天体の観測について

たにさわ

天体の観測について

 夜更け過ぎ、家族が寝静まったところを狙って、紺はようやく家から抜け出した。

 茜との約束の時間はとっくに過ぎ去ってしまっていた。気持ちは急いていた。でも、ここで焦って家族を起こしてしまっては元も子もない。こんな真夜中にどこへ行こうというのか。そう咎められたら、まだ高校生の紺には言い返す術がなかった。

 アパートの階段をそっと降りていく。なるべく音を立てないように駐車場から自転車を引き出した。世界は夜の静けさに包まれていた。空を見上げることはなかった。なにしろこれから茜と一緒にたっぷりとそれを見ることになるのだ。紺はアパートから充分離れたところまで自転車を押していってから、べダルに足をかけ、冬の冷たい空気を切り裂くように力強く漕ぎはじめた。

 茜との待ち合わせ場所は、街の中心部から遠く離れた山沿いにある緑地公園だった。自転車を飛ばしても半時間以上かかる。はっきり言って辺鄙な場所だった。

「それがいいんだよ」と茜は言った。「人の光って星を見るには邪魔だから。周りに人がいなければいないほどいいの」

 紺にはその言葉が、まるで茜が自分と二人きりになりたがっているように聞こえて、文字どおり心が踊った。

 ——本当にうれしかったんだよ、と紺は静かに語りはじめた。ゆったりとソファに身を沈めながら。部屋は空調が効いていてあたたかかった。

 わかってくれるかな。本当にうれしかったんだよ。「一緒に星を見に行こうよ」って茜が誘ってくれて。私は約束の日までずっとそわそわしてた。勉強もあまり手がつかなかった。大学受験がすぐそこまで迫っていたし、本当はそんな悠長なことをしている暇なんてなかった。夜空より参考書を眺めているべき時期だった。それに、もし補導でもされたら大変だ。でも、たとえどんなときであっても、好きな子にそんな素敵なお誘いを受けて、断る馬鹿はいない。なあ、もちろんお前だってそうするよな?

 紺が約束の場所に着いた頃には外気の冷たさに反して体はぽかぽかとして、ほんのりと汗ばんでいた。自転車から降りて、首にぐるぐる巻きにしていたストールを緩める。茜はすぐに見つかった。がらんどうの駐車場の隅で一人ぽつんと立っている人影が見えた。紺は小走りで彼女に近づいていった。

 寒かったでしょ、と紺は言った。そして待たせてしまったことを詫びた。

「へっちゃら。東京の寒さで文句なんて言ってたら、北海道じゃ生きていけないでしょ」

 ——茜は北海道の大学に進学するつもりだったんだ、と紺は言った。そして手に持っているその写真を懐かしそうに見つめた。そこには制服に身を包んだ二人の少女が写されていた。紺と茜。茜は紺にぴったりくっつくようにしながら、肩に手を置いて、満面の笑みを浮かべながらピースをしていた。澄まし顔よりかは笑顔の似合う女の子だった。紺よりもわずかに背が低く、焦げ茶っぽい色のボブヘアをしていた。ほっそりした顔立ちで、口元にほくろが見えた。二人の背後には立て看板が置いてあって、立派な楷書体で〈卒業式〉と書かれていた。

 そして実際にそうなった。茜は北海道に行った。そして私は東京から動くつもりはなかった。というか、自分が本当に行きたいところに行く力なんて、当時の私にはなかった。いや、今だってないんだろうね。それは経済とか環境の問題ではなく、単に勇気の問題だったんだ。正直、彼女から北海道という言葉が出てくるたびに胸が痛んだ。でも、そのあと、そんな痛みもすぐに吹っ飛ぶことになった。茜が、私の手を、奪い取るようにして握ったんだ。完全に不意打ちだった。茜の手は私よりもっとひんやりしていて、さらさらしていた。なんというか、そのときは、口から心臓が飛び出ちゃいそうだった。すっごくどきどきした。はは、そんな乙女みたいないこと、私の見た目からはぜんぜん想像できないだろ。笑えるよな、お前もさ。でも、事実そうだったんだ。

