第25話 契約

 追い出されるようにして控え室の外に出た俺がタオルで体を拭きながら待っていると、琴音が白のシンプルなワンピースにベージュの7部丈パンツという夏らしい格好に着替えて外に出てきた。

 タオルで髪を拭きながら俺と視線を合わせた琴音が、ふんっ、と機嫌悪そうに顔を背ける。


「よく似合ってるぞ」

「お世辞はいいから、さっさと着替えてきたら」

「お、おう」


 取り付く島もないその態度に、失敗したなと内心思いつつ琴音と入れ替わるように控え室の中に入る。

 髪や上半身は既にタオルで拭き終わっているのでぐしょぐしょに濡れたズボンをなんとか脱ごうと試みるが……


「うわっ、全然脱げない」


 いつもどおりに脱ごうとしても全然ズボンが下がっていかず、しかたなく裏返すようにしてウエスト部分を床まで強引に下ろし、そこを片足で踏みつけて強引にズボンを脱ぎ捨てる。

 当然のことながらパンツも濡れてしまっており、少し躊躇しつつそれも脱いでタオルで全身を拭いていく。


「あー、マジで助かった。新美さんとマスターにお礼を言わないとな」


 ふぅ、と息を吐いて人心地つき、棚においてあった着替えに視線をやって、固まる。

 先ほどまであったはずの俺の着替えが怒った琴音に隠された、なんていたずらだったらどんなに幸せだっただろうか。


「あの、馬鹿」


 俺の着替えの横、透明なビニール袋の中に入っていたのは、先ほどまで琴音が着ていた服だった。

 いや、服が入っていただけならこんなに驚くはずがない。なぜかその服の一番上に、琴音がつけていたと思われるピンクのブラが半分に折りたたまれた状態で存在を主張しているのが問題なんだ。


「たぶんタオルを上に被せて持っていくつもりだったんだろうな」


 そしてそれをすっかり忘れて、タオルで髪を拭きながら出てしまったんだろう。そんな予想をしつつ、どうすべきかを考える。

 その結論はすぐに出た。君子危うきに近寄らずだ。

 自分の着替えを棚から取り、パイプ椅子を入り口近くに持ってきてそこに置く。棚に背を向けていれば視界に入ることもない。まあ正面に控え室の扉があるが、さすがに誰も入っては……


「ごめん、陸斗。私着替えをわす……」

「……」


 着替えのトランクスを片手に持った俺と、琴音の視線が合う。そして琴音がその視線をゆっくりと上下に動かす様を、なぜか冷静な頭で俺は見ていた。

 琴音の頬が赤く染まっていく姿を眺めながらどうすべきか考えた俺は、頭に浮かんだままに俺は胸とお腹の辺りを腕で隠す。


「琴音のエッチ! じろじろ見ないでよ」

「えっ、いや、あの。ごめん!」


 バタンと閉じられた扉を眺めながら、先ほどの自分のセリフの気持ち悪さに苦笑いを浮かべる。

 思ったより琴音に裸を見られたショックは少なかった。まあ見られたところで減るものでもないし、見られた相手も琴音だしな。


 そんなことを考えながら俺はさっさと着替えを終える。

 用意されていた俺の黒いTシャツは、なぜか背中に『だって亀ですから』と書かれたネタ系のものだったが、着心地は悪くない。

 扉を開けて控え室から出た俺は、真っ赤な顔をして柱に身を隠している琴音にどうぞ、と手で控え室が空いたことを示すと、にんまりと笑っているマスターにぐっと親指を立てたのだった。


 しばらくしたら琴音もなんとか落ち着き、以前新美さんと話したときと同じ席で、俺、琴音そして新美さんは顔を突き合わせていた。

 マスターが気を利かせて持ってきてくれたホットミルクをちびちび飲みながら状況を確認する。


「つまり雄一おじさんに俺がミトの配信に出たことが見つかって、契約解除を告げられた、と」

「ええ、琴音ちゃんは未成年だから親の同意が必要だったの。そのときに交わした契約違反だから解除権を行使させてもらうって」

「契約書ってあります?」

「いい?」

「うん、陸斗なら大丈夫」


 新美さんが琴音に確認を取り、鞄から契約書を取り出して机の上に置いた。


「へぇ、Vチューバーってタレント契約になるんですね」

「マギスタはそういう形をとっているだけよ」

「そうなんですか」


 そう言葉を返しながら『タレント専属契約書』と書かれた少し厚みのある契約書をぺらぺらとめくっていく。

 正直に言ってこういった本格的な契約書を見るのは初めてだ。

 甲、乙の指定から始まり、月乃ミトというアバターの使用に関する事項。その権利関係や、費用負担、報酬の取り決め、禁則事項など、こんな風だったのかと感心することが多い。


