第4話 察知

「……くっ、これではいたずらに兵を失うばかりだ。やむを得ん。撤退する」

 ハイランド王国の東部国境付近。対魔王軍の迎撃部隊を指揮していた近衛騎士ハインリッヒ・マッカートニーは、苦渋の決断を下した。


 数では未だこちらが勝っている。先鋒が打ち破られたとはいえ、敵軍はたかだか千五百といったところ、対して自軍はなお二万余を残していた。絶対的に有利なはずであり、攻勢に出れば確実に圧倒できる――もしこれが人間同士の戦であったとしたら。


 しかるに現実の形勢は全くの逆だった。

 ハインリッヒが率いているのは、寄せ集めの雑兵部隊などでは決してない。完全装備の王国直属軍の精鋭だ。それが激突するやいなや鎧袖がいしゅう一触いっしょく、瞬く間に蹴散らされていた。


 まず個々の兵の強さが違った。全身にとげを逆立てた熊のようなもの、うねうねとうごめく幾本もの触手を生やしたものなど、魔族の形態は様々だったが、最弱の一体を討つのにさえ、最低でも五人の騎士が必要だった。とりわけ翼を備えて上から攻撃してくるものや、火を吐くもの、酸を撒き散らす相手などは脅威で、兵に多くの犠牲をもたらした。


 そして何より恐るべきなのが、魔王の存在だった。

 その底知れぬ魔力は時に配下の魔族兵の力を増幅し、時に暴風や衝撃波となって王国軍を直接蹂躙した。


 通常の剣や槍ではまともに戦うことさえできない。人族が対抗するためには、もっと別の種類の力が必要だった。

 ハインリッヒは西の彼方を仰ぎ見た。


「……だが我らにも光はある。本当の戦いはこれからだ!」

 現世に転生せし勇者をまもなく王女が連れて来る。共に敵に立ち向かう時を待ち望みながら、ハインリッヒは今の無念を耐え忍んだ。




 人族の群れが退却していく。未だ統制は取れているものの、既に戦意は失われ、結果は誰の目にも明らかだった。

 自軍の完勝である。

 されど魔王に笑みはない。彼の力を以てすれば当然のことだ。ことさら喜ぶまでもない。


「魔王陛下、是非とも追撃の指示を! ひ弱な人族どもを皆殺しにしてやりましょう!」

「まさに、まさに。この世界は我らのもの、身の程知らずの人族はすべからく駆逐すべきかと」

「陛下の栄誉に人族どもの血を捧げます!」


 将達が猛り荒ぶる。ただの大言壮語などではない。本気の魔王を中心にして突入すれば、文字取り敵を全滅せしめることさえ可能だろう。

 魔王はおもむろに頷こうとして、しかしふと目元を鋭くした。焦点は遠く、逃走する王国軍の遥か先へと向いている。


「全軍停止」

「はっ、全軍追げ……き? 陛下、今なんと仰せに?」

「追撃無用だ。進軍を停止せよ」

 王の不可解な命令に、異形の配下達がざわめく。


「お言葉ながら陛下、今は絶好の機会です! 逃げようとする奴らをほふり尽くし、そのまま一気に城まで攻め上りましょう!」

「異議なし! 人族など恐れるに足りません! いざ!」

「躊躇も情けも不要ですぞ。魔王様らしくもない!」


「聞こえなかったのか?」

 魔王は圧を強めて周囲を一瞥した。ただそれだけで、凶悍きょうかん無類ぶるいの魔族達が一斉に身を縮めた。


「ガローパをここへ」

「はっ」


 供回りのひとりが、打たれたように走り出した。やがて伴ってきたのは、魔族にしてはかなり小柄な者だった。二本の手を持ち、二本の足で歩く。背格好体形だけなら人族と変わらない。

 しかし顔貌は全くおかしかった。目も鼻も口もなく、一様に塗りつぶしたような黒面だ。今そこにふいに切れ目が生じ、ぱっくりと裂けていく。


「ガローパ、お召しにより参上しました」

 できたばかりの口が流暢りゅうちょうに喋り出す。もちろんそれに魔王が驚くことはなく、鉄をも貫く鉤爪を真っ直ぐに伸ばし、西の地へと向けた。


「異常な気配がある。今はまだ兆し程度だが、捨て置けば我らにとって大いなる災厄となるかもしれぬ。急ぎ赴いて探り、可能ならば芽のうちにむしり取れ」

「御意」


 ガローパは低頭した。もしこの場に人族の目撃者がいれば、奇妙なことと思ったに違いない。およそ人ではあり得ぬ面相だ。潜入探索任務には全くの不向きのはずだった。しかし命を受けたガローパ自身を始め、疑問を呈した者はいなかった。


     #


「ふぅ、おいしかったぁ。とってもごちそうさまでした」

 フレイヤは満面の笑みで両掌を合わせた。口元についたソースをぺろりと舐める。昼食はおよそ成人男性一.五人前分の量があったが、食器はすっかり空になっている。


「おそまつさま。食器運んで洗いなさいね。もちろんお母さんの分も」

「えーっ」

「もう十五歳でしょ。少しは働きなさい。それともすぐにでも追い出されたいの? お母さんは別にそれでも構わないけれど」


「いいもん。そしたら他に養ってくれる人、探すから。膳の上げ下げも全部やってもらうんだ」

「フ、レ、イ、ヤ?」

「はーい」


 母の声音に不穏な気配が混じり、フレイヤはしぶしぶと腰を上げた。二人の使った食器を重ねて流し台まで持っていき、水に浸して洗い始める。これで手際は意外とよくて、皿の一枚も割りはしない。


「ん、終わりっと。ちょっと散歩してくるね」

「その前に着替えなさい。寝間着のまま外に出るんじゃないの」

 でもどうせ帰ったらまたすぐ昼寝するし、と言ったらガチで怒られそうな予感がしたので、フレイヤは面倒ながらいったん部屋に戻って適当な服を着た。


「いってきまーす」

 ここ二日ほど雨が続いたせいで、外に出たのは三日振りだ。空は綺麗に晴れ渡り、少し強めの陽射しと柔らかなそよ風とが心地良く、歩きながらフレイヤのまぶたはだんだんと下がっていった。


「おい」

「ひゃっ!?」

 半ば意識を飛ばしかけていたところに、誰かとぶつかったフレイヤは後ろに退った。だがよろけることはなく顔を上げる。

「ごめんなさい、よく前見てなくて」

 立っていたのは知らない男だ。

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