「こっから先ね、足場が悪いの。私は慣れてるから、転ばないように、ちゃんと離さないように握ってて」

 紺は言われたとおり茜の手をしっかりと握った。そして二人で一緒に森の合間を抜けていった。たしかに道の状態は悪く、しかもきつめの傾斜になっていてスニーカーの底が黒土の上を何度も滑った。周囲は闇に支配されていた。この身ではっきりと感じられるのは、お互いの息遣いや握り合った手から伝わってくる体温だけだった。

 ほとんど登山にも近い道のりをのぼっていくと、急に開けた場所に出た。広場のようになっていて、地面は隙間なく芝で覆われていた。雪が積もればスキーでもできそうな場所だった。南東に向かって急な勾配がついていて、思いっきり空を見上げることもできれば、街のぽつぽつとした灯りを見下ろすこともできた。

「いい場所でしょ。私、ここ好きなんだ」

 すごくいい、と紺は答えた。実際に紺はひと目見ただけでここがすっかり気に入ってしまっていた。うんうん、とそれっぽく頷くことさえした。たとえ芝生に足を踏み入れたとしても二人の手は離れなかった。手を繋ぎながら誰もいない広場を横切って、中央あたりまで行ったところで、急にぱっと離れた。

「見て、特等席」

 茜はくるんと振り返ると、夜空をバックに両手を思いっきり広げて、満面の笑みを紺に向けた。

 ——まるで星みたいだった、と紺はどこか遠くを見つめながら言った。

 もちろん薄暗がりの中だったから、はっきりと見えたわけじゃない。でも、それは間違いなく、私が今まで見てきた光景の中でも、文句なしに最も美しく、最も印象的な瞬間だった。本当にきらきらと星のように光り輝いていた。もうこれから先、あれ以上のものを目にすることはないだろうな。そりゃあ、お前が見たってそうは感じないかもしれないけどさ、私にとっては死んだって変わらない。あの光景は、きっと私の心の中で、ほとんど永遠に近いものとして輝き続けるんだ。

 茜はさっそく星を見る準備をはじめた。背負っていたバックパックを下ろすと、ストラップで取り付けてあった厚手のレジャーシートを外した。紺は茜と一緒にシートの端を持って、芝生の上にそれを広げる作業を手伝った。

「ごめんね。この大きさのものしかなかったの。ここに来るときって、いつも一人だから」

 ぜんぜん平気、と紺は答えた。確かにそれは二人で使うには心もとない大きさに見えた。二人で並んで座るのがやっとといったサイズだ。でも、今はむしろこれくらいがいい、と紺は思った。

 シートを敷き終えると、茜はバックパックから物をどんどん取り出していった。丸めた小さな毛布が二枚。それから手袋も二組。水筒。使い捨てカイロがたくさん。二人はカイロを背中に貼り合って、お腹や足にはそれぞれ自分で貼った。紺は受け取った手袋をはめると、感触を確かめるように手をグーパーさせた。

 準備が済むと、二人で横並びに座ってそれぞれ毛布にくるまった。脚にはストールを巻きつけるように掛けた。そして二人で空を眺めた。奇跡的な快晴だった。茜が事前に「その日は完璧なの」と言っていたとおりの、星空を眺めるのにぴったりの夜だった。空気は冷たく澄んでいて、雲ひとつなく、月は光を失い完全な円形の闇として空のどこかに浮かんでいた。