 思わず読みふけってしまいそうになりながら必要ないと思われる部分を読み飛ばし、ついに契約解除に関する条文にたどりつく。

 しばらくそれをじっくりと眺め、俺は顔を上げた。


「契約解除に関しては、ずいぶんマギスタに優位な契約内容ですね」

「かもしれないわね」

「それでもなりたいって人が応募してくるから優位な契約が結べるんだろうな」

「うーん、そう言われると弱いんだけど、基本的に問題を起こすとしたらVの子たちのほうだから会社を守るためにしかたない面もあるのよ」


 正直な感想を漏らす俺に、少し気まずそうな顔をして新美さんが弁明する。

 契約書に書かれていたのは、基本的にマギスタが一方的に契約解除を出来る条件についてで、Vチューバー側からの契約解除の方法はほとんどない。

 あるとしても、マギスタが破産、再生手続きを開始したとき、などといった当たり前のことや、半年前に事前に書面での申し出をしたときなどごくわずかだった。

 そこに今回のような事態で琴音側から契約解除することが出来るようなものはない。


「でもこれじゃあいきなり月乃ミトの契約解除は難しいんじゃないですか。違約金が発生するって書いてありますけど、それを払ってでも辞めさせるって雄一おじさんが言ったとか?」


 マギスタ3期生の中でも最も多いチャンネル登録者数を誇る月乃ミトを勝手にやめさせるとなれば、その違約金はかなりのものになるだろうということは俺でもわかる。

 それ以上の額を琴音は稼いでいて、それでまかなえばいいと考えているとか、と俺が首をひねっていると、新美さんはパラパラと契約書をめくって最後の方のページを開いた。

 頭に『特記事項』と書かれたそのページを俺は読んでいく。


「さっき見ていたところはマギスタ定型の契約書で、未成年でちょっと特殊なミトの場合はこの特記事項があるのよ」


 そう言ってため息を吐く新美さんの顔はかなり疲れていた。考えてみれば『マギスタ流星祭』で忙しかったうえに、こんな話が振ってわいたのだから対応に追われてまともに休めていないのだろう。

 ミトが普通に『マギスタ流星祭』に参加していたことを考えれば、雄一おじさんが俺のことを見つけたのは昨日って線が濃厚だ。


「昨日?」

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 少しの引っ掛かりを覚えながら読み進めていくと、今回の契約解除の条件に当てはまりそうな場所を見つけた。

 そこに書かれていたのは、『甲は、乙の活動において、異変や危険があることを知ったときはそれに適正に対応し、また乙が健全な活動が行えるよう管理し、指導監督しなければならない』という文言だった。


「つまり俺の存在は不健全であり、マギスタは行うべき対応を怠ったという主張ですか」

「そうね。こちらの対応次第では逆に訴えることも考えるとまで言われたわ。もし裁判になったら、マギスタとしては、リクガメ君にミトの兄だと言われ、ミト本人もそう認めたために誤認していたという主張をすることになるだろうけど」

「この事態を想定していたわけじゃあないんですけど、役に立ちそうで良かったです」


 苦しげに笑う新美さんに、申し訳なさを覚えながら契約書から視線を外す。心配そうに俺を見つめる琴音をじっと眺め、そして一番大事なことを確認していなかったことに気づく。


「なあ、琴音はどうしたいんだ? このまま雄一おじさんの言うままに月乃ミトをやめてもいいのか、それとも反発してでも続けたいのか?」

「ちょっ、リクガメ君。君はこっちの味方じゃないの?」

「すみません。いろいろ気にかけてくださった新美さんには悪いんですが、俺は琴音の味方であって、マギスタの味方じゃないんです。で、どうだ?」

「私は……」


 そこまで言って口ごもり、琴音が視線を下げる。静かな琴音の息遣いだけがしばらく響き、そして大きく一度息を吐くと、琴音は真っ直ぐに俺を見つめた。


「私は続けたい。月乃ミトを。マギスタの人たちだけじゃない。おだん子やこめ子のみんなと一緒に頑張ってきたミトをこんなことで失いたくない!」

「雄一おじさんと喧嘩することになるぞ」

「うん」


 琴音の目に迷いはなかった。なら俺に出来るのは全力で琴音を助けてやることだけだ。

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