続・此岸の日々

藤宮史(ふじみや ふひと)

第1話

 19歳の夏に、単身上京して、世田谷区の、小田急線東北沢駅付近のアパートの一室に落ち着いた。落ち着いたと言っても、上京当日、新宿駅構内の公衆電話からアルバイトニュースに載っていた仕事に応募していたから、ゆっくり落ち着いたスタートとは言い難い。それでも、すぐに仕事にありついて、東京生活は始まった。

 あの頃は、油絵を描いていた。現代美術以外に美術はない、と信じていたわりに古臭い油絵を描いていた。而も、印象派のポール・セザンヌやクロード・モネ、エドゥアール・マネ、それにエコールド・パリの画家モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニを信奉していたのでは、本当にモダン・アートを目指して制作していたとは思えない。

 それに現代美術の筈なのに、実際公募展にキャンバスに描いた油絵を出品していたので、益々進路は不明瞭であった。併し、画家人生最初の入選が、初出品で果たせたことは幸せだった。事実、私は内心有頂天になり、既に一廉の画家になれた気がしていた。

 その後、油絵を描きつつアルバイト生活を続け、一年間の生活のなかで、いったい自分は油絵を描いているのか、アルバイト仕事をしているのか判らなくなった。アルバイトの拘束時間が長く悩み出したわけである。慥かにアルバイトをしないと飯は食えず、併し、アルバイトをしていると油絵は描けない。だから、私は、えいっ、とばかりにアルバイトを辞めてみた。ひと月25日間のアルバイト生活を辞めたわけであるが、日雇いの仕事に代えてみると、今度は極端な金欠状態に陥っていった。最初にキャッシングのカードを作ったのは丸井だった。限度額は10万円であったが、その頃も、翌月の返済のあてはなかった。

 その後、どうにか日雇い仕事をしながら油絵を描いて、次に、油絵が売れないものかと考え始めた。元々画家は職業の筈であったから、私の考える画家は、絵が売れて生活ができる者の筈であった。そして、有名なら尚よかったが、まずは絵を売ることであった。併し、不幸にして私の油絵は神田神保町の無学な額縁屋の親爺にも痛罵されて売れなかった。それから、銀座の有名画廊に行っても門前払い状態であった。

 私は、失望し日本の美術界を恨んだ。併し、手をこまねいておれない。21歳のときに、4万円の金をつくって小型エッチングプレス機を買った。これは銅版画を印刷する道具である。ペーパーサイズでB4の寸法まで印刷でき、これさえあれば絵で食ってゆけると思った。このアイデアは版画家の池田満寿夫に影響されたからであったが、もとは池田の師匠の画家瑛九の、池田に対する助言であった。私も、それに従った形である。

 併し、私のエッチングは最初に作ったものがうまくゆかず、暫く押入れのなかでプレス機は眠ることになる。そして、再びエッチング制作に挑戦して、今度は、やや満足のゆくものができ、この版画をアルバイトしながら毎日5枚ずつ刷っていった。

 ようやく油絵制作に行き詰まり、手を止めたのは23歳のときであった。もっとも、油絵の他に銅版画、コラージュ、小型の立体作品(白セメント製)を並行して作っていたので、すべての制作が止まったわけではなかった。併し、作品はどれも売れなかった。かろうじて小型銅版画のが一枚300円で知人たちに2枚売れたが、3年間の成果が600円だった。

 それから私は、都落ちをし、再度上京して杉並区の阿佐ヶ谷の三畳ひと間のアパートの部屋に籠った。

 現代美術の夢は枯れ果てて、もはや敗残の人生のようであった。日雇いの土工仕事に出る日々であった。併し、それでも、24歳の私は夢を捨てきれず、若い仲間を集めた。同人雑誌を作ろうと考えたのである。

 同人雑誌と云っても、昨今のマンガのコミケなどで売られている雑誌ではなく、美術の、銅版画や木版画、手作りの詩篇のページを綴じて、所謂高尚な芸術雑誌を作ろうと考えた。大上段に構えたのである。不遜な、若気の至りであった。・・・できれば世界の美術史に残るような素晴らしい雑誌を、美術作品と言って差支えないようなものを作りたかった。併し、実際の結果は、雑誌は未発行、仲間たちは一年程で散り散りになった。私の心のなかには澱のような慚愧ばかりが残った。

