのだろうか?

 恥ずかしくは、ないのだろうか?

 怖くは、ないのだろうか?


 無意識に険しい顔になっていたのだろう。侑人は眉と眉の間が痛くなってきて、親指と人差し指を使って揉みほぐした。

 すると、背後で「カシャッ」という軽快な電子音と、「へっきしゅ!」という変な声が聞こえてきた。

 侑人は、そっと後ろを伺い見る。すると、左斜め後ろに、男が立っていた。侑人は、自分の背後に人がいたことに、ちっとも気が付かなかった。周囲の声ばかりは、あんなにもよく聞こえていたのに。

 男の視線は真っ直ぐに、大講堂へと向けられている。ついでに、スマートフォンのカメラレンズも、真っ直ぐに講堂へと向けられていた。

 男は、鼻の頭が赤くなっていて、侑人が見ている間に、もう一度「へっくしょい!」とクシャミをした。スンスンと啜られている鼻は小さく、高くも低くもない。

(年齢は、俺と同じくらい……もしかしたら、年下かも……)

 侑人は黙って、男を観察した。

(細身だな……身長は平均よりもやや低め……背負ってるのはギターケースか……? ケースがやたらと大きく見える……真っ直ぐな黒髪、クセ、なさそうで羨ましいな……)

 瞬きもせず、ジッと見つめる。こうなってしまうと、もう止められない。

(髪は……襟足だけ少し、ほんの少し刈り上げてる。少しだけだから、これはオシャレスタイルみたいなもんじゃないな、単に邪魔だったんだろう……前髪は、左右で七対三くらいに分けて、軽く流してる。ワックスつけてるのか……眉は細め、目は大きめアーモンド形、つり目気味……)

 頭の中の歯車がカチカチと動く。男の持つ細部の形、色味、雰囲気を、脳内に焼き付ける。

(黒縁のメガネ、これは完全にオシャレメガネってやつだろうな、目元に歪みが見えないから、度は入ってない。鼻が小さいから、口がちょっと大きめに見える。なんか、絶妙にバランス良い顔してるな……大きい口に対して唇が薄いのが良いのか……どういう比率だ……? 正面から見ないとわからないな……やっぱりまずは、目の特徴を押さえて……)

「随分とロックな熱視線だなぁ」

 侑人が夢中になって見つめていると、男が声を出した。あまりにも急なことだったので、侑人は肩と足がビクッと震えた。

 男は、視線を大講堂に向けたまま、スマートフォンも大講堂に向けたまま、クックックと笑っている。

「ちょっと待ってくれよ、まだ上手く撮れてないんだ」

 男は言った。

「ガラス扉が日を反射するんだよなぁ。こういうのはどうやったら上手く撮れるんだ……?」

 侑人は、話しかけられていることに、未だドクドクと心臓が鳴っている。左手で心臓の辺りをそっと押さえながら、

「ガ、ガラス扉に、カメラの画面を、くっつけてしまえば、反射は、しない」

 そう答えた。

 男は「おお!」と言って、侑人の方を見た。口の両端をニッと吊り上げている。正面から見た顔は、やはり絶妙にバランスが良く、整っていた。

「君、頭が良いな!」

 男は早速、スマートフォンをガラス扉にピタリとくっつけて、ピントを合わせてから、数回シャッターボタンを押した。

 カシャ、カシャ、カシャ、と乾いた音が響く。

 侑人はその姿を、ただ見ていた。

 男のカメラは、しっかりと講堂内の絵を写している。

(最近の携帯は、きれいに撮れるもんだな……)

 侑人は思った。そして、自分も同じように撮ろうかとも思った。

 けれど、それは止めておいた。目に焼き付けるだけで、十分だ。それ以上は、どうにも切ない。

 しばらくすると、男は撮影に満足したのだろう。スマートフォンの画面を確認しながら、無言でウンウンと頷いた。

 そして、再び侑人に向き合う。

「すまない、待たせたね。ところで君は誰だ? 俺のファンかな?」

随分と熱心に見つめてくれたじゃないか

 男は言った。

 侑人は、急に恥ずかしくなって、目を反らす。男は尚も楽しそうにクスクスと笑っている。

「なんだ、さっきはあんなに見てきたくせに。シャイなのか?」

 おかしな奴だなぁ、と男は言った。

「だが、君のおかげで良い写真が撮れた。感謝するよ」

 男は、再び視線を大講堂の方へと向けた。

「明日には、取り壊しがはじまってしまうと言うからね」

 その声には、少しの憂いが含まれているように聞こえた。侑人は、恐る恐ると声を出す。

「……なんで、写真、」

 撮ってたんですか、と聞こうとしたところで、男が再び「へっくしゅ!」とクシャミをした。着ているパーカーの袖口で口元を抑えながら。

 男は細い眉を歪ませて、「あー……」と、声にならない声を上げた。

「やっぱり山の中にあるキャンパスというのは、いただけないな……二年までは平和だったのに……」

「花粉症、ですか?」

 侑人が尋ねると、男は「ご明察!」と言った。先ほどから思っていたことだが、妙な口調の男である。

「俺は三年の柏木(かしわぎ)だ。君はココの生徒か? 今更だが、先輩かね?」

 男が言った。侑人は首を振る。

「俺も三年」

「この大学の学生?」

「まぁ……」

「なんだ、じゃぁ同級生じゃないか」

 柏木と名乗った男は、明るく笑った。

「君、名前は?」

「西」

 侑人は答えた。

 柏木は「西か、覚えやすくて良い」と言った。そして、ふぅむ、と考え込むように顎先に右手をあてながら、ジッと侑人の顔を見た。

「唐突だが、西よ。察するに、お前はゲイか? そして俺に一目惚れでもしたのだろうか?」

でなければ、先ほどの熱視線の説明がつかないのだが?

 柏木の発言に、侑人はカッと頬が熱くなった。

「そんなわけ、あるかっ!!」

 とんだ勘違いである。柏木は、まじめな顔をして「なんだ、違うのか」と言った。

「なに、高校の頃の友達にそっちのタイプのヤツがいてな。今時、そういうのは珍しいことでも、隠すようなことでもないだろうと思ったまでだ」

 あまりにもフラットな態度の柏木に、侑人は困惑する気持ちになった。侑人の周りには、そういうタイプの人間はいなかったからだ。

「まぁ、君がどんなヤツでも、なんでもいい。これから同じキャンパスで学ぶ同級に変わりない。よろしく頼む」

 柏木は、侑人に右手を差し出した。

 侑人は、戸惑いながらも、その手を握る。握手をするという経験も、侑人の人生の中では、あまりないものだった。

 柏木の手は、指が長く、薄かった。そして、春先なのに指先が氷のように冷たかった。

 握手をした手が解ける際に、柏木の親指のささくれのようなものが、チクリと侑人の肌を刺した。

 その微細な痛みは、侑人の全身を、そっと撫でるように通り抜けていった。


 *

 西侑人の通う大学は「東京(とうきょう)上天(じょうてん)大学(だいがく)」という都内の名門大学である。通称「東上(とうじょう)大(だい)」。

 文系から理系まで、様々な学部を備えている総合大学だ。

 生徒数も多く、大学一年から二年までは文系、理系と別々のキャンパスで学ぶ仕組みになっている。

 文系の中でもキャンパスは二カ所に分かれており、理系に至っては所属する科によって三カ所にも分かれている。

 しかし、大学も三年生になると、文系理系関係なく、全員が同じキャンパスに集合することになるのだ。

 二年生までは、皆、交通の便も良い都心のキャンパスで学んでいる。新宿や池袋、渋谷といった場所にあるキャンパス。賑やかで、遊ぶところもいくらでもあるような場所。まさに、大学生活を謳歌するに相応しい場所である。

 だが、三年生からのキャンパスは違う。都内は都内でも、そのキャンパスは山の上にある。大人数の生徒全員を収容出来る、広大な土地。

 山が丸ごと全部、大学という風になっているのだ。

 都心から遠く離れた、ぎりぎり都内の片田舎。最寄り駅からはスクールバスに揺られて五分から十分ほど。もちろん、最寄りから歩いてキャンパスに向かうことも可能だが、その道筋は白目を剥きたくなるほどの傾斜の坂道である。完全に登山だ。大人しくバスで通うのが賢明というものである。


 四月、山の上にあるキャンパスは肌寒く、まだちらほらと桜の花が木の枝にくっついていた。

「へっきゅしっ、」

 もう何度目になるかわからないクシャミをして、柏木は顔をしかめる。

「これは明日から俺はマスク野郎決定だな……」

「大変そうだ」

「全くの他人事だなぁ~」

「俺、花粉症じゃないから」

 侑人は、本当に他人事の顔をして、涼しい声で言った。

 四月はじめの登校日は、三年生全員出席のオリエンテーションがある。柏木は、知り合ったばかりの侑人に向かって「オリエン、一緒にどうかね?」と誘った。

 侑人には、断る理由もなかったし、あまりにも気楽に聞かれたので、反射で「うん」と答えてしまったのだった。

 取り壊しの決まっている大講堂から、オリエンテーションの行われる大講義棟までは歩いて十五分ほどかかる。大講堂から、ひたすら真っ直ぐ、西に向かって歩いていくだけなのだが、とにかく敷地が広いものだから、移動も一苦労だ。

 大学の一番東側に、取り壊される大講堂。一番西側が、大講堂と同程度の規模を持つ、大講義棟。

 本来は、その名の通り、講義をするために使われる場所であるが、今日のオリエンテーションはそちらで行われることになった。

 昨年までのオリエンテーションは大講堂で行われていたし、来年からも、新しい大講堂で行われることになるのだろう。

 今年だけが、特別だった。

 侑人は、柏木と二人、ゆったりとした足取りで、大講義棟を目指す。オリエンテーションがはじまるまで、時間にはまだまだ余裕があった。

 侑人たちの他にも、早めに登校している生徒は沢山いた。それなりの人数がワイワイしているのに、窮屈だと感じないのは、やはり広大すぎる敷地のお陰だろうか。

 大講堂から、西へ西へと進んでいくと、右手にはコンビニや学食のある生徒支援棟、左手には大きな図書館がある。更に西へ進むと、図書館と左右対称のかたちで学生課がある。

 図書館と学生課の間に正門があり、生徒たちは、基本的にはそこから出入りをする。

 図書館と学生課は、なぜだかオリエンタルな雰囲気を持つ造りになっていて、真ん中だけが太くなっている白い支柱が均等にそびえているのだった。

「西くんは、名前なんていうんだ?」

 侑人が学内をキョロキョロと見ながら歩いていると、柏木が言った。

「侑人」

 答えると、柏木は「ほう!」と明るい声を出した。

「やっぱり、アレか。そういう年代かな。なんか同級の友達、名前に「ゆう」のつくヤツ、多くないかね?」

 柏木は楽しそうに言った。侑人は考える。友達は多いほうではないが、確かに中学の頃も、高校の頃も、同じクラスに「ゆうと」という読みの生徒がいた。他にも「ゆうすけ」「ゆうじ」「ゆうた」など、柏木の言うように「ゆう」がつく名前は多かった気がする。

「柏木は? 名前」

「俺も「ゆう」がつく口だ。柏木悠(ゆう)輝(き)」

「へぇ」

「ゆうと、というのは、どういう漢字を書く?」

「ニンベンに、有る、無しの有る、それに人」

 侑人は、空に指先で字面を書くようにして説明した。柏木は、ほうほうと聞きながら、まるで爺さんのような悟った顔をして「良い字だな」と言った。

「そっちは?」

 侑人が言うと、柏木は「悠長とか、悠久の悠、って言えばわかるかな? はるか、っていう字に、輝くという字で、悠輝。画数が多くて面倒な字だ」と、困ったような顔で言った。侑人は、柏木の言葉に、その字面を思い起こした。

「でも、バランスの取りやすそうな字だな。きれいに書けるタイプの字だ」

 侑人が言うと、柏木は「おお、ありがとう!」と素直に礼を言った。

(なんか、裏表のなさそうな……)

 侑人が柏木という男に抱いた最初の印象は、そういうものだった。喋り方は少し変わっているが、悪いヤツではなさそうだと思った。

「これからは侑人と呼んでも良いかい?」

 柏木は言った。

「……別に、いいけど」

 侑人は、なんだかむず痒い気持ちになって答えた。

 今日が大学三年のはじめの日であるという自覚はあったが、そこで新しい友達が出来るとは想定していなかった。

(というか、友達、なのか……? これは……?)

 侑人は、友達と知り合いの線引きが、いまいちよくわからない。

「侑人は、学部はどこだ?」

 柏木が尋ねた。ポンポンと話題を振ってくれるので、侑人は助かるなぁと思った。

 二人は、学生課を横目に見ながら歩く。大講義棟までは、もう少しだ。

 学生課を左に見ていると、右側には大きなグラウンドと部活棟、サークル棟が見えてくる。今日は初日ということもあって、どの部活もサークルも、活動をしている様子はなかった。

「俺は人間科学部の文化総合。柏木は?」

「文総かぁ~! 俺は社会学部のメディア社会だ。お互い、何を学んでいるのか、学部名ではよくわからんところだよなぁ~」

 柏木はカラカラと楽しそうに笑った。侑人は「確かに」と思いながら、そういう、よくわからない学部だからこそ、自分はそこに入ったのだということを思い出す。

(何がしたいのか、何になりたいのか……)

 自分のことが、全くわからなくて、それでなんとも曖昧な学部を選ぶことになったのだ。

「文総は二年まではどこのキャンパスだ? 俺は二年までは池袋キャンパスだった」

 柏木が言った。

「俺は新宿。家から近くて楽だったのに……」

 侑人は答えた。柏木は「わかる」と言った。

「俺も、二年までの方が近かったなぁ。三年から急に山籠もりだ。わかってはいたけれど、いざその日を迎えると、登校も面倒臭いよなぁ」

 侑人は「そうだな」と言って、笑った。

 そこから少しの沈黙。

 大講義棟は、目前に迫って、周辺には生徒がちらほらと集まってきていた。

 侑人は話題を探した。一度くらい、自分側から話しかけないと、と思った。

 横目にそっと、柏木の姿を観察する。歩く度に柏木の背中と一緒に揺れている黒いケースが目に入った。

(ギター、弾くのか? とか……いや、そもそも、それギターか? という確認を先にした方が……)

 侑人が考えていると、柏木がツッと視線を向けてきた。侑人の方が身長が高いので、見上げるような、すくい上げるような視線だ。急に目が合って、侑人はドッと心臓が鳴った。

「そういえば、さっき、なんで大講堂にいたんだ?」

 柏木が言った。侑人は、それを言われて思い出す。そういえば、柏木は熱心に大講堂の油絵の写真を撮っていた。

 なぜ、そんなことをしていたのか。侑人は、それを聞きたいと思っていたのだ。

「そっちこそ、なんで写真……撮ってたんだ?」

 柏木は「うむ」と、へんな相槌を打ってから言った。

「あの講堂の絵、この大学の卒業生が描いたものらしいぞ」

 柏木の言葉に、侑人は「知ってる」と平坦に答えた。

「おや、知っていたか。結構有名な話なんだなぁ」

 柏木のまったりとした声は、ふわふわとしていて、猫が欠伸をしそうな雰囲気がある。時間の流れが、彼の周辺だけまろやかになっているような。そういう空気が、彼を見た目よりもずっと老齢な感じに見せているのかもしれない。悟りの境地を見開いた僧侶のようでもある。

「あの絵を描いたのは、俺たちよりも、九歳上の卒業生だそうだよ」

 柏木は言った。

「詳しいんだな」

 侑人は、喉の奥が少し苦い気がした。

 けれど、頭の表層あたりは、期待にソワソワしている感じで、どうにも自分の心持ちが複雑である。柏木は、そんな侑人の心など知らず、続けて言った。

「実は、あの絵を描いた卒業生と、俺の兄貴が同級生でな。仲が良かったらしいんだよ。あの絵、明日には講堂と一緒に壊されてしまうだろう? そういうわけで、俺は我が兄に頼まれたのさ。あれは友達の描いた絵だから、壊される前に写真に収めてきて欲しいって」

侑人のお陰で、きれいに撮れたから満足だ

 柏木は言った。侑人は思わず立ち止まった。

「どうした?」

 柏木が、侑人よりも少し前方で立ち止まって、振り返る。侑人の手のひらに、温い風が触れて、吹き去っていく。

「あの絵、」

 侑人は言った。

「あの絵、俺の、兄貴が描いた絵、なんだけど……」

 心臓が、高鳴って、何かしらの運命を感じた。

(運命、とか……)

 我ながらダサい考え方だな、と侑人は思った。運命ではなく、これはただの偶然であると考えるのが普通だろう。

 しかし、運命だと思いたかった。何かしら、そういうドラマティックな展開を、あの絵に与えたかった。

 明日になったら、なんの感慨もなく壊されてしまうだろう、あの絵に。

 柏木は、侑人の言葉に目を見開いた。元々大きな目が、さらに開かれて、白目がキラリと輝いた。

「なんと……そいつはまた、ロックだなぁ」

 柏木は、そう言った。侑人はロックという言葉の持つ響きには、あまり慣れなかったけれど。やっぱり柏木は音楽が好きなんだな、と思った。柏木は輝いた顔のまま言った。

「これは楽しくなってきた。侑人とは仲良くなれる気しかしないな!」

 その声は、まるで歌うような滑らかさがあった。侑人は「それはどうかなぁ~」と答えた。

 柏木は、今度は年相応の声色で「つれない!」と言って、侑人の脇腹辺りを小突いた。


 *

 柏木悠輝という男は、明るく、よく喋る男だった。

 ムードメーカーとも言えるのだろうか、誰からも好かれるタイプのようで、友達も多い。侑人は柏木の隣に座ってオリエンテーションを受けていたが、柏木はひっきりなしに誰かから話しかけられていた。

「よ! 柏木~」

「柏木じゃん、おはよ」

「柏木くんやっほー!」

 というように、男女問わず、みんな気楽に話しかけに来る。そのひとつひとつに、柏木は人懐っこい笑みで答えていた。

 その間、侑人に話しかけてくる人間はいなかった。侑人は、別に友達がいないというわけではない。けれど、決して明るいタイプというわけでもないのだ。

「侑人は独特の雰囲気があるな。それはやっぱりアレかね、そういうのは芸術肌の兄を持っているからだろうか? 兄貴と似てるって言われるタイプ?」

 オリエンテーションが終わった後、侑人は柏木に誘われて学生食堂に行った。大学三年初日は授業がなく、オリエンテーションのみである。昼にはまだ早い時間で、食堂は空いていた。

「自分では似てるとは思わないけど、多分似てる」

 侑人は答えた。柏木は「アハッ」と笑って言った。

「俺も、自分では兄貴と似ているとは全然思わんよ。でも時折、近所の人から「似てるなぁ」としみじみ言われる。自分ではわからないものなんだな」

 二人は食堂で、コーラだけを頼んで飲んでいた。炭酸の泡が安っぽいプラスチックのコップの内側で、蠢いている。そういう光景は、なんだか永遠みたいだと侑人は思う。

 ずっと見ていると、吸い込まれてしまいそうで、そして吸い込まれた先には、何もない気がするのだ。

「侑人も絵を描くんだろう? 兄の影響か?」

 唐突に柏木が言った。侑人はギョッとして、瞬きを三度する。

「その、鞄の中に入っているのは、スケッチブックだろう? それに、大講堂の前で握手した君の手には絵の具らしきものが付いていた」

どうだ、名探偵だろう?

 柏木は笑った。侑人の持っているトートバックの中には、手のひらよりも少し大きいくらいのサイズのスケッチブックが入っている。

(よく見つけたな……)

 そんなに目立つようなサイズではない。それなのに、柏木は目敏く気が付いたようだった。

 侑人は、己の両手を表、裏と改めて見つめた。確かに、爪の間やら、手首の骨の出っ張りの部分やらに、微妙に絵の具が付いている。

「目が良いな」

 侑人が言うと、柏木は「まぁね」と言って、黒縁メガネをクイッと指先で持ち上げる仕草をした。

「侑人が熱心にあの絵を見ていたのは、兄の絵だからか?」

 柏木は、コーラをストローでかき混ぜながら言った。小さな泡が一斉に、浮き上がって消えていく。そんな泡たちと一緒になって、侑人の中の、何かしらの気力とか、体力とか、そういうものも。体の中からパチパチと抜け消えていくような気がした。

「一応、壊される前に、本物を見ておこうと思って」

 侑人は答えた。兄の描いたあの絵は、写真では見たことがあったけれど、実物を見るのは今日がはじめてだった。

「なるほど。さてはアレだな? 次に建つ新しい大講堂に飾る絵は侑人、君が描くのだな?」

 柏木は、名探偵のように瞳を輝かせて言った。侑人は思わず「はっ」と短く声を出して笑った。

「まさか。俺は絵を描くのは好きだけど、絶対、誰にも見せないことにしてる」

 きっぱりと強い口調で言い切った。すると、柏木は、とても興味深そうな顔をした。

「なんだなんだそれは! 見せない絵を描いてるのか、お前は!」

めちゃくちゃロックじゃないか、それ!

 侑人は、相変わらず柏木の言うところの「ロック」の意味がわからない。

「お前、ロックっていうの口癖なの?」

 侑人が尋ねると、柏木はニヤッと笑って「その通り、格好いいだろう?」と言った。自覚があるということは、それは口癖なのではなく、わざと多用しているだけかもしれない。

「そう言うお前は、やっぱりロックが好きなのか?」

 侑人は言った。

「あれは、ギター?」

 柏木の持っている黒くて大きなケースを顎先で示しながら尋ねる。

「ご明察。音楽は良いぞ、特にロックは!」

「悪い、あんまり音楽詳しくない」

 侑人は言った。音楽で話を広げられても、とてもついていける気がしない。

「悪いことなんてないさ。俺だって絵のことはあまり詳しくない」

 柏木はちっとも気を悪くせずに言った。侑人は、その明るさやサッパリとした態度が羨ましい。自分には、ないものだから。

「絵のこと、あんまり詳しくないのなんて、普通だろ」

 侑人は言った。

「今時、絵に詳しい人も、興味のある人も、あんまりいないし……油絵で、抽象画なんて、特に……そもそも、画家とか今の時代、斜陽産業っていうか……」

 侑人の言葉を、柏木は頬杖をつき、リラックスした様子で聞いていた。春の日差しに視界がぼやけて、食堂の空気は温もっている。滞留した温い空気が、光が。二人の間に、優しくも退屈な雰囲気を醸し出していて、気怠かった。

 柏木は、その気怠さに妙に馴染んでいる。侑人は、そんな柏木の光に溶けているような顔を見て、家に帰ったらこの感じを絵に描こうと思った。

「誰にも見せないけれど、絵を描くというのは、どういう気持ちかね?」

 不意に、柏木が言った。侑人は、尋ねられた言葉の意味を考える。どういう答えを求められているのだろうか、と思考を巡らせたけれど、眠気を誘うような陽気の中、ちっとも言葉は出てこなかった。

「君と俺は、似ているのかもしれんなぁ」

 柏木が言った。

「どの辺が……?」

 侑人は眉間に皺を寄せて尋ねる。性格も、顔立ちも、趣味も、ちっとも似ているとは思えない。

「侑人の兄貴は画家なんだろう? ウチの兄が言っていた。大講堂のあの絵を描いたのは、自分の友達で、同級生の「画家」なんだと。随分と自慢げに言っていたし、仲が良かったと胸を張っていた」

 柏木が言った。侑人は曖昧な顔をして「売れない画家、だけどね」と言った。

 芸術とは、何だろうか?

 侑人は思う。

(俺は、兄貴の絵は好きだ……でも、それは多分、兄貴自身をよく知っているからだ……)

 絵を描くのに向ける情熱や、真摯な態度、本人の性格や性質、絵を描くためにしている努力、そういったものを、全て知っているから。

 芸術の意味とは、何だろうか?

 芸術の価値とは?

 そして、芸術に対する、評価とは、一体何だろう。

「売れない画家でも、画家は画家だろう」

 柏木は言った。侑人は、瞬時に「何も知らないくせに」と思う。そういうことを、思ってしまう自分が嫌にもなる。

「何もわかってないくせに、偉そうなことを、みたいな顔をしたな?」

 柏木がクスクスと、小動物のように笑った。侑人はドキッとして「い、いや、」と口ごもる。

「素直なヤツだなぁ。俺はそういう人間が好きだぞ」

裏があるよりずっと良いじゃないか

 柏木は侑人の肩を、強めにパシンと叩いた。そして、侑人の目を柔らかく見つめて言った。

「音楽、詳しくないと言っていたが、ロクロックというバンドを知っているか?」

 突然の質問だったが、そのバンド名は侑人も耳にしたことがあった。

「知ってる。よくテレビで流れてるし、歌番組にも出てるよな……? なんか、数字で、六九六九って表記するやつ……だったような……」

 最後の方は、自信がなくて小声になってしまった。柏木は「そうそう、それだ」と笑った。そして、笑ったついでのように言った。

「あのバンドのボーカル、ウチの兄だ」

 侑人は、あんまりにも流れるように言われた言葉に、しばし固まった。冗談なのか、本当なのか、いまいち判別がつかなかった。

「マジのやつ?」

 侑人は言った。

「マジのやつだ。驚いたか? 知ってる人は知ってるんだがなぁ。まぁ、名字は隠してバンド活動しているから……」

 柏木は、特になんの感情も乗せていないような声で言う。その声には、現代特有の、マウントを取りたい、人より優位に立ちたい、などの濁った感情はないように思えた。

 ただ、事実を述べているにすぎない清廉さがある。

「すごい人なんだな、柏木の兄貴は」

 侑人は言った。

 柏木は笑って、

「侑人の兄も、すごい人じゃないか」

 と言った。侑人は、とてもじゃないが、テレビにも出ているようなバンドマンと、売れない画家をしている自分の兄が同等だとは思えない。

「今度、兄貴に聞いてみる。柏木っていう名前の友達、大学時代にいた? って」

 侑人は言った。

「俺も兄に言っておくよ。兄貴の友達の弟と同級生で、友達になったってさ」

 柏木は楽しそうな明るい声で言う。侑人は、自分の兄が、柏木の兄と、どの程度仲が良かったのだろうかと訝しく思った。

 よもや、柏木兄のことを忘れているなんてことはないよな、とも怪しんだ。なにしろ、本当に絵を描くことしか考えていないような人間だ。

 そして、良く言えばもの凄く穏和で、悪く言えばもの凄くテキトウな人間だとも思う。もし本当に兄が柏木兄のことを忘れていたら申し訳ないなぁと思いながら、侑人は言った。

「柏木がギターを弾いたり、ロックが好きだったりするのは、兄の影響?」

 先ほど自分がされたのと同じ質問をしてみた。柏木は、乾いた感じの笑みで「いやいや」と言った。

「もちろん兄のほうが九歳も年上だからな、音楽をはじめたのは彼の方が先だ。でも、だからといって、俺は自分が兄の影響によって音楽をはじめたとは思わない」

たまたま、俺も兄も、音楽が好きだったというだけの話だ

 柏木は言い切った。侑人は自分の中でずっとモヤモヤしていたものの答えを、今、ここで聞いたような気がした。

「俺も」

 思わず言った。

「俺も、別に兄貴がどうのじゃなくて、俺が、絵を描くのが好きだから、描いてる」

 柏木は「うん」と頷いた。そして言った。

「兄の後ろを歩くというのも、大変なものだよな」

 侑人は、その言葉の深くにある繊細な気持ちを読みとる。丁寧に紡がれた言葉だった。慎重に、そしてジックリと味わうようにして。

「俺は、兄がああいう、少しばかり有名な人になってしまったから……自分では、バンドを組んだりライブをやったりすることは、しないことにしているんだ」

 柏木は言った。

「ただ、好きなように、好きにギターを弾いて、好きに歌って、自由に。まさに音楽だ。音を、楽しむ。兄がデビューして有名になってからは、俺の音楽は、そういうものになった」

 侑人は、あまりにも軽く発せられるその言葉に、柏木という男の強さみたいなものを感じて、再び、羨ましいと思った。

「なぁ、やっぱり俺たちは似ていると思わんか? 九歳も年上の兄がいること、どうしても、その後ろを歩くしかないということ」

同じ大学、同じキャンパス、同級生、というだけではない、何か、似ている感じが、しないかね?

 柏木は楽しそうだ。

「描いても見せない絵描きと、バンドも組まない、ライブもしないギター弾きだ。ロックな組み合わせだとは思わんかね」

 侑人は、柏木の絶妙なバランスの、薄い唇が、羽ばたくカモメのような形に持ち上がるのを見て、息を吹き出すみたいにして笑った。

「確かに、ロックだな」

 似たもの同士というのは、間違いないのかもしれないと思った。


 *

 大学も三年になれば、重視されるのは「自分自身の未来についての具体的なビジョン」である。

 三年生の目標というのは、シンプルだ。

 まず学業においては、卒業に必要な分の単位を確実に取得すること、そして卒業論文を作成するための研究室に目処をつけること。

 次に就職活動においては、企業研究をしたり、インターンシップに参加したり。

 とにかく、自分の将来を具体的に決定せよという風が、校内に吹き荒れるのである。

「はぁ~……」

 西侑人は、深く重いため息をついた。腹の中にある空気の全部を口から吐き出して、腹筋にクッと力を入れる。数秒息を止め、そして、苦しくなったところで、思い切り鼻から空気を吸った。

「良い感じの腹式呼吸だなぁ~」

 柏木悠輝は、ギターをベロローンと響かせながら、歌うように言った。柏木がいつも持っているギターはエレキギターで、電気を通さないでいると、少し間抜けた三味線みたいな音がする。

 季節は六月に差し掛かり、雨は降っていないものの、どんよりと雲の厚い日が続いていた。

 侑人と柏木は、初対面の日から何かと行動を共にするようになっていた。互いの兄が同級生だったこともあるけれど、それ以上に、マイペースな二人は不思議と波長が合ったのだった。

 柏木は、ちょっとした隙間時間があるとすぐにギターを取り出して、ベンベベーンと弾いていた。柏木は本当に自由にギターに触れているようだった。奏でる音は、曲になっているような、なっていないような、まとまっているような、いないような。

 それでも、とにかくいつでも、楽しそうにギターに触れているのだった。

 侑人も侑人で、柏木が決して覗き込んできたりしないとわかってからは、描きたいと思った時に小さなスケッチブックを取り出して、目の前の風景を描いたりしていた。時々、ギターを弾いている柏木を盗み見て、描いてみたりもする。

 柏木は、侑人が描いているものに、ちっとも興味を示さなかった。そして、侑人も、柏木が奏でる音に、ちっとも興味がなかった。

 その関係が、二人にとっては、とても居心地の良いものになっていた。

 その日も、午前中の授業を終えて、学食で二人は待ち合わせた。昼を一緒に食べた後、二人とも午後の授業まで時間があったので、グラウンドの隅っこで暇つぶしをしていたのだ。グラウンドでは、サッカー部が必死にボールを追っている。やいのやいの言う声が、遠く近くに響いていた。

「それで、なんのため息だね、今のは。いや、ため息だったのか、今のは?」

 柏木が言った。最近になって、ようやく花粉症が治まったらしく、梅雨の走りだというのに、毎日上機嫌だ。マスクなしで日常生活を送ることが出来るのは素晴らしいことだ! と、しきりに言っている。あの黒縁オシャレメガネも花粉症対策だったらしく、最近ではメガネ姿を見ることもなくなった。

「ため息のついでに、腹式呼吸した」

 侑人が答えると、柏木は相変わらずの声色で「ロックだなぁ」と言った。侑人の手には一枚の紙が握られている。

 柏木は、その紙が何なのか、理解した上で「なんのため息だね」と聞いている。それを侑人も知っているので、特に答えなかった。

 その用紙は、三年生全体に配布されたもので「進路希望調査」と太字で書いてある。

「もう出した?」

 侑人が尋ねると、柏木は「もらったその日に提出したさ。ロックだろう?」と言った。

「ロックすぎるだろ……」

 侑人は再び、腹式呼吸込みのため息をついた。腹筋に力を入れたついでに、内臓が動いてクゥウと変な音が鳴った。生きる音はするのに、自分はちっとも生きている実感がないのが不思議で仕方ない。呼吸音、骨のきしみ、時折、内臓の動く音。自分は確実に今を生きている。

 生きているということは、立ち止まっていないということだ。生きている限り、人間はひたすらに死期に向かって立ち止まらずに進んでいくより他にない。

(それなのに……)

 自分は足踏みばかりして、いつの日からか、ちっとも前に進んでいない気がするようになったのだ。時間ばかりが進んでいて、己の心とか頭とか、そういったものが、全て置き去りになってしまっている。

「侑人は、将来の夢とか、ないのか?」

「柏木はあるのか?」

「ないな。特にない!」

 柏木はキッパリと言った。

「ないのに出せるのかぁ~、進路希望~……」

 うなだれて低く唸る侑人に、柏木がベーンとギターを鳴らして「嗚呼、悩める青年よ~」と歌った。柏木の声は、高すぎず、低すぎず、聞き取りやすいものだと思う。

 日々、よく歌っているけれど、絶妙な音程で、上手いこと歌っているように聞こえる。歌のことはちっとも詳しくないけれど、柏木が音痴ではないことは侑人にもわかる。

「侑人のとこは、親が何か言ってきたりはしないのかね? 息子の将来について」

 柏木は、ギターをベベンとしながら、けれど歌うのはやめにして尋ねた。侑人は、少しだけ言い淀んだけれど、隠しても仕方がない。

「何も言わない。俺の好きなようにしろって。昔からそういう感じ。まぁ、でも内心では、多分、兄貴みたいになって欲しいんだと、思う……」

 侑人は答えた。

 西侑人の家は、端的に言って裕福である。侑人の祖父母がバブルだなんだと、金の舞い飛ぶような時代を噛んでいるのだ。

 母方の祖父は貿易会社の取締役をやっていたし、祖母は華道の先生をやっていた。

 父方の祖父は、銀座で画廊を開いていて、現在はその画廊をひとり息子である侑人の父が継いでいる。

 ついでに、父方の祖母は日本画家としてそれなりに有名な人物である。

 父と母は、互いに美術館巡りが趣味で出会い、結婚をした。美術好きの母は、父が祖父から引き継いだ画廊をとても気に入っているし、自分自身も趣味で茶道教室の先生をしている。

 どうにも一族揃って、浮き世離れというか、世間ズレというか、夢に夢見ているような一家であった。

 侑人の九歳年上の兄、昌(まさ)秀(ひで)は、侑人が生まれるより前から、祖父や父のいる銀座の画廊に入り浸って、美術に慣れ親しみながら育ってきた。侑人の記憶の中でも、兄は小さい頃から気付くといつも、絵を描いていた気がする。はじめのうちは、侑人も兄に遊んで欲しくて、一緒になって絵を描いていた。

 当然、画力は兄の方が上だったので、いつでも追いかけるように一生懸命、兄の絵を真似てお絵かき帳を埋めていた記憶がある。

 そのうち、兄は父親の画廊に絵を飾ってもらったりするようになった。子供の描いた絵なので、売れるとか売れないではなく、ただお客さんの目を微笑ましく楽しませるだけの絵だった。

 兄は小学校の高学年になると、日本画家の祖母から手ほどきを受けるようになる。中学に上がると、市民絵画大会で賞を取った。その絵は、国の主催する青少年の絵画展でも賞を取った。

 将来有望だと、祖父母も父母も喜んでいたのを、侑人は覚えている。

 侑人自身も、そんな兄のことが誇らしかった。そして、兄は高校に入ると、父の画廊で個展を開いた。

 結構な人が来てくれて、何点かの絵が売れた。まだ無名と言っても良い高校生の描いたものであるから、値段は安いものであったけれど、侑人は、自分の兄は画家なのだと、その時はじめて意識をした。

 侑人は、兄はこのまま美大に進むのかと思っていたし、父母もそう思っていたようだ。けれど、兄は言った。

「僕は普通の大学に行って、普通に友達を作って、現代の感覚をしっかりと身につけたい」

僕は画家になりたいけれど、歴史ある正統派の絵を描く画家じゃなくて、現代人に寄り添った、今現在の人のための絵を描く人になるのが夢だから

「美大では、美術の歴史や技法、有名な先生から学べることも、とても多いと思うんだけど……でも、このまま美大に進んで、友達もみんな、絵を描くことを人生の真ん中に置いている人ばかりになって……そうやって偏っていくのは、僕は正しくない気がして」

 兄は言った。今思えば、これらの言葉も、無自覚な傲慢さがあると侑人は思う。

 兄は、美大に進まなくても、もう画家になるための道を確約されていたのだ。祖母の知り合いに有名な画家の先生はいくらでもいたし、祖母から頼まれればその人たちはきっと、兄の指導をいくらでもしてくれるだろう。

 そして描いた絵は父の画廊に置けば良い。祖父の代から続く画廊には、それなりにお得意様もいる。兄の絵のファンだと名乗る人も、ちらほら。

 そんな環境だから、美大に言って人脈を広げたりコネクションを作ったりする必要もなかったのだ。父は兄の考えに賛同したし、母も「昌くんの好きなようにするのが一番よ」と言うだけだった。

 父も母も穏やかな人だ。子供の健やかな成長と、幸せだけを祈るみたいな、そういう人たちだ。おそらく、本人たちもそのようにして育ってきたのだろう。祖父母から、大事に大事に、幸せだけを祈り願われて、経済的な不安も心配も何ひとつなく、心地よい環境の中で育ってきた。

 それと同じことを、自分の息子たちにもしてあげたいと純粋に思っているのだ。

「昌くんも侑くんも、お金のことは何も心配しなくて良いんだからね。健康で、元気で、自分の好きなことを、思う存分、納得するまでやって欲しい、それが親として、ただひとつの願いだからね」

 母は昔から、口癖のようにそう言っている。祖母もまた、同じようなことを、兄と侑人に言い続けている。

 父も祖父も、女性陣の言うことに、ただ頷いて「そうだそうだ」と言わんばかりだ。侑人は、小学生あたりまでは、自分を取り巻くそれらの環境について、特に疑問に思うこともなかった。けれど、中学に上がったあたりから、周囲と自分との違いや差について、気が付き始めた。

 侑人は、自分が「欲しいな」と思ったものは、思った瞬間に、手には入っていることが多かった。欲しいものを目で追っていたり、実際に「欲しいなぁ」と口に出したりすれば、それはすぐに買い与えられた。

 元々、侑人も兄も物欲が強いタイプではなかったので、欲しいと思うものは、絵を描くための大きめのキャンバスであったり、絵筆であったりと、実際に使うから欲しいと思うものばかりだったので、それもすぐに買い与えられた理由だろうとは思う。

 しかし、画材なんていうものは、どれも安価ではないのだ。本来、小学生などに、ほいほい買い与えられるようなものではない。

 侑人は、クラスメイトが「新しく出たゲーム欲しいけど、高いから買ってもらえないなぁ」とか「うわばき小さくなってきたから、新しいの買ってって言ったんだけど、もうちょっと我慢しなさいって言われた」とかいうのを聞いて、心底仰天した。

 幼心に、なんで他の家のお父さんお母さんは、そんな意地悪を言うんだろう? と思っていたのだ。子供が欲しいと言っているのだから、買ってあげれば良いのに……なんて、思ったりもしていた。

 だが、さすがに中学生にもなると、それが「そういうわけにもいかないこと」であると理解出来てくる。経済的な、言うなれば「格差」のようなものは、確実に存在するのだと、侑人は理解した。

 それも、他のクラスメイトが特殊なのではない、自分の方が特殊であって、周りのクラスメイトたちの感覚の方が一般的なのであると気がついた。侑人は、そういう周囲と自分との違いにすっかり萎縮してしまったし、元々休み時間がくるたびにスケッチブックを開いて絵を描いているようなタイプだったので、友達は少なかった。

 ある日、侑人は兄に聞いたことがある。

「クラスメイトの子たちは、ウチみたいに、いろいろ買ってもらえたりするわけじゃないの、どうしてだろう?」

 本当は、侑人自身、その質問の答えを知っていたし、本当に聞きたかったのは、そういうことではなかった。侑人が兄に聞いてみたかったのは、ウチは他のウチとは違うみたいだけれど、このままでも良いのかな? ということだった。しかし、兄はいつもの穏和な、優しい顔で言った。

「侑人は難しいことを考えるね、哲学とか、そういう方向にも才能があるのかもしれないな。良い機会だから、人と人との違いについて、じっくりと考えてみると良いよ。周りの友達を、もっとよく観察してごらん。似ているところ、全然似ていないところ。そういう観察は、絵を描くのにも助けになるし、世の中の真理みたいなものについて考えるのは良いことだとお兄ちゃんは思うな」

 侑人は、兄からの生真面目で柔らかい回答を浴びて、こりゃダメだ、と思った。

 兄は、自分自身の人生について、ちっとも疑問に思っていない。何不自由なく生きている人生を、当たり前のように享受している。侑人は兄に、自分と一緒に少しくらい悩んで欲しかった。けれど、それが叶わないと理解して、それ以上は何かを尋ねるのは止めようと思った。

(なんで兄貴は、なんとも思わないんだろう……ウチはやっぱりちょっと変だし、なんかまともじゃないっていうか、もっと親とかって、子供に対して厳しかったりするもんじゃないのか……?)

