第二章 渡月橋にて
第1話 追跡
冬の暗闇。
日中のにぎわいが幻と化した物寂しいメインストリートを、一人の男と一人の女の二つの黒い影が、数十メートルの間隔をあけて進んでいた。
二人のまわりに人の影はなく、その二人も闇に溶け込んでしまうかのようで、その影には存在感がなく、今にも消え入りそうだった。
強烈な冷気と闇をかろうじて受け止めて、石崎綾葉は前方にじっと目を向け、足音を立てぬように細心の注意を払いながら歩を進めていた。
須賀、もう絶対に逃がさない。
綾葉は前方に歩いている男を追っている間、常にそう思い続けていた。
綾葉の前を黙々とうつむき加減で早足に歩いている男は、綾葉のみならずメンバー皆の最も大事な物を奪い、それを独占しようとしているに違いない憎むべき男だった。
だけど、もう逃がさない。
綾葉には確信があった。
男がうしろから追っている綾葉の存在に気づいていることは、まず考えられなかった。
男は後ろを振り返ることはなかったし歩みを止めることもなかった。
一定の速度と迷うことのない足取りで、体を縮こませて進んでいた。
このまま須賀を追い続け、そして首尾よくその住みかを突き止めることができたなら、もうこっちのもの。
彼の住みかに踏み込んで奪い返してみせる。
大丈夫、必ず成功する。
彼は絶対にわたしの尾行に気づいていない。
今もまた綾葉は、そう自らに言い聞かせた。
雑貨屋、和菓子屋、漬物屋、お茶屋、小料理屋、タレントショップ・・・
やや猫背の男の歩みは、今はシャッターに閉ざされたそれらの店が立ち並ぶメインストリートを抜け、そろそろ橋の北側のたもとに差しかかろうとしていた。
川下りで知られる桂川を南北にまたぎ、嵐山のシンボルとして名高いこの渡月橋は、車二台がすれ違えるほどの幅があり、長さは二百メートル弱である。
橋面と橋桁は鉄筋コンクリートだが欄干は木造のこの橋には一切の照明装置が設置されておらず、橋の両岸に沿った道路に設置された街灯の明かりは届くものの、あたりの黒い闇を破るほどの力はない。
そのため綾葉の前方を歩く男の黒い影をかろうじてとらえることはできたが、頼りになる光ではなかった。
しかしあたりが闇に包まれていることは、尾行している綾葉にとっては好都合だった。
綾葉は男を見失うことのないよう、目を凝らし、足音を忍ばせて橋のたもとへと進んでいった。
綾葉の前方を歩く黒い人影はすでに橋を南に渡り始めていた。
その姿を追い、少し遅れて綾葉も橋のたもとに差しかかったときだった。
突然、綾葉の体に激痛が走り、思わず呻き声をあげた。
何度も経験している胃の痛みだが、この激痛に耐えて歩き続けることが不可能であることを、これも経験により綾葉は知っていた。
これ以上歩くこともできないどころか、立っていることすらできなかった。
思わず、その場にうずくまってしまう。
綾葉が最も恐れていたことが、最悪の状況で起こってしまった。
早く薬を。
そう思うのだが、体が動いてくれない。
必死に体を動かそうとする綾葉を縛りつけるように、刺すような鋭い寒風がなぐりつけた。
ふと綾葉の目は初めて、橋の向こう側の弱々しい明かりと数人の黒い人影をとらえた。
しかし、この暗闇のなかで、彼らが綾葉の存在に気づき救いの手を差し伸べてくれることがあろうはずがない。
たとえ彼らが綾葉の存在に気づいたとしても、それは綾葉にとってありがたいことではなかった。
そのことは、綾葉の前方を歩いている黒い影にも、綾葉の存在を知らせることであったからだ。
それは、是が非でも避けなければならないことだった。
このまま発作が治まるまで、うずくまっているしかないのか。
須賀さん、あなたを絶対に逃がしはしない。
須賀さん、あなたから必ず奪い返してみせる。
狂ったように吹きつける冬の寒風と胃の激痛に苦しめられながらも、綾葉はそう繰り返し心の中で叫んで、前方を歩いていく男の黒い影をじっと睨み続けていた。
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