第8話 騎士と勇者(仮)
その日、少女に十五年の人生で初となる試練が訪れた。
「フレイヤ、おめでとう。巣立ちの時よ」
「……なんの話?」
ぱちくりと瞬きをする。
母のナタリアはにこやかな笑みを浮かべている。変だ。空腹で目を覚ましたフレイヤが昼になってやっと食堂へ来ると、いつもは必ずお小言をもらうのに。
隣には父のトーマスもいた。ナタリアとは逆にしかつめらしい面持ちだ。未だ引きずっていた眠気が少しずつ飛んでいくのを覚え、フレイヤはぶるりと身を震わせた。
愛情深い笑顔のまま、ナタリアの瞳がすっと細まる。
「お母さん、前に言ったわよね。食っちゃ寝ばかりしてたら追い出すわよって。お父さんも同じ意見だから。この家にもうあなたの居場所はないの。今すぐ出て行きなさいね」
さすがによろめきそうになった。母は本気だ。フレイヤの楽園は今ここに終わりを告げようとしている。
「えー、待って待って! そんなこと急に言われたって困る! わたしに死ねって言ってるの?」
「まさか。あなたはお母さんとお父さん自慢の丈夫な子よ。滅多なことでは死なないわ。じゃあね、フレイヤ。元気でおやりなさい。たまには手紙ぐらい寄越しなさいね」
かくしてフレイヤ・サンデルの転落は始まった。
「お腹すいた……」
活力はすっかり品切れだった。フレイヤはへたりと道端にしゃがみ込んだ。
実のところ、サンデル家を後にしてからまだ二キロと過ぎてはいない。ナロード村を出てすらいなかった。それでもだめなものはだめだ。もう歩けない。もっと先に行くには
今にも
「そこの娘、どうした。具合でも悪いのか?」
「ふぇ?」
のろのろと顔を上げる。空腹で
栗色の巻き髪を短めに整え、きりりと引き締まった
少し離れた後ろには、やはり騎乗して剣を差した者達がさらに五人ばかり控えていた。小規模ながら、かなり本格的な一団である。
王女の来訪からわずか数日、立て続けに貴人の姿を目にするのは、辺境の村にあっては結構な変事といってよかったが、フレイヤはそんなことは気にしない。どうやってごはんにありつくかこそが問題なのだ。
ふらつくフレイヤの
「水だ。飲めるか」
「……ん、んくっ、んっ」
娘はためらいなく口をつけると、ぐいと水筒を傾ける。ふっくらした唇の合間から一筋の水がこぼれ、
「はっ!?」
娘の姿に半ば目を奪われていたハインリッヒは、極めて重大な事実に気付いた。
これはいわゆる間接
――これはおざなりにはできない。責任を取ることを考えなくてはいけないのではないか?
ハインリッヒの
「ふぅ、とってもごちそうさまでした。ちょっと落ち着きました……だけど本命はこれからっていうか、一難去ってまた一難っていうか」
ちらちらと上目遣いをして
ハインリッヒは胸の鼓動が高まるのを意識した。慎みのゆえか、娘の言い回しはわかりづらかったものの、自分に求めるところがあるのは間違いない。
「すまない。軽率な振る舞いだった。だが私は逃げも隠れもしない。どうか君が望むことを教えてほしい」
相手は明らかに庶民である。ハインリッヒとは身分が違う。もし
最上等の騎士がフレイヤをひたと見つめる。軽率がどうとかは正直意味不明だったが、
「お腹がぺこぺこなので何かください」
両掌をずいと差し出す。
「……なんだって?」
ハインリッヒの思考は
「だから、食べる物。朝ごはんもお昼ごはんも抜きなんて無理。あり得ない。倒れる」
ハインリッヒの頭に、娘の言葉が少しずつ染み込んでいく。何も難しい話ではない。
「食べ物……食べ物か。確かに食事は大切だ。急ぎの途上ゆえ、あまり大したものはないのだが、干し肉と堅パンでよければいくらかは分けてやれる」
「それでいいので……欲しいです」
宝玉のような
「
従者達は困惑の
「わっ、ありがと。いただきます」