「あの三つ等間隔に並んでる星があるでしょ」

 茜はそう言って宇宙の遥か彼方を指差した。

「その左上のほうに、ちょっと赤っぽい星、見える?」

 うん、と紺は頷いた。

「そのもっと左斜め下のほうにあるのがシリウス」

 あれがそうなんだ、と紺は言った。

「そうなの」と茜は微笑んだ。「そこからずーっと上のほうに視線を移してもらうと見えるのがプロキオン。これが冬の大三角」

 へえ、と紺は感心した声を上げながら、その三つの星を前にどこか圧倒されていた。今まで無関係にしか思えなかったひとつひとつの星の輝きが、そう言われた途端、確かな結びつきを持って空に巨大な三角形を形成しはじめた。

「いちばん最初の三つ横に並んでた星に戻るね。あの並びから、ずーっと右のほうに行くと、ちょっと明るめのまた赤っぽい星、あるでしょ?」

 紺がちょっと自信なさげに曖昧に頷くと、茜はふふっと笑って紺の肩に寄りかかり、その笑顔をぴったりとすぐ真横に並べた。そして空中を指差した。

「ほら、あそこ」

 ——ちょっと星を見るどころじゃなくなっちゃいそうだったよ、と紺は言った。そしてローテーブルの上からビールの缶を持ち上げて、それに口をつけた。

 手を握られたのが口から心臓が飛び出ちゃいそうなくらいのものだったとしたら、そのときやられたのは心臓が爆発しちゃいそうなくらいのものだった。ほっぺとほっぺがくっついちゃいそうなくらい顔が近くにあって、髪の毛が耳に入ってきてくすぐったいと思った。今思い出しても胸が痛いくらいどきどきする。横を向いたら衝動的にその肌に唇をつけてしまいそうだったから、私は絶対にそっちだけは見ないようにしながら、必死になって茜の指の先にあるものを探そうとしてた。お前も、よく似たようなことをやっているよな。なんだかいろいろなものを探し回ってる。私も同じ感じで、ただそれだけを探そうとしてたんだ。

 あったかも、と紺は小さくつぶやいた。

「それがね、アルデバラン」

 茜の顔は依然としてすぐ真横にあって、声や息遣いが耳元でささやくように聞こえた。体の触れ合っているところが、冬の風に晒されて冷え切った身には熱いくらいに感じられた。

「そのちょっと右下かな、星が一箇所に何個も集まってるの、わかる?」

 わかる、と紺は言った。

 茜はいったん紺の体から離れてから、にっこりと笑顔を向けた。そしてバックパックをごそごそして、黒くて四角いケースを取り出した。蓋を開けると無骨なフォルムの双眼鏡が出てきた。

「それはね、プレアデス星団。これで見たらよくわかるよ。ちょっと待っててね。今ピント合わせるから」

 茜は星団に双眼鏡を向けると、レンズに目を当ててリングのような部品をくりくりと回しはじめた。それから小さく頷いた。ピントが合ったんだ、と紺は思った。双眼鏡を片手で受け取ると、それは思ったよりずっしりとしていた。紺は両脇をきゅっと締め、視界が揺れないようにしっかりと固定しながらレンズを覗き込んだ。そこではいくつもの星々がひしめき合っていた。ひときわ明るい四つの星がひし形のようなかたちをつくっていて、その周囲にもぽつぽつと弱い光が浮かんでいるのが見えた。

「おもしろいでしょ」

 紺は双眼鏡を下ろして茜に視線を向けた。

「なんでああやってわざわざ一箇所に集まってるんだろうね。宇宙はこんなにも広いのに」

 茜が冗談めかしてそう言うと、紺も一緒になって静かな笑みを浮かべた。

「ちょっと休憩しよ。あったかい紅茶、淹れてきたから」

 そうしてささかやかお茶会がはじまった。茜は水筒を手に持ち、慎重に傾けて、用意してきた紙コップに紅茶を注いでくれた。受け取ったそれを両手で包み込むと、まるでストーブに手をかざしたみたいに熱がじんわりと体に入り込んでくるのを感じた。紺は紅茶を少しずつ口に含み、そのあたたかな液体が喉を通過していく感覚に意識を傾けながらこくこくと飲んだ。一杯目を飲み干すと、茜はもう一度注いでくれた。もう一度コップを空にしたときには体もずいぶんあたたまっていた。

