2/3 外の世界
スマホを発見したのは、夕暮れのことだった。
「見つけたぞ!」
少女はスマホを掲げた。土だらけの顔で笑い、真っ白な歯を見せる。
茂みに差し込んだ光が液晶画面まで届き、ギラギラと反射する。
「ごめん。でも見つけられた!」
膝立ちで飛び跳ねながら少女はこっちに来て、スマホを渡してきた。
カバーとフィルムは傷だらけになっていたが、ホームボタンを押すとしっかりとロック画面が映る。中身は死んでいないようだ。
「ありがと……! 良かったぁ……」
全身の筋肉が緩んで、体が崩れる。尻を地面に落としてしまった。
一時は見つからなかったらどうしようと悩んでいただけに、無事に発見できた
これまで蓄積していた疲れのせいか、足は動かなかった。
「疲れたな」
少女が隣に座ってきた。
「名前を名乗っていなかった。私はイオだ」
イオ――覚えやすい。人の名前を覚えるのは得意じゃないが、妙に耳裏にこびりつく二文字だ。
「俺は不二」
対抗をしたわけではないが、こちらも二文字で名乗った。
イオの足を改めて見る。地上を移動するには実に不便な形状だ。ずっと膝立ちで歩いていて、痛くないのかと心配になってくる。
「どこから来たの?」
スマホを落とす前の疑問が再び浮かび上がってきた。人魚が山にいる理由が分からない、普通は海にいるものだ。
「人魚の村だ。この山とは洞窟でつながってる」
「へぇ……知らなかった」
洞窟があることすら知らなかった。山の景色はそこまで注意して見ていなかったから、見落としていたかもしれない。
「私の体だと寿命が短い。だから外の世界を知りたかった」
イオは自分の足首を指差し、目を細めた。声もそれまでより落ち着き、寂し気な印象を受ける。
人魚の特徴の一つに不死身というものがあるが、人と魚のバランスが悪いと、逆に短命だったりするのだろうか。少し気になったが、あまり触れてはいけない気がした。
「外の世界は……楽しいな」
俺のほうを向き、イオはニッコリと笑った。夕焼けの後光が顔にかかり、頬が紅潮して見えた。
「そう……」
ここまで純真な笑顔を間近で見たのは初めてかもしれない。体の奥のあたりが、なんだかムズムズとした。
「じゃあ俺、そろそろ帰らなきゃいけないから。日が落ちそうだし」
この変な感覚から逃れたい、という気持ちでいっぱいだった。
「また、明日会えるか? ここで待ってる」
「ああ、行けたら行く」
適当な返事をして、俺は振り向かずに山を下りた。
一晩たっても、イオのことは忘れられなかった。
むしろ、あの時よりもっと頭から離れない。
朝食の焼き鮭を見ると、彼女の紅潮した顔が思い浮かんでくる。全く食べられない、というわけではないが、食欲減退には十分な効果がある。
体の疲労感やスマホの傷が、昨日の出来事を真実だと裏付けてくれる。長い夢を見ていたわけではないらしい。
このことは誰にも話していない。伯父や伯母は、日が暮れてから家に帰っても特に何も言わず、夕食を用意して待っていてくれた。故に、そもそも言う機会がなかった。
他人に話すべきなのだろうか。少し不思議なことが度々起こるというなら、信じてくれるかもしれない。
だが、話そうという気分にはなれない。まだ心のどこかで信じ切れない自分がいるからだろう。記憶も証拠も残っているのに、このモヤモヤが体内に詰まって仕方がない。
昨日の体験に、気持ちの整理がつかない。
「どうした? 顔色が悪いぞ。体でも悪いのか?」
向かいに座っていた伯父が声をかけてきた。眉をひそめ、心配そうな顔をしている。
「いや別に。考え事してただけ」
「そっかぁ、高校生だもんねぇ。考え事ぐらいするよねぇ」
伯母の目元はにやついていた。口元を隠しているが、きっと奥では笑っている。
「そおぉ……。まぁ、元気ならそれでいいが。相談事があれば俺に遠慮なく言ってくれ」
「はいよー」
相談する気は全くなかったので、素っ気なく返事をした。
胸にしこりを残した状態で、友博は学校へ向かった。
教室に入ると、クラスメイトたちが窓際の後ろのほうに集まっていた。
「で、で、一緒に写真とってくれたんだよ!」
人だかりの中心にいる力動が、高らかに写真を上に掲げる。
「へぇー、すごーい」
「そんな上にされちゃ見えねぇし!」
どんな写真かは、見なくても大体察しがつく。昨日までの自分なら、見間違いか何かだろうとスルーしていた。
が、イオの存在が俺の価値観をすっかりと変えていた。人魚は実在し、この町とつながっている。間違いない。
イオは山にいたわけだから、別の人魚なはず。一体、どんな姿をしているのだろう……。
「わざわざ岩場に乗ってくれたんだぞ! ほんといい人だったな。あ、人魚か」
「で、今日もみなみ海岸のほうにいるんだって。会えるうちに会ったほうがいいかもね」
力動の横では富鐘が目を細めて同じく自慢をしている。
「ん? 友博も気になるのか?」
じっと見続けていたせいか、富鐘たちに気付かれてしまった。
「ほらよ!」
力動は、掲げていた写真を俺のほうに向けた。
「人魚……」
金髪に青い瞳で、きらびやかなウロコが下半身についた、一般的なイメージの人魚だった。隣には力動がいて、二人でピースをしている。右上に写り込んでいる指は富鐘のものだろう。
ここまで手の込むことをできる人物とも思えないし、九分九厘この写真は本物だ。
「残念だなぁ友博。今日も無理だったりするのか?」
富鐘の表情は非常に憎たらしい。
「……うん、無理だ」
でも、写真に興味はひかれなかった。
頭の中は別のことでいっぱいで、他の事を考えられなかった。
放課後、走って山まで向かった。
山中は日当たりが悪く、おとといの雨のぬかるみがまだ乾いていない。転ぶのを避け、早歩きへと切り替えた。
今の自分は人魚の存在を信じている。もう一度イオと会えば、半信半疑で引いた対応をせず、ちゃんと正面から向き合えるはずだ。
たまっているモヤモヤの理由が、昨日のコミュニケーションに対する後悔だと、やっと理解できた。
「…………」
問題は本当にイオがいるかどうかだ。約束したとしても本当に山に来ているかは分からないし、すれ違って会えないかもしれない。
「――――!!」
胸のざわつきが大きくなっていた時、山道の先で甲高い声が微かに聞こえた。
「イオ……?」
だが、今日も山には人気がない。誰か? イオか? それとも別の何かか?
