第16話 永井登場
昼過ぎに目を覚ました洪作はパンと紅茶で昼食を済ませると、隣の一軒家に出かけ、大家さんと短い会話を交わした。
それから自室には戻らないで哲也の部屋へ向かった。
CDプレーヤーから流れるポップスで満たされた室内で、布団に入ったまま寝そべっている部屋の主が、気持ちよさそうにその旋律に耳を傾けていた。
洪作が「話があるんだ」と言うと、黙って哲也は起き上がって音量を下げに行き、布団を押し入れに片づけてから腰を下ろした。
「何か新しい推理を思いついたのか?」といくらかは期待のこもった口調でたずねる。
「ああ。そうなんだ」と洪作はしっかりとうなずいて、
「昨日は井戸田さんが犯人じゃないってことになって、結構がっくりしたんだけど、だからといって僕の推理が完全に否定されたわけではなかったんだよ。
犯人は以前この部屋に住んでいたということと、哲也が書いた推理小説の原稿に興味があることは、動かすことのできない揺るぎない事実なんだからね。
だから僕たちは、以前にこの部屋の住人であり、床板に仕掛けを施した人物を探せばいい。
僕は昨日の夜、その人物を探し当てたんじゃないかと思ってる。
大家さんに話をつけておいたから、その人物がそろそろ来るはずだよ」
それ以上のことを洪作は語ろうとしないので、哲也は半信半疑だったのだが、二人が音楽を聴きながら雑談をしていると玄関の戸を開く音がした。
洪作がすぐに反応して出ていった。
しばらくして、「どうぞ、入ってください」と背後に声をかけながら、洪作は哲也の部屋に戻ってきた。
そして、にこにこと満足そうにほほえみながら哲也に「この部屋の以前の住人を連れてきたよ。君にとっての大先輩だね」と言った。
洪作の後ろから、哲也の前にのっそりと一人の男が現れた。
哲也の見覚えのある人物だった。
「永井さん、あなたは以前のこの部屋の住人であり、そして床板に細工をしたのもあなたですね?」
哲也も何度か会話を交わしたことのある例の新興宗教の勧誘員に、洪作が断定するような口調でたずねた。
その中年の男は不意をつかれたのか、しばらく口を少し開き加減にして沈黙していたが、やがてこっくりとうなずいた。
「そうです、あなたの言うとおりです。
私は二十年ほど前から新しく梅崎さんが入居するまで、ずっとこの部屋に住んでいましたし、床板を外して空洞を作ったのも私です。
床板の下の空洞の存在は絶対に気づかれることはないと思っていたんですが、そうですか、あなたがたが発見したんですね」
「あの床板の下には何が入っていたんですか」と洪作が聞いた。
「え? あなたたちが空洞を発見したんでしょう?
あなたたちが発見したものが当然入っていたんですよ。
その昔、私が書いた長編の推理小説です」
「推理小説ですって?
こりゃあ、驚いた。
井戸田さんが言っていた推理小説好きの友人というのがあなただってことは分かっていましたが、そのあなたが空洞に隠していたものが推理小説だったとはなあ」
感慨深げな洪作の言葉を聞いて、永井はばっと顔を輝かせた。
「井戸田? 井戸田って、あの井戸田俊彦のことですか?
あいつが教授をやっていることは耳にしていたが、あなたたちは教え子だったんですか。
これは、なんという巡り合わせでしょうかね。
いやあ、実に懐かしいですな」
「どうぞ、立ちっぱなしも何ですから、どうぞおかけください」と哲也が勧めると、「それでは失礼します」と言って、律義に正座をしてから、誰にともなく滔々と語り始めた。
「この部屋に住んでいたころ、私は推理小説家になることを夢見ていた学生でしてね。
寝ても覚めても、推理小説のことばかり考えていました。
でも、悲しいかな、なかなか芽が出なくてね。
随分とつらい思いをしましたよ。
あの頃の私には色々と複雑な事情がありましてね、そのうちに推理小説どころではなくなりました。
自分の才能にもそろそろ見切りをつけていたので、最後のつもりで長編の推理小説を書いたのです。
卒業の記念という意味もありました。
そして形ある青春の思い出として、その原稿をここに残していこうと考えたのです。
それまでは落選続きだったので、どこかの賞に応募しようという気にもなれませんでしたしね。
それで私は床板の下に空洞を作って、そこに埋めました。
そこに埋めることで推理小説に対する自分の気持ちに別れを告げようと思ったのです。
ただ、その後に住んだ人間に原稿を見つけられて処分されるのも悲しい。
この寺石荘が、この思い出深い青春の場所が取り壊されるときまでは、この寺石荘と共に自分の青春の結晶も存在し続けて欲しいという気持ちがありました。
だから、誰に見つからない場所に隠すことにしようと考えたのです。
それがあの場所です。
あんな場所に隠したのは、今から考えると、私の推理小説的性向の発露でしょうかね。
それはともかく、こうして私は推理小説と訣別しました。
私は、私の属している宗教にあなたがたをお誘いするためにここを訪れたとき、あなたたちも推理小説が好きなことを知って、その暗合に驚きましたし、また親近感を持ちましたが、私がこの部屋の住人だったことは黙っていました。
そんなことを喋ったら、かえって、あなたたちは私を気味悪がって敬遠するに違いないかと思いまして。
勧誘の妨げになるような気がしたんです」
「なるほど。あなたの思い出話は興味深く拝聴させていただきましたよ。
その辺で、今の問題に心を移してもらいましょうか。
床下に埋められていた原稿を持ちだし、そして哲也が書いた推理小説の原稿までも盗み出した犯人は、永井さん、あなたですね?」
「梅崎さんの原稿?
それに私の原稿?」
「この期に及んで、まだとぼけるのはみっともないですよ。
あなたは哲也と同じ賞に応募しようと考えて、昔書いた原稿を取りに戻ってきた。
そして、偶然に哲也の手書き原稿を発見し、哲也が自分と同じ賞に応募しようとしていることを知って、ほんの出来心だったのかもしれませんが、ライバルを蹴落とすために、その原稿までも持ち去った。そうですね?」
愕然とした永井の表情は、洪作の告発の言葉が耳に入らず、うわのそらで聞き流しているようにみえた。
焦点の定まらぬ視線を漂わせていた永井は、やがてけだるい動作で洪作に目を合わると、観念したように、ゆっくりとうなずいた。
「そうです、私です。私がやりました。
あなたが言われたように、つい出来心で・・・
今度こそ、何としても当選するのだという妄想にとりつかれて・・・
どうかしてたんです。本当に申し訳ない」
永井はあらためて正座を組み直すと、そのまま深々と頭を下げた。
「で、げ、原稿は?
ど、どうしました?」
舌をもつれさせ、勢い込んで哲也がたずねる。
無念そうに、永井は力なく首を左右に振った。
「それが・・・ もう燃やしてしまいました。
取っておいても意味がないですから…」
「そんなあ・・・ そりゃないよ… 勘弁してくれよ・・・」
消え入りそうなか細い声で呟くと、哲也はがっくりと肩を落としてうなだれた。
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