 他人はあてにならない、と云う教訓を胸に、それでも仲間を集めずにはおれなかった。29歳のときに、またしても同人雑誌を作った。今度は未発行に終らぬように余り気張らなかった。雑誌の表紙を新聞のような体裁にして、誌名を「東京カレハ」とした。初版500部発行であったが、165部しか作れなかった。製本を手作りしていたが、製本の工程が多くて一日に作れる数が10部もなかった。私一人だけで編集、印刷、製本、書店への納品を負担して、同人に協力しあう雰囲気は皆無であった。併し、楽しくなかったと言えば嘘になる。連日のように、編集会議の名目で同人たちと飲み歩き、遅い青春を謳歌していた。

 猫の絵柄で、木版画を数枚作ったのは、やはり版画の冊子を作って売ろうと考えたからであった。併し、これも過去何度か計画し、その度、頓挫した版画冊子のひとつであった。その木版画制作から数年経った或るとき、この版画を偶然知人に見せる機会があり、知人から熱心にこの木版画制作を勧められ、それから、少しずつ作っていった。

 初めて木版漫画を作ったのは2001年であった。4コマ漫画を、猫の絵柄で、抒情豊かに詩的に縦型に描いたもので、黒の単色に手彩色したものであった。そして、20枚の長めの木版漫画制作は2004年が最初で、これは私にとっても生まれて初めて描いた20枚の漫画作品であった。台詞のない漫画作品である。

 その最初に作った漫画が、はじめて投稿した漫画新人賞に入選できたのは幸運と云うよりほかにない。その後、気をよくして定期的に木版漫画を一作3ヶ月間程でつくり、雑誌に投稿していった。雑誌に掲載するかたわら、自分たちでも木版漫画の冊子を手作りして書店へ納品し、直接インターネットで販売した。

 結局、手作り冊子は文化庁主催の展覧会で2度入選、出版社刊行の漫画本は1度入選、計3度、推薦作品とされた。また、或る地方の漫画コンクールでは最優秀作品賞を受賞している。併し、私たちは木版漫画で生活できなかった。


 阿佐ヶ谷のトンコ堂書店への納品は特別の思いがあったわけでも無かった。ただ近所で納品が容易だろうと思っただけで、他に理由はない。

 この店には、以前から帽子を被りマスクをし、立ち読みしたり本を買ったり、目立たぬように時折来ていたが、今日はマスクをとって名前を告げて納品に行った。

 店主は30代前半の男性である。線が細く、頼りない感じである。私は、冊子の納品に来た旨を店主に告げると、店主は、知っていると云う顔になって拒否の姿勢に転じていった。そう言えば、ここの店主は、もとは西荻窪の古本屋の店員をしていて、そこを辞めてこのトンコ堂を開店させていたわけで、すると、西荻窪の店には、私は以前から冊子を納品していたので、店主は既に冊子の不人気を実感していたものだろうか。

 併し、半ば強引に冊子を納品して、私は部屋に帰った。

 私の顔を見ると、早速、万優子は納品の成果を訊いてきた。

 「ああ、うまくいったよ。全部納品できた。あと、額装の木版画もなんとか押しつけて来たけど、売れればいいね。この調子で、杉並近辺の古本屋を回って、取り扱うように説得して歩くしかないけど・・・・・」

 ここまで喋って言葉が切れた。

半分こちらの事情が判ったトンコ堂ですら納品の感触は悪く、他の書店では、初めから木版漫画の説明をしなくてはならず、先行き不透明である。

 芸術家は作品だけ作っていれば、よいと云うものでもない。地道な営業活動も制作のうちである。併し、人に会って頭を下げ、つくり笑いの営業をしていると、段々と芸術的気分も破壊され、木版漫画づくりも出来なくなる。営業活動と制作活動は両立しないものらしい。併し、急いで折り合いをつけないといけない。