 別に、厳しく躾をして育てて欲しかったなんてことを思ったわけではなかった。だが、なんとなく自分と同級生の波長が合わないでいるのは、この家庭環境のせいではないだろうか、とは思っていた。そして、自分と同じような理由で、兄にも一緒に悩んで欲しかった。

 侑人は、高校生あたりになって、ようやく兄が自分のように思い悩まない理由の一端のようなものを理解することになる。

 兄が元来持っている穏やかな性格というのもあるけれど、そもそも年齢が九歳も離れているのがいけないのだ。九歳の差があると、それなりに世代差、みたいなものが生まれるものだと気が付いた。

 それは兄の友達を見ていて思ったことだった。侑人は、なぜか、兄の友達とは馬が合ったのだ。価値観や考え方が、西家兄弟と似ている人がとても多かった。

 おそらくは、親の子育ての仕方が似ているのだろうと思った。九歳の差は、親の世代差とも言えるのだ。侑人の同級生たちの両親は、侑人の両親よりもずっと若い人が多い。

 そして、驚くほどに、片親が多かった。侑人は、自分が同世代と上手く行かない理由、なんとなく生き方が違う理由を、そこに見出した気がしたのだった。


「なぁーるほど……確かに俺たちは末っ子だからなぁ、親の年齢は同級生の親よりグッと上になるよなぁ~」

 侑人がポツンポツンと話すのを、柏木はボーっとグラウンドのサッカー部を見つめながら聞いた。侑人は、思いつくままを、言葉にする。すっかり雨が上がった後、屋根に貯まった水の粒が、地面にトッ、トッと落ちるみたいに話した。

 ひどく単調に、そしてゆっくりと心の中に溜まっていたものを、絞り落とすみたいに。

「侑人のとこ、親はいくつだね?」

 柏木が言った。

「二人とも五十代後半」

 侑人は答えた。

「そうかぁ、まぁ、でもまだ若いな。俺のとこなんて、兄の上に更に姉までいるもんだから、両親とも六十を越えてる」

 柏木は言った。

「へぇ、姉さんもいるのか……いいなぁ」

 侑人は、男ばかりの家族なので、姉や妹に淡い憧れがある。柏木は目を閉じると、なんだか思慮深そうな声を出して、

「姉を持たぬ人間は、みな、いいなぁと言う」

 と言った。

「良いもんじゃないって?」

 侑人が尋ねると、柏木は「俺には優しいがね」と言った。

「兄貴とは折り合いが悪いな、ウチの姉は。俺はやっぱり歳が離れているから、可愛がられる。兄と姉は三歳差だが、しょっちゅう喧嘩しているし、どんなに大喧嘩になっても、昔から、百パーセント姉が勝つ」

 柏木は笑った。

「ウチは姉も兄も血の気が多くてね。俺がひとり、亜種というか、マイペースというか。上二人は兄弟っていう感じがするけれど、俺はどうにも一人っ子のように見えるらしい」

「あ、それ言ったら、ウチは俺も兄貴も一人っ子っぽいって言われる」

 侑人も笑った。

「九歳の差というのは、もう、そういう域のものだよなぁ。姉となんて、十二歳離れてるからな、姉にとっては、俺はもう子供みたいなもんだよ」

母親が二人いるみたいな感じだし、口うるさいところもあるけれど、姉はいつも正論を言うから、俺は感心している

 柏木は言った。侑人は、やっぱり姉という存在は羨ましいなと思った。西家で侑人に何かを口うるさく言ってくる人間はひとりもいない。母が少々過保護なくらいだ。

 どう考えても常識的にあり得ないことでない限り、犯罪に関わるような悪行でない限り、何もかも全て「侑人の好きなように」と言われてしまう。この選択肢の多い時代に、何もかも全部を丸投げされてしまうというのも、なかなか困ったものだと侑人は頭を抱える。

 そして、結局、どうしたら良いか、ちっともわからず、進路希望調査も書けないまま。

「就職支援センターに相談してみてはどうだね」

 雑談をしながらも、ずっと浮かない顔をしている侑人に、柏木が言った。

「もう行った」

 侑人は即答する。

「でも、事情っていうか……家族の感じとか、そういうの伝えたら、すごい変な顔されて、それはもう、君は恵まれてるんだから、君の好きにしたら良いんじゃないかなって言われて、終わった」

 大学の生徒支援棟、三階に就職支援センターがある。大学三年生と四年生のための、就職相談室のようなものである。進路に悩んだり、就職先について不安に思ったりすることがあれば、いつでも利用できるという場所だ。

 侑人は、提出期限が迫っているのに、ちっとも書けない進路希望調査の紙を持って、支援センターを訪れた。

 担当してくれた職員は、三十代前半くらいの男性で、侑人の話しを親身に聞いてはくれたけれど、最終的には「恵まれてるなぁ」と笑った。

「夢を追いかけたり、やりたいことを貫いたりするのは、今の時代、すごく難しいことなんだよ」

 彼は、諭すように言った。

「経済的にも難しい人が多いし、みんな働かないと、生きていけないのが普通なんだ。でも君は、そういった生活費や生きていくお金の心配をしなくて良い。それにご両親も、君に働けとは言っていないんだろう? だったら、思い切り、好きなことに邁進してみてはどうかな」

 侑人は、そういう言葉を今までに何度も何度も聞かされてきた。

「はぁ……ありがとうございます」

 侑人は、視線を下向けて、無感情に答えて、支援センターを辞した。

「夢、なんて言われたって、そもそも夢がないっていう場合はどうしたら良いんだ……」

「絵を描けばいいんじゃないか? 絵を描くのは好きだろう?」

 柏木が言った。

「誰にも見せたくないんだってば……」

 侑人は、柏木のまっすぐな黒髪を見つめて言った。曇り空の下でも、ツヤツヤと光って見える直毛。

「そういえば、今更だが、なんで絵、見せないんだ? 下手なのかね?」

 柏木は、本当に今になって、思いついたように言った。もう出会ってから二ヶ月は経っているのに。

 侑人は笑った。柏木の、こういう、他人に過剰に興味を示さないような、それでいて、ちゃんと聞くところは聞いてくれるような、そんなところが居心地が良く、好きだなぁと思う。

「絵を描くの、嫌いになりたくないから」

 侑人は正直に言った。柏木は「ははぁーん」と、妙に語尾上がりの口調で呟く。

「あれか、批判されるのが怖いのか?」

 侑人は小さく笑って頷いた。

「今の世の中、他人を扱き下ろしてなんぼ、みたいなところ、あるだろ……そうじゃなくても、アレコレ言いたい放題っていうか……」

「気楽に発言出来る場が増えたからなぁ」

 柏木は大きく頷いてみせる。侑人は、雨が降り出しそうな空を見て、涼しくなってきた風を感じて、言った。

「ウチのばあちゃんなんか、良く言うよ、侑人の時代は絵を描いても、なにをしても、気軽に大勢の人に見てもらえて羨ましいってさ。ばあちゃん、日本画家だけど、あの時代、女の人が画家になるってのも、結構ハードル高かったみたいだし、それこそ、発表の機会をもらえることも少なかったらしいから」

「いつの時代も、善し悪しだなぁ。あっちが良ければ、こっちは悪い、みたいな。ままならないもんだ。ロックだねぇ~」

 柏木は立ち上がって、ギターをケースにしまった。

「お前の言うロックの定義が、未だにわからん」

 侑人が言うと、柏木はケラケラ笑って「ノリだよ」と言った。

「雨、降ってきそうだ。そろそろ次の授業も始まる」

 柏木が言った。柏木は次の授業があるようだった。侑人の方は、もう一時間分、空いている。

「ちなみに、柏木の進路は……?」

 侑人は荷物を肩に担ぎながら言った。

「聞いてどうするね」

 柏木が笑った。

「……参考に?」

「参考にはならんだろうよ、人の進路なんて」

 柏木はもっともなことを言った。人の人生の道筋が、自分の人生の道筋の参考になるはずがないのだ。

「俺はもう内定というか、就職先が決まっているんだ」

 柏木は言った。

「え、マジか……まだみんな、企業研究とかの段階じゃないのか?」

 侑人が驚いて目を丸くすると、柏木は「みんなと合わせる必要があるかね?」と言った。

 これもまた、もっともなことだ。侑人はどうにも、そういう部分でも自分の情けなさを思い知る。何事かを自分で決定するのも苦手だし、だからといって、意志が弱いのかと言われると、そうではない。

 自分のやりたいことしか、したくない。でも、周囲から浮いてしまうのも怖い。

「自分の中で自分のワガママが渋滞していて、発狂しそうだ」

 侑人が言った。

「それはまた、ロックな表現だなぁ~」

 柏木は苦笑して、侑人の背中を慰めるようにポンと叩いた。

「だろ」

 侑人は小さく笑った。曇天は、いよいよその色を濃くしていて、今にも降り出しそうだった。

「もう、帰りたいな」

 侑人が言った。

「どこにだね」

 柏木が言う。どこだろうか、と侑人は思った。もちろん、そんなのは「家」に決まっているのだけれど。

 光が鈍く、薄ら寒い目の前の風景を見ていると、不安になった。自分が今どこにいるのか。そして、どこに向かうのか。

(帰れる場所が、欲しいな……)

 安心して、帰れる、ここが自分の居場所だと、断言できるような場所。柏木は、侑人の隣で「傘の花が~綻ぶ季節~」などと、即興の鼻歌を奏でている。

(柏木は……どこに帰るんだろ……)

 侑人はそんなことを考えながら、友の横を歩いた。心細い気持ちになって、なんとなく、いつもより近くに寄って歩いた。


 *

「侑ちゃん、今日の夜、お兄ちゃん帰ってくるって」

 家に帰り着いて「ただいま」を言うと同時に、母がウキウキとした顔で言った。侑人は、サボりたい気持ちをどうにか抑えて、きちんと受けるべき授業を受けて、帰宅をした。そういうところも、どうにも真面目で、自分が嫌になる。若者らしい軽いノリとか、若さからくる不真面目さみたいなもの。適度に楽しむ、物事をテキトウにする、というようなことが出来ないのだ。

 それも、自分自身ではそういう身軽さに憧れているのに、勇気がなくて、塩梅が難しくて、出来ない。心も体も柔軟性に欠けている自分に気付いている。本当はもっと、のびのびしたい。けれど、それには酷い罪悪感がつきまとう。

「また随分、突然だね」

 侑人は答えた。兄は、現在、一人暮らしをしている。父と母に伴われて、物件を見学しに行って。そしてアトリエとして便利に使えそうなマンションを見つけて、そのまま親に部屋を買ってもらったのだ。生活費も、毎月、父から兄の銀行口座へと支払われている。

「お兄ちゃんは芸術家なんだから、お金がかかるのは仕方のないことなのよ」

 と、母は言う。父も「芸術の道は険しい。だからこそ、経済的な援助は親がしてやらないと」などと言っている。

 そういう両親からの、ある種の支援のようなものを、当たり前のように、なんの疑いもなく受け取っているのが兄、昌秀という人間だ。侑人は別に、兄のことが嫌いなわけではない。むしろ、兄弟の仲は良いほうだ。兄は優しく、面倒見も良く、穏やかで、大らか。

 けれど、大らかゆえの、図々しさみたいなものがあって、侑人はそういう部分を目にする度に、胸の奥がモヤモヤするのだ。

「なんで帰ってくるの、兄貴は」

 侑人は春物のコートを脱ぎながら言った。母はすぐに、侑人の脱いだコートに手を伸ばす。

「自分でやるから、いいよ」

 侑人は、それをやんわりと断る。母の前で服を脱ぎ着すると、だいたいこういう流れになるので、少々面倒くさい。

 母は一体、自分のことを何歳くらいだと思っているのだろうか? と、疑問に思うことさえある。

「明日、おばあちゃんのところで日本画の指南を受けるんですって。新しいお仕事で、日本画調のものを描いて欲しいって頼まれたらしいのよ」

 母は上機嫌で、断ったのにも関わらず、侑人のコートをそっと引き取った。

 日本画家である祖母の家は、侑人の暮らす実家から徒歩で十分ほどの距離にある。兄は三日ほど実家に滞在して、祖母から日本画のアレコレを学ぶのだそうだ。

「侑ちゃん今日、寒かったでしょう。このコートじゃ薄いかしら……? 新しいの、買っておこうか?」

 母は言った。侑人は喉の奥の方が、圧迫されるようにキュウと縮まるのを感じた。

「別にそのコートで寒くなかったから、大丈夫だよ。それより、兄貴、良かったね、仕事もらえて」

 侑人は言った。話題を兄に持って行くことで、母の気を反らそうと努力する。

「そうなのよ、それも二枚も頼まれたらしくてね、ご新居の床の間に飾るんですって」

「へぇ……」

 そのくらいの言葉しか、出てこなかった。兄の得意は、水彩の抽象画だ。数年前までは精力的に油絵をやっていたが、どうにも性に合わなかったらしく、そこからは水彩画を中心に制作をしている。

 兄の水彩画を、日本画風にして、床の間に飾る、それも何故か二枚。

(……季節で変えるとか……? それとも、飽きたら変える、とか……?)

 侑人は少しだけ考えて、すぐに思考を破棄した。考えても仕方のないことだ。絵、というのは、そういうものだと小さい頃から知っている。買われていった絵たちが、その後どうなるのか。それについては、画家の知る由もないことなのだ。

「兄貴、帰ってくるの久しぶりだね。四ヶ月ぶりくらい?」

 侑人は言った。母は感慨深そうに「そうねぇ」と言った。息子が帰ってくるのが相当嬉しいらしく、顔が綻んでいる。目尻の皺が柔らかく寄っていて、体中からまろやかな空気を発していた。

 兄は三月下旬からしばらくの間、スペインに行っていたのだ。向こうの美術学校に知り合いがいて、短期で絵の勉強をしたらしい。

(それも全部、当然のように親の金で……)

 侑人は、心の中でため息をつく。兄を軽蔑する気持ちはない。けれど、自分と兄が外から見たら同じような人間に見えているのだろうなと思うと、気が重かった。

「ねぇ、お兄ちゃんの部屋、今は画材置き場になっちゃってるじゃない? お兄ちゃんは適当に片付けて寝るから別にいいとか言ってるんだけど、侑ちゃん、寝るときだけお兄ちゃんと一緒じゃダメ?」

侑ちゃんの部屋なら、きれいだから、お兄ちゃんのお布団も敷けるでしょう?

 母は言った。侑人は兄と同室で寝るのは、少々気詰まりだった。

 しかし、確かに兄の部屋は今、彼自身の画材でいっぱいで、物置のようになっている。アトリエを広く使いたいという理由で、兄は使用しない画材をしょっちゅう実家に送ってきているのだ。

「別にいいよ。夜だけでしょ?」

 侑人は言った。母は「よかった」と言って笑った。

「侑ちゃんもお兄ちゃんも、全然反抗期なくて仲良しだし、ウチは平和でよかった」

 とも言った。

(平和ボケして未来も見えず、自分が何者なのかもわからなくなって、死にそうになってる息子がここにひとりいますけど……)

 侑人はそっと胸の中で思った。


 その日の夜、十時を過ぎたあたりで兄が実家に帰ってきた。父と母からの歓待を当然のような顔をして受ける兄は、相変わらず朗らかだった。

「侑人、悪いなぁ、部屋、狭くしてごめんなぁ」

 兄、昌秀は言った。

 二人とも風呂に入って、寝支度を整えて。夜更けの気怠く、緩やかな空気が漂っている。

 侑人は自分のベッドの上でスケッチブックに絵を描いていた。けれど、兄が風呂から上がって部屋に入ってくると、そっと閉じて、代わりにスマートフォンを手に取った。

 兄は、そのことについて、何も言わない。侑人が描いた絵を見せないのは、今にはじまったことではない。

「スペイン、楽しかった?」

 侑人は尋ねた。兄は床の上に敷かれた布団にあぐらをかいて、自分の隣をポンポンと叩いた。

「えー……」

 侑人が渋い顔をすると、兄は「侑人、冷たい」と唇を尖らせる。仕方なく、侑人はベッドから降りて、兄の横で体育座りをした。

 兄からは、自分と同じ匂いがした。同じ家に住む人間特有の、同じ匂い。兄が一人暮らしをはじめて、だいぶ経つ。今日、玄関で兄を出迎えた時には、「外の人」というような気配を感じたのに。

 たった数時間過ごしただけで、あっという間にこの家の匂いになってしまった兄を不思議に思う。

「スペイン、相変わらず良いところだったよ。写真いっぱい撮ってきた。欲しいのあったらプリントアウトしてあげるよ」

 兄は侑人に、小さなデジタルカメラを手渡した。

「侑人は風景画描くの好きだろ?」

 兄は言った。侑人はもの凄く嫌な顔をして「なんで知ってんの」と言った。

 自分の描いた絵については、家族はもちろん、兄にだって見せたことはない。

 最後に見せたのは、小学校の六年生。夏休みの宿題として課された「夏休みの思い出の絵」だったはずだ。

「よく景色をジッと観察してるから、描くんだろうなぁって思ってるだけ」

 兄はどこまでも穏やかに言う。侑人は今一度、ジトッとした目を兄に向けてから、デジタルカメラの写真に視線を移した。カチカチと進むボタンを押しながら、写真を眺める。

 ボタンを押すたびに切り替わる風景。スペインの街並み、大聖堂、市場のような場所、それに海。活気ある人々の営み、観光客、食事。太陽の国だからだろうか、どの写真も鮮やかで、色彩に富んでいた。

「いいね、賑やかだ」

 侑人は言った。

 兄は笑って「元気が出る絵が描けそうな気持ちになるだろ」と言った。

 兄は笑うと目尻に笑い皺が出来る。その皺が、母そっくりで、侑人はそれに対して笑った。

「兄貴が描いた絵、壊される前に見てきたよ」

 侑人は兄に会ったら言おうと思っていたことを、思い出した。

「ああ、あの、大講堂の」

 兄はなんでもない風に言ったけれど、その声は少し強ばっていた。

 侑人は、伺う視線で兄を見る。兄は口元では笑っているのに、目は、どこか虚空を見ているようだった。

 部屋の中に、しばらくの沈黙が流れた。重苦しいわけではないけれど、夜の静けさと、人工的な部屋の明るさと、カーテンの隙間から見える窓の外の暗がりと、二人分の呼吸とが相まって、バランスの悪い、ちぐはぐな沈黙だった。

 居心地が悪い気配に、侑人は体育座りをしていたのを、もぞもぞとあぐらに変える。

「……自分の描いた絵が、壊されるって、どういう、気持ちになる……?」

 侑人は慎重に、言葉を選んで尋ねた。選んだつもりだったけれど、結局直球になってしまって、言ってしまった後で、しまった、と思った。兄は「ふふっ」と、上品に笑った。

「気をつかってるな、お前」

 兄は目を細めて侑人を見つめた。

「僕はお前が思っているほど、繊細な人間じゃぁ、ないよ」

 侑人は兄の視線から、ゆっくりと後退りするように、目を伏せた。

「せっかく描いたのにって、思わないの?」

 侑人は言った。兄は「うーん」と口に出して言ってから、

「今回のことは、自然災害だったから、仕方ないよ」

 と言った。大雨による浸水、雨漏りによる取り壊しである。誰が悪いわけではない。

「でも、まぁ、」

 兄は続けた。

「母校に寄贈する絵だし、気合い入れて、心を込めて、一生懸命描いたことは、確かだからなぁ」

あの絵を描いた時のこと、今でもはっきりと覚えているし、どれだけ苦労したかも、どれだけ構図に悩んだかも、完成した時、どれだけ嬉しかったかも、大学に絵を搬入した時、喜んでもらえてどれだけホッとしたのかも、全部、克明に覚えているし……

「身を切られるくらい、切ないっていうのは、あるけどな」

それでも、今回取り壊されるっていうのが、あの絵の、運命だったんだろうなっていう納得はあるし、完成した後の物語も全部含めて、僕の作品だっていう悟りみたいなものは、あるよ

 兄は言った。侑人の知っている限り、兄は嘘をつかない。思っていても、言わずに胸の内に留めることはあるけれど、言葉にしていることに、嘘はない。少なくとも、弟としての侑人は、兄のことを、そう信じている。

(悟り……)

 侑人は思った。そんなのは、どこで身につくものなのだろうか。

「兄貴の友達に、柏木っていう人、いる? 今、ロクロックっていうバンド? 音楽で活動してる人なんだけど」

 侑人は尋ねた。兄は少々驚いたような顔をして、

「あれ、侑人、音楽に興味あったっけ? 侑人の口から流行のバンド名が出てくるとは思わなかったな」

「兄貴の友達じゃないの? ボーカルの人」

 重ねて尋ねると、兄は顔を緩めて少年のように笑った。

「友達だよ。よく知ってるな。あいつ、名字は伏せてバンドやってるんじゃなかったかな……?」

 侑人は、自分の同級生に彼の弟がいること、そして今、自分がその弟と仲良くしていることを話した。

「そのバンドのボーカルの人の弟、悠輝っていうんだけど……悠輝に、兄貴の描いたあの絵の写真撮ってきてくれって頼んだんだって。だから結構仲良かったのかな? って思って」

 侑人は、柏木のことを「悠輝」と呼んだ自分が、なんだかむず痒かった。兄は、侑人の話しを聞くと、体(からだ)全体で懐かしむような雰囲気を出した。「わー」とか「へぇー」とか言いながら。その顔は輝いていて、過去の大事な思い出の包みを開いているようだった。

「そっかぁー、大輝(だいき)、わざわざ俺の絵の写真頼んでくれたのかぁー」

 兄は、嬉しそうな、照れくさそうな顔で呟いた。

(だいき、っていうのか……柏木の兄貴は……)

 侑人は思った。そして、柏木の名前が「悠輝」だから、おそらく「だいき」も「輝」という字を書くのだろうな、などと字面について思いを馳せた。侑人は、人の名前というのを面白く思う。特に漢字の字面については、その全体のバランスや上下左右の形の違いなどを興味深く思う。

「仲、良かったの?」

 侑人が聞くと、兄は「すごく仲良かったけど、卒業してからは、お互い忙しくてなぁ」と言った。忙しいのは向こうであって、兄貴は別に忙しくはないだろう、と侑人は思ったけれど、黙っておいた。兄は、そんな侑人の心を知ってか知らずか、自嘲気味な笑いを浮かべて。いや、違う。もう少し切ない、けれど切ないだけではない。甘くて酸っぱいみたいな顔をして、言った。

「大学時代は、俺の方が先を歩いていたのになぁ。すっかり、立場が逆転してるなぁ……」

 侑人は、兄の柔らかく温かな、決して荒ぶらない声に耳を傾けた。


 九年前、侑人の兄、昌秀は二十歳を迎えたばかりだった。そして、柏木悠輝の兄、大輝もまた、同級生で二十歳になったばかり。

 二人は大学一年の時から、同じキャンパスで学ぶ友達だった。

 明るく真っ直ぐで、熱血直情型の大輝と、マイペースで穏やかな昌秀。

 チグハグな二人だったけれど、大輝は音楽が大好きで、昌秀は絵を描くことが大好きで、そういうところで気が合うのだった。

 何か特定の物事に対して熱烈な想いを持っている同士、悩むところも喜びを覚えるところも、似通っている部分があった。

 そのころ、大輝はまだサークルのバンド活動をしているレベルで、無名も無名。ロクロックというバンドも存在の影さえ出来ていなかった。

 一方の昌秀は、そのころにはもう、父親の画廊に自分の作品を置いていたし、チラホラと売れたりもしていた。大輝は、そんな昌秀をいつも羨望の眼差しで見つめていた。

「お前はスゲェよなぁ~! 絵が好きで、画家になりたくて……その夢を着実に叶えてる」

 大輝は真っ直ぐな性格からか、コソコソと妬んだり羨んだりするような人間ではなかった。昌秀に面と向かって「羨ましいヤツ!」とか「俺も親がレコード会社の社長とかだったら良かった!」とか言うことはあったが、それだけだった。

 大輝は、昌秀が順調に画家への道を進んでいるのが、親の力だけではないことをよく理解している。昌秀が、朝に夕に、永遠と絵のことばかり考えて、手を動かしているのを間近で見ていて、知っているのだ。

「大輝のバンドだって、地元のライブハウスじゃ人気だって聞いてるよ」

 昌秀は言った。大輝は複雑な顔をして「それは嬉しいけど、この程度で終わりたくないのが正直なとこ」と言った。とことん素直な男で、昌秀はそういう大輝を気に入っていた。

 大学も三年生になり、キャンパスが都内山奥へと変わっても、二人は何だかんだで仲良く、一緒に行動することも多かった。

 ある日、授業と授業の合間の時間に、昌秀は大輝に言った。

「実はさ、僕、大学を中退するかもしれなくて。今、悩んでるところなんだ」

 誰に相談することもなく、自分で答えを決めなくてはと思っていたことだったが、大輝になら相談しても良いかと思えたことだった。二人は大学内、大講堂と大講義棟の間にあるベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいた。

「突然だな、どうした」

 大輝は太く逞しい眉を器用に右側だけ上げて、言った。

「父の画廊に置いている僕の絵を見て、気に入ったと言ってくれた人がいてね。スペイン人の画家なんだけど……親日家で、油絵で有名な画家でね、僕に弟子にならないかって」

 昌秀は言った。大輝は昌秀よりも、背が低い。当然、座っていても、大輝の方が昌秀よりも頭の位置が低くなる。昌秀を見上げる形の瞳が、クワッとまん丸く見開かれた。

「マジか! スゲェことじゃねーか、それ!」

やべーじゃん、スペイン人!

 大輝は言った。

「スペイン人なのは関係ないけどねぇ~」

 昌秀がのんびりと言う。

「そいつの弟子になったら、大学、辞めなきゃなんないのか?」

 大輝は尋ねた。昌秀は、大輝の顔をチラッと見た後、空を見上げた。

「今すぐ弟子になるなら、大学を辞めて、その人のアトリエ……スペインにあるんだけど、そっちに行って、勉強することになるっぽい。でも、あと一年で大学卒業なんですって話したら、一年待ってからでも良いよって言ってくれた」

 昌秀は、大学に通いながら、祖母の知り合いである油絵の先生の家に通っていた。元々、大学を卒業してから、美大への進学も視野には入れているところでもあった。スペインに渡って、向こうで油絵の勉強をするというのも、悪い話しではない。

「お前、何悩んでんの?」

 大輝が不思議そうな顔をして言った。

「えー?」

 昌秀は、眉をハの字にして、言葉を濁す。

「大学、辞めるか辞めないかで悩んでんのか?」

「そうだなぁ……なんか、中途半端なのが嫌な感じがして。あと一年待ってもらえるなら、それでも良いかなとも思ったりするよ」

 昌秀が言うと、大輝は、もの凄く嫌そうな顔をして、

「俺、お前のそういうところ、めっちゃ嫌い」

 と言った。

「どういうところ?」

「間延びしてて、腰が重いところ」

 大輝はハッキリと言った。

「お前のソレは、マイペースとかじゃない。間延び、先延ばし……なんていうか、こう……動きにキレがない」

「最後のは身体能力の話しだろー」

 昌秀は苦笑する。体育の成績だけは、いつでも悪い昌秀だ。

「とにかく、悩むことなんて、ひとつもないだろ」

 大輝は断言した。

「もたもたしないで、さっさと先に進め」

 昌秀は、大輝の顔をジッと見た。さっぱりと現代風な格好、雰囲気をしているくせに、一度も染めたことがないという黒髪。少しうねっているのも、パーマではなく、スタイリング剤だと言っていた。大輝の顔立ちは、誰からも好かれるタイプだ。垢抜けていて、ダサくない。友達も多くて、活発。

 そういう内面からくる性格の雰囲気も含めて、全てがプラスの方向に整っているように昌秀には感じられていた。

「大輝、僕がいなくなったら、寂しくなるよ?」

 昌秀はにっこり笑って言った。大輝はフンと鼻で笑って「寂しいからって友達の足を引っ張るヤツはロックじゃない」と言った。

「あ、寂しいんだ。認めるんだ」

 昌秀が言うと、大輝は当然のように胸を張って、

「当たり前だろ」

 と言った。そんな風に真っ直ぐに言われると、昌秀は自分でふっかけったくせに、照れた。

「昌秀にしか、わかってもらえねーこととか、沢山あったし」

 大輝は言った。昌秀は、少し熱くなった頬を手のひらで押さえながら、言った。

「音楽も、絵も……言葉じゃないから、人を選ばないけど……好みの問題があるから、難しいよね。心の壁を、突破しないといけないから……」

 大まかに芸術と呼ばれる分野に対した時、どうしたって、ぶつかる問題がある。勉強を重ねるだけでは、技術を磨くだけでは、経験を重ねるだけでは、突破出来ない壁がある。

 いつだって、その壁は目の前にある。音楽も、絵も。

 「好きじゃない」「好みじゃない」と言われてしまえば、そこまでなのだ。

「それでも好きなんだから、真っ直ぐ、進むしかねぇだろ、誰かに届くって信じてやるしか、ないだろ、俺も、お前も」

 大輝が言った。昌秀は頷く。

 元々、本当は悩んではいなかった。大学は中退するつもりでいた。けれど、友達にそれを打ち明けるタイミングを悩んでいた。そして、ほんの少し、大輝に背中を押して欲しかったのだと昌秀は自覚している。

「僕、大学辞めることにするね」

 昌秀は言った。大輝は「おう」と言って笑って、昌秀の肩をギュッと一度、強く掴んだ。

 一瞬だけ重く感じたその手は、すぐに離れていった。けれど、昌秀の肩には、今でもその時の感触が、酷く鮮明に残っている。


「あの時は、僕の方が華々しいというか、成功の道を進んでいるというか……」

 兄は言った。

「自分で言っちゃう?」

 侑人は苦笑する。兄も笑った。

「でも、それから僕は大学中退して、スペインに行って……その間に、大輝は業界の人にスカウトされて、音楽界にデビューして。あっという間に誰でも知ってるメジャーなバンドになっちゃった。一方の僕は、まぁ、ぼちぼち画家をやってる感じで」

すっかり逆転しちゃったよなぁ

 兄は柔らかく言葉を紡ぐ。決して羨んでいるようでもなく、懐かしむ色だけが、淡く言葉に添えられている。

 侑人は知っている。兄が大学を中退する時、大学側から「大講堂に飾る大きな壁画を描いて欲しい、それを描き上げて寄贈してくれるなら、その絵を卒業作品として認めて、中退ではなく、卒業したことにする」という提案を受けていたことを。

 そして、大学に寄贈する油絵を良いものにするために、スペインで懸命に学んだことを。

あの絵を描くためだけに、一時帰国をして、半年もかけて、丹念に描き上げたことを。兄が、母校である東京上天大学を、とても愛していたことを。

(兄貴がすごく、気に入ってたから……毎日楽しそうだったから……俺も東上大に決めたわけだし……)

 それなのに、あの絵はもう、この世には存在しないのだ。侑人は、やっぱりあの絵の写真を自分も撮っておけば良かったかもしれないと思った。

「侑人、大学卒業した後は、どうするつもりなんだ?」

 急に兄が言ったので、侑人はビクッとなって、そっと兄の顔を覗いた。兄は、年長者の持つ独特の余裕の笑みのようなものを浮かべていて、侑人はそれが鼻につく。

「なんで急に……」

「母さんが気にしてたぞ。さりげなく聞いてくれって頼まれた」

「全然さりげなくないじゃん」

「僕にそういうの求められても無理だよ」

 兄はアハハと笑った。侑人は、急に兄が実家に帰ってきた真の理由を知った気がした。

「母さんに頼まれて帰ってきたわけ?」

 侑人が尋ねると、兄は「そこまで暇じゃないよ」と苦笑する。

「ばあちゃんに色々聞きたくて帰ってきたんだよ。お前のことは、ついで」

 わざわざ自分の進路に口を出すために帰ってきたと言われても腹立たしいが、「ついで」と言われるのもムッとするものだった。それに、母はどうして自分の口から「進路どうするの?」と聞いてこないのだろう。

(聞かれても、困るけど……)

 なんだか、何もかもにムシャクシャする気分だった。理由なき不機嫌というのは、自分でも自分の対処に困る。

「進路、悩んでるのか?」

 兄は言った。侑人は唇をキュッと噛んで黙る。手元にある兄のデジタルカメラ、その液晶画面に映っているスペインの青空を、侑人はじっと見つめた。

「進路とか、そういうのはさ、なんだろうな、今は未来について考えると、なんだか焦るかもしれないけど、転機って、いつ訪れるかわからないものだからさ」

 兄は言った。

「僕の転機が、スペインに行くことだったり、大輝の転機が、スカウトだったり……まぁ、そもそも転機が来るか来ないかもわからないから、その辺りも含めて、不安な気持ちになるのはわかるけどね……」

 兄の言葉は、侑人の耳の外側だけを撫でて消えていった。前を歩く人間というのは、どうしてこういう、知った風な口をきくのだろう。そのくせ、ちっとも自分の言葉についての責任は取ってくれないのだ。腹が立つにも程がある。

「兄貴の時がどうだった、こうだったって話し聞かされても、俺は兄貴じゃないし、なんの参考にもなんない」

 侑人は言った。

「参考にしろなんて言ってないよ。ただ、先の見えない不安については、共感できるよっていうだけ」

 兄は大らかな空気で優しく語りかけてくる。そう言う風な言い方をされると、ますます反抗し辛いのを、この兄はわかっているのだろうか。大人な対応をしてくる兄に対してムキになって反抗すれば、それは駄々をこねている子供のようになってしまうではないか。

 これ以上、話していると余計に苦しくなってくると思って、侑人は立ち上がった。

「もう寝る。写真、ありがとう」

 兄にデジタルカメラを返して、ベッドに横になった。

「兄貴が寝るとき電気消して」

 侑人が言うと、兄は「写真、プリントして欲しいやつ、メモっておいてな」と言った。そして、すぐに部屋の電気は消えた。

 兄がモゾモゾと布団に潜る音がする。侑人は兄に背を向けて、壁側を向いて目を閉じる。

「進路、どうしても決められなかったら、しばらく考えても良いんだからな、ウチは別に、卒業したらすぐに就職しろ、みたいな考え、誰も持ってないんだし……しばらく、海外に行ってみたりしても良い勉強になる」

 兄の声が、暗い部屋に甘く、優しく、慈悲深く響いた。その声を体全部で浴びてしまって、侑人は己の身を小さく丸めた。寝たふりをして、無言を貫く。

 真心と愛情に、首を絞められている気分だった。


 *

「へぇ……では、本当に仲が良かったんだなぁ、ウチの兄貴と侑人の兄貴は」

 翌日、大学内のコンビニで侑人は柏木と鉢合わせた。二人とも朝一の授業があり、コンビニで朝飯を調達しているところだったのだ。

 取っている授業は違うが、互いに行き先は大講義棟だった。コンビニから講義棟までの道すがら、侑人は昨晩、兄から聞いた大学時代の思い出話を柏木に話した。

「柏木の兄貴は、なんか言ってる? ウチの兄貴のこと」

 侑人が尋ねると、柏木は「兄は春先からライブツアー中でね」と苦笑する。

「取り壊す前の大講堂の……あの絵の写真を送った時は、すぐ返事が来て、嬉しいと言っていたけれど……それ以降は向こうも忙しいようでね。連絡を取っていない」

 侑人はライブツアーというものが、どういうものなのか、いまいちよくわからない。ただポツンと「そうか……」とだけ、返事をした。

「来月にはツアーも終わる。そうしたら連絡も取れるだろうから、俺からも侑人の兄貴について、聞いてみるさ」

 柏木は言った。そして、少しだけ黙った後に、

「しかし……不思議な縁もあるものだよなぁ……兄同士が友達で……九歳年下の弟同士も友人になるとは……」

 と、しみじみ言った。侑人は、柏木の口から「友人」という言葉が出たことに、少々の照れを感じる。改めて「友人」と呼ばれるのは、こそばゆい心地がした。

「来月か……もう夏休みだ……」

 自分が照れていることを悟られたくなくて、侑人は話題を変えた。梅雨はまだ、その尾を引いていて。空模様からは、ちっとも夏を感じられない。それでも暦は進んでいく。来月は七月で、そうなれば後半は夏休みとなる。

「進路は決まりそうかね?」

 柏木が言った。

「さすがに夏休み前には進路希望調査、出さないとマズいんじゃないのかね?」

 侑人は「うぅ……」と唸る。

 相変わらず、紙は真っ白なままであった。

「そう言う柏木は……具体的には、どうするつもりなんだ……卒業後は……」

 侑人は苦し紛れに尋ねた。前に聞いた時には「聞いてどうする」と言われてしまったけれど、やはり参考にくらいはしたい。

「俺は地元のライブハウスで働くことになっている」

 柏木はサラリと言った。

「……ライブハウス」

 侑人は、馴染みのない言葉を口にして、想像する。薄暗く、光がチカチカしていて、そして酒とタバコのイメージがある。

「大学入ってから、いろんなライブハウスを巡っていてな。照明器具の扱い方とか、音作りについても勉強させてもらっているんだ。バイトもずっと地元のライブハウスなもんだから、大学卒業してからもそこで働きたくて。店長に相談したら、ちょうど長く勤めていた人が旦那の転勤だかで辞めないといけないことになったから、代わりに俺を社員にしてくれるということで……」

 柏木は、何でもないことのように話した。世間話と同じテンションで。侑人には、それが異次元の話のように聞こえた。自分が想像していたよりも、ずっと前を歩いている友に唖然となる。

(……いや、違う……柏木が、凄いんじゃない……柏木が普通で……俺が、本当に、ヤバい、っていう、だけの話だ……)

 侑人は、自分の足が地面ではなく、グニャグニャしたゴムの上を歩いているように思えた。安定していない足下に、視界がブレる。

「……実は、兄貴にも、卒業したらロクロックでローディーやらないかって誘われたりしている」

 侑人がひとりで勝手にグラグラしていると。柏木が、急に声のトーンを落として言った。

「……ろーでぃ、」

「あー、なんというのか……バンドをサポートするスタッフみたいな役割の人のことを、ローディーと呼ぶんだ。大きいバンドになると、何人もローディーがいて、その人たちが楽器の手配とか、あと、ツアーで各地を回るとしたら、楽器の輸送とか、あとライブのセッティングとか……そういう色々なことを整える。バンドマンが気持ちよく演奏できるように、お客さんが気持ちよく演奏を聴けるように」

 柏木は、身振り手振りを添えて、ゆっくりした口調で、丁寧に説明した。侑人はいちいち頷きながら理解する。自分の知らない世界の話は面白いと思う。

「なんか、柏木に向いてそうな仕事だな」

 侑人は思ったまま言った。柏木兄のバンド、ロクロックは音楽に疎い侑人でも知っている。有名なバンドのローディーというのは、それなりにやり甲斐のある仕事のように思えたし、そういうバンドのローディーになりたいと切望している人も多いのではないかと思えた。

 柏木にとって、良い話のように聞こえたのだ。だが、柏木は眉をキュッと寄せて、珍しく嫌そうな顔をした。

「ヤだね。身内の手伝いなんて、上手くいくはずない。兄のことは嫌いではないが、兄に顎で使われるのは御免だ」

それに、夏休みとか冬休みとか、長期休暇を使って他のバンドのローディーをやってみたこともあるがね、あの仕事は大変だ、本当にバンドを愛していないと、長いツアー、一緒にくっついて回ることなんて、到底出来るものではないよ

 柏木は言った。侑人は、柏木のそういう子供っぽい一面をしみじみと眺めた。普段、どこか達観しているようなところがある柏木だ。年寄り臭いというか、若者らしくない落ち着きみたいなものがある。

 それが今は、とても年齢相応の顔をしているように見えた。

(本当にバンドを愛していないと、出来ない……)

 侑人は柏木の言葉を反芻する。

(だからこそ、柏木の兄貴は、柏木を誘ったんじゃないのか……?)

