第7話 反論
「でも、ブロンズ像がゴミ箱に捨てられたときに飛び出したとは限らないんじゃない?
そう、犯人は犯行後しばらくしてブロンズ像を取り出していたかもしれない。
それは雨が降っていた三十分の間のどこかの時点であって、そのとき像が濡れしばらくどこに捨てようか迷っていた。
そして、雨が止み、ゴミ箱が元に戻された後で捨てた。
そうだ、この可能性もあるよ。
だから、ゴミ箱が撤去される午後二時三十一分五十秒には、まだブロンズ像は捨てられていなかった。
したがって、午後二時二十八分から午後二時三十一分五十秒までに、犯人が立心館を脱出したという説は成り立たないね」
「いや、それはないです」と、流藤は言下に否定した。
「それは、布の巾着袋とブロンズ像の手かがりから導かれることです。
巾着袋には指紋を拭った形跡がありました。
従って、犯人は犯行時、手袋で手を覆ってはいなかった。
まあ、これは、手袋が必要なほど寒くはないし、突発的な犯行だから当然でしょう。
一方、ブロンズ像は、被害者とその友人の指紋のみが付着していました。
もし、素手の状態だった犯人が像に触れたなら、犯人の指紋が付いている、または、犯人がそれを拭き取ったとすれば、犯人のみならず、被害者とその友人の指紋が拭き取られていなければなりません。
しかし、そのどちらでもなかった以上、犯人は像に触れていないことになります。
だとすれば、やはり、ゴミ箱に捨てられるまで、像はずっと袋に入っていたことになり、像が濡れることができるのは、ゴミ箱に捨てられた午後二時二十八分以降、そのゴミ箱が撤去される二時三十一分五十秒までのごく短時間でなければなりません。
ゴミ箱が元に戻されたのは、雨が止んだ後なのですから。
つまり、犯人はブロンズ像が入った巾着袋をつかんで被害者を殴りつけ、像が入った袋を持ったまま現場を離れ建物を出ると、撤去される直前にゴミ箱に捨てたことになるのです」
事実はそのとおりなのだが、流藤の満足気な語りは馬原の神経をいたずらに逆撫でする。
「それはそうかもしれんが・・・
でも、犯人だって犯行後多少は冷静になって、ふと袋の中身が気になったってこともあるだろ?
そのときは少しは落ち着きを取り戻していたから、雨が降っている三十分の間に中身を放り出したときにはハンカチかなにかで手をくるんでいた。
だから、像には触れたけど、指紋は付かなかった・・・」
「ふと気になる、ですか。
犯人がわざわざ袋の中身を見なきゃならない理由なんてないんですがね」と相手を見下すように流藤が言う。
「だから、きまぐれに」
「きまぐれにも程がある。
だって想像してみてくださいよ。
いいですか、ブロンズ像が雨に濡れたからには、犯人は外で像を取り出したことになるんですよ。
室内の、例えば、トイレでこっそりというならまだわかる。
だけど、だれかに目撃されるかもしれない屋外で、わざわざそんなことをするでしょうか?
また、ブロンズ像の底面の文字が滲んでいたからには、犯人は袋から取り出して像をひっくり返したことになる。
なぜ、そんなことを?
また、文字が滲んでいたからには、ひっくり返したのは一瞬のことではない。
なぜ底面を眺める必要が?
どうにも、ありえないことですよ」
なんて嫌な奴。
こいつを黙らせたい。
雨に濡れたブロンズ像。
水で滲んだインク。
そう、水だ。
「でも、室内でブロンズ像が濡れた可能性だってあるよ。
犯行現場でね。
確か現場の床には、水の入ったペットボトルが落ちていたはず。
だとしたら、犯行時、揉みあっている拍子に像が袋から飛び出し、ペットボトルの水と接触したってこともあるね。
だとしたら、根底から今の話は成り立たない」
「とんでもない偶然のように思えますが、それもありえないでしょうね」
「なんで?
まあ、確かに雨水と飲料水とでは成分は違うだろうけど、それが科学的に立証されたことを知っているとでも?」
「いいえ、僕の唯一の武器は、推理ですよ」と、流藤は馬原の目を正面から見据え、妙に何かに追いつめられた表情で声高に言った。
「仮に格闘の最中、何かの拍子でブロンズ像が袋から飛び出したとして、さきほどの指紋の手がかりを前提にすると、ハンカチか何かを取り出してから像をつかんだことになる。
格闘の最中のせっぱつまった状況で、犯人にそんな余裕があるはずがない」
「じゃあ、犯行を終えた後は?
呆然として袋だけをつかんでいた犯人が中身の像を取り落とす。
そのとき、床に転がっていたペットボトルの水と接触する」
「それも、ちぐはぐな行動ですね。
今も言ったように、ハンカチか何かを取り出してから像をつかんだわけですから、多少なりとも、冷静さを取り戻していたことになりますが、一方で犯人は自分の所持品ではないのですから、現場から持ち出す必要のまったくない凶器を持ち去り、現場近くのゴミ箱に捨てている。
そのような犯人の慌てぶりと現場での冷静さが明らかに矛盾しています。
もし犯人にそのような冷静さがあったなら、わざわざ凶器を持ち去ることはなく、そのまま現場に残していたでしょう」
もう言うべきことが見当たらない。
立ったまま話し続けていた二人に、しばらくの間、重苦しい静寂が続いた。
「納得していただけたようですね。
僕の推理は、ここまでです。
ただ、少なくとも犯人が立心館を抜け出した時間はかなり絞り込むことができました。
あとは、犯人の脱出経路を特定できれば…
つまり、エレベーターなのか階段なのか」
「へえ、がんばって」と馬原は平板な口調で返す。
半ば自棄になっていた。
「ああ、そうそう、僕も独自に調査してみたのですがね、あの時間、あなたを立心館の一階のホールで見かけたという人に会いましたよ。
あなたは階段を下りてくるところだったとか」
「ああ、そう。
でも、あの時間に出入りした人間は他にもいるはずだ。
そいつらの誰かだよ。
もし、そいつらじゃないっていうなら、証明できると思ったとき、また顔を見せに来いよ。
相手をしてやるよ」
そう強気に言い放ち、馬原はくるりと背を向け、ことさらにゆっくりとした普段よりは大股で進むことを意識しながらその場を立ち去った。
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