第3話 寺石荘

 住めば都とはよく聞く言葉だが、寺石荘の住人がその言葉を使うときには、住めば天国と言い換えるのがふさわしい。

 京都市の西南一帯は西京区と呼ばれる地域であるが、この物語の舞台となる寺石荘は、一年を通してにぎわいをみせる天龍寺や渡月橋を配する嵐山の中にあって、比較的物寂しい区域である渡月橋を超えた西側の茶尻町という小さな町の下宿である。

 築三十年を越す木造二階建ての寺石荘には、八畳一間の部屋がそれぞれの階に二部屋ずつある。

 台所も便所も共用で浴室はなしという決していい条件とはいえない貸間だが、二万円以下という家賃の安さも手伝って、今でも地方から京都を訪ねてくる大学生の住家としての役割を担っている。

 とはいえ、最近では寺石荘に住むことになるのは、下宿の手配が遅れてしまったりまたは経済的な理由から、贅沢をいっている場合じゃないというせっぱつまった連中ばかりであるのも事実であった。

 そんなわけで、初めのうちは新しい下宿を見付けるまでの一年間の我慢だというつもりで住み始めるのだが、少し経つと様子が違ってくる。

 間近に望める山並みや、のどかな町の佇まいを好ましく思うようになり、銭湯に通うのもあながち悪くないなと感じ始め、他の部屋の住人との親密な付き合いが楽しくなってくる。

 そして何よりも、常に陽気で優しい大家さんに好感を持たずにはいられなくなるのである。

 若い頃に夫と死別し、もう七十歳を迎えようかという大家さんの寺石千恵子が一人でこの下宿を切り盛りしているが、彼女は何かと学生が困った時には労を惜しまず、親身になってお世話をしてくれるのだ。

 いつも外食では健康に悪いと言って、手料理を学生達に披露することがたびたびある。

 あるいは、体調を崩して寝込んでしまいとても心細く思うときなどは、それこそ付きっきりで看病してくれる。

 そんなふうに、下宿人には我が子のような愛情を注いでいた大家さんであったので、逆に、学生達をてこずらせるセールスマンや新聞配達の勧誘員の類には容赦のない厳しい態度をとった。

 下宿のすぐ隣に建っている自分の住家から目を光らせて、下宿の敷地内に入ってくるそういった輩を徹底的に追い払っていた。

 概して社会経燬の乏しい学生にしてみれば、これほどありがたいことはなかった。

 だから多くの下宿生は、この寺石荘とその大家さんを、学生時代のかけがえのない存在として記憶する。

 下宿生にとっては母親のような存在であった大家さんを、下宿を去った学生が懐かしがって、社会人になってからも訪れてくるという光景がしばしば見られた。

 無論大家さんも、成長したかつての下宿人に会えることを楽しみにしていた。

 現在、寺石荘の一階の住人である洪作と埼玉からやってきた梅崎哲也も、ものの三か月が経つころにはすでに寺石荘に愛着を持つようになっていて、自分の部屋を引き払おうなどとは考えなくなっていた。

 二階の二部屋に今は誰も借り手がいないことを非常に残念がっている。

 すべてが揃っているワンルームマンションなんかより、こっちの方が味わい深いのになあと思うのである。

 いったん愛着がわいてしまえば、冬に冷たい隙間風が容赦なく吹き込んできたり、少々強めの地震がくれば襞にひびが入ってしまうほどに頼りない造りにしても、二人には少しも苦にならない。

 だから、いつだったか洪作の友人が、「そういえば寺石荘を音読みすれば、『じごくそう』となるね」と茶化したときも、いささかも動じずに胸を張って反論したものだ。

「バカいえ、地獄だなんてとんでもない!

 これほど住心地のいい場所はないね。

 地獄どころか、ここはまさに天国なんだよ」

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