 侑人はそう思ったけれど、身内に顎で使われる心地悪さには覚えがあるので、黙っておいた。兄弟で一番年下というのは、そういう意味で、変な貧乏くじを引くことがあるものだ。

「思ってたよりもずっと柏木が具体的な将来を考えていて、絶望することこの上なしだ」

 侑人は言った。音楽を愛し、音楽の道にしっかりと将来を見据えている柏木。

(柏木は……身内に有名なバンドマンがいるから、バンドを組んだりライブをしたりしないって言っていた……けど、それだけが音楽の道じゃないって、ちゃんとわかってるし、ちゃんと道を自分で見つけてる……)

 音楽の愛し方は、ひとつじゃない。

(俺は……絵を描くのが、好きだ……)

 でも、兄のようになりたくは、ないのだ。

(別の道……絵を好きなままでいられる、別の道……)

 そんなものは、あるのだろうか。侑人がため息をついたタイミングで、大講義棟に到着した。柏木は三階、侑人は五階で授業だ。別れ際、柏木が言った。

「侑人が進路で悩んでいる姿は学生らしくて、青春らしくて、大変よろしいがね、あんまり深く考えすぎるのも良くないぞ」

何にならなくても良いんだ、別に、侑人が自分で気に入る人生を歩けば、それで良いと俺は思うぞ

 侑人は柏木に、ポンと軽く背中を叩かれた。

「じゃぁな」

 三階に到着して、柏木はさっさと教室へ行ってしまった。その後ろ姿は、相変わらずギターを背負っていて。大きなケースに対して、柏木自身が小柄に見える。実際、柏木は侑人が思っているよりもずっと小さいのかもしれない。

 それなのに、対面で話していると、その思考の安定性や、人柄、大らかさなどから、実際よりも大きく見えているのかもしれない。

 柔らかく叩かれた背中が痛い。

(自分が気に入る人生って……なんだ……?)

 どうすれば自分のお気に召すのか、自分のことなのに、ちっともわからない。

 その日、侑人は夕方まで授業が入っていた。昼過ぎから少し時間が空いていて、柏木に連絡をしようかと思った。けれど、なんだか今、柏木に会うのは気詰まりな感じがして、やめておいた。

 大学からの帰り道、帰宅時の電車は混雑していた。侑人は、ぼんやりと車内の様子を観察する。夕方というのは、日の光の力が朝よりずっと強い気がする。車内は人工の光と、日の光に照らされていて、妙に明るかった。

 電車の中にいる人々は、そのほとんどがスマートフォンの画面だけを見つめている。その他の人々は、目を閉じていたり、本を読んでいたり、音楽を聞きながらボーッとしていたり。

 侑人は思う。

 この人たちに届く絵画なんて、あるのだろうか、と。それも、有名な画家の絵ならともかく、無名の画家、売れない画家の描いた絵が、届くことなんて、あるのだろうか。

(俺は……兄貴みたいに、なりたくない……)

 兄のことを「売れない画家」と称する人は、誰もいない。けれど、彼の周りにある目は無言のままに、そう言っている気がする。その中には、侑人自身も含まれている。侑人は兄を「売れない画家」だと思っている。

(兄貴は……そういう視線に晒されて、どう思ってるんだろう……)

 平気なのだろうか、気にしないのだろうか、それとも、実はとても傷ついているのだろうか。

 兄の絵が、この車内にいる、スマートフォンに夢中な人たちに、仕事や学校で疲れ切った人たちに、届くような日が、来るのだろうか?

 侑人には、そんな日は絶対に来ないように感じられた。小さい頃に読んだ、絵本のおとぎ話よりずっと。ずっと、現実味のない話のように思えた。


 *

 家に帰り着くと、玄関先から、もう墨の匂いがしていた。その匂いは、侑人にとっては、日本画家である祖母の家の香りだった。

「おかえり、侑人」

 侑人の「ただいま」の声に、母より先に兄が二階の自室から降りてきた。

「ただいま」

 嫌な予感がして、侑人はあまり兄の目を見ないようにして言った。けれど、兄というイキモノの勢いは、弟を圧倒的に黙らせる何かを持っている。

「侑人、着替えたらちょっと手伝って」

 有無を言わさぬ声色に、頭が痛くなる。兄はニコニコとして楽しそうで、その視線は前を向いて輝いていた。

「何すんの」

 侑人がぶっきらぼうに尋ねると、兄は「墨をすって欲しい」と言った。

「あれ、手が疲れるんだよ」

 悪気なく言う兄に、侑人は本当に白目を剥いた。疲れるから弟にやらせるのか、この兄は。ひとりで勝手にやれよと言いたいのに、言ったところで「侑人、暇じゃないの?」とか聞かれるのが目に見えている。暇な自分にも腹が立つ。もっと何か、やらないといけない気がするのに、なにをしたら良いのかわからない。自室に戻ってやることと言えば、絵を描くことだけだ。

 それが楽しい。絵に関わることは、楽しいし、充実感がある。そう思うから、やっぱり侑人は、腹立たしい。

 兄の手伝いは嫌だと思うのに、絵を描く手伝いをするのは、やぶさかではないのだ。

 昨日までの兄の部屋は画材に溢れていたけれど、昼間に整理をしたのだろうか、それなりに片付けがされていた。

 部屋の真ん中にはキャンバス。床には大量に新聞紙が敷かれていて、その上に多種多様な筆、それに硯と墨がある。

 何色か、水彩絵の具も溶いてあって、兄がこの作品を、ただの墨絵にするつもりがないことが伺い知れた。

「ばあちゃんとこ、行ったの?」

 部屋着に着替えた侑人は、兄の部屋の床に座って言った。墨をする作業は、小さい頃から祖母の手伝いでよくやっている。手慣れたやり方で、硯に水を垂らして、さっそくすり始めた。

「行ったよ。勉強になった。明日も行くけど、侑人も行く?」

「大学ある」

「サボればいいだろう? 単位、足りない?」

「足りてるけど……」

 サボるという選択肢は、侑人の中にそもそも存在していなかった。

「変に真面目だよね、おまえは」

 昌秀は、慈しむような瞳で侑人を見た。黒目の大きな瞳をスッと細めて、眉尻を下げる。まるで小さな子猫でも見るような視線。侑人を反射的に苛立たせる視線だった。

「進路のこと、ばあちゃんも心配してたぞ」

 兄は言った。侑人は、ただ硯だけを見て、墨をすった。

「あんまり、真面目すぎても、悩むばっかりで大変だろう。大学に提出する進路希望なんて、別にそんなに真剣になって書かなくても良いもんだぞ?」

ただの「調査」なんだから

大学側が、何かデータ的なものを作るために必要なだけなんだから

大丈夫だよ、適当に書いても

 兄の言葉を、侑人はもっともだと思った。けれど、実際、どういう風に今後の人生を歩もうかと考えた時、その道筋がサッパリ見えない恐怖というのは、拭うことが出来ない。

 侑人だって、進路調査については、提出期限までには出すつもりでいる。あの紙切れに、そこまで真剣になっているわけではない。

 けれど、あの紙切れは「きっかけ」だ。自分がどこを歩いているのか、今後どこを歩いていくのか、何も決められていない自分を目の前に突きつけられた。

 その事実に、戸惑いと、動揺があるのだ、今もずっと。

「日本画をやるなら、ウチにおいでって。ばあちゃんが言ってたよ」

 兄は言った。

「でも侑人が墨すってるの、久しぶりに見たし、侑人は日本画って感じじゃないよなぁ」

なんだろう、イメージだけど、侑人は油絵の感じがするよ、厚く塗り重ねて、良い味が出せそうな、そんな感じ

 侑人は、兄がキャンバスに何かしら鉛筆で薄く描いているのを横目に見た。

「兄貴は、やっぱり水彩って感じ。前にやってた油絵も、日本画も良いけど……大学の、あの、抽象画は、なんか、兄貴っぽくなくて、ちょっと意外だった」

 侑人は言った。

「僕もそう思う。あれ、変な気合いを入れて描いたから、なんか僕らしくない絵になっちゃった」

 兄は、懐かしそうな声色で言う。侑人の耳に、その声は切なく響いて仕方がなかった。

「墨、どのくらい必要なの」

 手を動かしながら、侑人は尋ねた。

「絵を描かないっていう選択肢もあるの? 侑人の中には」

 弟の質問に答えず、兄は言った。侑人の墨をする手がピタッと止まった。

 止めようと思ったわけではないのに、自然と、止まった。

「とりあえず、ウチの両親とか、ばあちゃんとか、僕が聞きたいのは、そこだけだと思うよ」

 兄は言った。侑人は、口を動かそうとしたけれど、舌が乾いて、重かった。黙ったままでいると、兄が言った。

「普通に会社で働くっていうのも、ひとつの道だけどねぇ……」

もちろん侑人の将来だから、侑人が決めることで、家族が口を挟むべきじゃないから、好きにして良いんだけどね

 兄は取り繕うようにして言った。あまりにも、取り繕うのが下手くそだ。侑人は、苛々した口調で、言った。

「そもそも、俺の絵、見てないのに、どうして絵描きにしようなんて思うんだか、そこがわからない」

 侑人が言うと、兄は笑った。

「そんなの、侑人が絵を描いてる時、一番楽しそうだからに決まってるだろ」

 当たり前のように、言われた。侑人は絶句する。

「楽しそうって、それだけじゃ、駄目だろ、そんな、子供じゃないんだから……」

 子供のお稽古ごとの話ではない。これから大人になる人間の、人生の進路の話だ。けれど、兄は不思議そうな顔をする。

「楽しそうだけじゃ、なんで駄目なんだ? 楽しくて得意なことがあるんだから、それを生かして悪いことはないだろう」

父さんの画廊があるんだから、売り出すのにも苦労はいらないし、コンクールに応募してみるのも良い、スペインで良いなら、僕の知り合いの画家を紹介出来るし、そこでしばらく学んでも良い、そうだ、兄弟で展示会を開いてみるのもアリだな、楽しそうだ

 兄は、キャンバスの方ばかりを向いて、軽やかに話した。侑人は、悲しい気持ちになって、泣きたくなった。墨を硯の端に置いて、

「このくらいで足りる?」

 と、聞いた。兄は硯を見て「ありがとう」と笑った。

「……俺は、兄貴と違って、人には絵を見せない」

 侑人は言った。兄は「そのうち見せたくなるよ」と言った。

「見せないって決めてる。俺は兄貴とは違う」

 侑人は強く言った。兄は、侑人の前にしゃがみ込んだ。

 そして、硯の中の墨に、右手の人差し指で触れる。触れた途端、兄の指先が、淡く灰色に染まった。

「侑人、墨するの昔から上手だよなぁ。ちょうど良い感じだ」

 深く頷きながら、兄は指先をティッシュで拭う。そして、弟の顔を正面から見据えて言った。

「何に、そんなに、怯えているんだ、おまえは」

 あまりにも、真っ直ぐな視線だった。逸らすことは、決して許されないような、強く拘束力のある視線。侑人は、口を開いて、けれど声を出す前に、再びキュッと唇を引き結んだ。

「あんまり優柔不断だと、周りから人がいなくなる。チャンスも、逃すことになる。この先の人生もずっと、困ることになる」

言いたいことがあるなら、はっきり言った方が良い

 兄は侑人の両肩を掴んで言った。侑人は、なんだか虐められているような気分だった。責められて、虐められて、蔑まれているような気持ちだった。鼻の奥がむずむずして、スンっと一度、強く吸った。

「……兄貴は、今の世の中に……絵って、本当に必要だと思う……?」

 侑人は尋ねた。兄は、そういう質問が来るとは思っていなかったようで、強かった視線が急に緩んだ。

 パチクリと瞬きをして、兄は弟を見つめる。掴んだ両肩はそのままに「侑人、そんなこと考えてたの?」と言った。

 侑人は、そっと、兄の手を肩から退けた。片方ずつ、そっと。そして言った。

「兄貴たちの世代と、俺たちの世代は違う。たった九年って思うかもしれないけど、九年違うと、全然違う」

「どう違う?」

 兄は興味深そうな顔をして言った。侑人は、言い方や表現に迷いながら、

「……幸せの、純度、みたいなものが、違う」

 と言った。

「また随分と抽象的だな。やっぱりお前は芸術家肌だよ」

 兄は苦笑して、けれど、侑人の隣にちゃんと座り直した。

「それで?」

 話を促されて、侑人はまた、言葉を探す。

「……大学の友達、高校の時の友達もだけど……片親の人がすごく多い……バイトして、自分で学費払ってたり、奨学金借りながら通ったりしてるヤツも、結構いる」

友達の友達なんかは、大学に通いたかったけど、学費どころか入試を受けるのにも金がかかるから、無理で、結局高卒で働いてるっていうヤツもいるらしいし、進路希望だって、大半が企業就職で……いろんな会社調べて、安定していて、ボーナスが貰えて、それなりに給料の良いところを探したりしていて……

「そうやって、頑張ってる人たちが大勢いる中で、俺はなんか、画家になりたいとか、絵を描いて暮らしたいとか、そういうの、なんか、違うって思うし、なんて言ったらうまく伝わるのか、わかんないけど……そんな世の中で、絵って、本当に必要なのかな、とか考えるし」

絵を楽しむだけの余裕がある世の中だとは、俺には、とても思えないし……

 だったら、絵を描く意味なんて、もうないんじゃないかと侑人は思う。人から必要とされていない芸術に、なんの意味があるのだろう。

「兄貴は、変だって思わないの、ウチの感じ。じいちゃんばあちゃんも含めて、親も、みんな、なんか時代錯誤っていうか……」

 侑人は、自分の中の気持ちを整理しながら、なるべく落ち着いた声で、けれど一生懸命に話した。兄は、頷くこともせず、ジッとして、侑人の話を聞いている。研ぎ澄まされた感覚の中で耳を傾けているような。ピンと張りつめた空気があった。

 侑人がこれ以上、うまく話せなくて黙り込むと、部屋は静寂に包まれる。墨の香りが充満する部屋で、兄弟が二人、黙りこくって床に座り込んでいる。しばらくの後、兄が口を開いた。

「侑人は、周りの人と、同じでいたいということか?」

自分だけが、浮き上がるのが、浮き出てしまうのが、嫌だということ?

 兄の声は、純粋な疑問に満ちていた。侑人は、その疑問に対して「違う」とも「そうです」とも言えなかった。完全に否定することも出来ず、けれど肯定するのも違和感があった。

「別にみんなと同じでいたいわけじゃないけど、自分が異質なものだっていうのは、すごく嫌だ」

 侑人は言った。子供の言い訳みたいな声になってしまって、少し恥ずかしかった。

 兄は興味深そうな顔をして「僕はそんなこと、考えたこともなかった」と言った。

「今の世の中が、ちょっとびっくりするくらい厳しいことは、耳で聞くだけでだけど、知っているつもり。でも、そうか……侑人の世代は、もっと、こう、肌で感じてしまうもんなんだな……周りの友達がそういう感じだと、うん……確かに、考えずにはいられないのかもしれないな……」

 兄は侑人のことを非難したりはしなかった。けれど、侑人の欲しい答えも、持ってはいないようだった。深く深く考え込むような顔をして、兄は言った。

「侑人が僕の兄で、僕が侑人の九歳年下の弟だったら、同じことを悩んだんだろうか……?」

 侑人は、きっとそういう事にはならないだろうと思った。兄は、例え弟という立場に産まれたとしても、その魂は今のままであるような気がした。

(俺は、どうだろう……)

 侑人は考えた。今、自分が二十九歳で、九歳年下の弟がいる。その弟が、どうやら進路で悩んでいるらしい。

(……確かに、口を出したくなる、気がするな……)

 侑人は小さく苦笑した。兄の気持ちが、ほんの少しわかったような気持ちになった。


 *

「幸せの純度ねぇ~……いやぁ、響きだけでもロックだなぁ……」

 翌日、大学に向かう途中で柏木から連絡が来た。

『英語の小野センセ、盲腸により緊急入院。本日休講』

 英語は唯一、柏木と侑人が被って取っている授業だった。

「マジか……」

 本日、侑人は英語の授業のためだけの登校だった。もうすぐ大学の最寄り駅まで辿り着いてしまう。

(これなら兄貴と一緒にばあちゃん家に行った方が良かったかな……)

 侑人は思った。祖母のことは、とても好きだ。甘やかしてくれる人ではないけれど、七十五歳にして未だ凛とした空気を持っていて、毅然としている。いつでも正しいことをズバリと言ってくれる気がするのだ。

 それに、日本画の手法について話を聞くのも好きだった。

『暇だし、昼飯でも一緒にどうだね』

 侑人がげんなりした気分でいるところに、柏木から再び連絡が来た。他にすることもないし、腹も減ったと言えば減っている。学食に集合、ということで話は決まった。

 まだ昼の時間には早い学生食堂は、人がまばらで、けれど若い人間の放つ気配で、曖昧に賑やかだった。

 気怠かったり、爛々としていたり、眩しかったりする、様々な空気の中。侑人は昨晩、兄と話した内容をざっくりと柏木に話した。

「兄貴たちの世代とか……それよりもうちょっと上の世代とか、もちろん親の世代とかさ……なんか俺たちと感覚がズレてる気がして、話が上手く伝わらないんだ」

 侑人は言った。至って真面目な相談だったので、平坦な口調になる。柏木は、片方の眉だけを器用に下げて頷いた。

「侑人の言いたいことはわかる。俺たちの親の世代は特に、それなりに潤っている人たちが多いからなぁ」

 侑人は頷いた。柏木の言うところの「潤っている」という表現が、妙にしっくりきた。

「経済的なことが全部なんて極端だってわかってるけど、金の苦労がないことで、やっぱり心のゆとりみたいなのって出来る気がするし……そういうゆとりがないと、芸術って、無価値な気がするんだ」

 侑人は言った。柏木は、カレーライスを食べていたが、一度スプーンを置いて、大きく伸びをした。伸びながら、学食の天井を見て「うーん」と唸る。

「しかしながら、潤っている層はいつだって存在するだろう? そういう人たちが芸術を欲するのならば、無価値とは言いきれんのではないか?」

「金持ちのための絵とか、俺はちょっと、ヤなんだけど」

 侑人は、顔をしかめた。柏木が「このワガママっこめ」と言って笑う。

「ワガママなのか、それは」

 侑人が不服を訴えても、柏木は「ワガママだろう」と断言する。

「侑人、君は兄が売れない画家であるのがイヤなのだろう? 兄のようになりたくないと前に言っていた。つまり、画家になるのなら、売れる画家になりたいのではないのか? 売れる画家というのは、つまり収入が多いということだ。では、収入とはどこから得るものだ? そんなの、生活にゆとりのある金持ちからの収入に決まっているだろう」

侑人が、自分と同世代の人間に絵を売りたいと思うのならば、それは同世代の人間が気楽に買えるくらいの値段感でなくてはならない

「それで収入を得よう、売れている画家になろうなんて考えたら、大量に売らなくてはいけなくなる。大量に売るのであれば、絵画でなくて良い。印刷で良いじゃないかという話になる」

それこそ、画家の価値というものが、いよいよ怪しくなるではないか

 柏木は流れるような声で、途切れなく言った。あまりの正論に、侑人は反論をする気にもならない。

「ますます俺は自分の将来が迷宮入りしそうだ……」

 侑人は自分の目の前にある生姜焼きを箸で突いた。

「誰にも未来のことなんてわからんさ。指針だけ、なんとなく立てられればそれで良いじゃないか。侑人は生真面目に考えすぎだ」

 柏木は言った。

「それ、兄貴にも言われる」

 侑人は悲しい気持ちになる。別に好きで生真面目を気取っているわけではない。産まれ持った性格なのだ、一体誰に似たというのだろうか。侑人は、柏木の顔を見ずに、生姜焼きを見つめて言った。

「親って、自分たちが基準だって思っているところ、あるだろう? 自分の育ってきた環境が当たり前で、子供にも、それと同じ環境を与えようとする、みたいな……」

 自分たちが育ったのと、同じだけの環境を子供にも与えようとする。それが「普通」のことであり、それが「一般的」なことであると信じている。侑人は、思いつくままを口にする。

「ウチの親は、離婚しないのが当たり前だって思ってるし、一応母親は茶道教室みたいなことやってるけど、基本専業主婦が当たり前だと思ってるし……」

シングルマザーのニュースを見たり、子供の貧困のニュースを見たりしても、そういう話を見たり聞いたりしても、全然、他人事っていうか、自分とは関係ないことのように思ってるし、そういう「特殊」な人もいるのねっていう言い方をするし……

「今の世の中、金にちっとも苦労せず、なんでもかんでも好きにして良いよって言われる家庭の方がよっぽど特殊だと言うのになぁ、みたいなことかね?」

 柏木が言った。侑人は頷く。

「俺は金銭的な苦労とか、ちっともしないで生きてきたけど……その代わり、いろんな部分が欠けてる人間な気がする……現に、自分の将来のことだって、自力で決められない……なんか、選択肢がありすぎるし、全体的に俺自身も世間とズレてる気がするし、同級生と、あんまり話が合わないし、俺が普通だと思っていることを普通に発言するだけで、その場の空気が凍ったりすることもあるし」

 最後の方は、愚痴とぼやきが混ざったような声になって、侑人は言った。柏木はニュッと腕を伸ばして、侑人の頭をポンと軽く叩いた。

「そういうことに、気付けているだけ、キミはマシなのかもしらんね」

気付けずに、勝手にどんどん世間ズレをしていってしまう人間も、この世の中にはいっぱいいるものだよ

「それに、幸せの純度が下がっている気がするという侑人の意見には、俺も賛同するところだ」

音楽を楽しむ余裕のある人間も、少なくなってきている気がする

「でも、音楽番組とか未だに人気だし、データで音楽をダウンロードして聞く人も多いだろう? 電車で観察してみても、イヤホンしてる人は多いし」

 侑人が言った。柏木は笑う。

「それは気楽な大衆音楽に限る話だ。クラシックとかで考えてみたまえ。ショパンやらベートーベンやらはまだ有名だから良い。現代でクラシック音楽の作曲をやっている人間の名前が、ひとりでも思いつくかい?」

 侑人は、柏木の言うところの大衆音楽にさえ、詳しくない。クラシックなんて、もっとわからないに決まっている。

 しかし、クラシック音楽と聞いて思い浮かぶ「高尚さ」や「敷居が高い」イメージは、絵画鑑賞と同じような場所に分類される気がして、そういう意味では、柏木の言っていることはよく理解出来た。

「景気が悪いのが悪い」

 侑人が忌々しい口調で言った。柏木がケラケラと笑う。

「まるで評論家だな! そういう様々なことを考えて研究する道に進むのも悪くないんじゃないのか?」

「ソッコーで禿げそうだ、それか、気が狂う」

 侑人は言いながら、力なく笑った。


 *

 七月になった。

 侑人は、大学からせっつかれて、なんとか進路希望調査を提出した。調査書には、無難に第一希望「就職」、第二希望「家業を継ぐ」、第三希望「海外留学」と記載した。

 第一から第三までの順位は、侑人の希望順ではなく、他人の目から見た時に、違和感のない順番にした。

 そして「画家を目指す」という希望を記載するのは、やめた。

 何度か第三希望に書いてみたものの、あまりにもその字面が浮いていて、恥ずかしくなって、赤面して消すことを繰り返した。

 大学生にまでなって夢を見ちゃっているお気楽な人間、のように見えるような気がしてしまって、居たたまれなかった。

 夏休みに入る前、柏木から、

『兄貴がツアーから戻った。侑人のこと、侑人の兄のことを話してみたら、侑人兄に会いたいと言ってウルサいのだが、どうだろうか?』

 という連絡が来た。その頃、侑人の兄である昌秀は、ちょうど依頼された絵を集中的に描いている時期で、アトリエに籠もりきりな様子であった。

『今、なんか仕事忙しいみたいだから、すぐに会うのは無理かも。一応連絡はしておく』

 侑人はそう柏木に返事をした。夏の入り口の日差しが、日々、外の世界を覆っていた。

 強すぎない日光、けれど世界は眩しく白みはじめている。まだ七月も初旬だというのに、気温はグングン上がっていって。けれど湿度も健在で。どうにも息苦しい夏だと侑人は思った。

 大学内は早くも夏休み前の浮ついた雰囲気に包まれていた。特に大学三年生たちには、最後の夏休みを楽しもうというような気迫と勢いがあった。来年の夏は、きっと就職活動やら卒業研究やらで忙しくなるのだと想像がついている。

(夏休みかぁ……)

 侑人は思った。

 何をしよう、と思う。

 もちろん、毎日絵が描けるとは思う。だが、それは侑人にとっては日常だ。日常と、何も変わらない。

「バイトでもしてみたらどうだね?」

 ぼんやりと歩いていたら、急に後ろから声をかけられた。

「びっ、くりした……」

「おはよう。今日も絶好調に浮かない顔だな」

 午前中の光に照らされて、黒髪をピカピカさせながら、柏木が言った。

 どうやら同じバスで登校していたらしい。侑人も真面目だが、柏木も大概にして真面目だ。授業をサボったところを見たことがない。

「もうすぐ夏休みじゃないか、侑人くん!」

 柏木が言った。

「だから憂鬱なんだよ」

 侑人が言うと「だと思ったさ」と柏木は、頷いた。

「だから、バイトでもしてみたらどうだね、という提案をしたわけだ」

「挨拶を先にしてくれ。あまりにも本題が早すぎる」

 侑人が言うと、柏木はワハハと極度の大らかさをもって笑った。

 侑人は、社会経験と呼ばれるようなものを、一度もしたことがない。

 バイトもしたことがなければ、ボランティア活動などの地域の活動に参加したこともない。

 そもそも、父も母も兄も、アルバイトの経験もなければ、就職活動の経験もないのだ。侑人にとって、社会というのは、遠い遠い国の物語のように霞んでしか見えていない。

「バイトって……何をすれば良いんだって話だし……そもそも進路も決められてないのに、バイトって……」

「それこそ~バイトなんだから~もっと気楽に考えてチャレンジしてみれば良いじゃないか! 時給で選んでも良い~家から近い場所ということで選んで~みても良い~」

 柏木は鼻歌まじりに言った。

「履歴書、書いたことない」

「何事も、誰でも、はじめてはあるものだ」

 柏木はいつも、侑人の言葉を前向きにして打ち返す。決して苛つくことなく、穏やかに。

「俺はお前を尊敬するな」

 侑人は柏木の方を見ながら言った。柏木は、アーモンド型の目をキョトンとさせて、間抜けた顔のリスみたいになって「急だな」と言った。

「柏木と友達になれて良かった」

 重ねて侑人が言うと、柏木は流石に照れたような顔をした。

「そこまで煽てられては仕方がないな。侑人くんに提案があるよ」

 柏木が言った。

「提案ー?」

 侑人は、今度は不審な目で柏木を見た。

「何の考えもなく、唐突にバイトしたらどうだね? なんて、言わないさ、俺も」

 柏木は含み笑いをして、侑人を見る。二人はバス停から、のろのろと歩いて正門を抜ける。

 左右対称にそびえ立つ学生棟と図書館の間は、建物が日差しを遮っていて薄暗い。けれど、そこを通り過ぎると、急に視界は広がる。

 東西に真っ直ぐに延びる歩道。燦々と降り注ぐ日差しに、時折風が吹いて、遠くで蝉の鳴く声が聞こえている気がした。

「今、実家にな、兄だけでなく、姉まで戻ってきているんだがな」

 柏木の声は、夏のはじまりの輝きの中で、まろやかな円の形になって聞こえてくる。

「その姉がな、都内の企業で働いているんだが、なんでもインターンシップ生を募集しているらしくてなぁ」

「……インターンシップ」

 侑人は、言葉を覚えたばかりの子供のような発音で繰り返した。

「姉が今年、そのインターンシップの担当をすることになったらしいんだが、もう一人、二人、人数が欲しいらしいんだ」

どうだ、侑人、試しにやってみてはどうだね?

 柏木が言った。侑人は目を瞬かせる。

「バイトもしたことないのに、急にインターンシップとか、言われても……」

「バイトもインターンシップもしたことないのに、急に社会人になるよりはいくらかマシというものだろう?」

 柏木は、すかさずに言った。本当に、この男は正論しか言わないな、と侑人は思う。

「とりあえず、姉に会ってみるだけ会ってみないか? まずは履歴書を姉に提出して、インターンシップに参加出来るかどうかは、それからの話だ」

悩んでいても進めないなら、どの方向でも良いから一歩進めてみたらどうだね?

「柏木、履歴書、作ったことある?」

「あるさ」

「……ご助力をお頼み申し上げたい……」

 侑人は言った。お安いご用さ、と柏木は侑人の背中を叩いた。


 *

 夏休みに入る直前、侑人は柏木の姉と会うことになった。都内のカフェで、履歴書を提出しながら、軽い面談をするとのことだった。

『私服で良いそうだぞ』

 と、柏木から連絡が入ったけれど、私服というのはどの程度が許されるのだろうか。

 侑人は普段、服装に拘りがない分、悩むこともない。なんとなく、あるものを着ているだけだ。

「人生で初めて服装で悩んでいる……」

 自分の洋服が収納されているラックの前で、独り言を呟く。履歴書は、柏木にアドバイスを受けながら、就職支援センターにも相談しながら、書き上げた。

 支援センターの職員は、侑人が「インターンシップを受けたいんですけど……」と相談すると、大袈裟なくらい驚いて、そして何故か嬉しそうにしていた。

 どこの会社を受けるのかを尋ねられて、柏木の姉の勤めている会社名を伝えたら、更に仰天された。なんでも、その業界ではトップクラスと名高い企業らしい。企業研究もほとんどしていない侑人は、そんなことはちっとも知らなかった。

「会社や企業というものを知ることは、具体的な選択肢を広げることにもなるし、君にとって、きっと良い経験になると思うよ」

 支援センターでは、いつもこういう、希望とか未来とか、そういう甘く聞こえたり、美しく聞こえたりするような言葉が、飛び交っている。

 けれど、その言葉に対する学生は、みんなもっと冷めていて、地に足がついていて、そして現実を悟っているような顔をしている気がした。

(支援センターの……職員の人たちも、なんか……ウチの兄貴くらいの年齢の人、多い気がするな……)

 やっぱり、ここでも、世代間の差というのは、あるものなのだろうか。侑人は、何度か履歴書を添削してもらいつつ、就職支援センターの寒暖差について思いを馳せたりした。


 柏木姉と会う当日。

 侑人は、襟付きの白いシャツと紺色の麻のズボンという出で立ちで待ち合わせ場所のカフェに向かった。適度にラフで、適度にカッチリした印象を、と思い悩んで決めた服装だ。

 いつもティーシャツやパーカーを着ているので、襟のあるシャツは少し窮屈に感じた。

(就職して、会社員になったら……こういう服装を、毎日するんだろうなぁ……)

 ネクタイも締めるのかな? と考える。侑人は、中高と私立に通っていたが、私服での通学が許されていた。ネクタイなんて滅多なことがない限り、締めることはない。

 侑人は、約束の時間の十分前に、カフェに到着した。到着したのは良いけれど、この先どうしたら良いのだろうかと迷った。

 とりあえず、二人掛けの席を選んで座り、柏木から聞いている連絡先に到着していることをメールで送った。

(……なにか、注文しておいた方が良いのか……それとも、相手が来るまで待っていた方が……あ、履歴書、出しとこうかな……いや、気が早いのか……? 携帯いじってるのは印象悪いかな……)

 頭の中で悶々としながら、居心地悪く座っていると、『今、到着しました』という新着メールが入った。

 侑人が入り口の方をチラリと見ると、いかにも仕事が出来そうな雰囲気の女性が入ってきたところだった。

(肩あたりまでの真っ直ぐな黒髪、アーモンド型の目、小さい鼻……)

 顔の雰囲気を見ただけで、侑人には、彼女が柏木の姉だと推察がついた。

(口元はちょっと違うけど、他の顔のパーツが柏木そっくりだ……)

 細い首には銀色の華奢なネックレス、ネイビーの半袖シャツ、膝より少し短いスカート、足は……ストッキング履いてるな、ヒール高いな……よくあれで転ばないよな……

 侑人は、あまりにも自然に、そして無意識に。グッと「見る」方向に力が入ってしまった。

(やっぱり柏木と同じでバランスが良いな……肩が細い分、髪はもう少し下にボリュームを持ってきた方が、まとまりが出る気がするけど……スカートも、上がネイビーだから、あの色よりもう少し濃い色で……)

 そんなことをカタカタカタと歯車が回るように考えていたら、バチッと彼女と目が合った。侑人は喉元で「ヒュッ」と息を吸って、慌ててペコリと頭を下げた。

 彼女は、その仕草で侑人のことを待ち合わせ相手であると判別したようだ。無駄のない仕草で、スッスッと侑人の座る席まで来ると、

「はじめまして、柏木です。西侑人くん?」

 と、ハキハキした声で尋ねた。侑人は、無言で頷きそうになるのをすんでのところで抑えて、

「はい、西、侑人です。お、お世話に、なります」

 つっかえながらも、そう言った。

 彼女は、キリッとした笑みを浮かべて、肩にかけてた大きな鞄から、小さな革のケースを取り出す。そして、ケース中から一枚の紙を取り出して、侑人に差し出した。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 彼女がそう言って差し出した紙、それは名刺だった。侑人は慎重に受け取った。

 名刺には「柏木彩(さ)輝(き)」と書いてあった。読み方もローマ字表記されていて「カシワギ、サキ」と読むことがわかった。

「兄弟、みんな、輝くという字が入るんですか?」

 侑人は、思わず呟いた。あんまりに普通に話しかけてしまって、瞬時に「しまった」と思ったけれど、彩輝は笑った。

「そうなのよね、輝きっぱなしの兄弟よ。名前、並べて書くだけでチカチカしそうになる」

何か飲む? コーヒーで大丈夫?

 彩輝に尋ねられて、侑人は「え」と「はい」を繋げたような言葉を発した。彩輝は財布だけを持って、とっととレジの方へ注文に行ってしまった。侑人は、ここで奢られても良いものか、そもそも飲み物などいりませんと言うべきだったのか、わからない。

(頭が考えることを放棄しそうだ……)

 侑人は思った。

 しかし、侑人のそんな心配を余所に、彩輝はコーヒーを飲みながら、さっさと話を進めた。その事務的な感じや、さっぱりした性格が、侑人には有り難かった。

 昨晩から変な緊張をしていて、ずっと胃やら脳やらがグツグツしていたのだ。

「西くんの話、弟からちょっとだけ聞いてきた。進路、悩んでるんだってね」

 彩輝の桃色の唇が動く。コーヒーカップには、うっすらとピンク色に口紅の跡が残っていた。

 侑人は、それをイケナイものを見るような気持ちで見た。思えば、女性と二人でカフェにいるなんていう状況も、はじめてのことだ。

 彼女なんて、いた事がない。それ以前に、女友達だって極端なくらい少ない。

「履歴書、持ってきた?」

 尋ねられて、侑人はまたしても「あ、はい」という歯切れの悪い返事をしてしまった。自分の情けなさに顔が熱くなるのを感じながら、侑人は履歴書を手渡す。

 履歴書を作っている時、あまりにも書けることが少ないのに驚いて、そして落ち込んだりした。免許の欄など、書けるものがひとつもなかった。侑人は運転免許さえ、持っていない。

「特技のとこにある、油絵っていうの、これが、誰にも見せないっていうヤツ?」

 彩輝は、少し楽しげな視線を侑人に向けて言った。

「柏木から……あ、いや、悠輝くん、から、聞いたんですか?」

 「柏木」は、目の前の彼女の名字でもある。いくら弟のことでも、呼び捨ては不味いだろうと思って、名前で呼んだ。彩輝は笑った。

「俺の友達は少々変わり者でな、画家になる才能があるらしいが、描いた絵は誰にも見せないそうだ。ロックだろう? って言ってた。似てるでしょ?」

 彩輝は、弟の口調を真似て言った。やはり家族だ、それなりに似ていて、侑人は笑った。

「似てます」

「ようやく笑った。石像みたいな顔してたから、大丈夫かと思ったけど。まだインターンシップの話だけだし、就職面接じゃないんだから、気楽にね」

 彩輝は言った。そして、細い指先で、器用にコーヒーカップを持ち上げて、口に運ぶ。流れるような仕草、全部がまろやかで、円を描くようで。本人の雰囲気は、シャキッとしているのに、そのギャップに侑人は目を奪われる。

「……君、視線がうるさいって言われない?」

 彩輝が言った。侑人は、ポカンとして「え?」と言った。

「働くおばさんが、そんなに珍しいかい」

 彩輝は苦笑する。

「おばさん、では、ないかと……」

 侑人は、思ったままを言った。柏木弟の話では、確か彩輝は一回り上の、三十二歳だ。侑人にとってのおばさんというのは、自分の母親くらいの年齢の人を意味している。

 しかし、彩輝は侑人のフォローなど、どうでも良いらしい。「まぁ、いいや」の一言を発すると、さっそくインターンシップの概要を話し始めた。

「ウチの会社のインターンシップ、ちょっと特殊でね。他の企業さんとかは一日だけのところとか、長くても三日くらいで終わるところが多いんだけど……弊社は五日間、月曜から金曜まで、正社員が働く一週間を体感してもらってます。八月の第一週の月曜から金曜までね。予定、大丈夫?」

 侑人は彩輝の話すことを、所々手帳にメモしながら聞いた。予定については、すぐに「大丈夫です」と答えられる。なにせ、夏休みの予定は皆無なのだから。

「メモ取るのは良いことだね。最近の子はメモじゃなくてスマホに打ち込んだりする子が多いから」

 彩輝は言った。

「スマホだと、駄目なんですか?」

 侑人は、素朴な疑問として尋ねた。彩輝は、曖昧に笑う。

「駄目じゃないんだけどね、世代差っていうヤツかな。ジェネレーションギャップ。私たちの世代的にはちょっとギョッとする。私が学生のころ、まだスマホなんてなかったもん」

折りたたみ携帯とか、そういうの、知ってる?