「がっかりした?」

 紺は唐突に投げかけられたその言葉の意味をはかりかねて、きょとんとした視線を茜に向けた。茜はそんな紺のようすを見て、いかにもおかしそうにくすくすと笑った。

「こんなところまで来ても、星なんてたいして見えないでしょ」

 紺はそれが事実かどうか確認するためにあらためて夜空を見上げた。そこでは星がぽつぽつと瞬いていた。たしかに写真で見るような満天の星空とまではいかないかもしれない。でも、予備校の帰り道にビルの隙間から覗いている夜空とはぜんぜん違う。今この場所では、ずっとたくさんの光が、普段より力強く輝いている。それだけは確かだった。

 そんなことない、と紺は答えた。そして大きく首を横に振った。

「そっか、ならよかった」

 ——それから私はこう言ったんだ、と紺は言った。そして近づいてきたその頭をやさしく何度か撫でた。

 きっと北海道ならもっとたくさんの星が見えるよ、って。さっきも言っただろ、茜は北海道の大学に行くんだって。獣医になるんだってさ。お前もこないだ病院に行って注射を打ってもらったろ。あそこにいたのが獣医さんだよ。動物のお医者さん。あのときのお前、本当にお利口さんだったな。注射の針を向けられても、しゃんとして、ちっとも暴れたりしないでさ。私が子どもの頃は、怖くて怖くて泣き喚いてたよ。これ、お前だから言うんだからな。誰にも言ったりするなよ。

「これ、使ってね」

 茜は両手に持っていたカイロを紺の両頬にそっと押し当てた。その瞬間、紺は顔全体がぽっと熱くなるのを感じた。

「体、冷やさないようにしないと。こんな時期に受験生が風邪なんて引いてたら、目も当てられないよ」

 冬の厳しい風が容赦なく体から熱を奪っていった。紺は手元にあるふたつのカイロをしっかりと揉み込み、そのうちの片方を茜の手に無理やり握り込ませた。茜は紺のその行動にちょっと意外そうに目を丸くすると、ふっと視線をそらして軽く吐息を吐き出した。そしてわずかな沈黙のあと、ぽつりとひと言こぼした。

「ごめんね」

 どうして謝るの?

 茜はすぐには答えずに、星空のもと視線を伏せてしばらく黙り込んでいた。やがて永遠とも思える時間が経ってから、彼女はゆっくりと口を開いた。

「今、人生でもいちばん大事な時期でしょ。大きな分岐点っていうか。本当はこんなことしてる場合じゃないと思うし。誘ったのは私だから、一応、風邪だけは引かせないようにしようって、あたたかくできるようなものはだいたい持ってきたつもりなんだけど」

 紺はすぐ隣にある茜の顔をじっと見つめていた。薄暗くて細部まで見えなくても、ひどく切実な表情をしていることは簡単にわかった。眉根をわずかに寄せて、今にも泣き出してしまいそうに見えた。紺はその表情を前に、何かに突き動かされるようにそっと茜のほうへとにじり寄った。そして自分の体をくるんでいた毛布を半分引き剥がすと、茜の肩を抱き寄せて、一緒になってひとつの毛布にくるまった。

 風邪引いちゃだめなんでしょ。

「うん」

 茜も引いちゃだめだよ。

「うん」

 茜は頷いた。そして紺の肩にそっともたれかかった。

「これがいちばんあったかい」

 茜は紺の体にぴったりとくっついてゆっくりと規則的に呼吸をしていた。紺は彼女のぬくもりと息遣いを感じながら、夜空を見上げて星の瞬きを辿っていった。あそこにあるちょっと赤っぽい星、その左斜め下にあるのがシリウス、ずっと上のほうに視線を移すと見えるのがプロキオン。これが冬の大三角。

