第5話 窮美の鬼

 石崎綾葉と名乗った女性は、嫌な思い出を頭の中から追い払おうとするかのように、急ピッチで酒を吸収していた。

「綾葉さん、ほどほどにしておいたほうがいいんじゃないですか」

 早苗が優しい口調でやんわりと忠告したが、綾葉は耳たぶまで赤く染まった顔を早苗に向けてキッとにらみつけた。

 にらみつけられた早苗は、びっくりしたように体を震わせて目を伏せてしまった。

「ご忠告は大変ありがたいんですけど・・・

 でも、これが飲まずにいられますか。

 須賀はわたしたちが最も大事にしている物を盗んでいったに違いないんです。

 せっかく追いつめたと思ったのに、まんまと逃げられてしまって…

 この悔しさはあなたがたには理解できないでしょうし、理解してもらおうとも思ってません。

 だけど、わたしたちにとっては、そう、わたしたちにとっては、かけがえのない物なんです」

「須賀という男は、あなたからいったい何を盗んだんですか。

 あなたにとってかけがえのないというほど大事な物っていうのは、一体何なのです?」

 奥田の問いに、綾葉は即座に返事をせずいくらか躊躇しているようだったが、やがてポツリと呟いた。

「原稿ですよ」

「原稿? 何の原稿ですか?」と今度は阿部がたずねる。

「ミステリーですよ。

 それもマニア垂涎の値段も付けられないような稀少な原稿を、おそらく須賀がわたしたちから奪い去っていったんです!」

 綾葉はほとんど金切り声をあげて絶叫したが、それとは裏腹に、しらけた空気がその場に充満して沈黙が訪れた。

「道明は用事があるとかで、まだ来れないってさ。

 だから代わりに僕がお酒を持ってきたよ。

 あれれ、みなさん、黙っちゃってどうしたの?」

 戻ってきた砂桐は場の空気をいっさい読み取らずに呑気な口調でそう言って、キョロキョロと一同を見回した。

「ねえ、みんな本当にどうしちゃったの?」

「石崎さんはね、須賀という男にミステリーの貴重な原稿を盗まれたんだってさ」と阿部が代表して口を開いた。

「へえ、そうなんですか」

 砂桐はいたって無関心な口調だったが、綾葉はすがるような目で一同を見回した。

「みなさんは、行泉寺良俊という小説家をご存じでしょうか。

 ミステリーファンの間ではカルト的な人気のある作家です。

 わたしはQ大学の文学部生なんですけど行泉寺さんもQ大学の出身なんです。

 その彼の伝説的デビュー作『窮美の鬼』の原作となった学生時代の手書き原稿、その原稿の題名も『窮美の鬼』というんですけど、ミステリー研究会の部室に保管されていた原稿が何者かに盗まれてしまいました。

 ちょうど事件が起きた頃から須賀はミス研に姿を見せなくなりましたので、わたしはその犯人が須賀ではないかと疑っているんですけど、わたしたちは彼の住みかさえ知らないんです。

 だけど、さっきわたしは嵐電の嵐山駅で偶然彼を見かけたので、そのまま尾行して彼の住みかを突き止め、疑惑を追及して原稿を奪い返そうとしたのに・・・

 どうやらわたしの尾行に感づいていて、まんまと行方をくらましたんです。

 わたしのこの無念さがあなたたちに少しでも伝わるといいのですが、でも・・・」

「はっきり言って、あなたの気持ちがわかりませんね」と頬をほんのりと赤らめた阿部が口を挟んだ。

「僕らはみんな東京のX大学の法学部生なんですが、たまには勉強の息抜きをしようということになって、この嵐山にある道明の実家にお世話になっているわけなんですが・・・

 普段はみな弁護士を目指して、盆も正月もなく法律書に没頭する毎日です。

 そういう人間からみるとミステリーなんていうのは、くだらない、の一言で片付けてしまえるものなんですよ。

 だって世の中の何の役にも立たないでしょう?

 それどころか、犯罪を誘発する有害図書という可能性だってある。

 だから、そんなものを夢中で読む人の気が知れませんね。

 ましてやわざわざ原稿を盗む人間の気持ちも僕らには理解できないし、盗まれた原稿を取り返すのに、あなたのように血眼になって探すのもバカバカしい。

 あなたの姿を見てると、正直言って笑っちゃいますよ」

「おい、失礼だろ、そんな言い方は。

 綾葉さん、すみません、こいつだいぶ酔ってるんで・・・」

「奥田、俺は酔ってないし、おまえが謝る必要はないんだよ。

 本当のことを指摘したまでなんだから。

 みんなだって、そう思ってるんだろ?

 ミステリーなんて暇なバカが読むものだって、みんないつも言っているじゃないか」

「そ、そんなことはないよ。

 まいったな、こいつ、酒癖が悪くて・・・」

「いえ、いいんですよ、わたしは別に怒りを感じませんから。

 あなたはあなたで、わたしではないんですし…

 人それぞれ、色んな思いがあって当然ですから」

 諦念めいた言葉を裏切るように、ひどく失望して気の抜けたような弱々しい口調の綾葉から自然とため息が漏れ出た

 またもや重苦しい沈黙。

 するとそのとき、その場の雰囲気にはまるでそぐわない陽気な声が綾葉に向けられた。

「あれ、綾葉さん、こんなところで何してるんです?」

 橋のたもとから発せられたその声の主は、自転車にまたがった男だった。

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