 侑人は、兄が使っていた古い携帯電話を思い出す。

「九歳上に兄がいるので、わかります」

 侑人が言うと、彩輝は思い出したように「あー!」と少し大きな声を出した。

「そうだった、君のお兄さん、ウチの大輝と友達だったんだっけ。それも悠輝から聞いてる聞いてる!」

 彩輝は笑いながら、再び侑人の履歴書に向き直る。

「バイト経験もないんだね。ずっと絵を描いてたから? それとも、他に事情とかあるの?」

 侑人は、改めて尋ねられると情けないな、と思った。

「絵を描いていたからです。アルバイトをするっていう、そういう思考が、あんまり、なかったというか……家族に、そういうことを経験している人もいなくて、当然のように、自分もしないまま、ここまで来てしまいました」

 まるで懺悔だった。彩輝は、特に表情を曇らせることもなく「そうなんだ」と軽く言った。

「絵はどうして見せないの?」

 直球で聞かれた。侑人は再び懺悔の心境だ。

「絵を、嫌いになりたくなくて……自分の描いた絵を否定されたり、馬鹿にされたり……興味を持って貰えなかったり、ちっとも見て貰えなかったりしたら……そう思うと、怖いし、それで絵を描くこと自体を嫌いになりたくなくて……」

 侑人の言葉に、今度は彩輝の左側の眉が、小さく動いた。細く整えられた眉が、一瞬だけピクリと跳ねたのだ。

「そうなんだね。やっぱりお兄さんが画家だと、萎縮しちゃったりとか、するもの?」

 その質問をした彩輝の声は、先ほどまでの会話よりも、ワントーン低く感じられた。もしかしたら、こっちの声色の方が地声なのかもしれないと、侑人は思った。

「兄のことは……尊敬しています」

 侑人は、当たり障りのない答えを選んだ。尊敬はしているけれど、兄のようにはなりたくない、という本音は心にしまっておくことにする。

「そういうもんなんだぁ」

 彩輝は、静かに深い息を吐きながら言った。一体、今の質問にはどんな真意があったのだろうか、と侑人は疑問に思う。

「西くんは、スーツは持ってる?」

「え、あ、はい」

 急にまた、インターンシップに関するような話になったので、侑人は居住まいを正す。

「インターンシップ中はスーツで来てもらうことになります。もちろん、暑いから上のジャケットは必須じゃないよ。熱中症にならないように気をつけて。慣れないだろうから、ネクタイとかは会社に着いてから結んでも良いし。弊社は九時三十分始業です。そこからインターンの人は十七時まで。社員よりは短い勤務時間だけど、それでも拘束時間が長いから、頑張ってね」

 侑人は、大学で授業を受けている時と同じような感覚で、メモを取る。メモをすることに必死で、内容については、いまいちピンと来ていなかった。

 彩輝は、五日間のインターンシップで行う模擬業務内容についても話した。一日目は企業説明、会社が社会にどのように貢献しているかの説明など。座学が中心になるらしい。

 二日目、三日目はインターンシップ生をグループに分けて、共通の課題について調べ、ディスカッションをしたり、調べた内容をまとめて発表をしたりする。

 最後、四日目と五日目については、社会人のスキル研修を行うそうだ。電話の取り方、名刺交換のやり方、新社会人が行う可能性の高い庶務業務のやり方などを学ぶ。

「西くん、パソコンは使える?」

 彩輝に問われて、侑人は「大学の授業の時とか、調べ物をする時には、使います」と答えた。

「自分のパソコンは持ってない?」

「家にパソコンが、ないです」

 正直に答えると、彩輝は渋い顔をした。それは、侑人に対してではなく、自分の心情に基づく顔だったらしい。

「最近、多いのよ……家にパソコンないっていう子……ほんと、ジェネレーションギャップすごい……切ない……」

 彩輝は言った。そして、ブラインドタッチが出来るかどうか、エクセルやワードを使用することが出来るかを侑人に尋ねた。いずれの質問に対する答えも、残念ながら「ノー」だ。侑人は、だんだんと自信がなくなってくる。最初から自信なんて、ほんの少ししかなかったけれど、今はその僅かな灯火さえも消えそうだ。

「あの、俺みたいなのでも、インターンシップって、出来るものでしょうか?」

 侑人は、あまりにも不安になって尋ねた。彩輝は、怪訝な顔をする。

「それは、西くん次第なんじゃないの? やる気がないなら、今からでも辞めて良いけど……どうする?」

 侑人は、彩輝の言葉の「やる気がないなら」という部分に、ビクッとなった。そういう言葉の圧に、侑人は弱い。頭の中と心の中に「やっぱり辞めようかな」という言葉がササッと黒い尾を引いて過ぎった。

「……や、ります、やってみます」

 それでも、侑人は言った。せっかく柏木が、友達が、心配をして用意してくれたチャンスなのだ。

(とりあえず、とりあえず、やってみて……)

 飛び込んだ後のことは、わからない。怖い、どうしても、怖い。けれど、いい加減に立ち止まっているのも、怖いし、しんどい。

「よく言った。えらいえらい」

 彩輝が笑って、向かい側に座る侑人の肩をポンと叩いた。細い手首、小さな手。

(小さい……)

 肩に置かれた手の小ささ。笑った顔に出来た、右側だけのえくぼ。

(顔も、首も、肩も、なにもかも、小さい……)

 侑人は、こういう形の、こういう小ささの、こういう人が、社会に出て、仕事をして、踏ん張っているのだということを、不思議に思った。

 こんなにも「守られるべき」みたいな形状をしているイキモノが、戦っている。

「じゃぁ、今日話したこと、後からもう一度メールでお知らせするので。八月の最初の一週間、よろしくね。私もインターンシップ生の指導担当でいるから。なにか不安なこととか、わからないことがあったら、連絡をください」

 彩輝はそう言って、侑人の履歴書を鞄の中に丁寧にしまった。侑人は、またしても、彩輝の仕草を目で追いかける。

(女性、っていうのは、こうも、柔らかい空気の中で泳いでいるものなのか……)

 母親や祖母とは、また違う。数少ない同年代の女友達とも、違う。

 固く閉じていたつぼみが、ゆっくりと開いて、咲ききっていない感じ。けれど、八割くらいは咲いていて、でもあとの二割を咲かせるための余力と、意気込み、希望を携えている。そんな、咲ききろうとする、美しさのような。

「あの……」

 侑人は、小さな声で彩輝に言った。

「なにか質問ある?」

 彩輝が答える。侑人は、呼吸一回分だけ迷ったけれど、意を決して言った。

「あの、手を、見せてもらっても、良いですか……?」

「はい?」

 彩輝は、思い切り眉をしかめた。

「あ、いや、その、ダメだったら、無理にとは、」

「手相とか見るのも好きなの?」

「いえ、手相とかは、知らないです」

 侑人は、どうやって説明しようか迷いながら言葉を続ける。

「手の、大きさとか……質感、とか、そういうものを、ちょっと、あの、触れてみたくて……」

 自分で言いながら、顔が熱い。

(触れてみたい、は、不味かったかな……あまりにも、変態っぽい……)

 侑人は、思い切り下を向いて、自分のゴツゴツした手を見つめて、縮こまった。

「……芸術家って、やっぱちょっと変わってるのかしら」

 彩輝は言いながらも「はい」と手を差し出してくれた。侑人は恥ずかしい気持ちになりながら「すみません、ありがとうございます」と言った。

 差し出された彩輝の手に、両手でそっと触れる。

「手入れとかしてないし、ネイルも剥がれそうだし、あんまり良いもんじゃなくて悪かったね」

 彩輝は言った。侑人は真剣に彩輝の手を見つめる。白さの度合い、色味、血管の色がどのように見えるのか。そして触り心地、夏だというのに指先は冷たく、けれど手の平は温かい。爪は桜貝のような色をしていたけれど、これは人工的な色らしい。ささくれが所々に。手首の骨のでっぱり部分、それによって出来る淡い影。

「あの、手のサイズを、比べても良いでしょう、か……」

 侑人は、伺う視線で弱々しく尋ねた。彩輝は面倒臭そうな視線を向けつつ「どうぞ」と言った。

(柏木と同じで、なんていうか、裏表のなさそうな人だな……)

 侑人は思った。そして、彩輝の手と自分の手を、手のひらの端を合わせて、比較した。彩輝の手は、侑人の手よりもずっと小さかった。

「もういい?」

 彩輝が声を出したことで、侑人はパッと手を離した。

「すみません、ありがとうございます、もう、大丈夫です」

 己の手のひらに、彩輝の手の感触が残っているのが生々しい。手のひらを重ねただけのことだけれど、侑人にとっては、とても、生々しいことだった。

「手、見て、それでどうするの?」

 彩輝が言った。侑人は至って普通の感覚で「描きます」と言った。

「……手を?」

 彩輝は、複雑な顔をする。理解できないという気持ち、そして若干の嫌悪みたいなもの。

「そんなの、それこそスマホで写真撮れば良いのに」

「いえ、実物に触れた方が、描きやすいので」

「触っただけで描けるの?」

 彩輝の問いに、侑人は今日はじめて自信を持って言った。

「見て記憶するのは得意なので。一度見て、理解したものは、描けます」

 侑人は言葉を発しながら、心がギュンと明るくなるのを感じた。自分には出来ないことばかりだと萎れていた心だ。やはり、絵を描くという事柄に関しては、心が生きる。

 彩輝は軽く数回頷いて「そうなんだ」と言った。それだけだった。

 二人は立ち上がって、店の前で別れた。

「それじゃぁ、また当日ね」

 彩輝が言うのに、侑人は「よろしくお願いします」と言って、ペコリと頭を下げた。頭を下げた際に、彩輝の方からほのかに甘い香りがした。

(香水、かな……?)

 淡く瑞々しい香りだった。彩輝は、侑人のことを振り向くこともせず、ただ前を向いて。さっさと夏の光の中を去っていく。

 歩く度に揺れる髪が、美しいと思った。侑人は、しばらく彩輝の後ろ姿を見つめ続けた。店の前で、立ちすくんで。

 心臓が、コトコトと小さく、けれどいつもとは違う形で鳴っている気がした。


 *

 八月に入ると、さっそくインターンシップがはじまった。前日の夜、侑人は明日の支度を万全に整えながら、心は少しウキウキしていた。

 社会人経験をするという事に対するウキウキではない。一週間、彩輝と一緒に過ごせるだろうことについての心の弾みだった。

(別に何をどうしたいわけじゃない……)

 ただ、なんとも言えず、彩輝と同じ空間にいられることに対する喜びがあるような気がしていたのだ。

 侑人は、柏木にも『明日からインターンシップしてくる』と連絡を入れておいた。もちろん、紹介してくれたことに対する礼も含めて。

 柏木は、夏休みに入った途端、毎日のようにアルバイトをして過ごしているらしい。まだあまり売れていないバンドの近距離ツアーなどに、サポート役、ローディーと呼ぶのだと柏木が言っていたが、そういった立ち位置で同行したりもしているようだった。

 柏木からは『健闘を祈る! 今度会った時に色々と話を聞かせてくれ!』との返事が来た。

 侑人は、インターンシップの五日間で、仕事をしながら絵を描くということについて、実験をしてみたいと思っている。長い時間、自分なりに考えてみて、将来について思うことは少しずつ広がりを見せていた。

 将来の道筋が定まったわけではないけれど、履歴書を作ったり、一回り上の女性と会話をしたりしたことで、己のことについて、少しだけ詳しくなった。

(俺は、絵を描く以外、あまりにも、何もしてこなかった……でも、何もしてこなかったんだから、これから、やれることはたくさんある……)

 もしかしたら、普通に就職をして、仕事をしながら絵を描くという道の方が、自分には合っているのかもしれないとも考えていた。今まで通り、誰にも見せないけれど、絵が好きで、絵を愛して、絵を描き続ける。大学を卒業してからも、そんな自分でいられるのではないか? と思う。

 どこかの会社に就職をして働くことで、周囲との間に感じているズレのようなもの、その隙間も埋まるかもしれない。何にしても、このインターンシップの期間中に、どうにか自分に出来ること、自分の得意なことを増やしたいと侑人は考えていた。

 自分に出来ること、向いていることがわかったら、きっと、将来への具体的な道筋も見えてくると思った。そう、思ったのだ。


「し、し……死ぬ……」

 インターンシップ三日目にして、侑人は最寄り駅で死にそうになっていた。別に、夏の暑さにやられたわけではない。酒を飲んで、泥酔しているわけでも、もちろんない。

 時刻は十七時三十分を少し過ぎたあたり。帰宅ラッシュには少々早い時間帯だが、侑人はグッタリとして、駅のホームにあるベンチに座り込んだ。

 会社から侑人の自宅までは電車で十五分。たった十五分の距離にある。

 それでも、夏の気温と慣れないスーツ、通勤ラッシュと帰りの電車。大学の行き帰りとは、何故だか疲弊度が全然違う。

(行って帰ってくるだけでも……死にそう、だ……)

 侑人は白目を剥きそうになるのを、懸命にこらえて、目を閉じる。足の先から疲労がジワジワと全身に広がっていくようだった。

(このままだと、立ち上がれなく、なりそう……)

 侑人は小さく「うぅ」と唸って、ベンチから立ち上がった。まだ、たったの三日しか経っていないのに、侑人の心は複雑骨折をしている。いや、複雑骨折どころではないかもしれない。粉砕骨折だ。

「……社会人、マジ、尊敬する……」

 侑人は、フラフラしながら改札を抜けて、自宅までの道のりを亀よりも遅く歩いた。

 家にたどり着くと、着替えもせずにベッドに突っ伏す。そこから三十分ほど気を失ったように、屍のように、ただ動かずにいた。

 そして、スーツに皺が寄ることが気になりはじめ、ジリジリとした動作で起きあがる。部屋着に着替えて、その日に貰った資料などを整理する。

 夕飯の時間だと母に呼ばれてリビングへ行く。そのついでに、汗で汚れたシャツを洗濯機へ入れる。モソモソと夕食をとって、風呂に入って、明日の支度をする。夜の十時には、ベッドに入って、泥のように眠った。

 けれど、夜中の三時あたりにパッと目が覚めてしまう。頭の疲労に対して、体の疲労のバランスが噛み合っていない感じがした。頭はまだまだ疲れているのに、体の方の疲労は回復してしまって、目が覚める感じだ。

 目が覚めてしまうと、疲れているのに頭が勝手に動く。今日、出来なかったこと、全然役に立てなかったこと、他のインターン生とのコミュニケーションが上手く出来ないこと、休憩時間さえも、周囲に馴染めていない感じがして気を使ってしまうこと、この苦行が、あと二日続くこと。

 そして、出社して、帰ってきて、一度も絵を描けていないこと。

 侑人の机の上には、いつものスケッチブックが置いてある。出掛けている間は、鍵付きの引き出しの中にしまっているものだ。毎日帰宅してすぐに、スケッチブックを机上に出す。今日こそは描く! と思って、出す。

 けれど、描けた試しがなかった。スケッチブックの中には「彩輝の手」が、描きかけのままになっている。

(就職、したら……)

 こういう毎日が、ずっと続くのだ、と思うと。

(絶望しか、ない……)

 インターンシップ生は、普通の社員よりも短い時間しか体験勤務をしていない。残業も、もちろんない。それなのに、こんなにも疲れる。

(彩輝さん……一人暮らしだって言ってた……インターンシップ生の中にも、一人暮らしの人、何人もいた……)

 侑人は、家に帰れば母がいて、自動的に夕飯が出てくるし、洗濯もしてもらえる、風呂だって自然と沸いている。

(掃除だって、皿洗いだって、ゴミ捨てだって……時々頼まれてするくらいで……)

 真夜中に目覚めてしまった頭で、すっかり開いてしまった目で、己の甘やかされた人生を情けなく、そして苦く噛みしめる。

(愛に、殺されていく……)

 家族の、周囲の、愛と、甘やかしによって、自分が腐敗していく姿が、こんなにもハッキリと目に見えてわかる。

 一日目の座学は良かった。そういうのは、大学の講義と同じで得意だった。しかし、二日目、三日目のグループディスカッションは最悪だった。

 何の役にも立てず、発言のタイミングさえも、上手く掴めなかった。グループの中で、お荷物になっていることを、自覚せざるおえなかった。

(明日から……社会人スキル研修……)

 恐怖でしかない、と思った。ずっと指導を担当してくれる彩輝のことは、相変わらず同じ空間にいられるだけで、癒されると感じる。

 しかし、彩輝の癒しの勢いと、侑人が疲弊する勢いのバランスが取れていない。情けないのと、悔しいのと、不甲斐ないのと、自分の無価値さに。そして、深夜の静けさと、夏の明るい暗闇に、泣けてきてしまう。

(絵、描きたい……ずっと、絵、だけ、描いていたい……)

 切に、願うように、祈るように、思った。


「なに、電話が取れない?」

 翌日の夕方、侑人はどうしようもなく爆発しそうな悲しみによって、柏木に電話をした。

「今、まさに俺と電話をしているじゃないか、どうしたんだ、一体」

 柏木は、突然の電話に驚いているようだった。侑人は基本的には電話をしない。いつもスマートフォンのメール機能やメッセージアプリを使って連絡をする。

 久しぶりに聞いた柏木の、男にしては少々高い声は、どことなく彩輝に似ている気がした。

「インターンシップで、社会人スキル研修してて……」

 柏木は「ほうほう」と頷くような声を出した。

「今日、電話対応の研修だったんだけど……取る、タイミングとか、取った後、なんか頭が真っ白になるし……そもそも、電話が鳴ってるのが、圧になって、音が、こう……」

 侑人は、言いながら、心臓が潰れそうだった。得意なことが見つかるかもしれないと臨んだインターンシップで、出来ないことばかりが明らかになっていく。

「侑人よ、落ち着け。姉の会社は別に外資というわけではないだろう。電話の先の相手だって日本人だ。日本語しか喋らんよ。それに、今は本番ではなく、電話対応の練習だろう? 練習というのは、失敗をしても良いものだ、違うかね」

 柏木は、いつもの落ち着いた声を、侑人の耳元に届けてくれる。しかし、柏木には一生かかっても、この気持ちはわからないだろうな、と侑人は思った。相談したのは自分だというのに、なんという勝手だと思いながらも。

「……出来ないことばかりが……積み上がっていくみたいだ……」

 侑人が絞り出す声で言うと、柏木は電話の向こうで苦笑したようだった。

「侑人よ、それもまた一歩だろうと俺は思うけどな」

 柏木が言った。

「人間、やりたいことよりも……実は、やりたくないことの方がわかりやすいのかもしらん」

 その言葉に、侑人は「え」と情けない声を出した。

「侑人、この際だ、自分が絶対にやりたくないことを考えてみてはどうだね?」

「……やりたく、ないこと……」

「とりあえず、今思い浮かぶやりたくないことはなんだね?」

「電話出たくない、人が多いの無理、通勤ラッシュ無理、スーツ無理、あ、コピー頼まれるのも焦るからイヤだった。それから、帰りにみんなで飲みとか、反省会とか、そういうのも全部断ってる、無理、これを毎日、しかも残業とかもあって、そんな長時間の拘束、無理だ……」

「拍手したくなるほど、スラスラと出てくるなぁ」

 柏木が電話越しに笑った。侑人は心の中で思っていたことを吐き出して、ほんの少しだけスッキリした。けれど。

「……でも、これって、誰だって嫌なことなんじゃないのか……?」

 みんな、嫌だけれど、生活のために、生きるために、金を稼ぐために、耐えて、日々をこなしているのではないのか。そのくらいは、侑人にだってわかるし、そういう事を理解していない兄や父母に対して、変な正義感のようなものを含んだ憤りを感じているのも確かなのだ。

「嫌だと思う度合いというのがあるだろう。人それぞれに。死ぬほど嫌だと思う人もいれば、金が稼げるのなら仕方ない、耐えられるという人もいる」

じゃなければ、みんなとっくに狂ってしまっているさ

 柏木は言った。

「俺だって、今、夏休みを利用してローディーのバイトをしているが、いくら音楽が好きだからって、楽しいばかりじゃない。嫌な仕事だって含まれている。俺はドリンクバーに立ってドリンクを作るのは好きだけれど、その後の片付けは嫌いだ。それに、床掃除とか、あといちいちウルサく注文をつけてくるバンドマンにはイライラしたりもする」

それでも、そこで学べることの方に価値の重きがあるからこそ、俺はやれるし、やろうと思う

「サボりたいと思う日だって、たくさんある。侑人だけじゃないさ。そういうところも含めて、お前は真面目すぎると言っているんだ」

 柏木は、大人の声で言った。侑人は、今すぐに柏木に会いたいと思った。男同士、こんなことを思うのは気持ち悪いかな、とも思いつつ。心が会いたいと、小さな声を出している。

 けれど、柏木もバイトがあるし、侑人だって、明日まではインターンシップがある。

「……なんか、話せて良かった、夜遅くに、悪かった。もう一日、頑張る」

 侑人は言った。柏木は「まるで俺は、お前の実家の母のようじゃないか!」とゲラゲラ笑っている。

 実家の母なら、今頃夕飯で使った食器を洗っているところだろう。母も父も、侑人がインターンシップをしていることについて、何も言わなかった。

 けれど、どこか、本気にしていない風で「いろいろ勉強するのもお前のためになるのかもしれないなぁ」みたいな雰囲気である。

 柏木とは「おやすみ」を言い合って、通話を切った。侑人は、自分は社会人には向かないのではないか、という確信みたいなものを強めながら、ベッドに横たわる。きっとまた、深夜に目が覚めるのだろうな、と思った。インターンシップが始まってから、毎日だ。

 毎日、夜の中を泳ぎきれずに目が覚める。そこから再び眠りにつくことも出来ずに、朝を迎える。疲労が粘土のようになって体のあちこちにこびりついている気がした。


 *

 インターンシップを無事に乗り切った翌日から、侑人は夏風邪をひいて寝込んだ。体調を崩したことで、いよいよ弱気に拍車がかかった。

 侑人は、真の部分では「根暗」という種類の人間ではないので、

「俺、人間として生きるの、向いてないのかもしれない……」

 なんて、ベッドの中で思いながらも、そこから落ち込みまくって鬱になったり、よし自害をしよう、なんていう考えに至ったりはちっともしないのだった。

 そこまで深刻にもなりきれず、けれど、落ち込むことは、落ち込むし、落ち込みやすい人間でもある。

「なんて半端で……面倒くさい人間なんだ、俺は……」

 侑人は熱にうなされながら、甲斐甲斐しく母親に世話を焼いてもらいながら、思うのだった。世話を焼いてくれる母に対しても、

「こんなに甘やかさずに育ててくれたら良かったのに……」

 なんて、逆恨みも良いところな感情を抱いたりして。そのことに再び落ち込んだりもして。

 忙しない感情の渦に抱かれながら、寝込みに寝込んで、ようやく復活出来たのは、お盆の時期だった。復活した侑人は、大学から出ている課題をこなしながら、考えることを放棄するかの勢いで絵を描いた。

 無心に手を動かしてスケッチブックを埋めていく。小さな布キャンバスを自作して、油絵の具を乗せていく。兄から貰ったスペインの写真を元に、風景画を描いてみたり、自分の今の気持ちを色に乗せてみたりして、黙々と描いて、描いて、描いた。

 その作業は、最高に気持ちの良いものだった。絵は、侑人にとっては、酸素だった。

 人は誰しも、自分の呼吸を、一時だって、邪魔されたくないものだ。


「あれ、侑ちゃん?」

 侑人は、ずっと家に引きこもっていたせいで、体が少し怠くなった。気晴らしにと思って、用もないのに、家の近所にあるコンビニに出掛けた時のことだった。

 背後から急に、親しげな調子で名前を呼ばれて振り返る。

「……あれ、アリサ?」

「やっぱり侑ちゃんだ! 久しぶり、なんか大きくなったねぇ」

 そこにいたのは、同い年で幼なじみの藤堂(とうどう)アリサだった。家が隣同士で、親同士も仲が良く、侑人は幼稚園から小学校までずっとアリサと一緒だった。

 中学に上がる際に、アリサは受験をして、有名な私立女子校に進学した。侑人は共学に通ったので、学校は違ったけれど、それでも家が近すぎるほどに近いので、親交はあった。

「帰ってきてたんだ」

 侑人は言った。アリサは大学進学を機会に、実家を出て都内で一人暮らしをするようになっていた。そこからは、なんとなく疎遠になっていたのだ。

「お盆だからねぇ~、久しぶりの実家!」

 アリサは笑った。笑う時、鼻のあたりにまでクシャッと皺が出来るのは、昔から変わらない。少し茶色っぽく染めた長い髪、クルンと弧を描く前髪。今時の流行っぽい服装。

「なんか、あか抜けたなぁ」

 侑人は素直な感想を述べた。アリサはケラケラ笑う。

「侑ちゃんは、背は伸びたけど、あんまり変わんないな!」

 その言葉に、侑人は内心でグサッと傷付いた。進歩がないということは、自分でもよくわかっている。

「なんか買い物?」

 侑人が尋ねると、アリサは「夕飯の買い出し」と答えた。

「侑ちゃんは?」

 同じように尋ねられて、侑人は真顔で「暇だから歩いてただけ」と言った。アリサは、再びケラケラと風に舞う声で笑った。その姿を見て、侑人は思う。

(彩輝さんとは、全然違うな……)

 彩輝のことを、侑人は八割咲きの花のようだと思った。けれど、アリサを見ていると、大輪のひまわりとか、元気に花びらや葉を広げるタンポポとか、そういうものを想像する。全身にある元気を、全て外に向けて発しているような。無計画で、向こう見ずで、けれど力が漲っている。

(一回り年齢が違うと、そういう風に違ってくる、のか……)

 いや、そもそもの人柄の話なのかもしれない。侑人には、比較する対象が少なすぎる。

「暇なら荷物持ち決定だ」

 アリサは言って、侑人のティーシャツの裾を引っ張った。侑人は文句もなく、ただ付いていく。

 夏の太陽は、周囲を白く染めるほどに激しい日差しを落としている。

(全然日焼けしてないな……)

 アリサは顔も白ければ、ティーシャツから伸びている腕も、七部丈のズボンから出ている足も白かった。そのくせ、帽子も被っていなければ、日傘も差していない。

(人のこと言えないけど……)

 ずっと引きこもっていた侑人も、顔から何から、全部ひょろひょろとしていて、白い。家を出る時に、母親から「帽子かぶりなさいよ」と声をかけられたけれど、面倒だったので返事だけしてそのまま出てきた。

 二週間ほど前、インターンシップに行っていた自分が、夏の日の遠い陽炎のように思える。

 その後に寝込んだせいだろうか、あの日々から、もう遠く離れているような、そんな気がした。

(彩輝さん、元気にしてるかな……今、お盆休みなのかな……)

 五日間、ずっと彩輝とは一緒だった。けれど、じっくり観察出来るほど、侑人の心にゆとりがなかった。

「侑ちゃん、インターンシップ行ったんでしょ? 母さんから聞いたよ」

 アリサが言った。侑人は自分の心の中が読まれたような気になって、ギクッとした。

「母さん同士が仲良いと、なんでも筒抜けるな」

「だねー」

 アリサが苦笑する。侑人は「死ぬほど大変だったし、向いてなかった」と言った。アリサは侑人の言葉を聞いて、悪びれもない様子で、

「侑ちゃんに向いてることとか、あんまり思いつかないねぇ」

 と言った。幼い頃から一緒にいるアリサに言われると、説得力があるのが悔しい。

「アリサこそ、一人暮らし、どうなんだよ」

 侑人は尋ねた。アリサも侑人も、どちらかと言えば親が過保護なタイプである。

 アリサが一人暮らしをすると言い出した時にも、さんざん揉めたと聞いていた。

「一人暮らしね、凄まじく自由だよ」

 アリサは言った。それは、とても強い言葉だった。自由という単語には、大海原へと漕ぎ出す船のような、はたまた大空へ羽ばたく鳥のような、そんなスケールがあった。

 実感を伴った、スケールの大きさ。

「自由、とは……?」

 侑人は問いかけた。アリサはニッと悪い顔をして笑った。

「夜、遅くに帰ってきても、真夜中にカップ麺とかアイスを食べても、誰も、何も、言わない」

 あまりにも嬉しそうに、あまりにも希望に満ちた輝く目で、アリサは言った。

「いい感じの男友達が出来たりして、その人を家に呼んだりしても、誰も何も言わないし、ずっとテレビ見てても、怠くて一日中寝てても、誰も、誰も、見てないんだよ」

こんな自由って、ある?

 アリサはウットリとして言った。何をするにしても、コソコソしなくていい、後ろめたくない、文句を言われない。

「こんなにも、私の人生は自由だって思うよ」

 自分の行動の責任の全部が、自分だけにある。侑人は、アリサの言葉を頭の中に入れて、いろいろと想像を膨らませてみた。何をしてもいい、自由。

(好きなだけ、絵を描いて、誰かに見られるんじゃないかって、怯えたりしなくて良くて、鍵付きの引き出しにスケッチブックをしまわなくても良い、自由……)

 それは、とてつもなく魅力的に思えた。しかし、先日のインターンシップによって、疲れて家に帰ってきた時の、食事が用意されている環境、風呂が沸いている環境、洗濯も掃除も、食器洗いもしなくて良い環境の、その有り難さも、身にしみて理解している。

「掃除とか、洗濯とか、そういうの、面倒じゃないの?」

 侑人は尋ねた。アリサは笑った。

「そういうのも含めて自由だよー、洗濯物溜めても、食器洗い少しサボってもさぁ、後で自分がやればいいだけで、やりなさい! って言われることは、絶対にないもん」

 侑人とアリサは近所のスーパーにたどり着いた。藤堂家は、今夜は豚の冷しゃぶらしい。

 葉物の野菜と豚肉、それに調子に乗ったアリサが半分に切れているスイカを買った。

「侑ちゃんに持って貰えばいいから買う」

 なんてことを、堂々と言ってのけた。侑人は昔から、アリサの根っこにある気の強さみたいなものに、逆らえない。普段の生活で、重いものを持ったりすることはあまりない侑人である。しかし、絵を描くにあたり、腕と手についてはそれなりに鍛えられているのだった。

(誰かが、芸術家は、アスリートだって、言ってたな……)

 テレビで見たのか、本で読んだのか忘れたが、その言葉を聞いたとき、なるほどと納得したのを覚えている。

 スーパーからの帰り道、アリサは侑人に問うた。

「侑ちゃんは、大学卒業したらサラリーマンになりたいの?」

 侑人は「サラリーマン」という言葉の他人行儀さに笑いそうになった。

「ならないし、なれないと実感した」

「インターンシップで?」

「そう。五日間で死にそうになったのに、それを定年までとか、生き残れる気がしない」

 侑人は正直に言った。その言葉は、なんだか淡く夏の空気に滲んでいった。

「アリサは? 卒業したあと、どうするの」

 侑人が問い返すと、アリサは「聞いてない?」と言った。

「私、学校の先生になるよ。教員免許取得、頑張ってるとこ。教員採用試験もあるし、踏ん張らないと!」

 サラリと言われた明確な将来像。侑人は額の汗を拭うフリをして、苦い顔を隠した。

 絵を描くことしか、してこなかった自分。それが許されてしまっていた環境。何も出来ない自分。自分の世界の狭さ。自分自身の子供っぽさ。

(周りにいる奴ら、全員、すごい大人に見える……)

 侑人は、か弱い声で「がんばれ」と言った。アリサは「声、ちっさ!」と笑った。蝉の鳴く声が、大きすぎるせいだと侑人は思う。

 もうすぐで自宅に到着するという段階になって、思い出したようにアリサが言った。

「そういえば、昌ちゃんもスペインから帰ってきてるんだよね?」

「あー、もう、だいぶ前に……今はなんか、仕事の絵を描くのに集中したいとかで、アトリエ籠もりっぱなしだけど……」

 昌秀は、小さい頃、侑人とアリサを相手に、よく遊んでくれていた。そういう意味でも、良い兄だよなぁと今でも思う。絵を描き始めると夢中だが、そうでない時の面倒見は悪くない。

「そっかぁ~、会いたかったなぁ。よろしく言っておいてね。でも、侑ちゃんママも、ウチのお母さんも心配してたから、とりあえず、帰ってこられたなら、良かったね」

 アリサは太めの眉を緩いハの字にして、笑った。

「……いや、心配って大袈裟。兄貴、スペインなら今までに何度も行ってるし」

 侑人は買い物袋をアリサに手渡して言った。アリサは「重っ!」と文句を言ったが、それは自業自得なので、侑人はノーコメントだ。

「だって今回は傷心で帰ってこられなかったんでしょう? 予定よりも随分、滞在延ばしたって聞いたけど……」

侑ちゃんママ、結構心配してたよ

 アリサが言った。荷物は地面に置いてしまっている。

「……なにそれ、知らない」

 侑人が言うと、アリサは素直に「しまった」という顔をした。

「……あれ、侑ちゃん、聞いてないの?」

「なにが?」

 侑人は、無意識に声色が濁った。アリサは、言っても良いのだろうか、と迷うような顔をしたけれど。侑人が視線で急かすと、もう仕方がないと腹をくくったようだ。

「昌ちゃん、の、ほら、絵があるじゃない、大学に寄贈した」

 アリサは言った。侑人の大学の、大講堂の絵のことだ。

「あの絵、大講堂と一緒に壊すことに、なっちゃって、昌ちゃん、随分落ち込んだみたいで……取り壊しって三月? 四月だった? なんか、とにかくその時期に日本にいたくないからって、スペインの滞在、予定よりも随分長く伸ばしたらしいよ」

 アリサが言った。初耳だった。侑人は思い切り眉をしかめた。

「兄貴、壊されるのは、仕方ないことだって、言ってたけど」

 侑人が「自分の描いた絵が壊されるのはどういう気持ちか?」と尋ねた時。兄は「僕はお前が思っているほど繊細な人間じゃない」と前置きした上で、「自然災害だったから仕方ない」と言った。作品の運命だったという悟りがある、とも言っていた。

(……身を切られるくらい、切ない、とも、言ってたけど……でも、それだけだった……)

 壊される時期に、日本にいたくないと、そう思うほどに。やはり、自分の絵が壊されるというのは、兄にとっては苦しいことだったのだろうか。

「まぁ、でも、本心みたいなところは、昌ちゃんにしか、わからないものだし……弟には、見栄張っていたいみたいな? そういう兄心もあるんじゃないの?」

 アリサは言った。侑人は曖昧に笑って「そういうもんかな」と言った。


 *

 アリサと別れて、家の中に入る。外が発光しているのではないかと思うほどの明るさだったせいで、家の中は薄暗く見えた。

 いつも通りに、母が「おかえり」と出迎えに来て、汗だくの侑人を見て笑った。

「シャワー浴びちゃったら?」

「アリサに会って、荷物持ちさせられた」

 侑人が言うと、母は楽しげに笑った。

「アリサちゃん、随分大人っぽくなってたでしょう? 母さんも昨日会った。学校の先生になるんだってねぇ」

良い先生になりそうだよね、明るくて、元気だし

 母は嬉しそうな顔で言った。西家は男ばかりの家だ。アリサのような「娘」という存在は、母にとっては羨ましいのかもしれない。

 侑人はシャワーを浴びて、サッパリしてから自室へ戻った。ベッドに倒れ込んで、深く息を吐く。アリサとの会話を、なんとなく思い出しながら。

 兄は、やっぱり自分の絵が壊されるのが、嫌だったんだなぁ、という実感と。アリサが教師になるという目標に向かって、明確な意志を持って頑張っていること。

 それに加えて「自由」という言葉が、やけに心の中に残っていた。

(自由……後ろめたくない、気持ち……)

 侑人にとって、それは幻のような響きを持っていた。しかし、ふと思いつく。

(俺は、誰にも絵を見せないし、見て欲しいとも、思わない……)

 スケッチブックは鍵付きの引き出しの中。描いた油絵も、描き上がったら乾かして、厳重に布を巻いて、押入の奥にしまっている。

 誰にも見られていない、という意味においては、アリサの言うところの「一人暮らしの自由」と通じるところがあるのではないか?

「……そうだ、俺も、別に……誰にも、見られていないんだから……」

もっと自由に、絵を、描いても、良いのではないか……?

 あまりにも当然のような考えだったが、それは天啓のように侑人の頭をズガーンと刺した。侑人はベッドから起きあがると、押入から、今までに自分が描いた絵を引っ張り出した。

 中学校のころからの絵が大量に詰め込まれている押入は、キャンバスだけでいっぱいになっていた。

 今まで描いた絵、スケッチブック。どれを見ても、真面目で、大人しく、当たり障りのない絵で溢れている。

(今まではずっと、筆のタッチとか、構図とか……色合いのバランスとか、画法とか……そういうことばっかり気にしてた……)

 描いてきたのは、抽象画や風景画、時折、有名な画家の絵の模写。そればかりだった。

(誰にも、見せない、なら……)

 侑人は、ここ最近、ずっと考えていることがあった。インターンシップ後に寝込みながら、熱に浮かされて考えていた。

 最近使っているスケッチブックを開いてみる。そこには、踊るようなタッチや、滑らかな質感で、女性の手が何枚も描かれている。彩輝の手、だ。

 侑人は、このスケッチをしている時、ずっと心臓がバクバクしていた。イケナイ事をしているような、そういう気持ちがずっと心の中にあった。

(でも、どうせ、誰にも、見せないんだ、俺は、誰にも見せない……)

 誰にも、見せないのなら。

(もっと……過激な……)

 侑人の口内に、意味もなく唾液が溢れた。飲み込むと、マンガのようにゴクリと音が鳴って、首の後ろ側が熱い。

 侑人は、今まで自分の描いた絵を、改めて見渡した。良い子ちゃんの描いた、なんとも上品で、お行儀の良いばかりの絵が、並んでいるように見えた。

 中には、柏木の横顔を描いてみたものもあった。それを見ると、猛烈に申し訳ない気持ちが押し寄せたけれど、唇を噛んで、どうにかやり過ごす。

(柏木、ごめん……)

 心の中でそう思った。侑人は、散らかした過去の絵をしっかりと押入にしまうと、スケッチブックを手に机に向かった。

 妙な興奮がせり上がってくる。目を閉じて、まろやかに円を描くように動く彩輝を思い浮かべる。

 インターンシップの時に着ていたサマースーツ。薄手の、白いシャツ。その内側を、想像する。

 一瞬だけ、スケッチブックの上で、鉛筆が戸惑うように迷った。しかし、一瞬だけだった。侑人の中には、ずっとイメージがあった。

 あの、スーツの内側の、何も纏わない状態の、彩輝のイメージ。

(裸婦、なんて……はじめて、描く……)

 罪悪感や、自分自身に対する軽蔑の気持ちや、低俗という言葉の響きが、脳内で反響している。それらの音は、なんとも甘美な痺れだった。

(誰にも見せない……誰にも見せないんだから……誰からも、批判されない、怒られない、嫌がられない、侮蔑されない……変なヤツだと、思われない……!)

 侑人は夢中になって、手を動かした。

 日が暮れて、母が「夕飯の時間よ」と声をかけに来た時には、ピャッと椅子の上で飛び上がりそうになった。

 夕食をとりながらも、侑人は裸婦を描くことの難しさと、上手く描けない部分への対策を考えるのに一生懸命だった。一言も発さずに食事をする息子に、母も、いつの間にか帰ってきていた父も、なにも言わなかった。

 侑人は、その日、夜も寝ずに描き続けた。翌日は、昼間に気絶するように眠った。そして、パッと目が覚めると、再び机に向かった。

 久しぶりに、熱中した。

(……楽しい、楽しすぎる……)

 侑人はひとり、顔を綻ばせながら、裸婦を描き続けた。


 *

(人に見せない方が、よっぽど変態性が高いのではないだろうか……?)

 という、正気を取り戻したのは、裸婦を描き始めて一週間が経った頃だった。そういった正気を取り戻す前の段階で、侑人は人生で初めて、エロ本と呼ばれる類のものを購入した。

 やはり、どうしても実際に見てみないと、女性の裸というのは上手く描けなかった。

 最初はスマートフォンで調べたりして、画像を見ていたのだが、やはり紙での参考資料が欲しかった。

 絵画コーナーに売っているデッサンモデル集などを購入しても良かったのだが、侑人が描きたいのは、そういうモデルとしての裸婦ではなかった。もっと、生々しく、もっと、リアリティのある、もっと、生きている感じの裸婦が描きたい。

 猛然とした気持ちのまま、ふしだらな格好をしている女性の裸を見つめ、そしてそれをスケッチした。彩輝の顔を、思い浮かべながら、必死に描いた。

 そうして一週間も経って、ようやくジワジワと正気に戻ってきた侑人なのだった。

(今まで、エロ動画とか……そういう、なんか、そういうものも、ちょっとイヤだったというか、変態っぽくて、見るのはダメな気がしてて……)

 中学、高校の時も、男友達は異性への興味で溢れていたように思う。しかし、侑人は絵を描くこと以外に対して、さほど興味を抱けずにいた。

 家の中で暮らしていても、父親はもちろん、兄の側からも、性的な香りがしてこなかったせいもある。興味が全くないわけではない。侑人だって、友達に彼女が出来る度に、羨ましいなと思ったりはした。

(今更の、思春期……)

 侑人は自分で自分を、客観的に、切なく見つめる。将来についてだけではなく、そういった性的な事柄についても、自分はあまりにも未熟だと気付かされた。恥ずかしいと思った。

(今まで「童貞」とか「彼女いたことない」とか、そういうことを、ちっとも恥ずかしいとは、思わなかったのに……)

 女っ気がなくても、キスしたことがなくても、セックスしたことがなくても、侑人には、絵があった。それだけで、良かったのだ。

(……兄貴は、どうなんだろう……)

 そっち方面の話も、兄とはちっともしたことがない。兄に彼女や、いい感じの女性がいるという話も、一度も聞いたことがない。

(スペインの……滞在延長のことも、知らなかった……)

 兄弟なのに、知らないことが、結構あるのだなと侑人は思う。九歳も違うのだ、それは仕方のないことなのかもしれないけれど。ほんの小さな寂しさみたいなものが、侑人の心をツンツンと刺した。

 自分の知らない世界が、この世の中にはたくさん、たくさん、想像もつかないほどに、あるということが。大学生にもなって、やけに苦しい。


 *

 大学生の夏休みは長い。九月の入ったころ、依頼された絵を描き終えたという兄が、再び実家に戻ってきた。

「ちょっと、頑張って描きすぎたから、しばらく実家で体を休ませたい……」

 なんて、ヘロヘロした顔で言った兄だ。侑人は、そういう兄の図々しさみたいなものに、モヤモヤしたけれど。母は生き生きと、それは嬉しそうに、兄の世話を焼いた。

「兄貴、今回はいつまでいるつもり?」

 夕飯の後、兄よりも先に侑人は風呂に入った。風呂場が空いたことを伝えるついでに尋ねた言葉だったが、思いの外、冷たい声になった。

「そんな邪魔者みたいに……さみしいなぁ」

 昌秀は苦く笑ったけれど、特別傷付いた様子もなかった。

「いや、そういう意味じゃなくて、長くいるならこの部屋、もうちょっとどうにかしたら? って思っただけ」

 侑人は苦しい言い訳をした。兄の部屋は、再び、ベッドの上まで画材が占領している状態に逆戻りしていた。夜は、部屋の隅の方で縮こまりながら、寝袋で寝ているらしい。

「体、休ませるために帰ってきたなら、もうちょっとどうにかしたら?」

 侑人が重ねて言うと、兄は弟を伺うような目をして、

「侑人、夜だけお兄ちゃんのこと、」

「ヤだ」

「まだ最後まで言ってないよー」

 兄が笑った。

「ヤだよ、自分の部屋で寝て」

 侑人はムスッとした顔をする。

「風呂、あいたからね」と、本題である用件を伝えて、兄の部屋を出た。

「父さんと母さん、もう入ったって?」

 廊下に出た侑人の背に、兄の声が届く。

「お兄ちゃん先に入りなさいって」

 侑人は、母親の言葉をそのまま伝えた。兄は子供の声で「はぁーい」と気の抜けた返事をしている。肩の力の抜けた、侑人にとって最も兄らしい声だ。

(絵を、描いてる時は……)

 兄はもっと、違う人物に見える。纏う空気も、しゃべり方も、声も、視線も、立ち居振る舞いも。全部がなんだか、遠い人のように見える。

(画家って、なんだろう……)

 プロの、画家、というのは、どういう人を指すのだろう。

(売れてなくても、プロは、プロ、なのか……自称の画家も、売れてたら、それはプロ、なのか……?)

