第9話 流籐洪作

 流藤洪作は、生きているということに苦痛を感じていた。

 一年間浪人し大学に入ったものの、まるで勉学に興味がわかなかった。

 人との付き合いが苦手で、何日間か他人と言葉を交わさないことも決して珍しくなかった。

 だから、たまに人と話すとたとえ同年代でも気安くしゃべることができず、相手に臆する気持ちから自然と丁寧な口調になってしまい自己嫌悪に陥るのだった。

 生きるということは、退屈で退屈で、長い長い、暇つぶしに過ぎないのだろうと、二十二年が経過した今、半ば以上楽しむことを諦めていた。

 ごく平凡な家庭に育ち、家族の愛情が不足しているとか、経済的に困窮しているといったような、他人に言葉で説明できるような悩みや苦しみはなかった。

 だが、自分がひどく場違いな世界に置き去りにされたような戸惑いや不安が、突きつめて考えてもその原因がよくわからないまま常につきまとい、定期的にふとした拍子に恐怖に陥った。

 世の中というものは自分がまるで関わりのないところで様々な原因が密接に絡み合い、自分が望むのとは正反対の結果に向かっているに違いない、と洪作は思いつめるようになっていた。

 その最たるものが、数年前から日本で導入された徴兵制度だった。

 完全に公平な手続きを踏み憲法が改正され、志願兵制度ではない徴兵制度が開始された。

 軍隊。戦争。それは、確固たる恐怖だった。

 洪作は兵役に就きたくない一心で大学を受験し、免除の資格を得ることを目標に研究論文の作成に力を注いだ。

 テーマはまさしく世界各国の古代から現代にいたる徴兵制度で、最優秀論文を決定する学内の評価制度の最終選考に残っていた。

 トップの座を獲得すれば特待生として大学院に進み、兵役に進まないで済むことになる。

 洪作は祈るような気持ちでその日が訪れるのを待っていた。

 そんなとき、それまでほとんど読んだことがなかった推理小説を息抜きに手にとり、心を鷲づかみにされた。

 小説の中の探偵は一見関係のなさそうな事柄を有機的に結びつけ、推論を積み重ね、必ず唯一の結論を導いていた。

 世の中で気まぐれに起こる現像が、推理によって物語の中心の座を獲得する探偵自身に吸い寄せられていくような印象に快感となぜかしら安らぎを覚え夢中になって読み漁った。

 そしていつしか、この現実で探偵のような経験をしたいと夢想するようになっていた。

 だが、現実はなかなかそううまくは運ばない。

 そこで洪作は、自分を主人公にした推理小説を書いてみることにした。

 彼は「寺石荘事件」、「渡月橋にて」、「五十円玉二十枚の物語」という三編の小説を試しに書いてみた。 

 そこで描かれていることは、洪作の願望あるいは妄想だった。

 彼がQ大学の法学部生であり、寺石荘というアパートに住んでいることは事実だったが、その他のことはデタラメだった。

 洪作には友人がいなかった。

 洪作には恋人もいなかった。

 小説の中に登場する石崎綾葉というヒロインは実在するが、キャンパスで時おり見かけるだけで、実際は会話を交わしたことは一度もなかった。

 洪作には、自分が書いた力作を読んでくれる何者もいなかった。

 したがって、三篇の小説は洪作以外の誰の眼にも触れることがなかった。

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