第5話 指輪と蝶
誰だろう、このひと?
フレイヤは首を傾げた。
なにしろちっぽけな村である。もしここの住民なら、いかに引きこもりがちのフレイヤとはいえ、どこの誰かわかるはずだ。まして男の容姿は平凡からは程遠かった。凄い美形である。一度でも会えば忘れたりしない。
男は冷たくも粘ついた視線をフレイヤに向けた。あまり感じがよろしくない。ぶつかったことを根に持っているのだろうか。
しかしそんな表情をしていてさえ、男の端整さは損なわれていない。目も鼻も口の形も完璧だ。まるで生身の人の顔というより、入念に彫り上げられた仮面のようだ。
そして事実、男は人ではなかった。顔は作り物だ。もともと目も鼻も口もない平らな黒いだけの代物を、人族が好みそうな造形に变化させているのだ。男の正体は、魔王の命を受けて勇者の存在を探りに来た魔族、ガローパである。
初めこそ相手の顔の良さに感心したフレイヤだったが、ちょこんと頭を下げると、すぐに散歩に戻ろうとした。いくら美形でも、眺めてお腹は膨れない。それより午後のおやつに思いを馳せる方が良い。
「待て、娘」
「はぁい?」
しかし強く呼び止められて足を止める。自分にどんな用があるのかは見当もつかなかったが、どうせ急いでいるわけでもない。
「いや……」
ガローパは口ごもった。魔王から授けられた、強大な霊力を感知するという指輪がぶんぶんと震え出したのでつい声を掛けてしまったが、まさか「お前が勇者の転生か?」などと尋ねるわけにはいかない。
「固まっちゃった。おーい。もしもーし」
ガローパの顔の前でフレイヤがひらひらと手を振る。宝玉のような
「あ、今なんか隠した」
「こら、よせ! 後ろに回り込もうとするな! お前には関係ない!」
「ほんとにー? でもお菓子とかではないみたい」
フレイヤが身を擦り寄せて鼻をひくつかせる。応じるように、指輪の振動がひときわ激しさを増した。手から腕、肩から胴へと波動が伝わり、ガローパのさらに奥深い場所を絶妙に刺激する。
「おうふっ」
思わず変な声が出た。今にも腰が抜けそうだ。
「どーしていきなり悶えてるの。ちょっと気持ち悪いんですけど」
「……ちょっとした持病の発作だ」
ガローパは全力で視線をそらした。本物の人族なら、額に大量の冷や汗を浮かべているに違いない。
「ごまかそうとしても無駄なの。あなたの魂胆はわかってる。ずばり、チョコレートパイ欲しさによる犯行ね」
ガローパの瞬きが止まった。全く意味がわからない。フレイヤは得々として説明する。
「ママのパイはご近所にも評判だもん。今日焼いてくれるって、どこかで噂を聞きつけて来たんでしょ。これだから食いしん坊って困るのよね。油断も隙もない。しょうがないから一口だけ分けてあげてもいいけど、それ以上は絶対だめよ」
「いらんわ。おれの目的はな、勇者の気配を探ることだ……はっ、しまった!」
「勇者? つい最近も聞いた気がするなー」
「き、気にしなくていいぞ。忘れろ」
「いいけど。チョコパイの方が大事だし」
フレイヤは言い切った。その翠の瞳に宿る光には、一片の揺るぎもない。
ガローパの内に芽生えた疑惑が急速に膨れ上がっていく。
恐れ多くも魔王の指輪だ。明らかな反応があった以上、無関係とは考えにくい。
しかし実際のところ、目の前の娘に勇者らしさはかけらもなかった。ごく平凡な、いやむしろ平凡以下のだめな子としか思えない。
ガローパの左手が、ひそやかに刃の形へ変じていく。下手に惑うぐらいならば、いっそこの場で始末してしまうべきではないか。魔族としては強者の部類に入らないガローパだが、武器も持たない人族の小娘を狩り取るのはたやすい。
「あ、ちょうちょだ」
殺意が行動に移ろうとした
「ほら、かわいい」
フレイヤが振り返った。凶悪な刃と化した手を、ガローパは即座に戻した。指が一本足りない。そいそと追加で生やす。
フレイヤの頬がぷくりと膨れる。どうやらガローパの反応がお気に召さなかったらしい。
正体不明の胸苦しさを覚えながら、ひとまずガローパは思ったことを口にした。
「かわいいかは知らん。だがきれいではあるかもな」
「そう。きれいだし、かわいいの。じゃあ、またね」
フレイヤはそっと指を振った。銀と黒の入り混じった翅が宙へと浮かび、少女の周りを一巡りしてから離れていく。
「さ、もう少し歩こうっと」
フレイヤは道に戻った。少しお腹を空かせた方が、チョコパイをいっそうおいしく楽しめるというものだ。
その後を、ガローパは追わなかった。
もう十分だ。あの娘には、きっと戦う意思も力もない。故に魔王軍の脅威となることもない。
探索はした。だが勇者の転生は見付からなかった。魔王にはそう報告することになるだろう。
フレイヤの姿が小さくなるにつれて、指輪の震動が静かになっていく。ガローパは作り物の顔から一切の表情を消し去った。
魔王軍は圧倒的に優勢だ。遠からず世界は魔族のものとなる。そこに人族はもういないはずだった。当然、あの娘も。
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