 九月に入って、暑さはまだ健在だけれど、蝉の声は聞こえなくなってきた。日差しも、ゆるやかに、光の加減を変えてきている。ゆっくりと、光源を、絞るみたいに。明るさはそのままに、光の量だけが調節されていく。

 侑人の頭の中には、柏木の言葉がずっと引っかかっていた。

『この際、自分が絶対にやりたくないことを考えてみてはどうだ?』

 柏木は、電話でそう言った。やりたくないことは、本当にスラスラ出てきて自分でも驚いた。

(俺は……会社員には……なれそうに、ない……)

 この夏休み、それだけはハッキリとわかった。夏より前には、どこかの会社に就職して、趣味で絵を描き続けようかとも思ったりした。けれど、会社に行って働いて、疲弊して家に帰ってきて、そこから絵を描けるとは、とても思えなかった。

(絵を描く時は……集中して描きたい、邪魔されたくないし、疲れた状態で、何時間も描くのは難しい……っていうか、会社員しながら描いていたら、絶対毎日のように夜更かしすることになって、短時間睡眠で、また出社して、疲れて帰ってきて、無理矢理気力を出して夜更けまで絵を描いて、また短時間睡眠で出社して……)

 ゾッとした。単純で、社会を知らない状態の侑人の想像力では、簡単に「死ぬのでは?」という考えさえも浮かんできてしまう。

「残業とかあったら、キレそうだし……」

なんで帰れないんだ、もう定時は過ぎたのに!

なんでこんなに長い時間、拘束されないといけないんだ!

俺には、やりたいことがあるのに!

(……やりたいこと……)

俺は! 絵が! 描きたい! それなのに……!

 新入社員がそんなことを叫び散らしたら、まず間違いなくクビになるか、呼び出されて面談になって、社会人というのはこういうもので、みんな同じ条件だけど、それでも君のように文句を言ったりせず、我慢して頑張っているんだよ、それがお金を稼ぐということだよ、みたいなことを言われて宥められるかするんだろう。

「冗談じゃない」

 思わず、声に出た。侑人は自室でひとりきりで、その声を聞いた人は自分しかいなかった。

 自分でも驚くほどに、嘲るような声が出た。頭の中に自然と浮かんだ。


俺は、お前たち凡人とは、違う


 明確な、言葉として、浮かんだ。侑人は、自分の思考に、自分自身の考えに、慄いた。

「……どこから目線だよ、俺……」

 左の頬が、ヒクヒクと痙攣する。今、頭に浮かんだのは、間違いなく侑人本人の思考である。瞬間的に、思ってしまった。

「俺は、凡人とは違う。そんなに必死になって金を稼がなくても、俺は困らない。苦労しない。一生懸命になって生活をしなくても、俺には十分な余裕がある。だからこそ、自分が本当に好きなことをやるべきだと思うのだけど、何をしようか、どうしようか、迷っているところなんだ。兄貴は画家だし、俺も絵が好きだから、画家になってやっても良いんだけど、画家とか、今の時代流行らないし、売れないし、売れない画家とか、虚しくないか? 実際俺は、兄貴の絵は好きだけど、売れてない時点でなんか哀れだなぁと思うし、そういう人間に、俺はなりたくないんだよなぁ」

 血の気が、引く思いがした。自分の、心根の、醜さに。しかし、この考えが、具体的に浮かび上がった時、侑人はもう、気が付いていた。

(ずっと、この考えは、頭の中にあった……それを、どうにか表からは隠そうと……周りに、バレないように、自分自身さえも、気付かないように……)

「俺は、」

知らぬ間に、全てを、見下していたのだろうか?

 インターンシップに行っている間も、自分以外の学生に対して「どうしてそんなに必死になってるんだろう」と思っていた。そして、心のどこかで「金がない家に生まれたのかな、大変だな」と思っていたのかもしれない。

 必死になる人々のことが、他人事だった。自分は必死になれずに、ただ「大変だ、大変だ」と思っていた。

(俺……なにが、大変だったんだろう……)

 強烈な恥ずかしさのようなものと一緒に、侑人の胸の内に、自分という人間の本当の顔が浮かび上がってくる。今までだって、知っていた顔。けれど、見ないように見ないように、努力してきた顔。

 自分の素顔の醜さが、鮮烈だった。机の上に置かれたスケッチブックの山、その中に熱意を持って描き溜めた、裸婦の絵が、恥ずかしくて。女性の裸を描く時に感じた、あの、天にも舞えそうなほどの高揚感が気持ち悪くて。

 自分のことを、客観的に見つめてくる自分の目が、怖い。冷静な目は、侑人を指さして断言するのだ。

「お前は何もかもから、ただ見苦しく逃げているだけなのに、それなのに、自分以外の人間を、あまりにも自然と、見下しているんだ」

 なんて身勝手で、なんて傲慢で、なんて醜い。

「お前が周りから浮いているんじゃない。お前は、周りから、排除されたんだ」

だってそうだろう、お前みたいな人間、周囲に溶け込んで上手くやれるわけがない

お前は異物だ

お前こそが、異物だ

 耳の奥が、ツーと鳴っている気がした。侑人はベッドの上に縮こまる。どうして、唐突にこんなことを考え出したんだろう。

(兄貴が、帰ってきたから……)

 そう思った。思った途端に「また人のせいにするのか」という声も聞こえた。

(だって、仕方がないだろう……)

 兄がいると、どうしても、兄を見てしまう。兄の、生き方を、兄の、辿った足跡を。前を行く、人間の、痕跡を。


 そのとき、部屋の扉をトントンとノックする音が聞こえた。侑人はハッとなって、机の上に置いてあるスケッチブックを、急いで引き出しにしまって鍵をかける。

「入って良い?」

 兄の声がした。引き出しの鍵がきちんとかかっているのを確認してから「いいよ」と答えた。

「ごめん、やっぱり今日だけ、侑人の部屋で寝てもいい?」

 兄は既に布団を腕に抱えた状態で言った。兄の部屋は隣だけれど、こうまでされたら、断るのも面倒くさい。

「今日だけね」

 侑人は不機嫌に言った。兄は、風呂上がりの顔を柔らかく動かして、笑った。

「あ、そういえば、前に話した柏木……兄貴の友達の弟」

「ああ、大輝の弟? なんだっけ、悠輝くんだっけ」

「そう。そいつから連絡あって、大輝さん? 兄貴に会いたいって言ってるらしいよ」

 柏木から、その連絡を受けたのは随分と前のことだ。ようやく伝えられて、侑人はホッとした。

「あー、僕も会いたいなぁ~、元気にしてるのは、時折テレビ見て知ってるけどね」

 兄は布団を敷きながら嬉しそうに言う。友達は売れているミュージシャン、自分は売れない画家。悔しさや、妬みはないのだろうか。

「なんか大きいツアー? が終わったんだって。それで落ち着いたから、兄貴に会いたいって。連絡してみたら?」

 侑人が言うと、兄は苦笑して、

「侑人から連絡してくれない?」

 と言った。

「なんでだよ」

 侑人から連絡するとしたら、侑人から悠輝へ、悠輝から大輝へ、という面倒な構図になる。

「連絡先、知らなくてさぁ」

 兄は言った。

「友達なのに?」

「前は知ってたんだけどさぁ、僕が携帯変えちゃったから……連絡先、引き継がなかったんだよね」

 侑人には、理解が出来ない。

「不義理」

 侑人がスパッと言うと、兄は後ろ髪をいじりながら、居心地悪そうな顔をした。

「そういえば、侑人、インターンシップ行ったんだって?」

 兄は、どうにか話題を変えようと思ったのか、急に切り出してきた。何か言われるかな、とは思っていた。思っていたからこそ、今回の兄の帰省に、あんまり関わりたくなかったのだ。

「行ったよ」

「どうだった?」

 すぐさま切り替えされた。侑人は、無表情に「会社員にはなれそうにない」と言った。

「じゃぁ、どうするんだ……?」

 兄の声のトーンが、少し低くなった。

「また母さんに言われたの? それとなく聞いてくれって」

 侑人が嫌そうな顔をすると、兄は「そんなとこだよ」と笑う。

「兄貴も大変だな、弟の進路なんて、兄貴にはちっとも関係ないのに」

 ぶっきらぼうに言う侑人に、兄は「関係なくないよ」と言った。

「僕はお兄ちゃんだからね、弟のことを心配するのは当たり前」

「……そういうもん?」

「そういうもん」

 兄は言うと、さっさと布団に入ってしまった。侑人はまだそこまで眠くもなかったけれど、グルグルと頭を使うことにも疲れてしまった。自分も寝ようと思って、電気を消す。

 すると、兄がそっと、まるでもう真夜中であるかのように、静かに言った。

「名前のあるものだけが、職業じゃないからな」

「……なにそれ」

 侑人はベッドに座って、その声を聞く。

「お前は、細かく人間や、風景を観察する目を持ってる。それはお前にとっては普通のことかもしれないけどな、普通じゃないんだ、みんな、もっとお前より、見えてない」

 そこで、兄は深い呼吸を挟んだ。そして、続ける。

「人間が、見て、美しいと思えるバランスみたいなものの、真理を、お前は知ってる」

「……どうしたの、急に、」

 侑人は、全身がむず痒い。そして、息苦しい。

「どうもしないよ、そう思っただけ。おやすみ」

 兄はそれきり、口を開かなかった。侑人は、暗くなった自分の部屋のどこでもない所を見つめ、染み着いている油絵の具の匂いを感じて、しばらく呆けた。

(……こういう、お前は特別なんだ、みたいなことを、呪いの言葉みたいに、無責任に振りかけてくるの、いい加減、やめて欲しい……)

 侑人の目から、ふいに涙がこぼれた。泣こうなんて、ちっとも思っていないのに、ポロリと落ちた。

 傲慢で冷たい自分の心、そして、侑人のそういう心を、丹念に育てあげてしまったことに気付かない周囲。輝く、呪いの言葉たち。

(俺を、特別、だと思いこませたのは、俺じゃない、周りの人間だ……)

「酷いなぁ……」

 侑人は呟いた。兄の耳には、届いただろうか。

 そっと涙を拭って、侑人はベッドの中に隠れるようにして埋まった。


 *

『夏だな、侑人くん。プールと洒落(しゃれ)込まないかね?』

 翌日の朝、侑人は柏木に連絡をした。ウチの兄もそちらの兄に会いたがっている、ということを伝えるメールだ。

 ついでに、兄の新しい連絡先も送っておいた。これであとは、兄同士が直接連絡を取り合うだろう。ようやくお役御免になると思ってスッキリした気分でいると、柏木から電話がかかってきた。

「プール……」

『そうとも! 九月だ! ようやっと、プールも空いてくるというものだろう?』

 柏木の陽気な声が、スマートフォン越しに鮮明に聞こえてくる。

『どうせ家で絵を描いては、未来に絶望して、絵を描いては、絶望してを繰り返しているところだろう? たまには体を動かした方が良い、若者よ!』

 あまりにも図星を指されて、侑人は笑った。

「わかった、行く。どこに何時?」

 侑人は、プールに遊びに行くのは久しぶりだった。高校の時、夏休みに友達と行った以来だ。

 母親に水着やバスタオルを出してもらい、交通費と昼飯代として、少なくない小遣いを貰って家を出た。

(こういう、なにもかも、やってもらえるのも、異様なんだろうか……異様、なんだろうな……)

 侑人の財布には、いつも一番大きい額の札が最低三枚は入っている。それは侑人の意志ではなく、母親が「何かあったら困るから、必ずこのくらいは持っていなさい」と言いつけているものである。

 何かあったらの「何か」とは、なんだろうかと侑人は思うし、母親の想定する「何か」というのは、三万円あれば解決出来るものなのだろうか。疑問に感じる部分は山ほどある。

 侑人は決して無駄遣いをするタイプではないし、画材以外には欲しいものなどあまりない。けれど、友達と遊びに行く際など、あまりにも金を出し惜しまないので、怪しい目で見られた経験も数度ある。

 財布の中身を全額取られたこともある。

 侑人は、財布の中身を取られても、ちっともショックを受けなかった自分がショックだったのを覚えている。仲の良い友達が、侑人よりもずっと勢いこんで犯人に対して怒ってくれていたことも、嬉しかったと同時に、申し訳ない気持ちにもなった。


「おーい、侑人!」

 プールのある最寄り駅の改札で、柏木が大きく手を振っていた。侑人はすぐにそちらに駆け寄って「待たせた?」と尋ねた。

 柏木は笑った。

「待つくらいなんだね、来るとわかっている人間を待つことほど、簡単なことはないさ」

 と言った。柏木節は相変わらずで、笑顔も、歌うような声も相変わらずで、侑人は嬉しかった。

「久しぶりだな」

 侑人が言うと、柏木は「寂しかったかね? すまんなぁ、俺は多忙で、大学がある時よりも、休みの時の方がよっぽど忙しい!」と言った。

 プールまでは歩いて十五分というところだ。シャトルバスも出ていたが、歩くことにした。

「暑い思いをした方が、プールに入った時、気持ちよさが増す気がする」

 という柏木案を採用する形となったのだ。蝉は鳴かずとも、気温と湿度は、相変わらず地獄のように高い。

「日本の夏は、どんどん人を殺しにかかっている気がするなぁ」

 柏木が笑顔で言った。

「夏バテとか、縁遠そうだなぁ、お前は」

 侑人が言うと、柏木は「俺は年中元気だよ」と言う。

「俺はインターンシップ終わった後、マジで寝込んだ」

 元気な柏木の歩く姿を見つめて、侑人は言った。柏木は、黒のタンクトップに膝下くらいの丈のズボンを履いている。服から出ている肌は、夏休み前よりも黒くなっている気がした。

「そういえば、姉の手は描けたのかね?」

 先を歩いていた柏木が振り返り、スッと目を細めた。侑人はギクッとして、体を固めた。

 柏木の顔は、黒目が大きい分、目を細めると何か企みがあるように見える。

「なんの話か、なんてとぼけるなよ? 姉の手を、随分と熱心に観察したそうじゃないか」

 柏木はクックックと笑って言う。侑人は全身が沸騰しそうに熱くなりながら、口元をモゴモゴさせた。

「お姉さん、から、聞いたのか……?」

 侑人が問うと、柏木は頷いて言った。

「ウチの姉をそういう対象として見ているようなら、忠告するよ。アレはやめた方がいい」

 侑人は、首を傾げた。

「そういう対象って、どういう対象だよ、絵に描くなら、別に手くらいなら、普通に描ける」

 柏木は、侑人の言葉を受け止めながら、鼻歌交じりに言った。

「恋愛初心者には、ウチの姉はレベルが高すぎるという話だよ~」

 侑人は再び、体が熱に支配された。

「れ、恋愛、って、なんでそういう話に……」

「あれ、好きなんじゃないのか、ウチの姉のことが」

 柏木は、歩みをゆるめて、侑人の真横に並んで歩いた。

「……どうして、そういう方向に……」

「いやぁ、熱心に女の手を見つめるっていうのは、なかなかロマンティックで時代錯誤で侑人らしいと思ったんだが、違ったか」

 柏木は、悪気なく、どこまでも広がる青空のように爽やかに言う。侑人の側はと言えば、彩輝の顔がチラチラと脳裏に浮かんで仕方がなかった。

 確かに、素敵だと思っている。彩輝に会いたいという気持ちで、インターンも乗り切った。絵にも描いた。手だけでは足りずに、そう、手だけではなく。

(……裸、の、妄想、までして……)

 白くて、まろやかで、柔らかい手。

 あの手に、触れた瞬間の、少しヒヤリと冷たかった感触を、鮮明に覚えている。

「別に、恋愛、とか、そういうんじゃないし……それに、彩輝さんは、あんなに素敵な人なんだから、もう、彼氏とか、そういうの、いるだろう、どうせ」

 侑人は言った。柏木はハッハッハと高らかに笑って「やっぱり気になってるんじゃないか!」と言った。そして、侑人の背中をポンポンと叩きながら、笑う。

「ウチの姉を気に入ってくれたのは嬉しいがね、アレはダメだ。ウチの姉はな、大が付くほどの男嫌いだからな」

それに加えて、あまりにも気が強いし、本人が男気の塊だしなぁ

「姉は、何があっても絶対結婚はしたくないという、そういう強い意志でもって、自分で自分が生きていくための金を稼いでいるそうだよ」

男と結婚して、男の稼ぎの世話になるくらいなら、首を吊って死ぬ! とまで、両親に豪語したこともあるくらいだ

「……強烈、だな……」

 侑人は、自分の中にある、穏やかで、まろやかな彩輝の像が崩れていく音を聞いていた。

「アレでも、昔は結婚が夢、みたいなことを言っていた気がするんだがなぁ、なにがあったかは知らんが。とにかく、今は結婚だとか、彼氏がどうのとか、そういう話題を振っただけで、烈火の如くキレられる。女の幸せが結婚だけだとか思ってるなら表へ出ろ! というような勢いだ」

だから、我が家では、姉の前ではそういう話題は厳禁なのだよ

 柏木は腕を組んで、ワザと難しい顔を作って言った。

「そんな風な人には、ちっとも見えなかったけどなぁ……怒ったり、あんまりしないような、そういう人に見えた……インターンシップの時も、きちんと全員の面倒を見てくれたし」

 最終日には、彩輝が全員に昼食の弁当を奢ってくれたりした。柏木は侑人の顔を見上げるようにして、渋く笑った。

「侑人、お前さんの目に、世界はどれだけ美しく見えているんだろうなぁ」

 侑人は、柏木の言葉の真意が、イマイチわからなかった。夏の風に乗って、賑やかな声が聞こえてくる。

 二人はプールの目の前に到着していた。


 九月ということもあり、プールはそこまで混雑を極めてはいなかった。

 侑人と柏木は、心ばかりの準備運動をしてからプール遊びに挑んだ。大型の施設には、様々な種類のプールがある。飲食店や休憩スペースもあって、一日中遊んでいられる。

 男二人でのプール遊び。そして、侑人も柏木も、基本的にマイペースである。

 柏木は大きな浮き輪を借りてきて、流れるプールでずっと浮かんでいたし、侑人は泳ぎ専用のレーンでひたすらクロールと平泳ぎを繰り返していた。

 泳ぐのに疲れると、流れるプールに柏木を回収しに行く。そして、二人でプールサイドでコーラを飲む。体力が少し復活したら、また泳ぎに行く。柏木は、再び流れに行く。

 それを繰り返していると、

「お兄さんたち、二人で来てるの?」

 たまたま、隣の席で休んでいた女の子に声を掛けられた。どうやら、向こうも女二人で来ているらしい。派手な色の水着、けれど露出はそこまで高くない。柔らかそうな胸の谷間が、ピンと水を弾いていた。

「その通り、男二人で夏を求めてやってきたってところだ」

 柏木が愛想良く答える。女の子たちは、柏木の話し方が面白いらしく、キャッキャと笑った。

「ねぇ、私たち、今からお昼なんだけど一緒にどう? ご飯だけ」

 黒髪をポニーテールにしている女の子が言った。もうひとりは、少し茶髪で、ショートカットだ。

 両者ともに、頬のあたりが自然の血色で薄くピンク色になっていて、健康的な肉体は、どこもかしこも、張りがある。

(うーん……アリサといい、この子たちといい、やっぱりなんか、こう、暴力的なくらいの生気というか……)

 生きる力に漲っている。それはとても素晴らしいことなのに、侑人には少々つまらなく感じられた。

(奥行きが、薄い……)

 イメージとしては、そういう感じだった。表面は派手なのに、中身が薄い。

「いいね、昼飯! どうだね侑人、行くかね?」

 柏木が侑人を振り返る。侑人は「いいよ」と答えた。いいよ、と言ったのに、柏木が驚いた顔をする。

「なに、その顔」

 侑人が言うと、柏木は「快諾されるとは思わなんだ!」と言って笑った。

 四人で連れだって、水着の上からタオルを羽織ってフードコートに行った。焼きそばやたこ焼き、うどん、ラーメン、カレーライス。これぞフードコート! と言わんばかりのラインナップである。

 相談して、アレコレと買い込んで、四人で小さな丸いテーブルを囲んだ。食事代は侑人と柏木が払った。

「なんかすみません、ご馳走になって」

 ポニーテールの彼女が言った。

「あれ、最初からそのつもりだったんじゃないのかね?」

 柏木が茶目っ気たっぷりに言った。その言葉が、全然嫌みに聞こえないのは、もはや才能だと侑人は思う。

「え、全然、そんなつもりないですよ」

 ショートヘアの彼女が首を振った。

「今時、男の人に奢って貰ってキャーキャー喜ぶなんて、あんまりないです」

 ポニーテールの彼女も、髪をヒョコヒョコ揺らして頷いた。彼女らは、プールの近くにある私立大学の一年生らしい。

「大学三年って、やっぱり就職のこととか、卒論のこととか、大変ですか? それとも、ちょっと楽になったりとか、します?」

 たこ焼きを食べながら、ショートヘアの彼女が尋ねた。柏木が「二年までに単位をちゃんと取っている人は、余裕だよ」と普通の答えを返した。

「……将来、やりたいこととか、あるの?」

 侑人は尋ねた。肩の力の抜けきっている、本当に夏を楽しんでいる風の彼女たちの内側に、どんなビジョンがあるのか知りたかった。

「私、特になんにも決まってないです」

 ポニーテールがうなだれる。

「私も。特に好きなことも、特別な趣味とかもないし、どうしよっかなぁ、っていう感じで……」

 ショートヘアも唇を尖らせながら、遠くを見ている。

「お兄さんたちは、もう進路とか決めてるんですか?」

 無垢な質問だった。当たり前だ、先ほど知り合ったばかりなのだから。

「俺は音楽が好きなんでね、音楽関係で就職が決まっている」

 柏木が、パッと答えた。そして、侑人の方を伺う視線で見つめる。その視線を、ウルサいなぁと思いながら、侑人は言った。

「俺は、絵を描くのが好きだから……まぁ、画家、って言ったら、笑われるかもしれないけど……」

 プールの天井はとても高い。人々の楽しむ声が反響して、クワンクワンと充満している。

 そんな中に、ポツンと落とされた「画家」という響きは、あまりにもお伽噺のようで、現実味がなかった。

 引かれたかな、呆れられたかな、見下されたかな、と思った。

「二人とも、すごいですねぇ……音楽と絵、なんて……なんかアカデミック? っていうの? あれ、違う?」

 ショートヘアの彼女が、感心したように言った。心から、裏表なく、賞賛している声だった。侑人は拍子抜けする。

「画家、とか言って、引かないの?」

 素直に尋ねてみると、ポニーテールの子が笑った。

「引かないですよ、全然! 夢があるって、すごいことだなぁって私は思いますよ」

「そうそう、目標とか、夢とか、熱中できるもの、そういうのがある人って、マジで恵まれてる」

 ショートヘアの彼女が、勢い込んで同意した。

「高校のころもそうでしたけど、進路決めるとき。大学進学っていうのは決めてたんですけど、じゃぁどこの大学? どこの学部? ってなるじゃないですか……私、それもちっとも決められなくて……先生とか親から、死ぬほど言われるんですよ、夢はないのか、やりたいことはないのか、ちょっとでも興味のあることはないのかって」

ないから困ってるの! っていうの、なかなか理解してもらえなくて

「ほんの少しくらい、興味あること、あるでしょう!? とか、無茶なこと言われたりもするよね、ほんと、困る。この世の中で、いったい何に興味を持てばいいのか、ちっともわかんない。そりゃ、服とか可愛い小物とか、化粧品とかは好きだけどさ。他にも、流行ってる食べ物とか、友達と遊ぶのも好き。でも、ソレと進路とは、全然違うじゃんね」

「私もそうだよ、映画とか観劇とか好きだけどさぁ、映画監督になりたいわけでも、女優になりたいわけでもないし、アイドルとかイケメン俳優とかも好きだけどさ、別にその人のマネージャーになりたいわけでもないし、お近づきになりたいわけでもないし、好きっていうのと自分の将来と、そんなに結びつくもんでもなくない!? っていつも思うよ」

 彼女たちは、今までの淑やかさなど忘れたかのように、ペラペラとよく喋った。

 侑人は、女兄弟がいないので、少々圧倒されたけれど、彼女たちの生き生きとした姿は、健全で、勢いがあって、純粋で。先ほどは奥行きがないと思ったものだが、なんだか癒されるような気持ちになった。

(俺も、ああいう風に、言いたいこととか、思ってること、バーっと口から出せたら良いのに……)

 侑人は、彼女たちのよく回る口と脳味噌が羨ましい。柏木も、なんだか楽しげな顔で彼女たちと、そして侑人を見ていた。

「なんだよ」

 小声で言うと、柏木は「いやぁ、ね」とニヤニヤした。

「お前の口から、ようやく、画家になるという具体的な音が聞こえて、その音色に酔っているだけだよ」

「いちいち言い方がなぁ、お前は」

 侑人は苦情を言ったけれど、柏木はご機嫌だった。彼女たちとは、本当の本当に健全に。連絡先さえ交換しないで、フードコート前で別れた。

 プールの帰り道、柏木が思い出したかのように言った。

「そういえば、侑人兄の連絡先をありがとう。さっそく我が兄に送っておいたよ」

「ああ、こっちこそ、なんか悪かったな。ウチの兄貴の怠慢で連絡先、伝えてなかったみたいで」

 侑人は「怠慢」の言葉を強調して言った。兄の昌秀は、絵を描くこと以外については、本当に怠慢の一言に尽きると思っている。ひとりでは、何も出来ないのではないか、とさえ思う。一人暮らしをしているとはいえ、家事については週に三度、お手伝いさんのような人が来てくれるようだし、母も父も暇を見つけては兄に連絡をしたり、一人暮らしの家を訪ねたりしている。

「兄二人は、再会するのかねぇ」

 柏木が言った。侑人は苦笑する。

「どうだろうなぁ、面倒臭がりだからなぁ、ウチの兄貴は」

「ウチもだよ、面倒臭がりの上に、大ざっぱだ」

 柏木がクックッと笑う。

「何かひとつのことに秀でていると、他が許されてしまうのだから不思議なものだよなぁ」

 柏木は言った。

「許されるのか、それ。許されなくないか?」

 侑人は眉間に皺を寄せる。

「なんだね、侑人は許せないのか、兄の怠慢が」

「柏木は許せるんだな」

「許せるなぁ、才能がある人間というのは、それはそれだけで大変なことだからなぁ。才能の外側にある事柄については、上手に他人を頼れば良いんじゃないかと思うけどね」

「ロックだなぁ~」

 侑人は柏木の口癖を借りて言った。柏木は「そうだろう」と言ったけれど、いつものように目を細めて笑ったりはしなかった。少しだけ、苦い顔をしたようにも見えた。

 侑人は、友達がそういう顔をした時に、なんと声を掛けたら良いのかわからない。二人は黙って駅までを歩いて、そして改札で別れた。

 帰りの電車に揺られながら、侑人は柏木のことを想像する。兄が有名なミュージシャン、自分は音楽が好きだけれど、バンドは組まない、ライブもしない。

(そういうのは、どういう気持ちなんだろうか……)

 音楽関係の仕事に就職を決めているとはいえ、それは本当に、柏木の進みたい道なのだろうか。

(いつも、悟ったような口振りをするけどなぁ……)

 侑人は柏木から、悩み相談などを受けたことがない。愚痴も聞かない。柏木は、いつでも、ただ淡々と、笑っている。陽気で、軽やかで、楽しげに。

 侑人には、どうしたらああいう生き方が出来るのかが、わからない。ひたすらに、羨ましいばかりだった。


 *

 プールから帰宅すると、祖母が来ていた。リビングで、母と祖母、そして兄がお茶を飲んでいる。

 その風景は、妙な温かみがあって、平和な色をしていて、それが却って不自然に見えた。

「ばあちゃん、いらっしゃい」

 侑人が言うと、祖母は赤い口紅をにっこりさせて、

「おかえりなさい」

 と穏やかに言った。母が立ち上がって、侑人の荷物を引き取る。

「水着、洗っちゃうわね。楽しかった?」

 自分で洗うよ、と言いたかったけれど、母の持つ特有の圧みたいなものに、言葉が出なかった。

「楽しかったよ」

 それだけ答えて、侑人は祖母の隣に座った。母は「良かったねぇ」と言って、洗濯をしにリビングを出ていった。

「さぁ、侑ちゃんにもお茶をいれてあげようね」

 今度は祖母が立ち上がる。侑人は情けない声で「あ」と声を出した。

「なに?」

 祖母に問われて、ようやく「自分でやるから、座ってて」と言えた。祖母は笑った。

「年寄り扱いしないでよ、美味しいのをいれてあげるからね」

 またしても負けてしまって、侑人は浮かせた腰をおろして、ただ座り込んだ。

「侑人は偉いなぁ、手伝いしようと頑張ってる」

 兄が言った。その言葉にカチンときて「兄貴がやらなすぎるだけだよ」と強い口調で言った。

「喧嘩しないのよ、お兄ちゃんは画家なんだから、手を怪我したら大変でしょう」

 キッチンから祖母が言う。

「それだったら、ばあちゃんだって画家じゃないか」

 侑人が言うと、祖母は「あらやだ」と笑った。

「もうほとんど引退してるも同然。あとは馴染みの人に頼まれて描いたりね、若い子を少しでも育てるのが私の役割」

私は有望な孫が二人もいて、幸せね

 祖母は、湯を沸かしながら、その蒸気の向こうでユラユラと、たゆたいながら言った。大きな希望や、ずっと先にある光、そういうものを見つめるような瞳が、湯気の向こうから、侑人を見ている。ついでに、兄のことも、包むような優しさで、見つめている。

「ばあちゃん、俺、」

 侑人は、言った。

「もしかしたら……やっぱり、画家に、なりたい、かも……」

色々悩んだし、心配もかけたと思うけど、インターンシップとかしてみても、どうしても会社に勤めるっていうのは難しそうで、それに、絵を描くこと以上に、夢中になれることなんて、俺には見つけられそうになくて……

 プールで話した二人の女の子の姿が脳裏に薄く浮かんでいた。好きなこと、やりたいことのない、不自由。そういう苦しみを持つ人も、世の中にはいるのだ。

 祖母は笑った。

「何よ、改めて。おばあちゃんもおじいちゃんも、あなたのお母さんもお父さんも、最初からそうなるだろうって思っていたし、なんの心配もしていないわよ」

 その言葉に、侑人は目を丸くした。そのままの瞳で、向かいに座る兄を見る。兄は、少しばつの悪そうな顔をして、侑人と目を合わせなかった。

 侑人の頬が、ヒクリと痙攣した。言いようもない不満が、兄に対して渦を巻いていた。

「でも、ばあちゃん、俺の絵、見たことないじゃん、小学校の時のしか」

 侑人は言った。

「俺、めちゃくちゃ絵、下手かもしれないよ?」

 祖母は日本茶を侑人の前にそっと置いて、慈しむ目で言った。

「上手か下手か、なんて、誰が決めるのさ」

 侑人は黙る。祖母は続けた。

「上手下手なんて、見る人によって違うのが当たり前。それよりも大事なのは、絵を描くことが好きかどうか」

侑人は、小さいころからずっと、本当に、放って置いたらずっと、ずっと、絵を描いてたね、時間を忘れて、自分が今いる場所さえも、忘れたみたいに、ずっと

「絵を描くのが好きな人も、たくさんいる。けれどね、永遠と描き続けられる人っていうのは、なかなかいない。気が付くと描いている、みたいな人は、本当に、なかなかいないのよ」

それだけでもう、才能で、それだけでもう、画家になる素質はあるということなのよ

「たぶん、だけどね」

 祖母は、最後に悪戯っぽく笑った。侑人は、日本茶の入った湯飲みを見つめる。深緑の色が美しかった。

「それにねぇ、一時期、自分の描いた絵をちっとも他人に見せなかった画家なんて、結構いっぱいいるのよ。珍しいことじゃない。画家だって人間だもの。自信がなくなったり、今は見て欲しくないって思う時期があったりもするわよ」

そういうのも全部含めて、画家というイキモノですよ

「ねぇ、昌秀」

 祖母は、兄に同意を求めた。兄は曖昧に笑って「そうだねぇ」と言った。

「侑人が見せたいなと思う絵が描けたら、私は見たい。生きているうちに」

 祖母は言った。これもまた、少し呪いのような空気を持った言葉だった。侑人は黙ったまま、数度頷いて答えた。


「風呂、空いた」

 その日の夜、侑人は兄の部屋の前で言った。兄の部屋は、扉が開け放たれていて、中からは絵の具の匂いがした。

「なに描いてるの」

 侑人が尋ねると、兄は「ひみつ」と言った。言いながら、キャンバスは侑人の側を向いているので、丸見えである。兄にしては珍しく、深い色を使った、混沌とした作品のように見えた。

「進路、別に母さんたち、気にしてなかったじゃんか」

 侑人は、文句を言う口調で兄に言葉を投げた。以前、兄から進路について聞かれた時、侑人は兄に「母さんから何か言われたのか?」と尋ねた。兄は「そんなところだ」と答えたはずだ。その後には、祖母も気にしていたよ、と言っていたこともある。

 けれど実際は、母どころか、父も、祖母も祖父も、誰ひとりとして、侑人の進路について、心配などしていなかった。みんながみんな、侑人は画家になるものだと思っていたのだ。そう思いこまれていたのも、どうかと思ったけれど。

 侑人の心は少しばかり軽くなった。現金だが、背中を押されたような気もした。信頼の出来る人たちに、背中を押してもらえて、ようやく決心がついたような気になった。

 本当に、いつも俺は、こうやって誰かに決めてもらわないと、自分で進めないんだなぁ、とガッカリもするけれど。育ち方がそうだったのだから、今更仕方がない。

 侑人は、小さい頃から決定権など与えられていなかったように思う。侑ちゃんはどうする? と尋ねられたことも、何度もあったが、その質問には明確な「母や父が納得する優等生の答え」が透けて見えていた。

「お前の進路、気にしてたのは、僕だからなぁ」

 兄が薄く溶けるような声で言った。絵筆を動かしながら、侑人には、背中を向けながら。

 その背中からは、拒絶の香りが漂っていた。

 扉を開けはなっているのにも関わらず、兄の部屋全体が、嫌な空気に満ちている気がした。

「なんで兄貴に気にされなきゃいけないわけ」

 侑人は言った。この空気の中に、こういう熱を持った言葉を入れるのは得策じゃないと、わかっていて、それでも言った。侑人の言葉が、緩やかな炎となって、兄の部屋の、熱量を上げる。

 兄が、ゆっくりと、振り返った。そして、部屋の前に立つ侑人の目を、しっかりと見据えた。

 普段は優しく、穏やかな兄だ。少なくとも、そういう顔しか、侑人は知らない。

 けれど今の兄の顔は、完全に怒気をはらんでいた。獣を狩る、もっと悪い言い方をすれば、誰かを、殺す、そういう決意をしたような、強い目をしていた。

 侑人は、体全体が強ばるのを感じる。半歩、後ろに下がった。

「侑人、画家に、なるんだね」

 兄は、だめ押しのように、最後の確認のように言った。

「……そ、れしか、ないように、今は思ってるけど……」

 侑人はしどろもどろに答えた。未だに「画家になる」という、その道だけしか自分にはないのだろうか? と疑問に思っているところもある。画家という道じゃなくても、他にも、絵が描けることを生かせる仕事がある気もしていたし、名前のある職業ばかりが、仕事ではない、仕事ばかりが、進路でもない。

 兄は、強い視線をそのままに、立ち上がった。そっと絵筆をキャンバスの端に置く。筆を置くカタッという音がやけに大きく響いた。

「侑人、お前の進路のことは、誰も心配していなかった。それは、それだけ、家族みんな……みんながお前には絵しかないと思っていたからだ」

そのことを、お前は気付いていたんじゃないのか?

自分には、絵を描くしか道はないと、気が付いていたのではないのか?

得意なこと、出来ること、好きなこと、どれを取って考えても、絵しかないのは明白だろう?

「なのに、お前は悩んだ。進路について、決められないと悩んで、大学の進路希望調査さえ、ギリギリまで出さずにいた。なんでだ?」

 兄は言った。侑人は、尋ねられている意味がわからない。

「……みんなが、どう、思ってるかは、知らないけど……俺は、自分が画家になるっていうイメージが、しっくりこなくて……」

「僕が売れていない画家だからか?」

 兄の口が滑らかに動いた。重く、痛い言葉が、あまりにもすんなりと出てきて。侑人の心臓がドクドクと脈打つ。兄が、一歩、侑人の方へと近付いて言った。

「自分が画家になって、それで、あっさりと僕より売れるようになったら、兄に悪いなぁとか、そういうことを考えていたんじゃないのか、お前は」

 侑人は、瞬きを忘れた。兄の言葉が、自分の耳に、脳に届く前に、バラバラと形を崩して四方八方に散っていくように思えた。

 沈黙が流れる。

 侑人は、散らばった言葉を集めて、その意味を改めて理解する。

「……なに、言ってんの……?」

 乾いた喉から、困惑の声が出た。

「お前は、僕に遠慮して、画家になるのを躊躇(ためら)ったんじゃないのかって言ってるんだ。僕のことを……心のどこかでは、見下して……」

兄貴は売れない画家で可哀想って、そう思ってたんじゃないのか?

 絶句した。

 侑人は兄のことを、一度だってそういう風に考えたことはない。兄に悪いから画家になるのはやめようと考えたことは一度だって、ない。普段温厚で、穏やかで、柔らかな兄が、今、自分に対して明らかな敵意をもって、牙を剥いている。そのことが、理解できなかった。指先が痺れている。

 足も冷たくて、さっきまで風呂に入っていたとは思えない。

「俺、兄貴の絵、好き、だし……そんなこと、思ったこと、一度もない」

 侑人は言った。兄は真顔のまま「本当にそうか? 本当に、一度も?」と重ねて言う。

 侑人の体の中で、兄に疑われていることに対する悲しみが、満ちて、満ちて、一周回って、だんだんと怒りになってきた。

「人生で一度もない」

侑人はキッと兄を睨んだ。

「ただ、今の兄貴みたいな、そういう、人を疑ったり、疑心暗鬼になったり……そういう人間になりたくないから……! 俺は、画家になるかどうかを悩んだんだ……」

 自分の描いた絵を、人に見せるかどうか、そういう部分についても。侑人は、誰かに評価をされることだけを恐れたわけではない。

 誰かに悪い評価をつけられるのではないか、この人は俺の絵を良いと言ってくれているけれど、本心ではそう思ってはいないのではないか、そういう他人に対する疑いを自分の心に飼いたくなかった。

 一生、誰かを疑って、心の裏側を読みとろうと必死になって、勘ぐったりして、そして誰のことも信じられなくなって、息苦しさに溺れていくようになる人生を、渡り歩ける気がしなかった。

 だから、家族も含め、誰にも絵を見せたくなかったし、画家は無理なのではないかと思った。

 ただ、兄のことを「売れない画家」だと思っていたことは、事実だ。そして、そういう兄を、どこかで可哀想だと思っていたのも、事実ではある。けれどそれは、もっと売れれば良いのに、あんなに頑張ってるのに、どうして売れないんだろう、という意味での考えであって、侑人は兄の絵を、とても良いものだと思っていた。

 兄に対する反感というのは、甘やかされて育った者同士の同族嫌悪のようなものと、加えて兄が売れない画家であっても、いつでも平気そうな顔で笑っていることに対する羨ましさ、心の強さに対する憧れの裏返しのようなものでもあった。

「やっぱり、僕みたいな人間になりたくないっていう気持ちが、あるじゃないか」

 兄は片方の口の端を上げて笑った。まるで、知らない人のような笑い方だった。

「それは、兄貴の人間性についてであって、画家としての兄貴じゃない」

 侑人は言った。画家という職業を、馬鹿にしているわけではない。

「人間性ね」

 兄は再び笑った。

「侑人には、一生わからないだろうな」

 兄は言った。

「常に後ろから追い上げられるこっちの気にもなってくれよ……」

 侑人の頭の裏側が、マグマのように熱されていく。

「兄貴の方こそ、後ろを歩くヤツの気持ちなんて、一生わかんないんだろうね」

 低く、憎しみの織り混ざった声になった。兄は一度、侑人の足元の方を見て、それから再び視線を合わせた。

「侑人、お前は詰めが甘いよ」

 兄はもう、笑ってはいなかった。

「お前の部屋、鍵付きの引き出しにスケッチブックを入れてるだろ。なんで引き出しに鍵をかけたあと、その鍵を、机の上に置きっぱなしにするかな……それに油絵も。キャンバスに布を被せて押入に入れておけば、誰にも見られないとでも思ったか?」

 侑人は、目の前が徐々に赤くなっていくのを感じた。体が、自然と震えた。

 自分が今、立っているという実感がない。

 恥ずかしさと、悔しさと、怒り……そう、猛烈な怒り。

「……見た、の……? か、勝手に……?」

 侑人が自分の描いたものを、見せたくないと思っていることを、兄は十分に知っているはずだ。

 確かに、兄の言う通り、隠し方の詰めが甘かったのかもしれない。そんなことは侑人だってわかっていた。

 けれど信じていたのだ。家族が、侑人自身の意志を、考えを、尊重してくれるだろうことを、信じて疑わなかった。

 見せたくないと言っている人の絵を、無理矢理探して見ようとするような、そんな人は、この家の中には、いないと信じていた。

 詰めが甘かったのは、隠し方ではない。家族への、信頼の詰めが甘かった。

 それは、あまりにも冷酷な裏切りのように侑人には思えた。

「なんで!? 勝手に見るなんて、そんなの、人として、最低じゃないか! 見せたくないって、俺が見られたくないと思ってるって、兄貴は、知っ、てるのに、なのに、」

 侑人が唇を震わせて、声を荒げる間に、兄はポツンと言った。

「僕はお前の才能が怖い……」

 その声は、遠い惑星から受信しているメッセージのように、機械的で、あまりにも距離があるように思えた。

「僕は……自分の気の弱さも、周囲への嫉妬も、上手く仕事を貰えないことに対する歯がゆさも、自分の才能を疑ってしまっている時の、夜の長さも、出口も正解もないような人生をこれからもずっと歩いていくことも、怖い」

 未だに怒りに熱している頭で、侑人は、兄の昏々とした声を聞いている。

「侑人、僕には、怖いものばかりある。それでも僕は、画家だ。画家になる道を、選んだ」

家族に迷惑をかけても、金銭的な援助を永遠と受けることになっても、情けない思いをすることになっても、申し訳ない思いをすることになっても、それでも……画家になると、決めて、選んだ

 侑人の目に、どうしようもない涙が浮かんだ。兄の言葉と、自分の怒りと、兄の射るような瞳と、自分の兄に対する憎しみを込めた瞳と。言いようもない、言葉で整理できない感情が、涙になって溢れそうになった。信じていたのに、という言葉が、脳内を回っている。

「侑人、お前はどうするんだ」

本当に、画家になる覚悟はあるのか?

