第10話 エレベーター
その日、洪作は小さめの音量で携帯用のヘッドホンステレオを聴きながら、立心館の六階のエレベーターの前に立っていた。
扉の上の文字盤を見上げながら、両腕だけを動かして慣れた手つきでショルダーバックから文庫本を取り出し、紙製の栞が挟まったページを開いて、クライマックスにさしかかった推理小説を読み始めようとしていた。
二日前に出席した授業の教室の机の中に、別の授業で使用しているテキストを置き忘れたことを思い出し、慌てて取りに戻った帰りだった。
ワックスを塗りたての廊下を歩いたせいで、スニーカーの裏がべとつく感じがする。
エレベーターの扉は廊下の突当りにあるが、扉の左手の壁には、モップが立てかけられ、傍らにはバケツが置かれていた。
右手の、床から天井までの高さがある大きな窓から見える空は今にも雨が降り出しそうに曇っている。
三人組女性ユニット「トライアングル」の「the best thing,worst thing」のイントロが始まったとき、五階から動き出したエレベーターがどの階にも止まらず一階で停止したところだった。
二つの現象が重なり合う偶然を体験して、なにか今日はいいことが起こるかもなどと洪作は考えていた。
しばらく本に目を落とし、再びふと見上げてみると、扉の上の文字盤はエレベーターがまだ一階に停止していることを示している。
変だなと思っていると、ボタンを押していないことに気づいた。
本を左手に持ちかえ、右腕だけを動かして上昇用のボタンを押す。
曲の歌いだしと、外部で高らかに鳴り響いた音の始まりと、そして人差し指がボタンに触れた瞬間とが重なり合った。
今度は三種の現象が重なり合うという奇跡にいささか無気味な感覚にとらえられたが、次の瞬間には記憶の襞の中に埋もれてしまっていた。
上昇を始めたエレベーターは途中どの階にも止まらなかった。
洪作はショルダーバックに本をしまい、廊下から一歩踏み出してボックスの中に乗り込み一階に向かった。
奥の壁にもたれ、ゴミ一つ落ちていない磨き上げられた白い床を漫然と眺めていると、エレベーターは四階で停止する。
扉が開くと、煙草をくわえ両手で火をつけようとしている男が立っていた。
その男はマイルドセブンのスーパーライトを、ジーンズのポケットから取り出した青いボックスケースにしまいながら乗り込んでくる。
洪作はふと自分も吸いたい欲求に駆られ、エレベーターを出てすぐ脇の灰皿に近寄った。
一本の鉄製の脚で支えられたボウル状の灰皿には、薄く水を張った中に2本の吸い殻がXの形で重なり、さらにマッチ棒と合わせてカタカナの「キ」のように見える。
シャツのポケットから取り出そうとして煙草を切らしていることに気づき、ゆっくりと閉まりかけていた扉の隙間に手を入れ、強引に乗り込んだ。
再び降下したエレベーターが今度は三階に止まると、乗り込んできたのは留学生を積極的に受け入れている学内ではさほど珍しくもない西欧系の外国人男性だった。
三人を載せたエレベーターは二階では停止せず、一階にたどり着いた。
エレベーターを降りた三人と入れ替わりに乗り込んだ者はいなかった。
建物の外に出ようと一階ホールを横切ると、すでに雨が降り出している。
強い降りではなかったが傘の持ち合わせがなかった洪作は、躊躇して入口で立ち止まった。
隣では、百九十cmはあろうかと思われる上背の黒縁眼鏡の男が、洪作とは反対を向いて立っていた。
しばらくは止みそうにないように思った洪作は、建物の中に引き返すことにした。
慌ただしく外から駆け込んできた二人組の女性に追い抜かれ、段ボール箱を載せた台車とすれ違った。
台車の車輪からはがれ落ちた細長い紙が目にとまり、見覚えがあるかのような気がして拾い上げてみるとそれは栞だった。
栞の裏には、洪作がボールペンで試し書きした痕がある。
栞は汚れていたが捨てることはせずに、再び歩き出してホールを奥へと進んだ。
立心館の談話室に腰を落ち着けると、しばらく見るともなしにテレビに目を向けていたが、再び推理小説をバッグから取り出した。
腕時計を見ると、時計の針は午後二時三十五分を示していた。
そして、しばらくの後、流藤洪作は馬原進太郎と出会ったのだった。
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