第2話 渡月橋南側
渡月橋の南側一帯の河原は公園になっているが、その公園の一部である橋のたもとのすぐそばに、組み立て式の椅子が数脚と一台のテーブルが円を描くように置かれていて、円の中心には大型の石油ストーブが赤々と燃えている。
椅子に腰掛けている数人の人間が、それに片手を伸ばして暖を取っていた。
いずれの人間にももう片方の手には酒が注がれた紙コップが握られていて、楽しげな喚声があたりの闇に響き渡っていた。
「冬の夜に外に出て、夜空を仰ぎ見ながら酒をくみかわすというのは素晴らしいじゃないか」
空になった紙コップに自ら酒をつぎたしながら、奥田が言った。
ストーブの明かりに照らされた奥田の顔は、だいぶ赤く染まっている。
「当たり前じゃないか。このことを提案したのは俺なんだから」
涼しい顔で阿部が応じる。
「実は僕は最初この提案を聞いたとき、あんまり乗り気じゃなかったんだよね。
だって寒そうじゃない?
実際そうだったんだけどさ。
でも酒飲んでたら、すぐに暖かくなってきたし、いい気分にはなるし、夜空の星は美しいし、本当にここに来てよかったと思ってるよ」
そう言って、砂桐は両手を思い切り伸ばして空を見上げた。
夜空には銀色に輝く小さな粒が、あちこちに散らばって鮮やかに瞬いていた。
「素晴らしいのは空だけじゃないぜ、スナフキン。
耳を澄ませてみなよ。
川の流れる音が聞こえてくる。
まるで心が洗われるようだ」
阿部はゆっくりと目を閉じる。
スナフキンと呼ばれた砂桐も、阿部につられるように両目を閉じた。
静寂のなか、聞く者をなにか厳かな気持ちに導くような清澄な旋律が川の流れから漂ってきて、しばし二人はその音に聞き入った。
ちなみに、スナフキンとはフィンランドの小説家のトーベ・ヤンソン作「ムーミン」のキャラクターで、彼は孤独と音楽をこよなく愛する旅人である。
砂桐も放浪癖のある男で、音楽の代わりに温泉を愛し、暇と金さえあれば全国各地の秘湯にぶらりとひとり旅立っていく。
そんなところから阿部は砂桐をスナフキンと名付けたが、「ムーミン」になじみのない他の面々にはいまひとつ浸透していない感がある。
「しかし、いくらここが酒をくみかわすのに絶好の場所だからって、女性にはこの寒さは少々厳しいんじゃないかな」
奥田がややろれつの回らない調子でそう言うと、
「全然そんなことないよ。
これほど気分のいいことはないくらい。
だって、いつも机に向かって、ややこしい法律関係の本ばっかり読んでるんだから」
高名早苗はえくぼをみせて、にっこりと笑った。
「確かにねえ。
道明も含めて、今ここに集まっている人間は法律バカだから、こういう時間は貴重だな」
砂桐は大いに賛同を示すように何回か強くうなずいた。
「それに、寒さに耐えられなくなったら、道明の家に逃げ込めばいいんだから」
実際、阿部の言うとおりだった。
この橋のたもとを過ぎて、桂川に沿って東に折れた少し先に佐藤道明の実家がある。
「そう言えば、そろそろ道明が帰ってくるころだよね。
何か用事があってここに来るのは遅れると言ってたけど」
奥田の言葉に砂桐は頷いて、
「確か、高校時代の友達に会うんだとか言ってたな。
この橋を渡って帰ってくるはずだ」
奥田は橋の反対側を透かし見るようにした。
渡月橋には照明がないから目の前には暗闇が広がっているだけだったが、ほどなくして三〇メートルほど向こうから、薄ぼんやりと人影が浮かび上がった。
「あ、ウワサをすれば、なんとやらだ。
道明じゃないか、待ってたぜ」
奥田の声に全員が橋に目を向けると、小走りに佐藤道明が橋を渡ってきたところだった。
「よう、待たせたな。
みんな、けっこう飲んでるみたいだね。
ずいぶん楽しそうじゃないか、俺も混ぜてくれよ」
「まあ、一杯やってくれ。
すぐ温かくなるぜ」
奥田は新しい紙コップを用意して、酒をなみなみと注ぎ佐藤に手渡した。
「ありがとう。
ああ寒い、寒い。
これが欲しかったんだ」
そう言って、佐藤はコップの中身を一気に飲みほした。
「だいぶ、温まっただろう?」
「そりゃあ、もう」
「寒いんで、みんなのペースも早い早い」
「ほんとだ、もうお酒が足りなくなりそうじゃん」
「うん、コンビニまでひとっ走りしてくるか」
「いや、その必要はないよ。
俺が家から取ってくるよ」
フットワークも軽く佐藤がいったん実家に引き上げ、それから数分がたった時だった。
「あのう、すいません。
ちょっと、おたずねしたいことがあるんですけど」
その声のした方に阿部がほてった顔を向けると、二十代前半と思われる若い女性がいつの間にか目の前に立っていた。
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