「僕に言われたくないだろうけどね、いい加減、甘えるのはやめろ。お前が僕のことを、売れない画家だと、そういう目で見ていることは、知っている。お前は否定するかもしれないけれど、そんなの、お前に会う度にお前の目を見れば、すぐわかる。そういうもんだ。でも、それさえも、僕は受け入れる。弟に馬鹿にされても、それでも僕は胸を張る」


僕は、画家だ


「お前は、なんだ?」

何になるんだ?

 兄は改めて、厳しい口調で侑人に言った。侑人の目から、ついに涙がこぼれた。唇が震えて、声を出そうとしても、無理だった。

 喉が燃えている。何も言えないまま、侑人は踵を返した。兄の顔を、もう、見ていられなかった。兄は、痛々しいまでに、真っ直ぐな目で侑人を見ていた。その強さが、侑人の存在をどんどん否定して、どんどん惨めにしていった。

 侑人は、兄の部屋の前から、逃げるようにして玄関まで早足で歩いた。スニーカーを履いて、そのまま家の外へ出た。

 背後で「侑ちゃん、どこいくの?」という母の声が聞こえたけれど、無視をした。部屋着にしているスウェットの後ろポケットに、スマートフォンだけが入っている。

 九月になったばかりの夜。少しだけ涼しくなってきたけれど、秋はまだ遠い夜。

 夜空に月が出ていて、雲はなく、風も弱く、空気は滞って。今ここにある空気が、そのまま、いつまでも、体にまとわりつくようだった。

 ホロッ、ホロッと落ちる涙を、腕で乱暴に拭う。スンスンと鼻が鳴るのが恥ずかしかった。本当は、なんだか大声で泣いてしまいたい気分だった。

 けれど、それが許されるような年齢ではないと、侑人自身の心が訴えている。

 この夜、侑人は悟った。

 世界は、自分が思っているほど、優しい顔を、していなかったのだと。


 *

「おやおや、それはまた随分とロックな兄弟喧嘩だなぁ~」

 行くあてもなかった侑人は、結局柏木に連絡をした。柏木は「それならウチに来ると良い、もう遅いから、そのまま泊まっていけ」と、サッパリした調子で申し出てくれた。

 侑人はスマートフォンだけでも持って出てきて良かったと思った。送って貰った住所を頼りに、侑人は初めて柏木家を訪れた。

 チャイムを鳴らすと、柏木によく似た女性が出てきて、笑顔で「いらっしゃい」と言ってくれた。おそらく、柏木母だろう。

 大らかな笑顔、内側から溢れるみたいな陽の雰囲気は、彩輝にも似ていると侑人は思った。

「すみません、突然……」

 侑人はペコッと頭を下げて、家にあがらせて貰った。スリッパを履いたところで、柏木がやってきて「やぁやぁ、よくきたね」と親戚のオジサンのようなことを言った。

 柏木の顔を見て、侑人はようやく、深く息を吐いた。今の今まで、呼吸を忘れていたような気がした。

 柏木の部屋には、柏木兄のバンドポスターが沢山貼ってあった。カレンダーも、柏木兄のバンドである「ロクロック」のものである。

 そして、ギターも三本。

 いつも大学に持ってきているのは、どのギターだろうか。

「部屋中でブラコンアピールしているみたいで申し訳ないね!」

 柏木は、珍しくちょっと恥ずかしそうな顔をして笑った。

「俺も柏木くらい、兄貴のこと好きになれたら良かったのにな」

 侑人が言うと、柏木は侑人の背中をポンポンと叩いた。

「兄弟なんだ、喧嘩くらい、どこの家でもするだろう」

「柏木のとこも、喧嘩すんの?」

 侑人が尋ねると柏木は「かなりロックなやつをね」と答えた。

「しかし、なんだね、侑人。風呂上がりで飛び出してきたのかね? まだ髪が濡れてるじゃないか……そのまま電車に乗ってきたんだろう? 時折、本当の本気でロックなヤツだなぁ、お前は……」

 侑人は、柏木に言われてはじめて、自分の髪が濡れていることに気が付いた。そういえば、風呂が空いたことを兄に伝えに行って、そのまま喧嘩になったのだった。

「夏といえど、風邪を引くぞ。ドライヤー持ってきてやるから……あと、親御さんにちゃんと連絡しろ。これでは我が家が侑人の誘拐犯のようになってしまう」

 侑人は柏木の言葉に小さくなって「すみません……」と言った。


 柏木は、自分の部屋にドライヤーを持ってきてくれて、ついでに侑人の髪を乾かしてくれた。

「髪は俺が担当してやるから、その間に親御さんへ連絡しろ」

 そういう変な役割分担をされて、コオオオと鳴るドライヤーの音の中で、侑人は母にメールを打った。

『友達の家に泊まります。明日には帰ります』

 母からの返信は素早かった。

『今後は急に出て行かないでください。驚きます。念のためにお友達の連絡先を教えてください。明日の昼ご飯と夜ご飯は必要ですか?』

 侑人は、頭を温風にさらしながら「過保護か……」と呟いた。ドライヤーの音の向こう側で、柏木が「なんてー?」と声を張った。

「なんでもない!」

 侑人は音に負けないように、大きな声で返した。

 柏木の細い指が、髪をより分けて通っていく感触がする。男同士でこれってアリなのか? と思いながらも、床屋に行くことを考えたら「まぁ、アリか」と思えてしまった。

 敵意のない指先に、優しく髪を梳かれて、全身からゆっくりと変な力が抜けていった。

「よーし、乾いたな! いやぁ、なんというか、髪が多いな、お前は」

 柏木が言った。

「そしてクルクルしている!」

「くせっ毛なんだよ。俺はお前のストレートが羨ましすぎる」

「いやいや、ただ真っ直ぐなだけというのも、つまらんよ」

 柏木はドライヤーを片付けながら言った。

「お兄さんとお姉さんは? 今はいないのか?」

 侑人が尋ねた。この家からは、柏木本人と、柏木母の気配しかしない。

「姉に会えると思ったか? 残念だったなぁ、姉も兄も一人暮らしだ。父はまだ帰宅していないが、俺の友達が泊まりに来たとて、特に嫌そうな顔をするような人ではないから、安心しろ」

 柏木は言った。

 柏木の家は、侑人の家から三十分ほど電車を乗り継いだ場所にあった。周囲から見ても目立つような、三階建ての大きな一軒家だ。子供たちの部屋は三階で、ご両親の部屋は二階にあるそうだ。

「俺が柏木となんとなく仲良くなれた理由がわかる気がする」

 侑人は言った。

「どういう意味でだね?」

「金に困ったことがない匂いが標準装備されてるところ?」

 侑人が正直に言うと、柏木は「違いないな」と苦笑した。

 柏木母が、二人のために夜食と飲み物を持ってきてくれた。コンビニのお菓子と冷凍の焼おにぎりを温めたもの。それにペットボトルのお茶。

 そういう、適度に力を抜いて、けれど、突然押し掛けたのに、しっかりともてなしてくれているという気持ちの塩梅が、侑人は心地よいと思った。

(ウチだったら、絶対、母さんの作ったおにぎりと、手作りの焼き菓子とか出てくるし……あと、なんかよくわかんない紅茶とか、良い日本茶とかをわざわざ淹れて、お代わりいる? とか、何度も聞きにくるやつ……)

 それは、母の気遣いであり、感謝すべきところだということは、侑人にもわかっている。正しい気遣いなのかは、別として。悪気がないのは、確かなことだ。

「で、どうだったね、兄貴と喧嘩した感想は」

 母が部屋を去った後で、柏木が尋ねた。まぁ、座りたまえよ、という柏木に促されて。二人でベッドを背もたれにしながら、床にあぐらをかいた。

「ぶっちゃけ、ショックだった……」

 侑人は素直に言った。

「何がショックって、兄貴が、俺のことをそういう風に……なんというか、性格悪く見ていたっていう、なんか、こう……兄貴はもっと、良い人間だと、信じてたのに……」

 侑人の言葉に、柏木は「良い人間かぁ」と呟いた。柏木の呟きを、ふんわりと聞き流しながら、侑人は続けた。

「裏表もなくて、穏やかで、そんなに怒らないし、細かいことなんて気にならない図太い人なんだって思ってたけど、そうでもなかったんだなぁって……」

俺にも確かに、ちょっとだけ傲りがあって、兄貴がやれてるんだから、俺だって画家になれるんじゃないか、とか……それは、兄貴の絵より俺の方が上手いと思うからっていう意味じゃなくて、兄貴みたいなのんびりした人でも画家になれるなら、俺にもやれるかもしれない、みたいな……そういう意味で、兄貴よりは俺の方が真面目なんじゃないか、みたいな、そういう傲りが、あったことも、事実で……

「だから、兄貴が、本当はちっとも、心の中が穏やかじゃなかったみたいなことを知って……」

 侑人は、その時、頭の中にプカッと浮かんできた言葉を、そのまま口にした。

「なんか、がっかりした」

 そうして言葉を発したとき、再び、目頭が熱くなった。

(そうか……俺は……がっかりした、のか……)

 兄のことを、人とはかけ離れた天才だと思っていたようなところが、どこかにあった。普通の人間とは違う、もっと大らかで、もっと広い視野を持っている、そういう画家であって、小さなことは気にしないでいられるのかと思っていた。

 そういう人間には、自分はなれないなぁ、とも思っていた。

「兄貴が、思っていたよりもずっと人間らしくて、ドロドロしてて、全然、穏やかじゃなかったことに、がっかりした」

 侑人は、再び、噛みしめる気持ちで言った。柏木が口元を弛めて、柔らかい笑みをつくった。

「当たり前だろう、誰だって人間だ」

侑人兄は、実の弟である侑人さえも騙せるほどに、強い覚悟を持っていたというだけの話だなぁ

「お前は、それを見破れなかった。それが悔しくて、ショックなんだろう、違うかね」

 侑人は、反論したい気持ちになった。しかし、反論の言葉も見つけられないほどに、柏木の言うとおりだった。

「……俺、画家になっても、良いんだろうか……」

 侑人は、弱い声で言った。

「柏木は、進路、はっきり決まっていて、自分で決められていて、本当に羨ましい……」

 柏木は、侑人の発した漂う言葉を、目を細めて聞いている。それから、部屋に貼ってある兄のポスターの一枚を指で示した。

「あれ、今までで一番大きなホールでライブをやったときのポスターなんだ……格好良いだろう?」

 ついこの間のライブツアーの時のものだよ、と柏木が言った。

 侑人は、ポスターを見た。

 マイクを手に、汗をかきながら客席の方に手を伸ばしている男性。凛々しく眉が太くて、ストレートの黒髪が柏木に似ている。

 横顔のポスターだったが、黒々とした睫が長くて、その奥にある瞳は、真摯に輝いて見えた。

「ロックだなぁ」

 侑人が答えると、柏木は笑った。そして、自室の天井あたりを見ながら「昔話をしてやろう」と言った。

「急になんだよ」

 侑人は笑ったが、柏木は、凪いだ海のような、どことなく神聖な空気を醸し出していた。寒い日の、明け方の、霧がかった丘の上に建つ、教会の中にいるような。厳かで、静かにしなくてはいけないような、冷たくピンと張った空気。

「俺がまだ十二歳の時のことだ。小学校六年生だな。兄は二十一歳で、それこそ、侑人の兄が画家になるための一歩を踏み出した後のことだと思うんだがな……」


 俺も兄貴も、昔から音楽が好きで、よく一緒に好きなバンドのコピーなんかをして遊んでいたんだ。兄貴がギターを弾いて、俺が歌ったり、その逆を試したり。

 本当に小さな頃から、いろんなことをして、文字通り、音を楽しんで、兄弟で仲良くしていたものだ。俺が小学校六年生になったばかりの時、兄は言った。

「悠輝も大きくなったし、そろそろ二人で曲を作ってみないか?」

 もちろん、お遊び程度のものだった。けれど、俺は作曲なんてしたこともなくて、でも楽しくて仕方なくて。兄と一緒にメロディーラインを考えては弾いてみたり、歌詞を考えて二人で爆笑してみたり。

「完成までに半年以上、かかったような気がするが、楽しすぎるほどに、楽しかった。それで、せっかく作った曲だからと、遊びの延長で、動画を撮ってみることにしたんだ」

 俺が歌って、兄貴がギターだった。近所のライブハウスを借りて、たった一曲だけ。顔は映さずに、首から下だけが映るように調節して、演奏した。

「それはそれは楽しかった。お遊び動画なのに、小六だった俺は、ちゃんと緊張もしたしな。間違えるとリテイク! とか言って、プロごっこみたいなことをして、撮り直したりしてなぁ、そういうのも含めて楽しかった」

 結局、二日間くらいかけて、納得のいく動画が撮れて。これまた、気楽に「せっかくだから」というだけの気持ちで、動画投稿サイトに投稿してみた。

「最初は、ポツンポツンと視聴数が増えていくくらいで、まぁ、こんなもんだよな、という感じだったんだ。でも動画を上げて三日目くらいかな、急に視聴回数が、こっちがビビるくらいに増え始めて」

 あっという間に、俺と兄がお遊びで撮った動画は、話題になってしまった。

「話題になるだけなら、良かったんだが……いや、結果的には、今ある現実には、満足しているのだけどなぁ」

 柏木は、そう前置きをしてから、語った。

 再生数が鰻登りしてしまった動画、話題になってしまったオリジナル曲。

「ある日、有名なレコード会社から連絡があってな、本当に突然。音楽業界でデビューすることに興味はないか、と言われた」

 たまたま、その会社では「新人発掘」という名目のプロジェクトが進行していて、新人バンドを募集していたらしい。あの動画のオリジナル曲で、エントリーしないか、と言われたんだ。

「兄は最初からバンドマンになりたい人だったから、二つ返事で了承した。正直、俺は怖かった。なにがどう、というわけでもないけれど、何かが怖かった」

 結果としては、俺と兄のオリジナル曲は、最終選考まで残り、そして最後の審査の段階になって、レコード会社の担当者が家にやってきた。

「次の最終選考で、もしかしたらデビューが正式に決まるかもしれません。けれど、これを歌っているのは、小学校六年生の弟さんの方ですよね? 十二歳から、プロの音楽家として生きていくというのは……なかなか、厳しいものがあると思うのですが……」

 父と母、それに兄と俺、なぜか姉まで勢ぞろいで、担当者の話を聞いた。

「お兄さんの方は、もう成人していますよね?」

 担当者から、その言葉が出たとき、俺はいろいろと察した。

「ご兄弟だからか、随分と声も似ていて驚きました」

 この辺りでもう、確信とも言える空気を感じていた。

「どうでしょうか、ここは、お兄さんをボーカルとして、ギターはこちらでデビュー出来そうな子を探してありますので……それに、あの曲は、ギターとボーカルの二人組よりも、ベースやドラムスも入れたバンドで演奏した方が、味も出るし、盛り上がると思うのですけれど……」

 担当者は言った。

 俺はチラリと横目に兄を見た。兄は、それこそ俺よりも子供みたいな、まるで純粋な目をキラキラさせて、担当の話しを聞いていた。

「俺は、その顔を見て、あー、これはもう、仕方のないことだなぁと思ったよ」

 柏木が言った。侑人は絶句して、ただ、友の澄み切った顔を見ている。

「俺は兄貴に言った。良かったじゃん、これで本当にバンドマンになれるかもしれない、そうしたら夢が叶うじゃないか! ってね」

 俺の言葉を聞いて、兄ははじめて「ハッ」とした顔をした。

 そして、思い出したかのように「でも、やっぱりこれは弟が歌ったものだし、作詞も作曲も二人でやったものですから」と言った。

 俺はすかさず「ほとんど兄がやったものです、俺はまだ小六だし、ほとんど手伝えなかったです」と言った。

 兄は俺の顔をギョッとしたように見たけれど、無視をした。担当は、安堵したような顔をして、俺たちの両親の方を見た。両親も、さすがに十二歳の息子を音楽業界に入れたいとは思わなかったようだ。

「悠輝には、たしかにまだちょっと早いお話のように思いますけれど……大輝については、もう成人もしていますから、本人の意志を尊重したいとは思います」

 父が言った。母も頷いた。

 姉だけはブスッとした顔をして、兄を睨みつけていた。

 俺は、とりあえず笑っておいた。

 けれど、笑えたのは、そこまでだった。担当者は言った。

「もし、お兄さんがデビューする運びとなったら、弟さんの方には、しばらく音楽活動を控えていただかないといけません」

 あの動画で歌っているのが弟だということがバレてはいけない、と担当は言った。

 動画は「兄弟で作曲して、歌ってみた」というタイトルで投稿してあったので、ボーカルとギター、どちらが兄で、どちらが弟かは、言明されていなかった。

 身元がバレないように、年齢も伏せていた。担当者は「あの動画はこちらで削除させて頂きますが、どこからどうやってバレるか、今の世の中、わかりませんから」と言った。

 大事なのは「動画投稿サイトで人気を博したあのボーカルが、ついにメジャーデビュー」という筋書きなのだそうだ。

 その裏側で「歌っていたのは十二歳の少年だったけれど、まだ幼いので、代わりにギターを弾いていた兄がボーカルでデビュー」などという真実があったことは、決してバレてはいけないことなのだ。

「俺は、兄がデビューすることには大いに賛成だったし、自分がまだ音楽業界に入るのには年若すぎるという自覚もあった。けれど、その副作用みたいにして、自分がもう歌えなくなるとか、バンド活動が出来なくなるとか、そういう展開になるとは、想像していなかったんだ」

 中学に入ったら、軽音楽部に入部して、バンドを組みたいと思っていた。歌でもギターでも良い、ベースやドラムにも触ってみたかった。兄と二人で頑張った、作曲も作詞も楽しかった。これからもっと、新しい曲を作ったりもしてみたかった。

「それから一週間もしないうちに、正式に兄のデビューが決まったよ」

そして、俺は、好きだったこと、なにもかも、全部、出来なくなった

 柏木は言った。

 最後まで、平穏で優しい声だった。

 侑人は、柏木と出会って、過ごしてきた今までの時間が、脳内で自動再生されていくのを見つめていた。楽しそうに鼻歌を奏でたり、ギターに触っている時の充実した横顔だったり、バンドは組まないしライブもしないと断言したことだったり。

 侑人の目に、いつでも柏木は、楽しそうに見えていた。悩みなどちっともなさそうで、満たされていて、サッパリとしていて、何もかもが、上手くいっている人のように見えていた。

「……悔しく、なかったのか……」

 侑人は絞り出す声で尋ねた。自分だったら発狂してしまうと思ったからだ。

 兄の絵の素晴らしさを保護するために、もう二度と絵筆を握るなと言われたら、暴動を起こしそうだ。

「悔しかったし、悲しかったし、羨ましかったし、妬んだ」

 柏木は、きっぱりとした声で言った。とても通る声で、迷いがなかった。

「それはもう、今よりもずっと子供だったし、いやぁ、暗黒の闇に絡め取られるような気分だったね! いや、これは胡散臭い表現ではなく、本気の話だ。兄のキラキラした顔を見て、これは自分が我慢してでも、兄をデビューさせてやらねば! と思ったことは確かだったが、そんなのは浅い考えだったとすぐにわかった」

 兄のバンドは、そこからあっという間に大人気になった。本当に、飛ぶ鳥を落とす勢いとは、正に、と言わんばかり。一年後には、兄は、憧れと夢見ていた武道館を満員にしていた。

「対する俺はと言えば、中学に入っても軽音楽部に所属することは叶わず、バンドも組めなければライブも出来ない。動画を撮って投稿することも出来ない。せいぜいひとりでギター弾いて楽しく歌うくらいしか、出来なかった」

 あまりの落差に、震えたよ。どうして兄ばかり良い思いをして、俺はこんな惨めな気持ちにならないといけないのかって思ったし、本当は歌っていたのは俺なのに、きっかけになったあの動画さえも、この世になかったことにされてしまった。

「こんなにツライことが、人生であるもんかね、と思った。まだ『十五の夜』も迎えていないのにさ、本当に自分はロックな人生を歩んでいるなと思ったよ」

 柏木の部屋中に貼ってある、柏木兄のポスターに、侑人は急な圧を覚えた。

「どうやって……乗り越えたんだ……?」

 少なくとも、侑人の目には柏木は思い詰めているようには見えない。乗り越えたのか、諦めたのか。

「乗り越えた、というよりも、心の深いところで理解したんだ。兄のリアルな苦労というものを、身近に見ていたからね」

 音楽業界の大変さ、デビューして売れ続けることの大変さ、そういう本当に、気が遠くなるほどの苦労を、目の前で見てきた。

「そのうち、強がりではなく、本気で兄のことが羨ましくなくなってしまった」

 柏木は言った。

「はっきり言って、プロの世界は全然優しくない。ひとつの喜びのために、自分の中の全てを犠牲にするみたいな気持ちがないと、とても生き残れない。それよりも、俺のように、バンドを組むこともライブをすることも出来なくても、自由に、本当の意味で自由に、好きなように音楽と付き合っていける方が、幸せだなとも思った」

 柏木は、侑人の顔をチラリと見て笑った。

「それになぁ、兄には、根性があった。それは弟の俺が、とてもよく知っている。そして、俺には、そこまでの根性は、正直言って、ないんだ」

だから結果として、あの時の決断は、アレで良かったんだと本気で思えているよ

「やっぱりお前、強いし、ロックだ。俺だったら、そこで諦められない」

 侑人は言った。柏木は「俺だって、そんなにすぐに諦められたわけじゃないさ」と言った。

「悩み抜いた末、腐りきった末に、今の俺があるんだ。そういうの、更にロックだろう?」

 侑人は唇を噛んで頷いた。やはり、この友達は強いと思ったし、尊敬するとも思った。同時に、自分のあまりの薄さと弱さ、浅はかさを、何度だって知る。

 みんな、何かと戦っていた、侑人の知らない所で。戦っている顔なんて、表にはちっとも見せずに。

 柏木という男も、自分と同じように、裕福な家に生まれ育って。何ひとつ不自由なく育って。それで、幸せに生きているのだと思っていた。

 侑人は自分が他人に「裕福な家で、苦労もしないで羨ましい」などと言われたら、ムッと不機嫌な顔をするくせに。当の本人である自分自身が、知らぬ間にそういう考えを持っていた。

 言われたら嫌だなと思うこと、というのは、実は自分が最も気にしている事柄であるのかもしれない。侑人は、あまりにも、世界の何もかもが見えていなかったのだと思い知る。

 柏木のことも、柏木の兄のことも知らなかった。会社で日々奮闘している柏木の姉、彩輝のことも、その苦労を知らない。幼なじみで、ただのお嬢様だと思っていたアリサのことも。そして、自分の兄である昌秀のことも。

 ちっとも、見えていなかった。

 みんな、みんな、それぞれに。

 自分と向き合って、戦っている。

 先を歩く者も、後ろを歩く者も、それぞれに。年齢も、環境も、性別も、何もかも、関係ない。

(……俺がただ、ひとりだけ、たったひとりだけ、何にも向き合わずに、ただ、逃げて、逃げて、逃げることに疲れて、苦しんでいた、だけ、だったのかもしれない……)

 侑人は思った。何でみんな、戦えるんだ、怖くないのか、苦しくないのか、どうして向き合えるんだ、怖い、怖くて、動けない。

 前を向く決意を、するのは、こんなにも。

(……勇気が、いる……)

 呼吸が浅くなるのを感じた。脳味噌がカラカラになって、思考が白みそうだった。侑人が無言で下を向いていると、柏木が言った。

「悩み抜いた末に、今の俺がいるけどなぁ、それでもやっぱり、今でも悩む時が……弱気になる時が、俺にだってある」

「……そういうとき、どうしてる?」

 侑人は下を向いたまま尋ねた。柏木は「兄のライブを見に行くよ」と言った。

「それ、余計にイライラしないか……?」

 侑人は眉間に深く皺を寄せた。

 柏木は、侑人の肩にコテンと頭を乗せてきた。身長差があるせいか、侑人の肩は、柏木の頭の位置にぴったりだった。

「わー、楽だなこれは」

「人の肩を勝手に使うなよ」

「いやね、頭って結構重いもんだからな、こうしてどこかに置けるというのは良いものだよ」

 柏木は笑った。笑うと、柏木の体の振動が、侑人の方にまで伝わってくる。

「俺の兄はなぁ、やっぱり求心力というか、人を惹き付ける力が備わっていたんだと思うんだよ」

 柏木は笑った顔のままで言った。

「ムカつくことも、弱気になることもあるけど、そういう時、兄貴のライブに行くとな、悔しいけど、自然と鳥肌が立つ」

 ステージに立って、強いライトの光に当てられて神々しく見えるバンドメンバーの姿、ライブ会場に反響して満ちていく爆音、観客の方を真っ直ぐに見つめて、しっかりと、聴衆と向き合って、声を出す、兄。

「身内の贔屓目かもしれんがね、兄は、心の底から丁寧に歌っているように見えるんだ。ちゃんと、聞いてくれる人のために。なんかこう、祈りのようなものを込めて」

 柏木は、侑人の肩にもたれたまま、目を閉じた。

「悔しいのは確かだけれど、俺はやっぱり、兄貴の歌が好きなんだと思う。ずっと歌っていて欲しいし、俺はそれをずっと聞いていたい。それに、もし小学生のあの時、俺が駄々をこねて、音楽業界に入って……ボーカルをやったとしても……兄のように売れたりはしなかっただろうと思う」

俺には、そういう人の心を大きく動かしたり、揺さぶったりする力は、なかったよ

 柏木の声が、彼の自室に消えていく。薄くなって、空気に溶けて、消えていくその声が、侑人にはどうしても切ない色に見えた。

「そんなの、やってみなきゃ、わからないだろう」

 侑人は言った。先ほどから、ずっと眉間に皺を寄せたままで、いい加減顔の筋肉が痛くなってきたけれど、それでも自然とそういう顔になってしまう。柏木は侑人の肩から頭を上げて「なにが?」と言った。

「俺は、柏木の鼻歌も、ギターも、結構好きだし。少なくとも、俺は結構癒されてるし、求心力、あるだろ、お前にだって」

 侑人は言った。

「おや、やっぱりお前、俺の隠れファンだったのか……?」

 柏木は驚いた顔をする。

「隠れファンかは知らないし、俺はお前の兄貴の歌もあんまり聞いたことないし、なんの説得力もないってわかるけど……」

でも、やったこともないのに、もし自分だったら売れなかっただろうから、これで良かったんだ、なんて、そんなのは、納得できないだろ……やってみなくちゃ、なにもわからない……

 侑人は一生懸命に、思ったことを言葉にしてみた。柏木は、まだ驚いたような顔をしている。

「……お前、今、自分のことを素晴らしいほどに、棚上げしていることに気付いているか?」

 柏木が言った。侑人は眉間に皺を寄せたまま、目を閉じて俯き、唸る。

「わかってる……」

 言いながら、ちゃんと自分で気付いている。侑人が柏木へと発した言葉は、そのまま勢いよく侑人自身へと返ってくる。なんなら、若干勢いに拍車をかけて。

「お互い、特殊な兄を持つと苦労するなぁ」

 柏木が苦笑した。侑人は、自分の指で眉間を揉みながら「ほんとに」と頷いた。

「お前も、やってみなくちゃ、わからんだろう? 画家、ちゃんと目指してはどうだね。いい加減、誰にも見せないという方針は捨て去って」

「気軽に言うなぁ……恐ろしいことだぞ、それは」

 侑人が言うと、柏木は笑う。

「存外、そうでもないかもしれんよ。俺は、自分の鼻歌やお遊びギターのファンがいることを、今知った。とても嬉しかった。確かに評価は恐ろしいが、それはほんの一面だ」

恐ろしい面があるということは、素晴らしい面も、あるということじゃないのかねぇ

 柏木の、いつもの歌うような調子の声に、侑人は「そうかもしれない」と思った。絵を見せる、という決断には、まだ、時間が必要だけれど。評価されることを受け入れる、という決断をするには、まだ、恐怖が勝っているけれど。

 少なくとも、自分も、ちゃんと前に進まなくてはいけないと。何度も何度も、胸の中で、呟いた。


 *

「あ、昌秀! こっちこっち!」

 侑人の兄、昌秀が指定された居酒屋に到着するやいなや。大きな声が降りかかってきた。

 声のする方を見れば、個室から身を乗り出してブンブンと手を振っている人物がいる。

 昌秀は、早足でそちらへと向かった。

「こら。有名人がそんな大声出すもんじゃありません」

 ヒソヒソとした声で窘めると、当の本人はゲラゲラと笑った。

「だーいじょうぶだって、結構バレないもんだから。それに昌秀だって画家先生様だろ? 有名人じゃねーか」

「僕は顔出ししてない画家なので」

 昌秀は苦笑する。ゲラゲラ笑いの主は、柏木悠輝の兄であり、ロクロックのボーカル、大輝である。

 弟経由で無事に連絡先を交換した昌秀と大輝は、久しぶりに会って、飲みながら話そうということになった。

 場所は、有名人である大輝に任せた方が良いだろうと考えた昌秀だったが、こんなにも堂々とされては、個室居酒屋である意味もない気がした。

「変わらないなぁ、お前。すぐ昌秀だってわかった」

 大輝が笑った。

「そっちこそ。もう少し芸能人っぽくなってるかと思ったのに、変わらないよ」

 昌秀も、柔らかい顔をして笑った。二人はビールで乾杯をして、枝豆やら揚げ出し豆腐やら、細々と頼みながら、飲んだ。

「大学ん時の同級生の、吉田、覚えてる? あいつ、今年二児のパパだってよー……ビビるよなぁ、子持ちだぜ? そもそも結婚してることにもビビる……」

 大輝が言った。

「あー、吉田くんね。彼、結構ヤンチャだったのにね。落ち着くもんだねぇ、人間」

 昌秀が思い出すような顔をして、頷いた。

「昌秀は? 誰か、良い人いねーの?」

「僕は絵と結婚しているからねぇ、大輝こそ、人気あって、モテるんじゃないの?」

「俺も結婚はするつもりナシ。音楽と結婚してるんで」

 二人、クックックと笑い合った。

「でもなぁ、親はたまーに、言ってくるよ。ウチはさぁ、姉貴も結婚しない派を宣言してるもんだから……あとはもう、弟に託すしかない」

 大輝が言った。

「へぇ、お姉さん、結婚否定派なんだ? 今時、珍しくもないけどね。女性の稼ぎの方が良い場合もあるって聞いたことあるよ」

 自立してるんだねぇ、と昌秀が言うと、大輝は力の抜けた顔で笑った。

「お前、ほんと変わんねぇな。安心する、話してると」

「え、どこらへんで安心を感じてるの」

 昌秀が首を傾げると、大輝は「常識とか、押しつけてこないところ」と言った。

「音楽業界……っていうか、半分芸能界みたいな? そういうところにいるとさぁ、なんか、こうあるべき、こうするべき、これはダメ、あれはダメ、っていう、圧力がスゲーんだわ。それも、得体の知れないものからの圧力? っていう感じで」

「……得体の、知れない」

「そう、誰の意見か、誰の考えか、その本体みたいなのが、見えないっていうか……誰の常識なのか、ハッキリしないのに、そういう意識が勝手に蔓延して、定着して、そこにいる人間がみんな、よくわからないその思考とか思想に、軍隊みたいに従ってる感じ? あれ、言ってること、よくわかんなくなってきた……伝わってる?」

 大輝は腕を組んで、首を傾げた。昌秀は笑った。

「伝わってる、伝わってる」

 大学時代から、柏木大輝という人間は、裏表がなく、気持ちの良い性格の人間だった。昌秀は、そんな大輝が音楽業界に入っていって、潰されたり、変にねじ曲げられたりしていないか、正直不安を覚えていた。

 けれど、こうして久しぶりに会って、話して。その不安は杞憂だとわかって、それが嬉しかった。染まらないでいてくれたことが、友が友のままでいてくれたことが、嬉しかった。

「ウチはさぁ、母さんが専業主婦でさ、しかも姉と俺、それに弟までいて、将来は沢山の孫に囲まれて、大忙し! みたいなのを想定していたらしいんだよ。母さん本人は、そういうことあんまり言わないけどな」

「なるほどねぇ、親の夢っていうのもまた、プレッシャーあるよねぇ……」

「そうなんだよなぁ。姉貴は親の手前ではずっと仕事がしたいから結婚はしないって言ってるけど、ほんとのとこは、前の男に手酷くフられて、なんていうかな、女の思考はよくわかんねぇけど、この世にいる男を全般的に憎んでるっていうか」

「……壮絶だねぇ」

「そうなんだよ、気も強いから、まさに阿修羅……特に俺に対する当たりが強いからヤになるよ……」

 大輝は、苦い顔をした。昌秀は穏やかに笑う。

「歳、近いんだっけ? 大学の頃からよく喧嘩するって話してたよね」

「俺の三歳上。弟よりは離れてないけど、まぁ、怖い怖い。今は俺も姉貴も家出てるから、そんなに会わないけど……会うといつも喧嘩仕掛けてくる、アイツの方から」

「大輝が余計なこと言ったりするからじゃないの?」

「まぁ、そうだけど」

 大輝は、思い当たる節があるようで、唇を尖らせる。昌秀は揚げ出し豆腐を食べながら、大輝の姉である人を思い浮かべる。

 思い浮かんだのは、弟のスケッチブックに描かれていた女性だった。弟は大輝の姉が勤める会社へ、インターンシップへ行ったと聞いている。

(おそらく、あれが、大輝のお姉さんだろうなぁ……)

 凛としていて、けれど柔らかく女性らしいシルエット。優しい筆致で描かれていた、それ。

(侑人は大輝のお姉さんのことが好きなのかもなぁ……)

 昌秀はそう思って、フフフと小さく笑った。九歳年下の弟の恋心を、いじらしく思ったのだ。

「なんだよ、そんな笑うなよー」

 大輝が拗ねた声を出すので、昌秀は「悪い悪い」と謝った。

「最近、仕事はどう? この間まで、ツアーに出ていたって聞いたよ、弟から」

 昌秀が話題を変えると、大輝は「今やっと落ち着いたとこ」と言った。

「大きいツアーだと、半年くらいかけてやるんだけど……まぁ、疲れることは疲れるなぁ、楽しいの方が勝ってるし、気合いもあるから、やり切れるし、やってる間は、あんまり疲れを感じなかったりもするんだけどなぁ」

終わってみると、もぬけの殻っていうか、しばらく放心するっていうか

 昌秀は「わかる」と同意した。

「僕も、依頼された絵があると、描いている間は楽しいし、気合いでいけるんだけど、終わった後、数日は使い物にならないよ」

そういう感じで、今、実家に避難中です

 昌秀は言った。

「わかるわー、そういう時、実家に戻るとさー、本当に気楽になって、溶けるっていうか? ダァーって、全身から力が抜ける」

実家の威力、スゲーわ……

「実家、というか、家族というか……まぁ、我が家は主に母の力です」

 昌秀が言うと、大輝が「それそれ」と笑った。

「昌秀の弟は? 実家にいんの?」

「いるよ」

「なんかウチの悠輝が仲良くしてもらってるみたいで」

 大輝は、ワザと改まった口調で言った。昌秀はそれに乗っかって「これはこれは、ご丁寧に、こちらこそ仲良くして頂いているようで……」と返した。

「気が合うんだろうなぁ、この間、ウチに泊まりに来たらしいよ」

 大輝が言った。昌秀は、苦笑して頭を下げた。

「それ、本当にすまないと思ってるんだけど……僕と弟がね、ちょっと喧嘩して……それで出て行っちゃって……行く宛がねぇ、どうも柏木家しか、なかったみたいで」

 大輝は、面白そうな顔をして、対面に座っている昌秀の方に身を乗り出してきた。

「なんだなんだ、昌秀が喧嘩なんて珍しいな」

「そう面白がるなよ、結構今もギスギスしていて、せっかくの実家なのに居心地悪いったらない」

「じゃぁ自分の家、帰ればいいだろ?」

「飯作るのと洗濯するのが、どうも……」

 昌秀が言うと、大輝が笑った。

「居心地悪いとか言って、母ちゃんに甘えてるだけじゃねーか」

「なんにも反論できないな」

 昌秀は、しんみりとした顔をして斜め下を向いた。

「原因は? 喧嘩の」

 大輝が尋ねると、昌秀は少し考えてから、

「弟の進路? というか、まぁ、画家になるかどうか、とか……そういう、あー……説明するのは難しいな……」

「ナイーブな問題ってことな」

「そう、そうそう。そういう。何か、物事についての喧嘩というよりも、心の持ちようというか……いや、格好付けすぎだな……要するに、僕が弟の才能に嫉妬して、大人げなく八つ当たりした、っていう……」

 昌秀の言葉に、大輝はサッパリとした口調で、

「なんだよ、お前が全部悪いんじゃん。謝れよ。大人なんだから」

 と言った。

「あまりにも正論」

 昌秀は、参ったなぁと言って後ろ髪を混ぜた。

「弟がさ、ちっとも進路をハッキリさせないから、ちょっと発破をかけようと思ったくらいだったんだ、最初は。でも、弟の作品とか盗み見たらさ」

「盗み見たらダメだろ」

「そう、ダメなんだけど。好奇心にあらがえないのが、画家というイキモノ……」

「それは違うな。あらがえなかったのは、お前。他の自制心のある画家に謝れ」

 大輝は容赦なく言う。けれど、その言葉は、ちっとも嫌らしい感じがしなかった。言葉の根幹に、きちんと友を思いやる気持ちが混ざっている。大輝は、そういう塩梅が、昔からとても上手な人間であった。

 彼は、外側に敵を作りにくい人間だ。

「僕はダメだな、どうにも下手くそだ。外側に敵を作りやすい」

「温厚なのになぁ」

「穏和で柔和、よく言われる。最初の印象としてね。でも、仕事での付き合いが長くなったりすると、だいたい繊細、ナイーブからはじまって、最終的には気難しい、怖いっていう評価に変化するんだ」

 昌秀は言った。大輝は「そんなもんだよなぁ」と頷く。

「俺もそうだよ。最初は元気がある、勢いがある、裏表がなくてサッパリしている、そんな感じで言われるのにさ、ツアーでずっと一緒にいるスタッフとかには気難しい、注文が多い、扱いにくい、文句が多い、我が強い、みたいな、そんな風に思われてるとこある」