 テレビ画面から、また安保法案のニユースを流している。どうやら参議院でも可決され本決まりになったらしい。愈々本格的に日本も戦争を是認する国に逆戻りする。

 併し、相変わらず私の生活にそれほどの変化はない。

 「どうなるのかしらね? すぐに戦争がはじまるのかしら?」

 「いや、始まらないよ。でも、いずれ自衛隊員に戦死者が出るね。そのとき、日本の人たちがどう思うかだけど、案外、すんなり馴染んでしまうかもしれない。前の大戦の時もそうだったし、どんどん国からの要求もエスカレートしてゆくと思う」

 「そうね、今だってマイナンバーとか言って、洩れなく税金を徴収するシステムをつくったし、お金がないのに、将来私たちに払わないのに厚生年金は取るし、莫迦高い社会保険料は取るし、それに児童ポルノ単純所持法とか云って、無闇に普通の人たちに難癖つけるアイテムは手にするし、国はやりたい放題ね」

 「どんどん悪くなっているのは慥かだ。小泉政権時代に郵政民営化をしただろう。あれだって、日本をアメリカに売り飛ばしたとんでもない話らしい。それからPKO法案と言っては自衛隊を海外に派兵して、今の下地をつくっていったんだろう。もう25年もまえから段取りを踏んでいたんだね」

 「結局どう云うことになるのかしら、日本は?」

 「あと30年もしたら、日本はアメリカになるんじゃないかな。自動的に併合される。30年経てば、戦後百年で区切りがいいし、そんなことを考えているとしか思えないな」

 「でも、30年後だったら、私たち死んでいないんじゃない?」

 「そうだろうな。われわれが死んだとしても、日本は、日本の文化として残っていて欲しいと思うよ。そうじゃないと、苦労して木版漫画を作っても仕方がないだろう。木版漫画は日本語で作っているから日本が英語圏になったら埋もれてしまうよ」

 「それは困るわね。じゃ、木版漫画も日本語から英語にしてみたら、どうかしら?コマの運びを右から左ではなく、左から右、漫画の台詞のふきだしも縦型から横型にしたら?」

 「なんだか、やけに発展的だね。今頃から日米併合対策を執るわけね。慥かに、ナチスドイツ時代では頽廃芸術家の烙印を押された画家たちはドイツを捨ててアメリカに行ったりイギリスに行ったりしていたからね。芸術家はしたたかに、国家の思惑など気にせずに生きてゆかないとね。・・・でも、アメリカに併合されなくて、ロシアの併合だったらどうしよう。ロシア語だよ。左から右は同じだけどね。いや、まてよ。強力に台頭してきている中国だったら、どうだろう。今度は日本語とおなじで右から左だ」

 「全部やっておけばいいんじゃないかしら」

 「おいおい、簡単に言うね。英語だけでも大変なのに、ロシア語、中国語じゃ、いくら時間があっても足りないよ」

 今、戦争が起きて、日本の国土が戦場になっても生き延びて、木版漫画を作っていようと思う。それだけの覚悟はあったが、日本人が誰ひとりいなくなって、それでも木版漫画を作ってゆくべきか。作りたいのか判らない。だいたい私は誰にむけて木版漫画を作っていたのであったか。考えずに読者に日本人を想定していたが、外国語に翻訳することは考えていなかった。それは、きっと外国人には木版漫画が判らないだろうと思っていたからであったが、実際、妻と話しながら新たな思いが広がっていった。

 日本政府の施政方針や世界の情勢など私たちの生活に遠いようでいて慥かに影響があったが、実感としてはあまりない。いま私たちにとっては、これからの生活をどうやって立ててゆくかが問題であり、心配事はそれだけであった。安保法案も多少気にはなったが、すぐに戦争がはじまるわけでもない。政治家の答弁ではないが、私たちの当面の、喫緊の課題は、消費税等での無理な課税、更にまた近年中に消費税が上がることと物価の上昇、賃金の抑制などであろう。賃金の抑制は、もともと私たちには非正規の日雇い、アルバイト、パート仕事の経験しかなく、これからも非正規のみの最低賃金であろうから、正社員の人たちのように年収300万円以上を貰い続け、拡大した生活規模の縮小や生活の質の低下などは起こりようがない。無関係だ。だが極めて低所得なのに都民税区民税などを無理にも徴収しようとする行政の遣り方は納得できるものではなかった。


