一話  緒方努 独白

 俺は5年前、家族を失った。俺のせいだった。

 職業柄なかなか家に帰れない日が続いた。家には妻と娘が待っていたのにも関わらず俺は仕事ばかりの人間だった。

 妻が刺されて死んだ。捜査の過程で、不倫をしていた事が明らかになった。それも、不特定多数の男と。そのうちの1人に刺された事が分かった。

 妻は刺された後、家に火が付けられた。家が火事と聞いた時、家に急いで帰って気づいたのは、娘がどこにもいないという事。家の中には刺された妻の遺体しかなかった。犯人が逃亡の時に付けたと思われる火がすぐに回り、なんの証拠も残らなかった。

 どんなに探しても見つからなく、捜索願いを出しても見つからなかった。

 当時から後輩の中村は特によく探してくれて、ショックから憔悴しきった俺を気遣っていてくれたのもよく覚えている。

 妻は誠実で正義感の強い人だった。娘が喋り出す前までは上手くいっていたと思う。

 その頃から俺はデカい仕事を任されて家族が見えなくなっていた。



——五年前——

 最近追っていた、連続惨殺事件の犯人を思ったよりも早く確保することが出来た。犯人は昔も一度捕まってる再犯だった。それも昔も俺が担当していたものだった。確かその当時、内容は完全には覚えてないが、司法取引が行われて刑が軽くなった上に、警察という組織でありながらデカい収獲欲しさに汚い取引をした奴のせいでたったの3年で野放しにされた。

 「くそッ」

 デカい音が部屋に鳴り響く。

 苛立ちのあまり、思わずデスクを力任せに叩いた。

 何故あの時こんなゲス野郎と司法取引なんかしたんだ、こうなるとわかっていれば!

 そんなこと思っても仕方ないのはもうわかっている。でもこの職業柄こう思うことは多い。

 そして、どんなに経験しても慣れない。

 自分の行い一つで救えた命があると思うと、どうしても悔やんでしまうのだ。

 3年前の俺を殴りたい衝動に駆られる。



 三年前の話だった。


 ある少女の泣き叫ぶ声が法廷に響き渡る。

 「どうしてっ!!! どうしてそいつが死刑じゃないの!? どうしてよぉっ!!」

 緒方はそれを傍聴席で見ていた。

 今回の被疑者は違法大麻の常習犯でもあった。上で売っているやつの身元さえ吐けば刑を軽くする。そう司法取引をした結果がこれだ。それに精神異常の可能性もあったと言う事で更に刑が軽くなるという結果だった。

 「あ”ああぁぁぁぁぁッ!」

 少女の泣き叫ぶ声だけが法廷に響いた。少女は顔に手を当て泣き崩れた。

 その光景を目に焼き付けて緒方はその法廷を後にした。

 司法取引が行われたため裁判は通常よりも早く終わりを迎えたと世間には公表される。だが緒方は疑っている。いくら司法取引でもこんなに早く裁判は終わらない。上の人達がもっと汚い取引をしたのだ。

 だがそれは触れてはいけないパンドラの箱。警察の刑事で捜査一課を長く続けていればそう言うのは自然とわかるものだ。

 何より緒方が勤めている所が異常というのもあるのだが。

 外に出て空を見上げる。お誂え向きの曇り空だった。

 もし、殺されていたのが自分の家族だったら、俺は犯人を殺していただろう。でもこの仕事、そう考えたら負けなのだ。自分の事として考えてしまえば負けなのだ。もう仕方ないと割り切るしかないんだ。

 そう思いながらも、自分はそんな簡単に割り切れるような出来た人間じゃない。

 俺の掌には爪が食い込んで血が滲んでいた。



 あの事件から3年。結局あの事件の加害者は実家のコネと言うか、裏社会の権力を使い、既に出ている。

 昔の事を思い出し、椅子に座り項垂れていると、勢いよく扉が開いた。

 「緒方先輩っ!」

 慌てた様子で部下の中村が入ってきた。

 「なんだ」

 俺は重い瞼を開ける。

 「緒方先輩のご家族がっ! とりあえず早く!」

 中村は走ってきたのか、息を切らしており、顔には焦りが滲んでいた。

 俺は胸が嫌に騒ぐのを感じた。

 中村を跳ね飛ばし走る。どうやって駐車場まで行ったのか、どうやって運転したのか覚えていない。

 ただ目の前には炎に包まれた家だけが残されていた。俺は居ても立っても居られず停める消防隊を無視して中に入った。

 「百合ゆり!! かえでッ!!!」

 轟々と燃える炎の中、ただ妻と娘の名前を叫ぶ。

 煙が目に染みて目の前が見えにくい。息も苦しい。目に涙も滲んできた頃だった。リビングの近くで横たわっている妻を見つけた。

 「百合ッ」

 ゆすっても目は開かない。

 脈も無く、もう死んでいるのだと理解できた。

 ただその隣に見知らぬ男が血まみれで倒れていて、百合も腹を数回刺され血まみれだった。状況が把握できない。

 ただ、楓の姿が見えない。

 そう思った途端消防隊が入ってきて強制的に家から出されてしまった。

 その後はただボーッと消火作業をしているのを眺めているだけで完全に火が消えた頃には辺りは明るくなり始めていた。

 やはり、家の中からは百合の遺体とあの見知らぬ男の遺体しか上がっておらず、楓は見つからなかった。


 死に物狂いで楓を探した。

 近所への聞き込み調査と捜査の過程、知り合いの探偵に一緒に死んでいた男のことを調査してもらってわかったのは、妻が不倫をしていたことだけだった。それも、不特定多数の男と。