仕方ないよな、好きなんだから、こだわりがあるんだから、ぶつかるのも、仕方ないよな

「弟に、そういう人間になりたくないから、画家になろうか悩んでるんだって言われたよ。僕みたいな、こういう人間に、なりたくないそうだ」

 昌秀が言うと、大輝は「うわー」と声を上げた。

「それ、キッツイな、言われたら」

「そう、キツい。僕、結構ブラコンだから、ガーンって思った」

「古いぞ、表現が」

「同世代だから通じるだろう?」

 二人して、小さく笑った。個室の中に、同じ色彩の曖昧な影が、フワフワと浮かんでいる。表現をする者の心に宿る、かたちのない、漠然とした、影。

「俺さぁ、弟の手柄を横取りしてデビューしたわけじゃん?」

 大輝が言った。大輝のデビューについてのいきさつは、昌秀も知るところだった。

 当時、大学を中退してスペインへ留学する準備をしていた昌秀に、大輝はこの件についての相談をした。昌秀は、自分が大輝に励まされたように、励ました。

 手に取れるチャンスは、逃すべきではない、と。

「俺のせいでさぁ、弟は、結局中学でも高校でも、大学でもさぁ、軽音部とか軽音サークルとか? そういうのに入れなくてさ。いや、入れないこともないんだけど……もう、レコード会社からも、とっくに弟の活動はオッケー出てるし。でも、アイツの中では、そうはいかないみたいでなぁー」

ずっと音楽好きなのに、ずっと俺に気を使って、ずっと、我慢してるみたいに見える

 大輝は言った。それについては、昌秀が「それ、キツいな」と言った。

 大輝は頷く。

「俺が好きにしていいんだぞ、って何度言ってもな、説得力ないし。弟は真面目っていうか、思考が器用っていうか……うまいことやってるし、自分なりに好きにしてるから案ずることはない、みたいなことを言ってくるし」

「頭良いの?」

 昌秀は、純粋な疑問として尋ねた。

「頭良いよ。本当はウチの大学よりもっと上も狙えたんだけどなぁ。それでも、俺と同じ大学に入りたかったんだと」

「いい子じゃないか」

 昌秀の言葉に、大輝は嬉しそうにした。

「そう、いい子なんだ。俺もブラコンだからな!」

 前を歩く者は、どうしても、後ろが見えてしまう。後ろを歩く、愛おしい者たち。彼らがどうにか、歩きやすい道を選べるように。

 どうにか、幸せな道を歩けるように。

「お兄ちゃんも苦労するよなぁ~」

 大輝は言った。

「手を出そうとすればするほど、嫌われるしなぁ」

 昌秀も、ボヤくように言った。

 大輝はビールをグイッと呷ってグラスを空にすると、もう一杯、昌秀の分も含めて、勝手に注文をした。

「明日休み?」

 昌秀が聞くと、大輝は「午後から打ち合わせ」と言った。

「あんまり飲み過ぎるなよ」

「昌秀は? 明日は?」

「なんも。仕事のない時の画家は、無職みたいに見えるだろう? 弟にとっては、それもマズかったなぁ。そういう姿、見せずにおけばよかった」

 昌秀は言った。

「俺だってそうだよ、仕事のない日は、マジで無職みたいな気分。でも、頭ん中ではずっと仕事のこと、音楽のこと考えてる。休みナシっていう気持ち」

「わかるなぁ。僕もそうだ。描いてない時も、ずっと描いてる。頭の中で、そればっかり。休まる時なんて、ちっともなくて。気の抜き方、肩の力の抜き方とか、そういうの、忘れちゃったんじゃないかなって思う。でも、今、この瞬間、すごく気が楽だ。大輝と会って、良かった」

 昌秀の言葉に、大輝は「やめろやめろ、照れる」と笑った。

「俺さぁ、二年くらい前に、本気で仕事キツくなったことあって」

 二杯目のビールが運ばれてきて、それに口を付けながら、大輝が言った。

「音楽性とかいう言葉を使うとさ、途端に陳腐な空気になるけど。そういう自分のやりたい音楽と、会社の求める音楽、あとファンっていうか、聞いてくれてる人たちの求める音楽? そういうのが、全部バラバラの方角を向いちゃってた時期で……本当に、言葉では言い表せないくらい、辛くて、シンドくて、いよいよ辞めようかと思ったんだけどさ」

 昌秀は、大輝と同じペースでビールを飲みながら、黙って話を聞いている。

「それをさぁ、姉貴に相談したんだよ。もう辞めようかなって。そしたら秒でビンタされた。それもかなり本気の力で」

「おお……」

 昌秀は、女兄弟もいなければ、他者をビンタするような性質の家族もいない。

 過激だ! と思ったりした。

「下の弟の夢も希望も全部踏みつけて好きなことやってるくせに、何ふざけたことを言ってるんだ! ってすごい剣幕で怒鳴られてさ、俺、その時本当に参ってて、相手はただでさえいつも喧嘩になる姉貴だし。こっちもマジでキレて、怒鳴って、お前に何がわかるんだよ! って、お決まりの台詞を飛ばしたらさぁ、なんて言われたと思う?」

「さぁ……」

 昌秀は首を捻った。

「姉貴、あんたの苦労は全然知らないし、知りたくもないけど、悠輝が部屋で、ひとりで泣いてるとこだったら死ぬほど見てきた! って言ってさぁ……もう、それだけで完全に俺の負けだよな」

 大輝は苦笑する。

「泣き言も、弱音も、もう二度と吐かないようにしようって、その時思ったわ」

悠輝、俺にはちっともそんなこと言わないけど、悔しかっただろうし、自分の歳が、歯がゆかっただろうし……

「もし、俺がそっちの立場だったら、どんな気持ちになるか。考えただけでもゾッとする。悠輝が……弟が、俺のことをちっとも恨まないで、それどころか、俺のライブとか、ちゃんと来てくれて……部屋とかさぁ、俺のバンドのポスターでいっぱいなの。新曲出る度に買ってくれてるし、別に買わなくてもやるよって言ってるのに、俺はファンだから買わないと気が済まないとか言う。勝手だってわかってるけど、俺、もうなんかさ、泣けちゃうことあるんだよな、あいつのこと見てると、眩しくて」

 昌秀は、腕を伸ばして大輝の肩を軽く叩いた。その肩は、大学の頃よりも少しだけ頼りなく思えた。

 あの頃の方が、何も持っていなかったのに。あの頃よりも、今の方が前に進めているはずなのに。あの頃よりも、ずっと、大きくなったはずなのに。

「大学の時、楽しかったなぁ。なんだか、全部が輝いて見えていた気がするよ。思い出だからかなぁ、昔のことは、光って見えるね」

 昌秀は言った。昌秀には、大輝の言っている言葉が、痛いほどにわかった。昌秀にも、自分の弟である侑人は、時折、眩しく見える。

 その輝きは、若さだけではない。

 絵に対する純粋な情熱や、絵を描いている時の集中力、未来へと伸びようとする内側に蓄えられている力。

 何もかもが、その体の中に満ちていて、眩しい。

「負けてられないな」

 昌秀は言った。大輝はちょっと泣きそうな顔をしながら、

「兄貴だからな」

 と、はにかんで笑った。


 *

 九月の下旬、大学生たちの長い夏休みが終わった。

 侑人は、その日に受けるべき全ての授業を終えた後、学生課へ行った。用事を済ませて帰ろうとバス停に向かうと、時刻はもうすぐ十九時というところだった。

(思ってたより……時間くったな……)

 まだ夏の空気を残している外気は暖かく、そして明るい。ようやく日が傾きはじめていて、西日が眩しかった。

 バスを待っていると、

「おや、侑人じゃないか」

 という声が聞こえた。振り返らずともわかる、柏木悠輝だった。

「あれ、遅いな帰り。どうした」

 侑人が言うと、柏木は「そっちこそ」と笑った。

「俺は学生課。進路希望調査? あれ、書き直してもう一回提出してきた」

 侑人が言うと、柏木は苦笑した。

「真面目だねぇ、あんなの別に書き直さなくても良いだろう、単なる希望調査なんだから」

「それが、そういうわけにもいかない。前に提出した希望の中に就職って入れちゃったから……それ書いた人は、就職先決まったら、それを報告しないといけないんだって」

進路、就職じゃなくなったから、就職先提出できないし

 柏木は、侑人の言葉を聞いて、なおも「だからそういうところが、生真面目なんだよなぁ」と言った。そして続ける。

「まぁ、ウチの大学様は、一応? 就職率九十八パーセントをうたっているからな。未来の受験生たちへのアピールとして。そのためにも、大学側からすれば、こういう調査とか、就職先みたいなものは、重要なんだろうよ」

生徒の側からすれば、自分の人生なんだから、大学側の思惑なんて知ったことではないけれどねぇ

 柏木は喉の奥の方でクックックと笑った。

「ロックだねぇ」

 侑人も緩く笑った。

「画家になるって、書き直してきたのか?」

「まぁ、そう」

「ロックじゃないか」

 柏木は満足げな顔をした。侑人は、こういう友達がいてくれることを心強く思う。きっと、兄の昌秀も、柏木兄を同じような目で見つめていたんではないかなと想像した。

「今日は、ちょっとだけ、兄貴に感謝したよ」

 侑人は言った。

「ほう? その心は」

 柏木が問うた。

「学生課の理解が早かった。なんか画家になるって書き直したら、絶対なんか言われるって思ってたけど、俺の名前見て、すぐ納得してくれた。君、お兄さんも画家だったねって。兄貴の時は大変だったみたい。母さんも呼び出されたし、日本画家やってるばあちゃんの名前を出したり、父さんのやってる画廊の名前出したりで……納得、というか、理解、かな……してもらうまで、結構時間かかったみたいでさ。俺もちょっとだけ覚悟してたけど、全然大丈夫だった。兄貴の名前ひとつで、大丈夫だった」

その後、あれやこれやって聞かれたし、どういう絵を描くのかとか、賞とかとる予定あるのか、とか……そんな興味本位で聞かれてもって思ったし、全体的にイライラはしたんだけどさ……

 侑人の話を聞いて、柏木は労うような顔で「それはご苦労だったなぁ」と言った。

 バスがゆっくりと学校前の急斜面をのぼって、バス停へと入ってくる。

「柏木は、こんな時間まで何してたんだ?」

 段差の大きいバスのタラップを踏みしめながら、侑人は尋ねた。

 柏木は「軽音部の活動に混ぜてもらってきた」と言った。

「え、」

 侑人は思わず立ち止まって、後ろを振り向く。バスの入り口だ。

 侑人の後から乗り込んだ柏木は、それはそれは邪魔そうな顔をして。侑人の背中を両手で押して、バスの奥まで押し込んだ。

 二人して、一番奥の長椅子に並んで座った。バスは五分ほど停車をしてから、ゆっくりと駅に向かって動き出す。

 十九時台のバスは空いていた。授業だけの生徒はとっくに帰っているし、サークルがある生徒はまだ遅くまで残っているだろう。

 中途半端な時間だった。

「バンド、やる気になったのか?」

 侑人は目を輝かせて柏木を見る。柏木は、ちょっと照れたようなむず痒い顔をして「混ぜてもらっただけだよ」と言った。

「最近、軽音サークルに所属している友達が出来てな。たまにスタジオ練習に混ぜてもらってるんだ。それだけ。別にバンドを組んだわけでも、ライブをするわけでもなく、お遊びで、ちょっと、やらせてもらってるだけ」

 柏木は、いつもの悟ったような顔ではなく、普通の大学生みたいな、まだ大人になるには不完全みたいな顔で言った。侑人は、柏木のそういう表情を見られたことが、嬉しい。

 そして、バンドを組んだわけではなくとも、なにかが少し吹っ切れたみたいな柏木が、嬉しい。

「えー、聞きに行きたい」

 侑人が言うと、柏木がハハと笑った。

「お前、音楽に興味ないだろうに」

「ないけど、聞きたいこともある」

 柏木はニヤリとして、

「お前が俺に絵を見せてくれるというのなら、聞きに来ても良いぞ」

 と言った。

「お前、絵に興味ないだろ」

「ないけどな、見たい絵もあるさ」

 二人の間に、何とも言えない充実した空気が満ちた。互いの体の中にポツンとあった空洞。空っぽだった、その大事な部分が。少しずつだけれど、時間をかけて、丁寧に満ちていく感じがした。

 簡単な言葉で表現すれば、それは「未来への希望」のようなものなのだろう。単純だけれど、それがあるのと、ないのでは、大違いだ。

 バスが山を下っていく。鬱蒼としている木々の間から、強烈な西日が入り込んできていた。窓側に座っていた柏木が「おお」と小さく感嘆の声をあげた。

「侑人、見てみろ」

 柏木に言われて、侑人も窓の外を見る。大きなオレンジ色の太陽が、ゆっくりと空の上からおりてきているところだった。

 空の上から地平線に向けておりてくる太陽。山の上から、駅に向かっておりていくバス。ちょうど良い具合に、太陽が視線のど真ん中にきていたのだ。

「デカいなぁ、太陽」

 柏木が言った。侑人も無言で頷く。

 迫ってくるような、手を伸ばせば届きそうな、そんな夕日だった。燃えている、燃えながら輝いて、大きな力を発している。

 侑人には、その夕日は、情熱に燃える魂のように見えた。外から見ている自分たちには、その太陽の本当の熱さはわからない。想像しかできない、熱いんだろうな、という想像しか。

 触れたことがないから、わからない。

(そういう、もんだろうな……)

 人間だって同じだ。その人の持つ熱量は、外からはわからない。本人にしか、その熱さは、わからないものだ。

 決して他人の手では触れられないものがある。自分だけのものが、誰にだってある。

「本当に美しいものっていうのは……ただ、あるだけで、キレイなもんなんだなぁ……」

 柏木が呟いた。

 その言葉は、ストンと侑人の胸に落ちていく。

 芸術とは、なんだろうか。

 芸術の、意味とは。

 芸術の、価値とは。

 芸術の、評価、とは。

「この夕日を見て、キレイだと思わない人もいるんだろうな」

 侑人は言った。

 柏木は「えー」と不満げな声を出して、

「そんなヤツいるのかね。そいつには人の心がないのではないかね」

 と言った。侑人は笑って、そして穏やかな声で言った。

「たぶん、今日すごく嫌なことがあった人とか、例えばだけど、大事な人と喧嘩したり、家族が亡くなったり、そういう暗い出来事があった人の目には、あんまりキレイには見えないのかもしれないし、夕日どころじゃないかもしれないし、キレイには見えるけど、キレイなことが嫌味に思えるかもしれない」

 現に侑人は、今まで何度もこのバスに乗っているけれど、夕日がキレイだと思ったのは今日がはじめてだった。柏木は、小さく「なるほど」と呟いた。

「今日、俺も柏木も、これを見てキレイだって思えたんだから、それはめちゃくちゃ幸せなことなのかもしれない」

 侑人が言うと、柏木は「ロックじゃないな、ロマンティックだ」と笑った。

 二人は、目が痛くなるほど、目の前がしばらくチカチカするほどに、夕日を堪能した。

 バスが駅前に到着する頃には、夕日はすっかり沈んで、辺りは薄暗くなっていた。侑人と柏木は、電車に乗って途中まで一緒に帰った。電車は混んでいて、二人はあまり話さなかった。

 けれど、満ち足りた空気は、ずっと残ったまま二人の間に漂っていた。


 *

 侑人は、家の玄関を開けたところで、兄とかち合った。兄はちょうど、二階にある自室からおりてきたところだったようだ。

「おかえり」

 いつもの柔らかい声で、兄は言った。

「……ただいま」

 侑人も返事をする。あれからずっと、なんとなく兄弟の間にゴワゴワした質感の異物が残っている。侑人は、別に怒っているわけではない。

 けれど、やっぱり無断で絵を見られていたことに対する憤り、いや、もっと子供っぽい「拗ね」のような気持ちが消えないのだ。

「今日は遅かったね。夕飯、食べてきたの?」

 兄が尋ねた。

「食べてない。学生課寄ってきただけ」

 侑人は靴を脱いで、スリッパを突っかけると兄の横を通り過ぎてリビングへ行った。兄は後からついてくる。

「母さんは?」

 いつもなら、出迎えてくれる母の姿がない。

「ばあちゃんの具合が悪いからって、看病に行ってるよ」

 兄がサラリと言った。侑人は顔をしかめる。

「え、なにそれ、聞いてない」

「ついさっきのことだよ。たまたま母さんが電話したら、なんかばあちゃんの声がおかしかったらしくて。問いただしたら、風邪っぽいって。ただの風邪だから大丈夫って本人は言ってるらしいけど、やっぱり心配だから見てくるってさ」

 兄はキッチンに立つと「コーヒー飲むけど、侑人もいる?」と言った。侑人は、なんとなく「うん」と答えた。

 テーブルを囲んで、兄弟でコーヒーを飲む。テレビは二人とも好まないので、無音だ。

 兄の醸し出す雰囲気は、相変わらず柔和だと侑人は思う。何も考えていないような、けれど、深く考えているような。

 先日、兄の中にある太陽の一端に触れた。ほんの少し触れただけで、火傷しそうなほど、熱いことがわかった。きっと、自分の知らない兄が、隠された奥に、たくさんいるのだろうと侑人は思うようになった。

「……今日、学生課で、進路希望、書き換えてきた」

 侑人は言った。

「そう。画家になるって、決心したの」

 兄は言った。緩く笑って、侑人を見ている。その笑みを、怖いと思った。

「半分決心……まだ、半分は、戦ってる、自分の中で」

 侑人は正直に言った。

「何と戦ってるの」

「自分の絵が、周りにどう見えるのかっていう不安と、画家っていう職業で、ちゃんと稼げるのかっていう不安」

「稼げなかったら、侑人は画家にならないの? 金儲けのために、画家になるの?」

 兄は言った。幼い子供を諭すような声だった。

「兄貴は、そういう葛藤とか、ないの」

 侑人は、思い切って尋ねた。兄はコーヒーを一口飲むと、言った。

「前に侑人は、自分たちの世代は、ずっと厳しいんだって話をしてくれたね。経済的にも、余裕がないからって。経済的な余裕がなくなれば、絵を愛でる心のゆとりもなくなるよねっていうのは、まぁ、一理あるよなって僕も思うよ。でも、一理だ、それは本当にほんの少しの部分」

 侑人は、兄の言葉を黙って聞く。反論したい気持ちもあるし、兄貴が思っているよりもっと深刻な世代なんだと言いたいけれど、黙った。

「僕は、誰も絵を描いてない時代に生まれても、絵を描く。誰も見てくれなくても描く。誰も買ってくれなくても、描く。なんでだと思う? そんなのは簡単な話だ。他人の物差しは関係なく、ただ、僕が絵を描くのが好きだからだ。死ぬほど好きだから、描く。それだけのことだよ」

だから、どう見られても、どういう評価を受けても、絵画という芸術に、その時代にとっての意味があろうが、なかろうが、売れようが売れまいが、僕は描くよ

 侑人は、兄の言っていることの半分は理解が出来た。きっと、今までだったら、理解しようとしなかっただろう部分が、少し理解出来た。

 バスの中で見た、圧倒的な夕日の美しさ。あの美しさを前にして、理由も理屈もないと思った。柏木の言葉が心の奥の良い部分で揺れている。

(本当に美しいものっていうのは……ただ、あるだけで、美しい)

 そこに、意味や意義がなくても、そこに人の目が向かなくても。ただ、美しく存在するものも、この世にはある。

 今日の夕日が美しかったことに、一体どのくらいの人が気付けただろうか。夕日を見た人の中で、美しいと感じられた人は、どれほどいたのだろう。

 美しく見えなかった地域もあるだろう。

 見る角度にも、見る場所にもよる。

 美しさとは、固まったものではない、揺らぐものだ。揺らいで、移ろって、流れて、留めておけないものだ。気持ちひとつで、見え方は変わってしまう。

「兄貴は、最初から、そうなの? 最初から、ただ好きで、描いてる?」

 侑人は尋ねた。先ほどから、コーヒーには手を付けられていない。立ち上る良い香りばかりを嗅いでいる。

「侑人だって、最初から、ただ好きで描いてるだろう」

「……そうだけど、俺は、それだけじゃ、迷う……上手く言えないけど、兄貴みたいに、自信をもって、前に進めない」

 侑人は言った。兄は、思わずのように笑った。

「ああ、そうなのか。侑人には、僕がそう見えてるわけだ?」

「……なにが?」

 兄は少し納得したような顔をして、小さく一度頷いた。

「昔から、友達にも勘違いされがちだったけど、弟にまで勘違いされてるとは思わなかった」

「だから、なにが」

「侑人には、僕が自信満々で画家をやってるように見えてるんだね」

 兄は言った。侑人は首を傾げる。

「違うの?」

「違うよ」

 兄は即答した。けれど、侑人にしてみれば、兄のような朗らかな、柔らかい空気を出せる人間が、壮絶な苦しみの中にあるとは思えない。自信があるのでなければ、ただの脳天気だ、そのどちらかだ。そうとしか思えない。

「僕は、あんまり顔に出ないだけ。表情筋がねぇ、生まれつき笑ったような顔で固定されてるんだよねぇ」

侑人も比較的、そうだよね、ムスッとはするけど、口角はいつもあがってる

 兄は笑った。侑人は、なんだか恥ずかしくなって、自分の頬を両手で揉んだ。

「僕はね、侑人」

 兄は、真っ直ぐに侑人の目を見て言った。

「自分の存在を、どうしても、残したい。どうしても、自分の生きた証を、この世界に残したいんだ」

絵という形で、この世に、自分の存在を、思想を、願いを、希望を、なるべく長く、なるべく鮮やかに、残しておきたい

「人が誰かを愛して、誰かと結婚して、子供を産んで、未来へその血を繋げるみたいに、僕は、僕の絵を、未来へ残したい。希望として」

 兄は、真剣だった。あまりにも大きな枠での考えで、侑人には少しボヤケて聞こえたけれど。言いたいことは、強い思いは、痛いほどに伝わってきた。

「だからね、大学から講堂の絵を頼まれた時は、本当に嬉しかったんだ。ああ、これで少し僕の願いが叶うって思った。東上大は歴史ある大学だし、そう簡単には無くならない、これから先も続いていく学校だと思うし。そんな学校の大講堂に飾られる絵だ。出来れば百年、それが無理でも、せめて三十年、四十年って、そのくらいは、残ってくれたら良いなと思って、自分の得意は水彩なのに、頑張って、油絵にした……けれど、残らなかった」

 作品を、未来へ、先へ、先へと残すことの、難しさ。

「痛感したよ。取り壊しが決まったと連絡があった時、本当に、悔しかった。悔しくて、日本にはいられなかった」

 兄は言った。侑人は、ようやく一口コーヒーを飲んだ。苦味が、舌先から喉の奥までをツンと刺した。やりきれない、もどかしい、切ない、そういう気持ちが侑人の体中を巡っている。

「侑人にも、そういう、なにか……目標、いや、違うなぁ、指針というか……なにか少しでも見つかれば、いいね。そうしたら、きっと、歩きやすくなるよ」

 侑人は、兄の目を伺うように見つめて、小さな声で尋ねた。

「兄貴は……俺の絵、どう思う……? 俺は、兄貴の絵が好きだけど……」

 兄は、侑人の目を、一瞬だけ見て反らした。

「僕もキミの絵が好きだよ。好きだから、こんなにも怖いし、こんなにも対抗心が沸く。大人げないとわかって言えば、侑人、キミが若いというだけで、僕はキミがムカつくよ」

 兄は言いながら、でも笑っていた。その笑い方は、言葉の割りには意地悪な感じはなかった。複雑な、愛情と嫉妬と、慈悲。

「前を歩くというのも、大変なんだよ」

 兄は言った。そして、空になったコーヒーカップをそのままに立ち上がる。

「淹れるのはお兄ちゃんやったから、片付けは侑人お願い」

 ニッと笑って肩を叩かれて、しまった、と思った。兄弟揃って、洗い物はあまり好きではない。侑人が文句を言う前に、兄はとっとと二階へ戻ってしまった。

 きっとまた、自室の扉を開け放って、絵の続きを描くのだろう。

(未来に、残す……なるほど……)

 侑人は、自分のカップに残っているコーヒーを飲みながら考えた。絵を残すなんていうことは、あまり考えたことがなかった。

 いつも、その場の反射みたいに描きたいと思ったものを描いている。

(でも、描きたいと思うってことは、残したいって思ってるってことだよな……)

 描いて、留めておきたい、残しておきたい、記録しておきたい。そういう気持ちが、どこかにある。

(今日の夕日も……)

描いてみたい、あれは油絵よりも水彩の方が思ったように描けそうだ、ああだとしたら、兄にも見せたかった、兄だったらあの夕日をどう描くだろう、俺だったら、アレを、どう表現するだろう……

「水彩……俺はあんまり、得意じゃないんだよな……」

 兄に、習おうかな、と考えた。教えてくれるだろうか、とも考えた。

 どちらにしても、そういう考えを頭に浮かべることを、楽しく思った。幼い頃から一緒に育って、よく知っているはずなのに、侑人は兄のことをもっとよく知りたいと思った。


 *

 十月も中頃になったある日の昼過ぎ。侑人のスマートフォンに学生課から電話がかかってきた。

「……なんで……?」

 侑人は鳴り続けるスマートフォンを嫌な目で見つめる。

「用件は電話に出ないと聞けないぞ、侑人」

 隣にいた柏木が正論を唱える。二人は授業と授業の間の空き時間を潰すため、グラウンドへ向かおうとしていたところだった。

 最近の柏木は、よく軽音楽部の友達とサークル棟へ行くようになっていた。そのため、侑人と一緒に過ごす時間は少なくなってきている。

 けれど、侑人は柏木が「サークル棟へ行く」と言う度に嬉しい。友達が少ない侑人にとっては、少々寂しいところもあるが、元々ひとりで過ごすことには抵抗がない。

 誰といようが、ひとりでいようが、結局はスケッチブックを開くだけだ。

 今日は久しぶりに空き時間がかち合って、グラウンドの横でぼんやりしようという話になったのだ。

 侑人は面倒臭い気持ちになりながら、電話を取った。学生課の職員は、ただ簡潔に、淡々と。空き時間に学生課を訪ねるようにと侑人に言った。

「なんだって?」

 電話を切るとすぐ、柏木が興味深い目で尋ねてきた。

「なんか、学生課に来いって」

「果たし状みたいだなぁ、なんだそれは」

 柏木は笑う。

「面倒だから、もう、今行ってくるわ」

 侑人が言うと、柏木はニヤニヤしながら「ついて行こうじゃないか」と言った。

「見世物じゃないぞ」

「まぁそう言うな、心配してるんだよ」

 二人は方向転換をして、グラウンド方面ではなく、大学の入り口横にそびえる学生課へと向かった。

 学生課の入り口で、侑人は自分の名前と電話があったことを伝えた。すると、侑人はすぐに学生課の奥にあるソファー席で待つように言われた。

 柏木は「俺はココで待ってるよ」と言ったけれど、ここまで付いてきておいて、それはないだろう。

「いや、もう心細いから、一緒にいてくれ」

 侑人は柏木の服の裾を引っ張った。柏木は「おやおや」と言って呆れた声で笑いながら。けれど、一緒にソファー席まで来てくれた。

 並んで座って待っていると、スーツ姿の男性が三名やってきた。

「呼び出してすまないね」

 ひとりの男性が笑いながら言った。

 三人は、侑人たちの対面に腰を落ち着ける。歳の頃は三者三様で、今、声をかけてきたのは侑人たちの父親と同じくらいの歳に見える。

 残りの二人のうち、ひとりは三十代くらい、もうひとりは四十代か、五十代か……というところだ。

 侑人は、誰ひとりとして、面識がない。誰だろう、と首を傾げていると、柏木が横から小さな小さな声で、

「意味分からんみたいな顔をしてるところ悪いが、真ん中はこの大学の学長だぞ」

 と助言してくれた。侑人は、その言葉に一気に緊張する。なぜ学長に呼び出されないといけないのか。

「突然で驚いたと思う。授業は大丈夫かな? あんまり時間を取らせないようにしますので」

 一番若い男性が言った。彼らは、それぞれに自分の名前と立場を名乗った。

 柏木の言うとおり、真ん中に座ったのが学長。学長の右隣、四十代だか五十代だかに見える男性は、侑人の所属する人間科学部の学部長。左隣の一番若い男性は、人間科学部の学部長補佐、だそうだ。

「あの……僕、何かやらかしましたか……?」

 侑人は思わず「僕」なんて猫を被って、恐る恐る尋ねた。学長は、侑人ではなく柏木を見て「君は?」と尋ねた。侑人が柏木のことを説明するよりも早く、柏木自身が、

「友人です。たまたま一緒にいたので、ついてきてしまいました。邪魔だったら、退室します」

 と、サッパリした口調で言った。学長は「いやいや、君も授業が大丈夫だったら、このままいてください」と笑った。

 そういう軽い雰囲気に、侑人は少し肩の力が抜けた。そんなに重苦しい話ではないらしい。

「早速なんだけれどね、先日、大学理事長も交えて、新しく建設予定の大講堂について、話し合う機会があったんですが……」

 学長は、流れるように話し始めた。迷いのない語調には、はじめから言うことが確定していて、後はもう伝えるだけ、みたいな簡潔さがあった。

「君のお兄さんも、この大学の卒業生だったね。取り壊す前の大講堂の絵は、君のお兄さんの作品だった。とてもすてきな絵を寄贈して頂いて、感謝しています」

 学長は言った。その辺りから、侑人にも、隣に座る柏木にも、これから言われることの予測がついた。予測がついたからこそ、侑人は混乱した。混乱の中で、相手の話を聞き漏らさないよう、必死になった。

 学長の横に座っている学部長が侑人の目を見つめて言った。

「君のお兄さんは、今では立派な画家として活躍していると聞いています……君の進路希望も、画家だと、学生課から聞いているのだけど、間違いないかな?」

 学部長の声は、学長の声よりも事務的で、冷たく、仕事として話しているような雰囲気があった。侑人は、気圧されそうになりながら「そうです」と小さな声で答えた。

「今までの話で、もう察しがついているかもしれないけれどね、新しい講堂に飾る絵を、今度は君に依頼したいと、私たちは考えています」

 今度は学部長補佐が侑人に言った。彼の声はまだ若く、横に座っているお偉い方二人を意識しながら話しているようだ。視線は侑人ではなく、学長と学部長の方をチラチラと見ていた。侑人は、そんなことを観察してしまうくらいには、頭が空っぽだった。

 混乱の極致だ。

「お兄さんの時もそうだったのだけど、話は聞いているかな……? 君がもし、新しい講堂の絵を描いてくれるのであれば、君のそれは、卒業論文の代わりとして、受け取ることにしようと思う。私は、絵は専ら見る専門でね、絵画制作の厳しさや、難しさ、どの程度の時間がかかるのかということについては、あまりピンときていないのだけれど。お兄さんの時も、まぁ一年くらいはかかるものだと聞いていたし、現に、お兄さんもあの絵を卒業論文の代わりにしたからね。その辺りについてはお兄さんに尋ねる方が、きっと明確な答えが返ってくると思いますよ」

 学長が言った。垂れ目がちで、髪には少しの白髪が混じっている、優しげな雰囲気の人だ。笑うと目尻に沢山の皺が寄る。

 しかし、立場がそうさせるのだろうか、発言には有無を言わせぬ圧があった。学長の言葉が完全に途切れるのを待って、学部長補佐の男性が、何事かがプリントされた数枚の紙を取り出して、淡々と読み上げはじめた。

「絵については、前回の絵と同じように、抽象画でお願いしたいと思います。私もあまり詳しくないのですが、保存の観点からも、油絵でお願いしたいと理事長の希望です。サイズについては、前回よりも少し大きいのですが、縦四メートル、横が五メートルくらいのものをお願いします。あくまでも寄贈、卒業論文の代わり、ということですので、制作費用については、制作者側の自費ということになります。また、大学のイメージに関わるものですので、モチーフがはっきりしているような絵は避けていただいて、」

「ちょっと待ってください」

 ストップをかけたのは、侑人ではなく、柏木だった。

「まだ、西は描くかどうかのお返事をしていません」

 侑人は、柏木が相手の言葉を止めてくれたことに、ホッとした。どこか遠くの方にいた、自分の魂がスッと戻ってきた。

「すまん、ありがとう」

 侑人は、柏木を向いて言った。柏木は目だけで返事をする。

「すみません、突然のお話で、唖然としてしまって」

 侑人は言った。真正面から相手の顔を見てしまうと、負ける気がして、学長の締めているネクタイの結び目あたりを見るように心がけた。

「お話は嬉しいのですが……僕の絵を見たことがないのに、そういうのを決めてしまって、良いんでしょうか?」

 侑人は言った。新しい講堂に飾る絵だ。それこそ、以前に兄が言っていたように、もしかしたら長く残る絵になるのかもしれない。そんな絵を、よく知りもしない、まだ画家でもない自分に頼むのはどうかと思った。

「君が適任ですよ。お兄さんの絵も良い出来上がりでしたし、君も、そういう芸術の血を引いているんでしょう。それに、言い方は悪いですが、君の家は経済的にも、ゆとりがあるのでしょう。息子が二人とも画家としてやっていけるだけのものがあるというのは、すごいことです。今の時代、なかなかそういう恵まれた環境にある人はいません」

 学部長が、少しの皮肉を込めたような声で言った。いや、皮肉めいて聞こえたのは、侑人の受け取り方のせいかもしれない。胸の中で、薄黒い何かが蜷局を巻き始めている。

 この空間に、このソファーの仰々しい感じに、目の前に座る大人たちの態度に、言葉に、発言の不躾に、怒りのような感情が沸いた。明確に、怒りなのかは、わからない。ただ、呼吸が浅くなって、息苦しくて、ゆっくりと、肩で息をした。肩でしか、息が出来ない。

「こちらとしては、君に描いてもらうということで、不安も不満もないんだ。あとは、君が描けるか、描けないかというだけの話だよ」

 学長が言った。やはり笑顔の奥に、圧があった。

「描きたいか、描きたくないか、ではなく?」

 侑人は思わず言った。学長は笑って「すまない、言い方が悪かったね」と謝った。表面ばっかりの謝り方のように聞こえた。

 侑人は、いろいろとムカムカして、言ってはならないであろうことを口走りそうになった。落ち着こうと思って、チラッと隣の柏木を見ると、柏木は侑人よりもずっとムスッとした顔をしていた。柏木がそういう顔をするのは珍しい。黙ったまま、正に「生意気」というような顔をしている。

 それが、少し侑人を救った。

「画家としてやっていくことを決めたのだったら、我が校の大講堂に絵を寄贈するというのは、経験値的にも、こう、悪い話ではないと思うのだけど、どうかな」

 学長は、侑人の不機嫌だか、柏木の不機嫌だかに気付いたようで、丁寧に言い直した。

「君のお兄さんの時は、すぐに快諾してくれたようだけれどねぇ」

 学部長が、小さなため息と一緒に言った。侑人の頬がヒクッと揺れる。悪かったですね、弟はすぐに快諾しなくて! と喉元まで出てきたのを、飲み込んだ。消化に悪そうだが、仕方ない。

「……少し、考えさせてください」

 侑人は言った。すると、学部長補佐が、すかさずに言った。

「ご両親やお兄さんに相談しますか? でも、描くのは君なんですから、君が決めないといけないんですよ、結局のところは……社会人になったらね、自分で決断しなくてはいけないことも多くなる。こういう大学のような場で、決断することの難しさや重要さを学ぶことも必要だと思いますけれど……」

 学部長までもが、畳みかけるように、言葉を繋ぐ。

「この場で、とりあえずやれるか、やれないかを決めて貰えると助かるんですよね。大講堂の建設の方がね、結構大詰めで、今現在、絵を飾る方向で図面を作って貰っているんですけどね、描けないようだったら、無駄にスペースを開けるよりは、デザイン的な、こう……タイルで埋めたりとか、そういうことを考えないといけないので」

 場の空気が「いやぁ、困った困った」みたいな、大人の醸し出す嫌な雰囲気に包まれた。

(日本人特有……マジでイライラする……大の大人が集団で……)

 決断を、迫られている。それも、答えは相手によって決められているも同然だ。

(めちゃくちゃ「やらない」って言いたい……)

 けれど、それは侑人の反抗心による答えだ。ここで「やらないですよ」とか言ったら、向こうも少しは困るだろうし、一時的にはスッキリするだろう。しかし、こっちだって、大学生だ。そこまで、子供でもない。

「わかりました。描きます」

 侑人は言った。向かい側に座る大人たちに安堵の表情が浮かんだ。

 学長などは、良かった良かったと言いながら、数度、手で己の膝を打っていた。

「お兄さんの描いたような素晴らしい絵を期待しています」

 学長は言った。侑人は半笑いの表情で「兄と僕は、違いますから」と言った。

「どういう絵を想定しているのか知りませんが、期待に添えなかったらすみません」

 侑人が言うと、学長は「いやいや」と言った。

「前に君のお兄さんに寄贈してもらった大講堂の絵はね、本当に素晴らしかった。芸術的な感性は、血筋によるところも大きいと聞いたことがあります。兄弟揃って芸術の才能があるというのは、本当に奇跡みたいなことだと思いますよ」

経済的な余裕もあって、何も心配しなくて良い環境で、良いものを見て、良いものに触れて、感性を磨きながら、ただ芸術の世界に邁進できる、君もお兄さんも恵まれていましたね

 繰り返される、なんの悪気もない暴力みたいな言葉が、侑人を全力で殴ってきた。

 侑人は、相手に見えないところで、拳を強く握る。強く、強く。

 そして、尋ねた。

「前の……兄の絵……素晴らしいって、思ってたんですか?」

「もちろんです」

 学長は大きく頷いて答えた。

「……だったら、なんで壊したんですか? 壊す必要なかったですよね? 大講堂と一緒に壊す必要、ありましたか?」

 侑人は言った。少々早口になってしまって、自分の中で「落ち着け」という言葉を繰り返す。

「……あれは、苦渋の決断でした……しかし、絵の中に水が染みてしまっていて……あのままだと、じきに腐ってしまうということだったので……」

 学長が言った。侑人は、やはり落ち着けずに、学長の声に被せるようにして言った。

「あのままにしていれば、という話ですよね? 専門の業者に頼めば、修復なんていくらでも可能だった。まだカビもはえていなかった。あの絵は、まだまだ生きられたはずだった。金さえかけて、ちゃんと修復すれば」

あんたたちは、それを、しなかった

 侑人は、途中から敬語を使うことさえも忘れた。ただ、憤りがあった。兄が、魂をかけた絵を、潰した人間に対する憤りが。

「修復には、結構な金がかかる。それは俺もよく知ってる。あんたらも、それ、知ってるんじゃないのか? 知っていて、金を、出し惜しみしたんじゃないのか? 別に、新しい大講堂に絶対に絵が必要なわけでもない。絵がなくても、講堂さえ出来れば誰も困らない。でも、丁度よく前回絵を描いたヤツの弟がこの大学にいて? しかも、どうやらそいつも絵を描くらしいって知って? それで、俺が都合良かったんだろ。 卒業生が描いた、卒業生が寄贈した、それだけで美談だし、金もかからない」

 侑人は静かな声で言った。けれど、糾弾する心が語調を強める。

「いやいや、そんな穿った見方をしないで……私たちはただ、」

 学長が苦い笑いを浮かべて言うのを遮って、侑人は言った。

「あんたたちに、俺たちの、絵を描く人間の、何がわかる。口を開けば恵まれていて良いですね、だの……気楽で良い、だの……環境がどうの、苦労もしてないだの、どうのこうの馬鹿のひとつ覚えみたいに、そういうことばっかり言う」

それは、妬みですか?

見下しているんですか?

馬鹿にしているんですか?

「どれでも良いですけど、そういう発言は、もういい加減にして欲しいんですよね」

 金が無くても、裕福じゃなくても、芸術を愛する人はいる。逆に、もっともっと裕福でも、芸術を愛する心の欠けた人もいる。環境に恵まれていても、いなくても、同じように悩み苦しみ、身を削って作品をつくる。

 環境と芸術は関係ない。関係ないと言い切りたい。言い切りたいけど、悲しいかな、言い切れないような世の中ではある。

 けれどそれは、世の中の問題であって、芸術を目指す者たち個人の問題ではない。誰だって、どんな人だって、美しいものを美しいと思う権利を持っている。

 誰だって、どんな人だって、美しいものを美しいと思うままに描く権利を持っている。

 侑人は、恵まれていたから絵を描くのではない。

 兄に言われて、気がついた。侑人も、そして兄も、どんな環境にあっても、結局は絵を描くのだろう。そういう魂の欲求を持って生まれてきた。恵まれたのは、周囲の環境以上に、そういう魂を持って生まれてきたという部分だ。

「兄が、あの絵を壊された時、どれだけの気持ちを押し殺したか」

 侑人は震える声で言った。握る拳に、更に力が入る。目の奥の奥の方が、ギュウと誰かに握られているような気持ちだった。

「確かに、俺も兄も、人間としての感性には恵まれているかもしれない。少なくとも、俺はあんたたちみたいに、簡単に人の描いた絵を潰したりしない。絵を、ただの、絵というだけで、見たりしない。そこには、ちゃんと描いた人の魂がこもってるって、理解できる」

 侑人の散々の発言に、素直に不機嫌な顔をした学部長補佐が言った。

「お兄さんの絵は、ちゃんと、壊す前に、ご本人に了承を得ています」

ご存知ありませんか?