体がゾクゾクとしてくる。足がうずき、いても立ってもいられなくなる。
気付いたら俺は一心不乱に走っていた。
転倒など気にせず、体に酸素を送ることも忘れ、胸を痛くして走った。
頂上に向かい、ひたすら走り続けたのち、その足を止める光景があった。
「なっ……!!」
イオが、何者かに捕らえられていたのだ。
相手の上半身には人工的な翼の機械を取り付けていて、大きな翼の羽ばたきにより、宙に浮いている。暴れるイオを羽交い締めにし、全く離すそうとしない。
「逃げろ不二! 逃げろ!」
イオの鬼気迫る表情は、その相手がいかに恐ろしい存在であるかを端的に物語っていた。
自分の身を優先して逃げるか、イオを助けるため特攻するか。二つの選択肢が頭をよぎった。
だが足は岩のように重く、全く動かせない。体の自由が利かず、前にも後ろにも行けない。何もできない、最悪の選択しか実行できなかった。
「くそ……ぐっぞぉ……」
体内から湧き上がるいらだちが歯ぎしりを増幅させる。
相手をよく見ると、下半身が魚のようなウロコで覆われていて、先には二股に別れた尾びれが付いている。
人魚だ、この特徴は間違いなく人魚だ。
同じ人魚がどうして……、どうしてイオを無理やり捕まえているのか……。
「早く! 後ろ後ろ!」
目を大きく見開き、イオは叫んだ。
後ろ……?
振り返ろうとしたが遅かった。俺の脇の下にはすでに腕が入り込んでいた。
背後からの腕が肩を強くつかみ、体を固定された。
驚く暇すら与えられず、体はすごい勢いで持ち上げられ、靴底が地面から離れた。
「あぁ……遅かった……」
イオの声はか弱かった。目からも光が消え、顔は青ざめている。
首だけを後方に向け、憎き相手を確認した。
相手はショートカットの女だ。鉄の翼を装着していて、重々しい音を立てて浮いている。下を見るとやっぱり魚……彼女もまた別の人魚だった。
なんとか抜け出そうと、もう一人の人魚の手首をつかんだが、ビクともしない。自分より一回りも小さい女の、きゃしゃな腕とは思えないほどに力が強い。
「クソッ……! 何なんだアンタら! どういう目的で……」
「アンタら? アタシらにも名前あるんだよねぇ。アタシはレース。向かいにいるのがセイネさん、分かった?」
ハスキーで濁った声が耳元近くで響く。ずいぶんと口調が悪い。
「…………」
俺にできる唯一の抵抗は、質問に答えないことだ。歯を食いしばり、唇を強くかみしめた。
「まぁまぁレース。別にいいじゃない。坊や、送るまでの間、時間もありますし、おしえてあげますわ」
もう一方の人魚は、穏やかな雰囲気であった。
さらに飛翔し、山の上のほうに向かった。
レースと自称した人魚も後を追う。スピードがあるわけではなかったものの、横から拭く風に流されることなく、安定した飛行を実現していた。
「アタシらはな、人魚のイメージ維持のために働いてんだ」
レースがやっと俺の問いに答えた。
「イメージ?」
「人魚ってのはさ、不老不死の美しい生物じゃなきゃいけないわけ」
その割には、言動が荒々しい。強引に拉致までされて、美しさを感じることなんてできない。
「あーんな、ほぼ人間のデカブツも人魚なんて知られたら、先人が築き上げた人魚ブランドが崩れちゃうわけ。だからイオみたいなゲテモノは、ウチらの村にこもっててくれなきゃ困るんだよね」
「それだけのために……?」
イオが外の世界を求めていた理由がよく分かった。
こんなヤツらのいる村に住んでいたら、息苦しいったらありゃしない。ただでさえ短い寿命を、狭い世界に閉じ込められて終わるなんて、相当嫌だったはずだ。
俺も、この町に引っ越してから退屈だからこそ分かる。自分に合わない世界とは、とことん合わないのだ。
「それだけ? アタシらにとっては死活問題なんだよ!」
レースの腕の締め付けが強くなった。
「とにかく人魚の村に来てもらうからな!」
俺が運ばれる先は……未知の世界。一体、何をどうするのいうのだろうか……。
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