 楓が見つからなくて1ヶ月が過ぎた頃新しく1人で住んでるアパートのポストに一通の手紙が入っていた。


『 おとうさんへ

わたしはげんきです。これからとってもしあわせになります。なぐってくるおとこのひともたたいてくるおかあさんもいりません。ごめんなさい。おとうさんにはあえません。さようなら。』


 差出人も、宛先も住所も全てが書かれていない。ここまで楓か誰かが直接入れに来たのは明らかだった。近くの防犯カメラを全て確認しても、何も、わからなかった。

 指紋検査も勿論してもらった結果、楓の指紋しか出てこなかった。

 俺は楓に捨てられたんだ。

 そりゃあそうだ。碌に家にも帰らない父親で、娘が助けて欲しい時側にもいなかった。その結果がこれだ。

 妻はどうやら楓に手をあげていたらしい。妻の不倫相手も。残った不倫相手を皆殺したくなったが、楓にとったら、自分もそいつらとなんら変わらない人間なのだと思い出した。

 「…ごめんっ、ごめんなぁっ、楓、本当にすまないっ、」

 何度も父親である自分に助けを求めたんだろう。来ないとわかっていても涙を流しながら助けを求めた事が何度あったのだろう。そしてその願いを裏切られたのが何回あったのだろう。

 そんな事を思いながら涙を流す資格が無いと分かっていても、涙は止まらなかった。


 緒方努は初めて自分が犯してしまった罪を理解した。


 両親もとっくに他界し、一度は愛し合った妻ももうこの世にいない。肉親は娘の楓だけだった。

 今どこにいるのか、もう一度だけ楓に会いたかった。会って謝りたい。出来る事ならやり直したい。俺は楓を探すのを諦めなかった。



 夢を見る。存在しなかった記憶と思い出の夢。

 娘の楓は妻の百合と一緒に自分の帰りを待っている。帰ってくれば「お父さん!」と両腕を上げながら楓が出迎えてくれて、百合が「おかえりなさい。ご飯できてるから食べましょ」そう言って微笑んでくれる。

 3人で食卓を囲みながら楓が今日あった事をたくさん話して、それを百合と笑いながら聞いて、食事が終わればソファーで3人で映画を見る。そうしてお風呂に入って3人で寝るのだ。

 家での日常を当たり前に3人で過ごす中、違和感を感じながらも気づかないふりをした。

 気づいたらいけない気がした。でも、やはりこんな日常はおかしいのだ。

 楓が喋れる様になってから俺は忙しくしていたから家で3人でゆっくりなんてした事がない。もしかしたら楓にお父さんと呼ばれたのは数え切れるくらいしかないかもしれない。

 3人でゆっくり映画など見た事がないのだ。

 だからこれは夢なのだと気づいた。

 起きたらやはり泣いていた。

 嫌な夢より幸せな夢の方が残酷になることもあるのだと、初めて知った。



——現在——

 「緒方先輩……」

 中村は痛々しいものを見るような表情で緒方先輩を見ていた。

 黒瀬誠の部屋に捜査に入ってから3日。緒方は分かりやすくこの短期間で窶れた。やっと、やっと家族を失った悲しみから立ち直ろうとしていた矢先にこれだ。普通の人間なら耐えられない。

 「…でも…、生きて、いるんだな……楓は…」

 「そう、ですね」

 弱々しく呟く緒方に、中村は顔を顰めた。

 生きているのに会えない、と、生きていなくて会えない、は似ているようで全く違う。前者は期待してしまうのだ。会えるかもしれないと、早く会いたいと、焦り足掻く。

 どちらが本人にとって酷かは、本人にしか分からないが、見ている周りは前者の方が痛々しく見えてしまって仕方がないものだ。

 緒方努という人間はどちらかといえば熱血な人であった。どちらかと言えばの話だが。いつも弱音など吐く事はなく、この仕事に誇りと信念を持っているような、悪く言えばこの仕事には向いていない人間で、よく言えば天職。

 真逆の意味だが、本当に周りにそう思わせるのが、緒方努という刑事だった。

 「俺は、楓を探すのを諦めない」

 「俺も手伝いますよ」

 緒方は密かに決意をした。ただ中村は複雑な心境を露わにするように表情を歪ませていた。





 緒方努はこの時、この先に待ち受ける結末地獄へと、足を踏み入れたことを知らない。

 もうずっと前から自分の部下達が足を踏み入れる所か、頭までもずっぷり浸かって、もう這い上がる事さえ出来ないところまで来ていることすらも、この時の緒方は知らない。
















 残酷な世界の悪魔はひっそりと顔を覗かせて微笑んでいた。













 早く早く、堕ちてきて、と。

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