 それから、若い時分にはまるで気がつかなかったが、加齢による体力の低下は、想像以上に凄まじいことを実感してきた。正直に言うと、私は、若いときには高齢者の身体の不自由に思いを致すことは皆無であった。それが若いと云うことかもしれないが、自分が高齢者の仲間入りをしてみると若者の無関心さは酷薄であることを知る。

自転車に乗りペダルを漕いでいても、この頃では女子高生の乗った自転車に追い越されるのは当りまえになってきた。若い男子であれば私の倍の速度で横を駆け抜けていった。

 また、子供の頃に見て、記憶のあるテレビの宣伝「手足の先の痛み、しびれには・・・」の漢方薬の広告文句は、子供の頃には判らぬが、大人になると、ああ、成程ねと、腑に落ちる。手足の先だけに限らず、ほんとうは全身が、明滅する電飾みたいに、時間を変えて疼いたり痛むが・・・。頭が痛い、頭皮が痛い、肩が痛い、腰が痛い、足が痛い。書きだせばきりがない。これらは多分神経痛と云うものだと思うが、私の場合は、左胸部の肋間神経痛が16歳ぐらいから酷くて悩んでいた。その頃は、神経痛だと思わなかったから、心臓病を疑って病院に駆けつけ、胸部レントゲンを撮り、心電図を取り、採血して血液検査までしていたが病名は判らず、医者は神経性のものだろうと涼しい顔で言っていた。慥かに、その後何事もなく35年近く生存しているので医者の見立てに間違いはなかった。

 一時間以上は歩けない。三時間までしか立ち仕事はできない。併し、それすら歩いたあとは腰が石になって固まり凝って仕方がなく、足も棒のように関節がカクカクして自分の物のようでなかった。

 私にとって一番生活を左右している条件は、安保法案ではなく、消費税や厚生年金などでもなく、木版画や木版漫画の冊子が売れないことでもない。どうも自分の軀の加齢具合であるらしい。20代、30代の頃なら、金が無くなれば気楽に日雇いの8時間の立ち仕事にも行ったが、今は行けない。もう出来ることは限られている。今では、こうしてパソコンのまえに坐して駄文を打っているばかりである。

 20代前半の頃は、社会全体で非正規人員をつくろうとフリーターなる言葉を案出して、一定の成果を出した。私もその言葉に乗せられた一人であったのだろう。併し、時代を経て、それらのフリーターたちは高齢化して、私のように実際働けない者たちが出ている。

 生活保護の認定が出ればいいが、出なければやがてホームレスになってゆくだろう。無貯金、無年金、無保険、そして、住民票も無い状態。マイナンバー制度が始まるらしいが、この制度は底辺の人間を救い上げてくれるだろうか。このまま老人の数が増え続け、年金受給者、生活保護受給者が増加すれば日本の財政は破綻するだろう。すると私たちは、どうなるのか?

 「わたしは、嫌よ! ホームレスになるのは!」

 この頃、万優子は、時折思い出したように間歇的にそう言ってきたが、

 「嫌って言ったって、なるものは成るだろう。これはね、われわれが悪いのではなくて社会に問題があったんだと思うよ。勿論、個人として努力をするのは当然だけど。富の配分に不公正があるのでは、貧乏人は一生貧乏のままだよ。これは国のなかで決められたことだけど、われわれは始めから駄目人間として見捨てられていたのさ」

 「じゃ、やっぱりホームレスになるのね!」

 「いや、しっかりしたホームレスになれれば、まだいいほうだろう。その頃になればホームレス社会でも、多摩川の河川敷辺りでも、小屋を建てるにしてもスペースで争いが起きるだろうな。その底辺の社会でも、弱肉強食になる。チカラの強い若いホームレスにわれわれ老人は駆逐されて小屋無しホームレスになるしかないだろうな」

 「そうなったら、いっそ死にましょうよ。わたし死ぬのは、ちっとも嫌じゃないわ」

 「ああ、そうなったら二人で死のう」

 私は、木版漫画で社会のなかで一定の評価を受けていると思っていたが、約束されている未来は斯くの如くであろうか。ふたりの前途は、日本の運命と共に茫洋としていた。〔完〕


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

続・此岸の日々 藤宮史(ふじみや ふひと) @g-kuroneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