「私ね」と茜はぽつりとつぶやいた。「どうしても、紺と一緒に星が見たかったんだ。私がどこか遠くに行っちゃう前に。これが最後のチャンスかもしれないって、そう思ったから」

 ——どうだったんだろうね、と紺は言って、缶に残っていたビールをひと息で飲み干した。

 茜は私のことをどう思っていたのかな。でも、それはもうわからない。わかりたくても、わかるための方法がない。それはもう遠い星のようなものなんだ。それに、こういうことはしょっちゅうあった。こういうことっていうのは、馬鹿な私がつい勘違いしちゃうってことだよ。つまりは、単に友情の延長線上にあるだけの感情を、ひょっとすると恋愛的なものなんじゃないかって、間違って受け取ってしまうことだよ。そういうことは何度もあった。なあ、私にはわからないんだよ。お前も女の子だけど、犬でもそういうことってあるのかな。いや、きっとあるんだろうな。いずれにせよ、もう何もかもが手遅れに近かった。茜にはどうしても叶えたい夢があった。その邪魔だけはしたくなかった。私には踏み出す勇気がなかった。私には文字どおり何もかもがなかった。叶えたい夢も、行きたい場所も、やりたいことも。ううん、本当は茜と一緒にいたかった。でもそんな大切な気持ちさえ心のどこにもないように感じられた。ただ、もう、今さらどうすることもできない。本当はさ、そのままキスでもなんでもしてしまえばよかったんだろうね。どうせ遠くに行っちゃうんだ。間違えて嫌われたって、別にどうだっていいことのはずなんだ。本当は。

 ふと茜のほうに視線を向けると、ひと筋の涙がその頬を伝っていくのが見えた。紺はそれに気づかないふりをしながら、ただひたすらに星を眺め続けた。プレアデス星団。こんなにも広い宇宙で、なぜか一箇所に集まっている。それは夜空に実をつけたひと房の果物のようにも見えた。

 夜空を覆う天体はゆっくりと移動を続けていた。動いているのかどうかもわからないくらいの速度で。でも、確実に。さっきまで頭をまっすぐにしていれば見えていたはずの星が、見上げなければ視界にも入らないほど高い位置で瞬いていた。ぐるりと見渡すと、そこにはまだ名前を教わっていない星がたくさんあった。ひと晩では教わり切らないほどたくさんの星が。しかも、これでも見えているのはほんの一部に過ぎないのだ。きっと茜がこれから行ってしまう場所では、夜空は星の光で満たされて、一生をかけたって辿り切れないほど多くの天体が静かに移動を続けている。

 それでも最後に、どれかひとつでもいいから茜の口から星の名前を教えてもらいたくて、紺はいつの間にか地平線から顔を覗かせていたひときわ明るい星を指差した。

 あれはなんていう星?

 茜はすぐには答えずに、その青白く光る星にぼんやりと視線を固定していた。まるで何百光年も先にあるその天体を実際にその両眼で見つめるかのように。それからしばらく経って、茜はすぐ真横にある紺の顔に視線を戻して、儚げに微笑んだ。

「あれはね、スピカ」

 ——そのときほど自分の無知を恨んだことはないよ、と紺は言ってソファの背もたれにぐっと寄りかかった。そして細く長く息を吐き出した。

 茜はスピカっていう名前の犬を飼っていた。スーちゃんって呼んでたみたいだね。写真を見せてもらったことがある。バーニーズ・マウンテン・ドッグ。眉毛のところに白い点々がふたつあった。スピカっていうのは連星なんだ。肉眼ではひとつにしか見えないけど、実際はふたつの大きな星がひとつの光を成している。その眉毛にある点々が連星みたいだからって、スピカっていう名前になったんだね。スーちゃんは茜が小学生くらいの頃に病気で死んだ。なんの病気だったかまでは知らない。とにかく死んだ。「すごく苦しそうだった」って言ってた。私が知ってるのはそれくらいだ。茜は、それ以来、獣医を志すようになったんだ。その決意は堅かった。だから東京の大学じゃなくて、わざわざ北海道なんかに行ってしまったんだ。まったく、すごいよな。私だったら、逆に目を背けたくなってしまうかもしれない。お前も病気になったら診てもらうといい。きっと他の誰よりもやさしくしてくれるはずだよ。というか、そうだよな。私もいい加減そろそろお前なんて失礼な呼び方してないで、スーちゃんみたいな立派な名前をつけてやらないとな。でも、私、そういうのって苦手なんだよ。