お兄さんと、あまり仲が良くないんでしょうか?

 侑人は、スッと彼と視線を合わせた。学部長補佐は、ほんの少しだけ、侑人から距離を取るように、後ろに反った。

「絵を所有してる人間が、その絵をどうするかは、作家には関係ありません。所有者の自由です」

 侑人は言った。

「だったら、」

 文句はないだろう、と今度は学部長が身を乗り出し気味に言い掛けた。侑人は、学部長のこともしっかりと見つめる。それから、学長の目を見て言った。

「だから、俺が……今度は、もう壊されないような絵を描きます」

あなたたちが、所有者が、壊すことを惜しむくらいの、良いものを

 侑人は言い切った。言い切ってから、震える唇を噛みしめた。血が滲むほどに、噛みしめた。

 学長は最後に「楽しみにしていますよ」と笑って、侑人に絵画依頼の概要が書かれた紙を渡した。A4サイズの紙、三枚。

 描いて欲しい絵の概要が一枚、それから著作権についての同意書、作品を大学側に寄贈することへの同意書。それだけだった。

 侑人は書類を受け取ると、すぐに立ち上がって「失礼します」と言って、ほんの少しだけ頭を下げた。柏木が侑人に続いて、無言で頭を下げる。二人とも、一度も振り向かずに学生課を出た。


「……殴りかかろうかと思ったが、とどまった。殴ってしまった方がロックだったかな」

 学生課を出て、二人は自然と当初の目的地であったグラウンドの方へ歩き出した。歩きながら、柏木が前を向いたまま言った。

「やめろやめろ、停学になるぞ」

 侑人は笑って言った。強ばっていた顔が、ようやく緩んだ。

「俺は、泣きそうになったけど、とどまった。泣いた方が、ロックだったか?」

 侑人が言うと、柏木は「いや、泣かなかったお前は、相当ロックだ」と言った。

 そして、侑人の背中をトントンと優しく叩いてくれた。それがマズかった。せき止めていた涙が、一気に、ブワッと勢いよく溢れて、視界が歪んだ。ボロボロと頬を伝っていく涙だ。大学の中だし、すれ違う人にはギョッとされるだろう。なにより、柏木に、友達に泣き顔を見られるのが恥ずかしい。恥ずかしいけれど、それ以上に、もうとんでもなく、悔しくて、泣けた。

 柏木は、何も言わずに、けれど、背中をずっとさすってくれていた。二人は、歩くのをやめずに、そのまま進んだ。立ち止まらずに。

 侑人は、涙で苦しくなりながら、震える声で言った。

「あいつら、全員黙らせてやる。良いもの、描いて、黙らせてやる。絵の前を通ったヤツが、全員ハッとして、振り向いて、思わず見るような、そういう、すごいの、描いて、見返してやる」

 思わず、視線を奪うような、決して壊すことを許さない、そういう圧倒的な魅力を持つ絵を。あの日の、帰り道に見た、夕日みたいに。見る人の心を動かすものを。

 なるべく、誰の心にも、届くような、そういう熱くて、優しくて、切なくて、少し悲しくて、けれど希望のあるような絵を。

 本当に美しいものは、ただそこにあるだけで、美しい。

(そういう絵が、描けたら……)

 もう、それだけで。

(俺の、勝ちだと思える……)

 何に対しての、勝敗なのかはわからない。世の中の、何もかも全てに対するようでも、自分に対するようでもある。

「侑人、俺は、相変わらず絵というものについては、詳しくはわからないがね。涙が出るほど、胸が熱くなる、そういう好きなことがあるというのは、最強に素晴らしいことだと思うよ」

 柏木が言った。侑人は鼻水をスンスンと啜りながら、手の甲で涙を拭った。そして、赤い目で、とんでもなくダサい顔で、柏木を見た。

「お前だって、そうなんじゃないのかよ」

 侑人は言った。柏木が、パチパチと瞬きをする。長い睫が揺れていた。

「お前だって、本当は、泣くほど悔しい思い、したんじゃないのか。音楽、もう吹っ切れて、諦めてますみたいな……そういう顔してるけど、たまに思う。なんか、もうちょっと、お前は、熱く生きられるんじゃないかって」

音楽に関わっていられれば、それでいいなんて、本当にそう思っているのか?

「軽音部に混ぜて貰うようになってからの方が、生き生きして見えるよ」

 侑人は言った。ずっと言いたかったことでもあった。柏木はしばらく黙った後で「参ったなぁ……」と言った。

「軽音楽部とスタジオ行くの、楽しいんだろ?」

 侑人が確信を持って言うと、柏木は、はにかむように笑って、

「めちゃくちゃ楽しくて困っているところだ」

 と言った。

「柏木も、そういう気持ち、大事にした方がいい……いろいろ、あるのは知ってるけど、でも、なんか……やっぱり好き、っていう気持ちは、誰にも邪魔されちゃいけないって思う」

 侑人は言った。柏木は「少し前まで進路に悩んでウジウジしていた男の台詞とはとても思えない!」と言った。

 侑人は頬のあたりが熱くなった。全くその通りである。

「侑人、君は決めてしまえば男前に突き進めるタイプなんだな。友の新たな一面を知った。ロックだな」

「柏木は、サッパリしているように見えて、諦めるのが上手いだけだな。納得しているような顔が得意なんだ。冷静っぽく見えて表向きの格好はつくけど、そのうち大損する気がする。ロックじゃないな」

 侑人が言うと、柏木が苦い顔で「ゴモットモ」と言った。

「俺が描いた絵で、柏木のことも、もっとやる気にさせたいな」

 侑人は思ったまま、呟いた。

「見ただけで、なんか、こう……熱くなるような、気合いが入るような……何かに、立ち向かっていく気持ちになるような……そういう……」

 誰かの、背中を押せるような。侑人は、柏木をぼんやりとした目で見つめながら。

「お前みたいなヤツのために、描きたいな」

それから、俺みたいなヤツのために

兄貴みたいな、ヤツのために

何かを、頑張っている人たちのために


 侑人の独り言のような言葉に、柏木は目を細めて、

「お前は、良いヤツだなぁ……」

 染み入るような声で、言った。


 *

 侑人は大学から帰るとすぐに、母に講堂の絵の件を話した。

「描くことにしたの?」

 母は侑人の顔を真っ直ぐに見て、言った。

「描くことにした。自信はないけど」

 侑人が答えると、母は頷いた。

「そうなると、侑ちゃんにも、昌ちゃんと同じようにアトリエが必要かしらね。お父さんに相談してみようね」

 母が力強く言うので、侑人は慌てて「いらない、いらない」と言った。

「画材にかかる費用はちょっと、あの、援助して欲しいけど、でも、出来るだけ自分でどうにか……」

 侑人は言いながら、画材の費用について、ちっとも考えていなかった自分にゾッとした。こういうところがあるから、自分は「恵まれているから良いね」と言われてしまうのだと痛感する。バイトもしたことがない侑人は、今のままでは、画材にかかる費用など、自分で捻出しようがない。

「描き始めるまで、まだ時間あるから、それまでバイトして、どうにか資金を、貯めるので……」

 侑人は、苦し紛れのように言った。描き始めは来年の四月だ。大学四年生になってから、他の生徒たちが卒業研究のための準備に取りかかるタイミングでのスタートとする予定である。それまではまだ、卒業のために必要な授業、単位がある。学業優先だ。

(冬休みと春休みにバイトをして……それで、どうにか……)

 侑人がクルクルと頭を回していると、

「侑人、ちょっと座りなさい」

 という母の声がした。母が「侑人」と呼ぶのは、真面目な話があるときか、本気で怒っている時だけだ。促されて、リビングのダイニングテーブルに対面で座る。母は侑人の顔を見て言った。

「侑人……あの、実はね……本当は……その……」

 母は、最初こそ凄んだ様子で侑人に語りかけた。が、次第に語尾が怪しくなる。侑人が怪訝な顔をすると、母は小さな小さな声で続ける。

「……お父さんとおじいちゃん、侑人が画家の道に進むのを、その……なんというか、ちょっと、こう、」

 母は絶妙な顔で笑った。あまりにも不自然な作り笑顔が輝いている。母は言った。

「……侑人には……画家の、道じゃなくてね……その、画廊を継ぐ道を、選んで欲しかったんだって……」

 一瞬だけ、世界中が沈黙した気がした。侑人はその間、目眩を覚える。

「……え、今更?」

 本当に、素直にそれしか感想が出てこない。自分が散々、進路に迷っていた最中には、ちっともそんなこと話に出さなかったくせに。侑人の好きな道に進みなさい、みたいなことを言っていたくせに。いざ画家になると決めた途端、これか。

「え、なんで、今まで黙ってたの……俺、結構、本気で将来が見えなくて悩んでたし、ちょっとでも画廊を継いで欲しいとか、そういう親の要望みたいなの、教えてくれてたらさ、」

「継いで欲しいって言ったら、そうしちゃうでしょう、侑ちゃんは」

 まるで少女のような声で、母が言った。

「それに、母さんは反対だったの、侑ちゃんに画廊を継がせるのは。もちろん、もし侑ちゃんが自分で「画廊が継ぎたい」って言い出したなら、お母さんだって応援するけど……」

でも、上のお兄ちゃんには好きなようにさせたのに、下の弟には画廊を継げって強要するのは、不平等だし、おかしい話じゃない

 母は、言い訳をするような、それとも拗ねているような、そんな口調で話した。

「いや待って、ちょっと整理させて……」

 侑人は母に言葉を一度止めてもらって、頭を抱えた。確かに、自分か兄のどちらかが継がなければ、銀座にある、それも一等地にある、あの画廊は。

(父さんの代で、閉めないといけなくなるかもしれない……)

 継ぎたいという人が現れれば、どうにかなるのかもしれないけれど。

(このご時世に、画廊、やりたい人とか、いるのか……? でも、あの画廊がなくなったら……)

 実際に困るのは、侑人や兄の昌秀のような、画家の卵たちだ。

「え、本当に、じいちゃんも、父さんも、俺に継いで欲しいって言ってるの?」

「侑ちゃんに、じゃなくて……兄弟のどちらかにって思ってたらしいのよ、昔から。でもほら、お兄ちゃん、早くから画家一本に絞っちゃってたし……言い出せないままって感じで……お父さんもおじいちゃんも気が弱いから……子供が望む道に進ませてやりたいっていう親心も、もちろんあるし……」

それに、毎日、呼吸するみたいに絵を描いてる侑ちゃん見てたら……ああ、きっとこの子も画家の道に進むんだろうなぁって、予測もついてたから……ますます言い辛いじゃない?

 母は、お父さんの気持ちもわかってあげてね、と言いながら曖昧に笑った。侑人は、父や祖父の気持ちも痛いほどにわかる。ただただ、知りたくなかった気持ちで一杯だ。

「なんで今言ったの……」

「今が最後のチャンスかなぁって、念のために言っておこうかと……」

「えー……なんの念なの……なにそれ……呪いにしかならないんだけど……」

 せっかく将来を決めたつもりになって、そして大学の講堂の絵も引き受けたのに。

(大学のなんか、偉い人たちに生意気なことも言い放ったし……)

 今更、自分の志を変えようとは思わないけれど、ものすごい気がかりが残ってしまった。

(将来、俺があの時、画廊継がなかったせいで……とか、親不孝だった……とか、後悔したりするんだろうか……)

 侑人は、深く深く、ため息をついた。

「でもほら、講堂の絵を引き受けたっていうことは、これで侑ちゃんも正式な画家の一歩を踏み出すってことになるし。おじいちゃんも、お父さんもね、諦めがつくでしょう、きっと! お父さんには、母さんからキチンと話しておくから。あの人も、息子が未来に向けて一歩踏み出すのを邪魔するような人じゃないから、ね?」

 母は言った。侑人は首を振って、母を見た。

「いい、ちゃんと、俺が自分で話す。父さんにも、じいちゃんにも」

 仕事で毎日遅くに帰ってくる父。家に帰ったらすぐ部屋に籠もって絵を描いてしまうような自分。

 仲が悪いわけでもないのに、向き合うタイミングが少なすぎたのかもしれない。

(これも、良い機会……)

 侑人は思った。侑人は幼い頃から、祖父や父のいる画廊によく遊びに行っていた。

 幼心にも、彼らが真剣に、真摯に、あの場所を大切にしていることは、わかった。そして、兄も自分も、あの画廊がとても好きだ。

 絵の具や油、紙の匂いのする、静かで、落ち着いている、あの場所。若い画家たちのために、これから羽ばたく画家たちのために。

 そして、描かれた、絵画のために、ある場所。

 侑人の父も母も、一人っ子である。

(俺が継がなければ、やっぱり父さんの代であの画廊は潰れることになる……)

 申し訳ない思い、そして、そんな気持ちに打ち勝ってまで画家の道を進めるのかという、不安。

(ただ、絵を描くのが好きだっていうだけの、俺が……)

 どこまでやれるのか、どこまで続けられるのか、わからない。怯える気持ちを抱きながら、それでも、前を見ようと決めた。臆病さも、自分らしさのひとつとして握ったまま。

 そのままの自分で、行ける場所まで、歩いてみたいと思ったのだ。

 自分が、美しいと思う場所まで。


 *

「大講堂の絵を描く依頼、僕に譲って」

 絵の依頼を受けた翌日は土曜日だった。大学も休みで、侑人は家で過ごしていた。昼を過ぎた辺り、突然家のチャイムが鳴って。玄関扉の向こう側にいたのは、兄、昌秀だった。

 侑人は驚かなかった。来るかな、と思っていた。昌秀は実家の玄関で、靴も脱がずに、「絵を描く依頼を譲って」と言った。

「……とりあえず、あがれば?」

 侑人は言った。けれど、兄は侑人の目を見て、動きもしない。

「なんで僕じゃないんだ」

 兄は言った。その声には怒気が含まれている。

 侑人は、昨日、兄に宛ててメールを送っていた。電話で話そうか悩んだけれど、会話が出来てしまうと、こういう展開になるのではないかと危惧したのだ。

(自分の将来を決めた途端に……)

 あっちからも、こっちからも、ゴチャゴチャと。

(ままならないなぁ……)

 侑人は思わず苦笑してしまう。兄はそんな侑人を見て、ムッとしたようだった。

「まだ小さいキャンバスとスケッチブックにしか描いたことない侑人に、大講堂の絵なんて描けるとは思えない。悪いけど、これは嫉妬だけじゃない。事実として、言う。侑人には無理だ。僕に譲ってくれ」

 燃えるような瞳で口を動かす兄を見て、侑人はニヤッと笑った。それは、もちろん優越の笑みではない。悪戯を提案する時の、子供の顔だ。

「奇遇だね。俺も自分でそう思う。それで、兄貴に提案したいことがあるんだ」

 侑人は言った。

「あがったら? 俺の部屋で話そうよ」

 弟が反論してくることを想定していたのだろうか。昌秀は、ポカっと口を小さく開けたまま固まった。なんともへんてこな顔をしていて、侑人は兄の間抜けた顔を久しぶりに見たなと思った。

 侑人の部屋。昌秀は侑人のベッドの上に、侑人は勉強机の椅子に座って対面した。

「……で、提案って、なに?」

 昌秀は言った。侑人は、ジラしても仕方がないと思って、昨日大学から貰った概要書を兄に渡した。

「前に兄貴が描いたヤツより大きい、今度の方が」

 侑人は言った。昌秀は、食い入るように書面を見つめて読み込んでいる。

「いや、でも、縦横比としては、前回の正方形よりバランスが取りやすいな……前は余白部分をどう構成しようか随分と悩んだ……」

 兄はブツブツと言いながら、三枚の紙をペラペラと動かして集中している。侑人は、これ以上兄に集中されると、話を聞いて貰えなくなりそうだったので、切り出した。

「この絵、俺は兄貴と二人で描きたいって思ってるんだけど、どうかな」

 昌秀がピタッと動きを止めた。呼吸も止めたかもしれない。急に置物のようになってしまって、動かない。

「もちろん、依頼されたのは俺だから、俺が主導権を持たせて貰うけど。でも、兄貴の言うとおり、俺は大きい絵を完成させられる自信なんてない。それに、正直な話、まだ人に絵を見られるのにも、抵抗がある」

「まだそんなこと言ってるのか」

 兄は急に生気を取り戻して、責める声を出した。

「仕方ないじゃん。ずっと、見せないつもりで生きてきた」

「申し訳ないが、僕にはその気持ちだけは、永遠に理解できない」

「批判されるのが怖いって、そんなに理解できない気持ちなの?」

 侑人は、真剣に尋ねた。昌秀は、一瞬言葉に詰まった。そして、小さくため息をついて、改めて侑人に向き合った。

「それで……? 自分が描いた絵を見られて、批判されるのが怖いから、僕にも協力しろって言うの?」

 侑人は頷く。

「兄貴は講堂の絵が描きたい。でも頼まれたのは俺。俺も、前に進みたいし、今回の依頼を、画家としてやっていく足掛かりにしたい。でも、俺が描いた絵が新しい大講堂に飾られて、それで多くの人の目に触れるのかと思うと、それはあんまりにもハードル高すぎ」

引きこもりに、突然、世界一周旅行しろって言ってるみたいなもんだよ、それ

 侑人が言うと、昌秀は少し笑った。

「どういう例えだよ、それ」

「俺的には、そのくらいの気持ちだってこと」

 侑人が言うと、昌秀は考えるような顔をした。

「兄貴にとっても、悪い話じゃないと思うんだけど……」

 腕を組んで、天井を見ている兄に、侑人は恐る恐る言った。兄は「ちょっと黙ってて」と静かな声を出す。侑人は黙った。

 変な緊張が、部屋を漂っている。どのくらい沈黙が続いただろうか。侑人には、果てしなく長い時間に感じられたけれど、それはほんの数分のことだったのかもしれない。

 昌秀は、独り言のように、天井を向いたまま言った。

「僕の専門は水彩、油は侑人の方が得意……侑人は構図を作るのが上手い、悔しいけど、僕より配置やデザインのセンスは良いんだろうね……」

 急に誉められて、侑人は唇をキュッとさせた。昌秀は天井から視線をはずして、侑人を見た。

「でも、色彩のセンスと、画力、技術は、圧倒的に僕の方が高い。経験の差もあるから、そこは覆らない」

 ハッキリした物言いには、兄のプライドが感じられた。侑人は、猛然と悔しかったが、黙っていた。

「侑人、一緒に絵を描くっていうのは、お前が思っているよりもずっと、大変なことだ。それでもやる覚悟があるの?」

 昌秀は言った。

「あるよ。というか、俺にはそれしか道がない」

 侑人は即答した。

「俺はひとりでは絶対に描けない。でも、兄貴に丸ごと譲る気もない」

 学長たちに大見栄を切った手前、やっぱり兄貴に描いてもらいました、なんて絶対に言いたくなかった。昌秀は、侑人の目を睨み据えて、黙った。そして、ゆっくりと口元に笑みを浮かべて、言った。

「わかった。じゃぁ、ここで。今回の絵の制作で」

一生分の兄弟喧嘩をするつもりでやろう


 兄の言葉に、侑人は息をのんだ。妥協なく、本気でぶつからなければ、良いものは描けない。侑人にだって、それはわかっている。

(そうだ……つまりは、兄貴と、)

 思い切り喧嘩が出来なくては、思い切りぶつかり合うつもりでやらなくては、二人で描くことなど、出来ないのだ。侑人は、再びの覚悟を握りしめる。

「クレジットはどうするつもりなんだ?」

 兄が言った。描いた絵に入れる、画家本人の名前のことだ。

「名字で良いでしょ。兄弟なんだから」

 侑人が言うと、兄が笑いを堪えるような顔をした。

「……大講堂って、位置、変わらないんだろう? じゃぁ校舎の東側にあるじゃないか……東側に飾る絵に「西」ってクレジット入れるのか?」

 侑人は「あー」と思った。今、気がついた。

「急にこんな馬鹿でかい絵を描けって依頼してくるんだから、しかも自費で。そのくらいの意地悪しても、許される気がするけど?」

 侑人も兄と同じ顔をして、笑いを堪えた。

「わかった。クレジットについては、それで良い。でも、侑人が主導者ってのは納得してない。僕のが年上なんだから、僕に主導権を渡してくれたら、了承しよう」

 昌秀は言った。

「大人げないぞ」

「大人げなくて結構だ。ここは譲れない」

 兄は、ガンとして聞かない。そして、侑人にはそこまでの情熱と執着は、まだ芽生えていなかった。

「わかったよ、じゃぁ、兄貴が主導で。でも大学側には主に俺が描いたってことにして欲しい。これ、卒論の代わりになるらしいから」

 昌秀は、かなり渋々という様子であったが「わかった」と言った。

「僕のアトリエで描こう。描き始めは来年の四月? 構想とか、描きたいテーマとかは決まってるのか? このサイズのキャンバス、部屋に入るかな……業者に頼んで、部屋の中で木枠から組んで貰うとして……壁側の家具を全部どかして、サイズ間に合うか、調べてくる……それに絵の具も、特殊な色を使うのなら、早めに確保しないと、」

「待っ、ちょっと、待ってよ、気が早い!」

 ツラツラと流れるように発言する兄を、侑人は両手で制した。昌秀は、すっかりやる気になっていて、体中から何か生命力のようなものが、溢れ出ているように見えた。目が、キラキラしている。

「だって、はやく描きたくて、そわそわするだろ、こういう大物は!」

 昌秀は言った。兄のそういう気配にあてられたのだろうか。侑人も、なにか、意味もなく楽しい気持ちが。胸の中に、体の中に広がっていくようだった。

 ムズムズする、ワクワクする。伝染する、沸き上がる、意欲と緊張感。凛と寒く、よく晴れた、クリスマスの朝みたいな、そういう気持ち。

 侑人は兄の目を見て、はっきりと言った。

「今は、なんの構想もないけど。でも、でもさ、兄貴」

今度は絶対に、誰にも壊されない絵を、圧倒的な絵を、描こうよ

 侑人のその言葉に、兄の目には更なる炎が宿ったように見えた。

 その日、兄は実家に泊まっていくことになった。父の帰りを待って、侑人と昌秀は、父母に、改めて絵の制作に関する援助をお願いした。寄贈するだけなので、ギャランティーは発生しない。おまけに、画材含めて制作費用も全額自費。大きな絵なので、構想や下書きも含め、制作にはかなりの期間と費用を要する。

 それも、兄弟二人で描くのだ。意見が常に完全一致するとは思えない。互いに納得のいく結論を出しながらの制作となると、ひとりで描くよりよっぽど時間がかかりそうだ。

 その間、昌秀は自分への絵の依頼の一切を断ることになる。元々、そこまで多くない収入だったが、講堂の絵を描いている間は完全に収入ゼロになるのだ。

 侑人に関しても、言うまでもなく収入ゼロ。両親に資金援助をして貰う他にない。父も母も、しっかりと二人の言い分を聞いてくれた。父は少し涙ぐんで、

「私も、若い頃、本当は画家になりたかった……才能がなくて、すぐに諦めてしまったけど。その諦めた道の先に、お前たちがいるんだなぁと思うと、なんだかなぁ……たまらなくなるなぁ」

 と言った。昌秀も侑人も、父が画家になりたかったなんて初耳だった。過去の様々な選択肢、その先にあるのが、今、このときなのだ。誰にとっても。


 夜、昌秀は侑人に「侑人の部屋で寝ても良い?」と尋ねた。侑人も、今日ばかりは文句を言わずに「いいよ」と答えた。

 早々に部屋の電気を落として、侑人はベッドに、昌秀は布団に入った。

 冬の足音が静かにゆっくりと近付いてきているように感じる、涼しい夜だった。

「侑人が前に言ったように、ウチは恵まれてるんだなぁ」

 ほんのりと青みのある暗い部屋の中で、昌秀が呟いた。

「普通の家じゃ、こうはいかないよ……芸術の道、目指したくても、目指せない人もいるし……美大生みたいに、自分で道を切り開かないといけない人もいる」

 昌秀も侑人も、美術大学に進学したわけではない。けれど、日本画家の祖母と、画廊主の祖父、父を持っていれば、それだけでアチラ側へのパスポートを手に入れることが出来る。芸術の大成には、運と実力が必要とよく言われる。

「僕たちは、運の方は、最初から持ってた感じになっちゃうもんねぇ……あとは実力だけ」

「それもそれでプレッシャーで死にそうになるけどね」

 侑人が言うと、昌秀はポツンと、虚空に投げかけるみたいに、

「侑人、お前は、死ぬことを考えたこと、ある?」

 と言った。侑人は少し間を置いてから、

「……それは、モチーフとしてってこと?」

 と尋ねた。

「ううん。自殺の方」

 兄は言った。まっさらな、純粋な声色に聞こえた。

「……ないな」

 侑人が答えると、昌秀は「僕はいっぱいあるよ」と言った。その言葉について、侑人はなんと答えて良いかわからない。

「侑人、もし、この先、画家として生きていく中でさ、本当に本気でじゃなくてもいい。本気じゃなくても、死にたいなぁって思うことがあったら、僕に言いなさい」

 兄の声には、年長者の経験が滲んでいる。

「僕は、誰にも相談できなかった。誰にも。本気で死にたいって思ったら、友達にも相談できたかもしれない、真剣だったら。でも、真剣とまではいかないんだけど、なんだか限りなく、死に近寄ってしまっている瞬間みたいなのが、たぶん、あって。でもそういう、曖昧な、本気か本気じゃないか、自分でもわからないような死にたいっていう気持ちは、友達にも、ましてや親にも、相談できないものだろう? 本気でもないのに、心配かけるのも違うし。でも、誰かに聞いて欲しいくらいには、手の届くところに、死ぬことへの、憧れが沸いてきたりするんだ」

僕は誰にも言えなかったけれど、侑人には、僕がいるから、何かあったら、なんでもいい、なんでも、それは、話して欲しい

 昌秀は、布団の中から、侑人の方を見ているようだった。侑人は、兄の方は見ないようにした。あまりにも切実な言葉だった。今までの、兄の人生の孤独が、切なかった。前を歩く人がいる心強さよ。

「じゃあ、次の質問ね。侑人、お前、恋したことある?」

 昌秀は、少し声色を明るくして言った。話題の飛躍に、侑人は笑った。

「なんだよ、変な絡み方してくるなよな……」

「いいだろう? こういう話、あんまりしてこなかった」

 昌秀も笑った。侑人は、心の中、当たり前のように彩輝の顔が浮かぶ。

「……恋、未満? っていうか……完全な、妄想片思いっていうか……そういうのしか、したことない……」

 侑人が言うと、

「柏木姉か」

 と、昌秀が言った。大正解過ぎる回答に、ブッと侑人は吹き出した。本当に、むせてしまって、ベッドの上でゴホゴホと咳込む。鼻の奥がツンと痛んだ。

「わかりやすいなぁ~」

 兄がクックックと喉の奥で笑っている。

「なんで知ってんだよ」

「スケッチブックになぁ、あんだけ大量に……」

「なんであれが彩輝さんだってわかるんだよ、別に、普通だろ、裸婦スケッチなんて、みんな、やるし、」

 侑人は、ムキに、そして早口になった。

「えー、だってめちゃくちゃ大輝に似てるし。あそこ、兄弟三人とも似てるのかな。侑人の友達……名前なんだっけ?」

「……悠輝」

「悠輝くんかぁ。彼も似てるの?」

「……まぁ、似てる……って言わせんなよ! 俺が友達を女体化して描いた変態みたいになるだろ……!」

「友達の姉の裸体描いてるんだから、十分変態だろ」

 昌秀は容赦なく言った。侑人はもう、何も言い返せずに顔が熱い。

「お前は昔から、怒ると言葉が出なくなるねぇ」

 昌秀は優しい声を出して笑った。それは、小さい小さい、子供に対する声だ。

「ねぇ、侑人。僕ね、昔……って言っても本当に、お前が産まれたばっかりの頃だけどさ。ずっとね、自分のこと「オレ」って言ってたんだよ。「僕」じゃなくてさ」

 兄は時を巻き戻すみたいに、横たわる侑人の体の中に、遠い過去を見つけようとしているようだった。面影を、探すような空気が、部屋の中をゆっくりと動く。

「侑人が産まれるって知った時、九歳くらいだから……小学校の三年生とか? そのくらいだったんだけどさ。幼心にねぇ、これから産まれてくる弟は、きっと僕の言葉を一番に真似するんだろうなって思ってて、そしたら、弟には「オレ」じゃなくて「僕」って言って欲しいなぁって思って。その時から、自分のこと「僕」って呼ぶようになった。はじめ、母さんがビックリしてね、どうしたのアナタって。「僕」って言うたびに、笑われたけどさ」

そのうち、本当に慣れてしまって、僕は「オレ」じゃなくて「僕」に成りきってしまったね

「弟のお前は、そんなこと微塵も知らずに、いつの間にか勝手に「俺」になっちゃったし。せっかく口の良い子に育てようと思ったのに」

 昌秀は言った。侑人は、ベッドの中、自分で自分の足を擦り合わせながら、

「……俺、別に口悪くないし……それに、小学校にあがるくらいまでは、俺も「僕」って言ってた気がするし」

 と答えた。記憶をたぐり寄せる。小学校にあがった直後に仲良くなった子が「俺」と言っているのを聞いて、格好良いなと思って真似したのを覚えていた。

「家族の間でもさぁ、こうやって、小さいことも、大きいことも、思うとおりにはいかないもんだよね。当たり前だよね、違う人間だしね」

 昌秀は、少し寂しそうな声で言った。けれど、その声には、清々しい雰囲気もあった。

 侑人は、父や祖父が、兄弟のどちらかに画廊を継いで欲しいと思っていたことを、再び考えた。兄にそのことを話そうかとも思った。兄は、そのことを知っているのだろうか、とも思った。でも、辞めておいた。どちらにしても、自分も、兄も。もう、違う道を目指すことを決めたのだ。

「……俺さ、兄貴のこと、怖かったよ。画家になるって、なんとなく決めてから……兄貴が、別人みたいに見えることがあったし……」

 侑人は言った。このまま、仲の悪い兄弟になってしまうのではないか、という危惧も、なかったわけではない。

「え、今更? 結構怖いって有名だよ、僕」

 昌秀は笑った。

「兄貴のこと、怖いとか言う人いるの?」

 家族の前でも、もちろん外でも。誰に聞いても、昌秀は温厚で優しいと言われている。お父さんに似たのね、とも。

「よく怖いって言われるよ、彼女に」

 昌秀はサラリと言った。侑人は「え」と大声を出した。澄んだ声が、思いの他、高音でキンと部屋に響いた。

「うるさ」

 兄は迷惑そうな声を出したが、侑人はそれどころではない。

「え、待って、兄ちゃん、彼女、いんの?」

「あ、今、兄ちゃんって言った」

 昌秀は布団から体を起こして、嬉しそうに侑人を指さした。

「うっさい!」

 侑人もガバッとベッドの上で起きあがる。呼び方なんて、そんなことは今、どうだって良いのだ。

「嘘でしょ、全然知らなかった……兄貴は絶対、永遠に彼女とか作らないタイプの人間だって思ってた」

「酷いなぁ。そんなに興味なさそうに見える?」

「見える」

 昌秀は暗い部屋の中で、ケラケラ笑った。

「こう見えて、お前のお兄ちゃんは結構モテるんですよ」

 それについては、侑人は納得するし、反論はない。兄は侑人の中では、柔らかく整った顔立ちの、良い男なのだ。身内の贔屓目もあるだろうけれど、それを抜いても、モテるだろうなと思っていた。

「……兄貴の彼女、絵、描く人?」

 侑人は尋ねた。拗ねた心が小さくグツグツ鳴っている。何に対する拗ねなのか、自分でも理解不能だった。

「ンなわけないじゃん。絵を描くヤツは全員、敵だもん」

 昌秀は悪びれもせずに言った。

「え、心狭っ」

 侑人が言うと、兄は侑人を見て、

「そのうち侑人にもわかるよ」

 と、諭すように言った。わかりたくない、と侑人は心から願う。敵が多い人生を、生き抜ける気がしない。

「……兄貴は、俺のことも敵だと思うの?」

 侑人は小さな声で尋ねた。

「んー……」

 兄は、笑いながら唸った後、

「家族だからねぇ、敵だとまでは、思わないかなぁ……」

 と曖昧なことを言った。

「でも、前にも言ったけど、怖いよ、オレは。お前のことが」

「あ、今「オレ」って言った」

 今度は侑人が兄を指さした。昌秀は眉をハの字にして笑った。

「やっぱダメだな、なんか自分の中で違和感がすごい。すっかり「僕」で定着しちゃってる。慣れないことはするもんじゃないね」

 昌秀はそう言うと、パタッと布団の上に再び寝ころんだ。掛け布団をたぐり寄せて、眠る姿勢に入っている。侑人は、モゾモゾ動く兄を、ベッドの上から見守りながら、

「俺のこと……怖いって思ってくれるんだ……」

 と、呟いた。兄は「悔しいけどね」と、侑人と同じように呟く声で言った。

 侑人も、再びベッドの中に潜り込む。

「侑人、絵、勝手に見て、ごめんな」

 兄の声が、柔らかく響いた。

「いいよ、もう。それに、俺、兄貴が意外と臆病なこと、知ってたわ、そういえば」

 臆病で、失敗が怖くて、傷付くのが怖くて、諍いが嫌いな人だった。兄は、そういう人だった。侑人と昌秀は、よく似ているのだ。

「そうだねぇ、昔から、僕も侑人も、臆病で……ああ、父さんもそうかな……結構強いのが母さんだね」

 兄が言った。侑人は笑った。

「ほんとそれ。俺、未だに母さんに口出せないもん。なんか言葉が強いんだよなぁ、声の時点でも負けてる。……あと、ばあちゃんも強いよね」

「女性は強いねぇ」

 兄がしみじみと言った。

「僕の彼女も強い系だから……そういう人とバランスが良いのかもなぁ。侑人もたぶん、そういう系の人を好きになるよ」

「あ、確かに」

 侑人は納得した。彩輝も随分と強そうなタイプだ。社会人としてバリバリ世の中と戦っていけるだけの強さがある。

「なに、柏木姉、そういう感じ?」

「うん、そんなだった」

「あそこの家は、全員そういう感じなのかなぁ、大輝も強いんだよなぁ」

「柏木兄?」

「そう。侑人の友達、末っ子だろ? 大変そうだなぁ」

 兄の言葉に、侑人は「すげー良いヤツだよ」と答えた。

 昌秀は「わかるよ」とだけ言って、黙った。それきり、兄弟の会話は自然と途切れた。

 侑人は、こういう曖昧に良い雰囲気の夜のことも、絵に描いて留めておきたいと願う。

 良い空気や、良い時間。風景や人物だけでなく。カタチのない、流れていくようなモノも。どうにかこの世に留めて置きたい。

 侑人は、兄のように、後世まで自分の絵を残したいとは思わないけれど。

 けれど、良いと感じたことの全てを、目に見えるカタチに表したいと願って止まないのだった。


 *

 大学四年の春から、侑人は滅多に大学に行かなくなった。もちろん、卒業単位は足りているし、大学側にも了承を得ている。

 そして、大学の代わりに、毎日のようにアトリエである兄の家に通っている。

 構想から話し合って、話せば話すほどに喧嘩になった。兄の宣言した通り、これは絵の完成までに一生分の兄弟喧嘩をすることになるなと、侑人は実感している。

 そして、絵を描くことに対して、こんなにも自分が熱くなれるのだということも、改めて実感している。

『久しぶりだなぁ、侑人。調子はどうだね。順調かい?』

 時折、柏木から電話がかかってきたりもする。侑人にとっては、いろいろな事情を知っている上に、愚痴もこぼせる数少ない相手である。

「毎日、順調に大喧嘩してるよ」

 侑人は苦笑した。作業部屋の方から兄の声が響いてきた。

「侑人! 金の絵の具、もっと買い足せって言っただろ! これじゃ試し描きするのにも全然足りない!!」

 などと叫んでいる。

「うっさいな! 今、電話してる!」

文句あるなら、たまには自分も買いに行けよ!

 侑人も負けずに叫んだ。電話の向こうで柏木がゲラゲラ笑っている。

『仲良くやってるようで安心したよ』

「たまには息抜きしたい、遊んでくれ」

 侑人は言った。柏木は「いいとも」と請け負いながら、

『今日は俺からも、ひとつ報告があって電話したんだ』

 と言った。

「なに、どうした?」

 侑人が尋ねると、柏木は心底楽しそうな、嬉しそうな声で言った。

『今年の夏、俺は兄が憧れている有名バンドのツアーに、ローディーとしてついて行くことになった!』

「おお……! マジか、なんていうバンド……?」

 柏木が同行することになったバンドは、侑人でも、侑人の兄でも、なんなら母や父でも知っているような、超有名バンドだった。

「え、すご……なんでまた、そんなことに……」

『就職先のライブハウスが、実は彼らのバンドの原点らしくてなぁ。店長とボーカルが旧知の仲らしい。年代も同じようなものだから、合点が行くよ。それで、大きいツアーになるから、ローディーの数が足りないって店長に相談があったらしくてな。俺が同行することになった! しかも、ボーカル専属のローディーだ!』

兄が羨ましがってなぁ、サインを貰ってくるように頼まれたりして、なんだかちょっと、してやったりというか、見返せたというか……

『俺もまだまだ、思考が幼くて、ロックじゃないなぁと思うけど、なんかな、ちょっとスッキリした』

 柏木は言った。侑人はその声からも、柏木の心の中の風を感じられる気がした。

「柏木の兄貴も、ちょっと、心が軽くなったんじゃないか?」

 侑人は言った。柏木は「そうかもしれんなぁ」と笑った。

『結局、前を歩いてる兄たちも、その後ろを歩くしかない俺たちも、そこそこ苦労するという話だし、お互い様だなぁと、思えるようになってきたよ……』

 柏木は言った。

『俺が抜擢されたのも、店長の推薦があっただけじゃなくて、兄貴がロクロックのボーカルだってのがあったからだと思うしなぁ。兄貴様々だ』

「そう言われると、俺もそうだな。兄貴が講堂の絵、描いてなかったら、俺に次の講堂の絵を、なんて……誰も頼まなかっただろうしなぁ」

 兄たちの蒔いた種が、今の自分たちが歩く道の、その端々で咲いていたりする。そういう、恩恵みたいなものを、確かに感じ取れるようになってきていた。

 絵の完成を楽しみにしているよ、と柏木は言った。侑人は、完成までかなりかかるから、その前に遊んでくれと再度懇願して、柏木に笑われた。

 電話を切った後、沸々としたやる気が、全身に満ちてくるのを感じる。

(友達の威力っていうのも、本当に凄いもんだな……)

 侑人は、柏木という人間に出会えたことも、有り難く思った。あの日、あの時、あの場所で。あそこで出会わなかったら、きっと声を掛け合うことなんて、なかっただろう。

(兄貴の絵があったから……)

 あの絵が、二人を繋いだのだ。

「絵の力って、そういうもんかもしれないなぁ……」

 見えない力、何かを引き寄せたり、繋げたり、包んだり、満たしたり。必要な人には感じられる魔法のようなもの。


 常に、前を歩く者たち。常に、後ろを歩く者たち。けれど、両者とも、進んでいくしかない。自分の道を。それぞれの運命を抱えて。得をしたり、損をしたり。それぞれに、互いを羨み、妬み、時には優越を感じながら。

 自分自身で歩くしかないこの人生に、孤独とか、ままならない感じを覚えながら。

(絵も、音楽も……)

 そういう、誰もが持っている心の中の、小さな穴みたいなものを埋めたり、癒したりするために、存在しているのかもしれない。少なくとも、侑人は、そういう役割を果たせる絵が描きたいと今は思っている。

 後ろを歩く僕たちは、前を歩く彼らの咲かせた花を見つめながら。

 そのまた後ろを歩く誰かへ向けて、種を、蒔いて。

 いつの日か、それぞれに。

 春が訪れる日を、ただ祈り、願うのである。

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後ろを歩く僕たちは @ueda-akihito

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