ごちそうなどでは全くない、保存が効くというだけが取り柄の携行食だ。それをフレイヤは脇目も振らずに頬張り始める。
ハインリッヒは目を見張った。
娘は心の底から幸福そうだった。まるでその身に生命の精髄を取り込んででもいるかのようだ。傍にいるこちらまで満たされていく心地がする。
――この娘は特別だ。己の魂がそう告げている。
ハインリッヒが思考を迷走させている間、もらったパンと干し肉を平らげてしまったフレイヤは、忠勇なる近衛騎士にさらにひたむきなまなざしを向けた。
「すいません。おかわりください」
フレイヤが
ハインリッヒはつい娘のお腹の
「私は近衛騎士、ハインリッヒ・マッカートニーと申す。君はどうしてこんな道端に一人でいたんだ?」
「えっとね、お母さんとお父さんに家から追い出されたの。もう巣立ちの時だって。わたしってば、まだ食べ盛りなのに。ひどいよね」
はぁ、と世の終わりのようなため息をつく。
「そ……そうか。それは大変だったな」
とりあえずさして深刻な事情ではないらしい。
「家はこの近くなのか? 事と次第によっては私が親御さんに取りなしてもいい。まずは名前を聞かせてくれないか」
「フレイヤ・サンデル。ナロード村に住んでます。っていうか、さっきまで住んでました。これから養ってくれる人を募集しようと思います」
ハインリッヒの息が止まった。フレイヤ・サンデル――それはまさしく勇者の転生として宮廷魔術師が告げた名ではないか。
ハインリッヒは運命を見た。少なくとも当人は見たと思った。一目でこの娘に
「君が転生勇者だったのだな!」
「ひゃっ!? なになに! ちょっと待って、近いんだけど!」
「おうっ……申し訳ない。つい気が
「いいけど。ちょっと驚いただけなので」
フレイヤは息をついた。ハインリッヒは後ろに
「フレイヤ・サンデル殿、王命を奉じる騎士として、謹んであなたに請おう。私と共にグラールへ参られよ。王国と人の世を救うため、あなたの力が必要なのだ」
「グラール……?」
フレイヤは呆然としたように呟いた。ハインリッヒは力強く頷いてみせた。
「非常の時ゆえ、
「グラールって、どこだっけ」
こてんと首を傾げる。少なくとも村のご近所でないのは確かだ。なんとなく聞き覚えがある気はするけれど。
ハインリッヒは信じられないという顔をした。グラールを知らない? そんな馬鹿なことがあるものか。
「グラールは、グラールだ。ハイランド王国の都にして、国王陛下の住まう居城がある」
「へぇー、そうなんだ」
感心したようにフレイヤが言う。どうやら本当に知らなかったらしい。
だがとりあえず今重要なのはそこではない。ハインリッヒは再度フレイヤに問いかけた。
「もちろん来てくれるだろうな?」
「朝昼晩おいしいごはんが食べられて、午後におやつが出て、あとあと、お昼寝の時間もあるなら、行きます」
心の欲するままフレイヤは答えた。まさしく理想郷である。
「おそらく大丈夫とは思うが……いざ出陣となった時はともかくとして」
ハインリッヒは急に行く手に暗雲がかかったような錯覚にとらわれた。なぜ王女ロクサーヌはフレイヤを勇者と認めようとしなかったのか。その理由がわかった気がする。
しかし動揺を強いて抑えつける。この娘は転生せし勇者なのだ。そのはずだ。
とはいえ勇者も人の子だ。欠点だってあるだろう。ならば自分が助けとなればいい。
たとえ伝説の勇者であろうとも、一人で戦えはしないのだから。
――フレイヤは私が守る。
騎士としての誇りにかけてハインリッヒは誓った。
その傍らでは、ひとまず空腹が満たされたフレイヤが既に眠りの国へと旅立っていた。
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