第6話 通りかかった男
綾葉は暗闇の中で声をかけてきた男が、間違いなく流籐洪作であることを目を凝らして確認すると、思わず叫び声を発していた。
「こ、洪作くん!」
「一体どうしたんです?
僕、これから銭湯に行く途中だったんですけど、綾葉さんの声が聞こえたものだから、あれ?と思って…」
「洪作く~ん」と恥も外聞もなく泣き声をあげながら、洪作に抱きつく綾葉。
そんな綾葉をふわりと黙って受け止めて、サドルにまたがったままだった洪作は綾葉を優しく抱きしめながら自転車を下りた。
学内の放置自転車のリサイクル市でせしめたオンボロ自転車ではあるが、洪作にとってはもうすぐ二年の付き合いとなるかけがえのない愛車だった。
「あのなあのな、聞いて聞いて。
ウチな、須賀をここで見つけてん」
「え? あの須賀を?」
「そうやねん。
けど、逃げられてしもた、消えてしもたんや」
「え? 消えた?
いったい何が起こったんです?
初めから聞かせてくれませんか?」
園児が先生に優しく問われたときのように、綾葉はこっくりと素直にうなずいた。
洪作と綾葉がX大学の学生たちとは少し距離を置いた河原に腰掛けると、綾葉は今までの経緯を語り始めた。
それを黙って聞きながら、洪作は絶えず綾葉をいたわるようなまなざしを向けている。
洪作には、綾葉があと一歩のところで須賀を取り逃がしてしまった悔しさが痛いほど分かるのだ。
京都市北部にあるK大学経済学部生と詐称し、須賀はQ大学のミステリー研究会への入会を希望した。
自分の大学にはミステリー研究会がないというのがその理由だったが、洪作たちとしては特に拒む必要もなかったため、例外的に外部会員として加入を認めたのだった。
ところが須賀が加入して数か月後、「窮美の鬼」の手書き原稿が紛失するという事件が起こった。
紛失の経緯そのものに不可解な要素はなく、原稿はいつも部室の書棚の引き出しにカギをかけてしまわれていたのだが、学生の気楽さゆえか、あるいは性善説に基づいていたというべきか、カギは厳重に管理されていたわけではないので、会員であれば誰でも盗み出すことができた。
犯人は一向にみつからなかったが、そのうち疑惑の眼が須賀に向けられることになる。
元々、須賀はサークルに頻繁に顔をだしていたわけではなかったが、原稿の紛失後、しばらくしてからは全く姿を見せなくなったのである。
洪作たちは可能な範囲で須賀の素性を調べたが、その行方は知れなかった。
そんな中、窃盗の疑惑を持たれた会員がもうひとりいた。
他ならぬ綾葉である。
その理由は「窮美の鬼」の内容にある。
「窮美の鬼」は幼児連続誘拐事件を題材とした心理サスペンスだが、犯人は高校生のときに同級生の子を宿しながらも流産し、二度と子を生めないからだとなってしまった女性で、その過程で不幸な婚姻生活と離婚を経験しているという設定だった。
その境遇が綾葉そのものの人生と重なりあっていたのである。
それゆえ、会員の中には、小説の内容を憎悪した綾葉が原稿を盗み破棄したのではないかと疑い出す者がいた。
綾葉は報酬を餌に須賀を雇い、汚れ役を引き受けさせたのではないかと。
むろん綾葉は完全に否定したが、依然として綾葉に対する疑惑は根強くくすぶっていた・・・
だから、綾葉さんはなんとしても須賀を捕らえて原稿を取り戻したいんだ。
僕はそんな綾葉さんの必死の思いに応えたい。
もうお酒に頼ることがないようにしてあげたい。
洪作は綾葉の精神的な不安定さ危うさを心の底から心配していた。
綾葉は高校時代の過酷な経験に今も悩まされ、洪作が綾葉と交際を始めたときにはすでに酒で不安をまぎらす習慣から抜け出せないでいた。
病気といえるほどの依存性はなかったが、原稿の盗難事件で疑惑が降りかかって以降は、ますます酒量が増えるばかりだった。
原稿を須賀から取り戻すことで、綾葉にいくらかでも心の平穏も取り戻してほしかった洪作は一言も聞き漏らすまいと綾葉の言葉に耳を傾けた。
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