「そろそろ帰らないと」

 茜はそう言って立ち上がった。

「この季節に、あの星が、あの高さまで昇ってきたってことは、もうそういう時間だってことだから」

 わかるの?

「うん。時計なんて見るまでもない。宇宙って、そういうふうにできてるから」

 ——茜もよく話を聞いてもらってたんだ、と紺は言った。そしてローテーブルに手を伸ばし、空になった缶をそっと置いた。中身のない軽い音が部屋に響いた。

 ちょうど今の私みたいに。茜は私が出会った頃にはクラスの誰よりも明るくて人当たりのいい性格をしていたけど、もっと幼いときはほとんど病的なまでの引っ込み思案だった。具体的には、スーちゃんが病気で死んで、そこから立ち直るまでは。自分が思っていることを誰にもうまく伝えられなくて、いつもスーちゃんに話を聞いてもらっていた。たぶん、そういうふうにしないと言えないようなことを、両手いっぱいに、子どもの腕では抱え切れないほどたくさん抱えていたんだろうね。私も、今になってみるとわかるよ。本当に、心の底から。

 紺はそこまで言うとソファから気だるげに立ち上がった。そしてすぐそばでお腹を床にくっつけるようにして横になっていたその犬の頭を撫でた。

 これからよろしくな。いろいろ長々と話をしたけど、私ってさ、つまりはこういう人間なんだよ。ちょっとはわかっただろ? それでさ、結局、お前のほうはどういう犬なんだ? もし教えてくれたら、お前の好きなジャーキーをやるんだけどな。

 紺はしばらく焦点の定まっていない眼で床に這いつくばっている犬を見つめていた。それから小さく声を出して笑うと、何度か軽く首を横に振った。ふらふらとした足取りでキッチンに向かうと、戸棚を開けてそこに仕舞ってあるジャーキーの袋を手に取った。がさごそとひと欠片だけ取り出し、手の平の上に乗せて差し出すと、犬はそれを口でひょいとつまみ上げて、鋭い牙を見せながらがしがしと噛み砕きはじめた。

 彼女はその光景を見て満足気にうなずいたあと、スリッパを引きずりながらベランダのほうへと歩いていった。

 私は夜風に当たってくるよ。ちょっと呑みすぎた。

 ガラガラという音のあと、ピシャリと扉が閉じられる音が聞こえた。犬は嗅ぎ慣れない臭いに囲まれて、どうにも落ち着かず、本当はずっとそわそわしていた。それでも大人しく絨毯の上にうずくまって、さっきの人間がこちら側に帰ってくるのを待ち続けた。

 あまりの退屈さにうとうとしはじめた頃、ひんやりとした外気を身にまとった人の臭いが鼻を刺激した。犬はぴくんと頭を動かして、自分よりもっと高い場所にあるその顔をじっと見つめた。ふたつの異なる瞳が交差した。それからわずかな沈黙のあと、その両眼に宿った光に何を見出したのか、さっきと同じ落ち着いた声音でまた何事かを話しはじめた。

 星は見えたのかって? まったく、おばかさんだな、ここは大都会東京だぞ。

 そばまで近寄ってくると、しゃがみ込んで両膝をついた。そして胴体に腕を回し、軽く体重を預けるようにしながら、ふさふさの毛並みの中に思いっきり顔をうずめた。

 何も見えなかったよ。

 何も。

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