第4話 盗まれた原稿用紙

 梅雨入り間近の声が聞こえ始めた六月中旬のことである。

 ミステリー研究会の先輩に薦められた「伝奇集」によってホルヘ・ルイス・ボルヘスを知り、夏休みが終わるまでに、そのボルヘスが編纂した「バヘルの図書館」シリーズの読破という目標を思い立ち、午後の講義をさぼって大学の図書館に籠って読書に没頭していた流籐洪作が、自転車を駆って寺石荘に戻ったのは、あたりが暗くなり始めた午後六時過ぎのことだった。

 玄関のガラス戸を引き開けて土間に一歩踏み出した途端に、洪作の隣の部屋の引き戸が勢い良く開き、その部屋の主である梅崎哲也が慌ただしく飛び出してきた。

 玄関からは真っ直ぐに廊下が伸び、その左手には台所が、右手には部屋が二つ並んでいて、手前の方が哲也の居室である。

「おい洪作、大変なことが起こった!

 こんなことってあるのかよ?

 まったく信じられん」

 血相変えたその様子は、かなりの慌てぶりである。

「どうしたの? 何があったの?」

「なにがってさ、盗まれちまったんだよ。

 命よりも大切な原稿用紙が!」

「えっ! 君の原稿が? 本当に?」

「間違いない。

 一枚残らず盗まれちまった。

 一体どうなってるんだ?

 とにかく見てくれよ」

 洪作は乱暴に靴を脱ぎ捨て、急いで哲也の部屋に上がった。

 雑誌や推理小説、衣類などが散らかり放題の洪作の自室とは対称的に、哲也の部屋は綺麗に整頓されている。

 書き物机、本棚、収納箪笥、テレビといったものが効率よく配置されていた。

 もちろん本や衣類やごみなどが床に散乱していることもない。

 ただ、部屋の左手奥には押し入れがあるが、その普段は閉まっている押し入れの左半分が今は開いていて、布団などとともに押し入れの中に収まっていた五箱ほどの段ボールが、押し入れの外に放り出されていた。

 その押し入れの床には、床板が汚れるのを防ぐために、包み紙として使用されることなどの多い茶色のハトロン紙が敷かれている。

 床板の全面に敷かれたハトロン紙の上には、押し入れの広いスペースを利用して、寝具や段ボールの箱が収めてあった。

 敷き布団などの寝具類は押し入れの右半分に、段ボールの箱は左半分に収納されている。

 段ボールの箱は一段に五つほどずつ積み重ねられ、押し入れの壁に沿うように横一列に並んでいるのだが、今はその中で、押し入れの隅に積み重ねられていた五箱の段ボールが押し入れの外に無造作に放り出されているのだ。

 いずれの段ボールの箱にも、本棚に収まりきれない小説本や、使わなくなった参考書など夥しい量の書物が入っている。

「オレはな、あの原稿用紙を、押し入れの隅っこに積み重ねておいた段ボール箱のうち、一番下の箱の下に隠しておいたんだよ。

 つまりだ、床に敷いてあるハトロン紙と一番下の箱とで挟むようにな。

 なのに、さっきMGから帰ってきたら、こんなふうに押し入れの隅に積んであった段ボールの箱が全部外に出され、原稿は消えちまったというわけだ」

 MGというのは、京都一円にチェーン店をもつスーパーの名称である。

「本当にそこに置いてあったの?」

「ああ、それは間違いないよ。

 大事な原稿だからさ、他人には絶対に見付かるはずがない押し入れの隅のあの場所に隠しておいたんだ。

 なのに、なぜか盗まれちまった。

 なあ洪作、あの原稿を盗んだヤツから何としても取り返さないと。

 協力してくれよ、な、な」

 じっと真剣な表情を向けながら、哲也は洪作の両腕をつかんで詰め寄った。

 すぐに洪作はしっかりと頷いて、

「うん、もちろん協力するよ。

 君には悪いが、こういうミステリーを黙って見逃すことなんてできないからね。

 同志として、この気持ちはわかるでしょ。

 でもさ、コピーは取っておかなかったの?

 手書き原稿の人は、そうするらしいけど」

「そろそろコピーしようかなと思っていたとこだったんだよ。

 ちくしょう!

 こんなことなら、けちけちせずに、ワープロでも買っておけばよかった。

 あーあ、もう締切りの二週間前だぜ。

 今から内容を思い出しつつ書き直しても、とても間に合わないよ。

 だから、二、三日のうちに、なんとしても取り返さないと。

 もし犯人が分かっても、そいつがすでに燃やしたりして処分していたら・・・

 そんなことになっていたら、ああ、絶望だ!

 オレの血と涙の結晶が・・・

 努力の賜物が・・・

 一世一代の大作が…」

 大袈裟に嘆じた哲也は、がばっと急に頭を抱えて床にうずくまり、爪で引っ掻くように頭をかきむしった。

「まあ、そんなに気を落とさないで」

 そんな月並み言葉をかけることしか洪作にはできなかった。

 だが、哲也の滑稽なまでの身振りを理解できないこともない。

 推理小説家を目指す同志として。

 洪作と哲也は無類の推理小説好きである。

 二人の本棚はほとんど内外の推理小説で埋め尽くされている。

 どちらか一方が、もう一方に感化されてそうなったというわけではない。

 以前から推理小説好きだった二人の人間が、偶然にも同じ家に問借りすることになったのである。

 さらに二人が通う学部は同じ法学部で、しかも一回生の基礎演習でも同じクラスだった。

 この巡り合わせをお互い素直に喜んだ。

 当然のように二人はミステリー研究会に加入したわけだが、やがて一か月あまりの月日が過ぎたころ、洪作は哲也に、実は浪人生時代から推理小説をこつこつ書いていて、ある出版社の推理小説の賞に長編を応募してみるつもりだと打ち明けた。

 すると哲也も、実はオレもそのつもりなんだと答えた。

 その後、洪作も哲也も無事に長編を完成させることができた。

 締切りも迫り、いよいよ出版社に送り届けようという段になって、哲也の手書き原稿が盗まれるという事件が起こったのだ。

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