第4話 名前
そう、確かに、談話室で馬原をじっと見つめていた男だった。
「ていうか、誰?」
「僕、法学部の四回生で、流藤洪作と言います。
談話室では怪しい態度をとってしまって、すみませんでした」
そう言ってから男は頭を下げたが、馬原はどう反応していいのかわからずに黙っていると、突然話題を変えてきた。
「立心館の五階の小教室で、死体が発見されたそうですね。
登志谷さんといって、経営学部に所属しているらしいですけど。
ところで、あなた、その登志谷さんとは、お知り合いだったんですよね?」
ぶしつけに話しかけてきた面識のない人間など、あんた誰?という不審の顔つきをしてみせ、無視して立ち去ればよかったのだが、当然のような口調に不意をつかれた格好になり、思わず話に応じてしまった。
「なんで? 登志谷なんて人は知らないし見たこともないよと思うよ。
『トシヤ』なんていうから、最初は下の名前だと思っていたくらいだし」
すると流藤洪作はその言葉を待っていたかのように、またニヤニヤと笑いながら満足そうに頷いた。
「あなたは、談話室でも、そうおっしゃいましたね。
『知らないか』と問われたことに対して、『知らない』と答え、さらに『見たことないと思う』とね。
でも、もしあなたが言うように下の名前と勘違いしていて名字は知らないと思っていたのであれば、自分が知っているのかどうか、または見たことがあるのかどうか、それを判断する材料はないじゃありませんか。
だとしたら、こう表現するのが普通じゃないですか。
『わからない』と」。
「・・・」
「『知らない』、『見たことないと思う』という表現は、『わからない』という表現よりは積極的な判断をしていることになります。
でも、あなたが下の名前と勘違いしていたのであれば、『知らない』、『見たことないと思う』という表現を使うことはありえないのですよ」
「なぜ、そんなことが言える?」
「いいですか、ここで重要なのは、その推測が作られる前提なのです。
『知らない』あるいは『見たことないと思う』と判断できる根拠は、あなたが主張するように面識のないことを前提とするならば、それは顔によってではない。
では、どのようにして?
そうです、それは、文字によって、です。
つまり、文字として、その氏名を見たことがない、ということになります。
では、文字として氏名を見るとはどういうことなのか。
そう、この場合、答えは一つです。
それは、生協で働いている店員が付けている名札を見ることです」
「ねえ、さっきから、何が言いたいわけ?」
相手のまだるっこしい口調に、馬原はだんだんイライラしてきた。
丁寧な言葉遣いではあるが、テレビドラマの名刑事を真似ているつもりなのか、どことなく芝居がかっている。
「あなたは、『トシヤ』が下の名前と勘違いしていたということですから、生協の店員が付けている名札の記憶をたどり、下の名前が『トシヤ』という名札の人物はいなかった、と推測したことになります。
ところが、これはあり得ない。
なぜって、生協の店員の名札には、名字だけが表示されているからです」
「・・・」
「つまり、『知らない』あるいは『見たことないと思う』と推測できたとすれば、あなたは、『トシヤ』が名字であることを認識していて、その上で、その名字のみが表示された名札は見たことがない、と発言したことになるのです」
「あのねえ、あのとき頭でどんな事を考えていたかなんて、いちいち覚えてないよ。
名札? そうだっけ。
まあ、たぶん、名札には下の名前も書いてあると勘違いしてたんだよ」
「それは、おかしいですね」と、すぐさま流藤は強い口調で言った。
「その直前の会話を思い出してください。
あなたたちの話題は、生協でバイトしている女の子の名前当てでしたよね?
それはつまり、名札からは名字しか分からない、という前提に立っての会話だったはずです。
ちょっと前に話していた内容を忘れるなんて、まったく考えられませんよ」
相手のねちっこい話しぶりに、馬原のいら立ちはますます募るばかりだった。
「だからさあ、いつも、どうでもいい会話ばっかりでうわのそらってこともしょっちゅうだし、話した途端にもう忘れてたんでしょ」
「ますます変ですね。
だって、あなたは『ユカっていうのは、どう?』なんて言って、積極的に会話に参加しているようでしたよ」
「・・・」
「それでいて、名札には下の名前も書いてあると勘違いしていたなんて、ちょっと考えられない。
あなたは、登志谷さんと関わりがないことを強調しようとして、思わずより積極的な言葉を選んでしまったのでしょうね。
その結果、『トシヤ』が名字であることを知っていなければ、ありえない発言をしてしまった。
やっぱりあなたは登志谷さんと面識があったんじゃないですか。
なぜ、下の名前だと思ってた、なんて嘘をついたんです?」
ほんとに面倒くさい。
馬原は、心底、相手に腹が立っていた。
「もう、いい!
人間の脳なんてそんな論理的にできてるものじゃない!
忘れたもんは、忘れたんだよ!」
そう言い捨てると、馬原は体の向きを変え、いったん振り返り相手を睨みつけてから足早に流藤の元を去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます